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History, Strategy, Ideology, and Nations

中国のベリヤ・康生

2010年04月12日 | INTELLIGENCE
 冷戦期における共産諸国の情報活動については、どうしてもソ連に目が行ってしまいがちである。
 だが、中国の情報活動に関してはあまり多く知られていないのが実情であろう。
 比較的最近の事例を取り上げた文献としては、
 米国防情報局分析官によって執筆された文献が存在しており、
 概略的に知ることは可能となっている。

 ニコラス・エフティミアデス/原田至郎訳
 『中国情報部 いま明かされる謎の巨大スパイ機関』
 早川書房、1994年
 
 だが、歴史的な背景や検討を加えた研究文献は、今もまだほとんど発表されていないため、
 なかなか具体的なイメージや様相といったものをつかむことが難しい。
 そうした中で、まず最初に取り上げるべき人物として、
 康生を避けて通ることはできないであろう。
 なぜなら、彼は「中国のジェルジンスキー」とも「中国のベリヤ」とも呼ばれるほど、
 中国共産党の情報活動を初期の段階から深く関与してきたからである。

 1898年、山東省諸城(現:山東省濰坊市)に生まれた康生は、
 1919年に起きた五・四運動に参加したことを契機に共産運動に傾倒し、
 1925年、中国共産党に入党を果たした。
 その後、中国共産党中央特科に配属され、
 周恩来や陳雲らの指導の下で、情報活動の責任者として辣腕を揮うことになった。
 
 だが、そのノウハウを伝授したのは、言うまでもなくソ連・コミンテルンにほかならなかった。
 1933年7月、当時の中国共産党中央コミンテルン駐在代表団団長だった王明とともに、
 その副団長としてモスクワへと渡った康生は、そこでスターリンの大粛清を目の当たりにした。
 この経験は、康生にとって生きた教訓となり、情報活動の実態を知ることができたのである。

 1937年11月に帰国し、中国共産党の本拠地・延安に戻った康生は、
 中国共産党中央社会部長と情報部長を歴任する中で、ソ連で学んだ手法をさっそく実践し、
 党内に浸透したスパイ摘発で大活躍を見せた。
 その最たる事例は、1942年頃に始まった「整風運動」である。
 これは毛沢東の党内粛清を目指したものだったが、康生はその運動を陣頭指揮したのであった。
 
 ところが、面従腹背が横行する情報の世界に心労が絶えなかったのであろうか。
 中華人民共和国が建国された翌年、統合失調症(精神分裂症)に罹り、
 数年間、療養生活を送ることを余儀なくされてしまう。
 復帰を果たしたのは、1956年9月であり、中国共産党中央政治局中央委員に選出されたが、
 1966年5月に文化大革命が発動されると、中央政治局常務委員に就任し、
 再び粛清の前線に立つことになる。
 1968年には、中国共産党中央調査部の責任者となり、
 実権派・右派分子・修正主義者の粛清を陣頭指揮するまでに至った。
 その功績が認められて、1973年8月に副主席となり、党内序列でも第4位まで上り詰めたが、
 1975年12月、膀胱癌を患い、そのまま死去してしまった。
 享年77歳であった。

 康生の生涯は、まさしく毛沢東の権力闘争とともにあった。
 その熾烈な人生は、凡庸な学者や歴史家には想像を絶するものがあったに違いない。
 だが、彼の才能が発揮されたのは、情報活動においても、防諜と呼ばれる分野であった。
 それゆえに、康生が成果を上げるほど、党内に多くの敵を生むことになった。
 毛沢東が死去した後、中国共産党が林彪・江青集団の一員として、
 康生を永久除名していることからも、その悪名が響き渡っていたを知ることができる。
 つまり、小平世代にとって、
 康生の名前は忌まわしき毛沢東時代の記憶とともに存在していたのである。
 
 しかし、逆に見れば、毛沢東の権力基盤には、康生の存在が不可欠であった。
 ゲリラ戦に長じた毛沢東であったが、政治・経済の才能にも多分に長けていたわけではなかった。
 経済運営の失敗と不満分子の反発を封じ込める上で、康生は非常に使い勝手の良い人物であった。
 その意を受けて、康生は毛沢東の手となり足となって、その地位を固めることに尽力したし、
 それは、康生にとって生きるために手段にほかならなかったのである。

 共産体制の国内政治を見る上で、防諜活動の動向をどう捉えるかは非常に重要な視点である。
 中国共産党の場合、康生に焦点を当てることで、
 毛沢東時代の中国における国内政治や権力闘争の実態を知ることができる。
 残念ながら、史料的に恵まれているわけではないが、
 押さえておくべき人物であることは間違いない。
 周辺的な事実も含めて、よく確認しておくようにしたい。