代々木公園ヘルスケア鍼灸院blog

渋谷区・富ヶ谷。代々木公園近くの鍼灸院が綴る日々のこと。

鍼灸師になった訳 ① ~ボクシング最後の試合前に受けたマッサージ~

2009-06-11 11:25:15 | 日記



私が治療家を目指した“原点”は、ボクサー時代、最後の試合となった’85の夏、下北沢のサウナで受けたマッサージです。
8月25日に東日本新人王戦Jバンタム級、準々決勝戦を戦い判定で勝利しました。

この試合前、暑さと減量苦から調子が上がらず、サウナでマッサージを受けました。当時は現在の様にマッサージ治療院などはなく。(知らず?)サウナで受けるしかありませんでした。

私はこの新人王戦で「負けたら引退―」と決めていました。理由は、この年4月に受けた健康診断によるものです。医師から「君の体はボクシングには向いていない!」と言われていました。

何故、その様な会話になったのか覚えていませんが、おそらく「この試合で負けたら引退するー!」と言ったのでしょう。その先生はマッサージをしながら(引退した後は)「スポーツトレーナーになったら?」「これから伸びる職業だよ!」「カイロプラクティックの免許を取ったら?」と言ってくれました。その先生は“スポーツトレーナーの仕事”について教えてくれました。
スポーツ選手はこの様な治療中などに、信頼している先生(治療家)に心を開きます。

その時に私はボクシングを引退後したら「スポーツトレーナーになる!」と決めました。

11月には準決勝の試合が決まっておりましたが、10月15日にボクシングコミッションより引退勧告」が届き、私は不本意ながらボクシングを引退しなければなりませんでした。




かなりのショックを受けましたが、気持ちの切り替えも早く、スポーツトレーナーになる為の準備に入りました。「鍼灸マッサージ学校」「スポーツトレーナー専門学校」の入学案内を取り寄せました。10月だった為、翌年の入学には間に合うと思いました。

しかし、ここで問題です。どの学校も(当時でも)3年間で約、500万円程の学費がかかります。当時私はまだ21歳(22になる直前ですが)、その様なお金は持っておりませんでした。「田舎の両親に頼るー」という発想はありませんでした。

ここで一旦、考えを“白紙”に戻し、いろんな人に会って相談したりして、時間をかけて考えました。

当時はバブルの絶頂期!配膳会(派遣)に所属してアルバイトで生計を立てていました。生活には何も不自由はありませんでした。

その年の年末に長野の実家に帰った際、洋服屋を経営している親戚から「新しく店を出すからやらないか?」という話しを頂きました。私はその話しを了承して、東京で洋服屋に勤めて勉強する事にしました。そして運良く「BEAMS」に就職する事が出来ました。