田母神はただちに退職金7000万円を国に返納せよ!
おまえの取ってきた態度は国益を損ね国罰にも値する大罪である!!
田母神は最後の最後まで自分の大恥をさらけ出し侵略戦争が正しかったと言い張り、あったことの歴史を黒くぬり変えようとした行動は あの軍事帝国と同じことをしてきた!
この罪はとてもではないが、必ず死んで神に忌み嫌われ裁かれ永遠の火の刑罰を受け苦しむべきである。
終わりの時には自分の不敬虔な欲望のままにふるまい、あざける者どもが現れる。
この人達は御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
この歴史感において個人がどんな考えを持っていようと自由だと云うことは神の前では通りません。
あったことの事実を神の前では否定できません。
各国及び国内の死者の数からして、戦争で死んで逝った人々の思いを考えるととても簡単には済まされない。
この殺されて死んで逝った人々の多くの魂をイエスさまは 今も尚、魂と共に生きておられ、天国で一緒に住まわれながら、田母神の吐く言葉を聞いておられるということをこの男は忘れている!
多大な死者を出させたことに悔いもせず、人の命や痛みを「へ」とも思わぬ人間は、神が一番に伝えたいとされる、人への哀れみ、情け、慈愛からまったく離れています!
イエスは「私の住むところには住まいがたくさんあるから心配しないでいい」。
http://69050741.at.webry.info/200812/article_1.html
田母神は退職金7000万円を全部、国に返すべきである!!
それを返してもまだまだ足りないくらいだ!
ーーーーーーーーーー
>私は貝になりたい」という映画です。1958年にテレビドラマ、翌>
>59年には映画になりました。両方ともフランキー堺が、二等兵である、善良な理髪屋さん役をやります。彼は、上官から捕虜を刺し殺せ、と命令される。ところが突き刺そうとするが殺せなかった。
>しかし、その二等兵は戦犯になって死刑になる、末端の二等兵までもが死刑になったという理不尽さを描いた話です。
>実際にこういうことがあったと信じてしまう人が多いのですが、これは明らかに事実ではありません。戦犯関係の資料を見る限り、二等兵で死刑になった人はいません。
>映画の「私は貝になりたい」は明らかに、まったくなかったことをあたかも実際にあったかのごとく人々に印象づけた、その点で戦犯裁判についての間違ったイメージを広めた映画です。
>二等兵で死刑判決が下された例もありましたが、後で減刑されて死刑にはなっていません。
>上官の命令に従っただけであるというケースでは、死刑判決が下りた場合でも、減刑されています。原作は、後で触れるように非常に優れた著作ですが、映画はきわめてひどいものです。フィクションは必ずしも事実に基づく必要はありませんが、すぐれたフィクションは現実の本質を鋭く抉り出すものです。
>しかしこの映画はむしろそこから眼を背けさせる役割を果たした映画だと私は思っています。
>上官の命令に従っただけの善意ある市民の兵士までもが戦犯として処刑されてしまったという虚構の作品が作られたとしても、それ以上に大きな問題は、それがどうして日本人のなかで広く共感をもたれるのかということでしょう。
>人がいい、善意ある庶民が戦争に巻き込まれ、悲惨な目にあったという主人公の姿に自分を一体化させて、自分たちもみんな被害者だったんだという思い込みによって安心できるからかもしれません。
>BC級戦犯裁判との関係の例をもう一つあげると、無差別爆撃をおこなって捕虜となった米軍機の搭乗員を裁判にかけることなく処刑したことで戦犯となり死刑に処せられた岡田資中将がいます。
>かれは法廷でも米軍の無差別爆撃を批判し、日本国内では良心的であるかのように描かれています。
>東海軍管区司令官だった岡田は、27名の搭乗員を軍律会議、これは軍事裁判の一種ですが、これにかけることなく斬首処刑を命じました。アメリカによる戦犯裁判で岡田には死刑が言い渡されましたが、ほかの19人は禁固刑にとどまりました。
>特に斬首を実行した下士官や兵は重労働10年の刑になりましたが、全員、刑の執行が免除されて、判決とともに釈放されています。実質的に処罰されたのは命令者である岡田中将と、幹部である大佐から大尉でした。
>無差別爆撃が戦争犯罪だとして、処刑された搭乗員はその実行者にあたります。アメリカは、裁判で上級の命令者だけを処罰したのに対して、日本側は実行者を極刑に処したと言えます。
>末端の者まで極刑に処した、しかもなんらの弁明の機会も与えずに、です。岡田を擁護するのであれば、命令に従った下級の者まで極刑に処すことを支持するのでしょうか。
>岡田については忘れてはならないことがあります。彼はそれ以前に中国にいたときに、毒ガス戦を実行しその効果を高く評価する報告をおこなった人物でもあります。
>また米軍を批判した際に、日本軍がおこなった重慶などでの中国民衆への無差別爆撃のことをどれほど自覚していたのでしょうか。
>中国人に対しては毒ガスを使っても良心の咎めを感じないような、民族差別的な意識を持っていたと批判されても当然の人物を、いまだに「良心的」と考える今日の日本人の民族差別的な意識こそが問題ではないでしょうか。
>アジアに対する加害、その背景にある民族差別をいまだにきちんと見つめることのできない日本社会を象徴しているようです。
> 戦犯裁判についての日本人の認識に、いまなお克服できていない戦後日本の問題性がたくさん詰まっているように感じています。
ーーーーーーーーーーーー
http://myhome.cururu.jp/ell/blog/article/51002158496
↑
この聖書に
からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもをを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
http://myhome.cururu.jp/ell/blog/article/51001756724 ←かなりイエスを目覚める言葉が書かれています。
http://blog.goo.ne.jp/yosefu_001 2008.11.21(金) 271 PV 129 IP
おまえの取ってきた態度は国益を損ね国罰にも値する大罪である!!
田母神は最後の最後まで自分の大恥をさらけ出し侵略戦争が正しかったと言い張り、あったことの歴史を黒くぬり変えようとした行動は あの軍事帝国と同じことをしてきた!
この罪はとてもではないが、必ず死んで神に忌み嫌われ裁かれ永遠の火の刑罰を受け苦しむべきである。
終わりの時には自分の不敬虔な欲望のままにふるまい、あざける者どもが現れる。
この人達は御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
この歴史感において個人がどんな考えを持っていようと自由だと云うことは神の前では通りません。
あったことの事実を神の前では否定できません。
各国及び国内の死者の数からして、戦争で死んで逝った人々の思いを考えるととても簡単には済まされない。
この殺されて死んで逝った人々の多くの魂をイエスさまは 今も尚、魂と共に生きておられ、天国で一緒に住まわれながら、田母神の吐く言葉を聞いておられるということをこの男は忘れている!
多大な死者を出させたことに悔いもせず、人の命や痛みを「へ」とも思わぬ人間は、神が一番に伝えたいとされる、人への哀れみ、情け、慈愛からまったく離れています!
イエスは「私の住むところには住まいがたくさんあるから心配しないでいい」。
http://69050741.at.webry.info/200812/article_1.html
田母神は退職金7000万円を全部、国に返すべきである!!
それを返してもまだまだ足りないくらいだ!
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>私は貝になりたい」という映画です。1958年にテレビドラマ、翌>
>59年には映画になりました。両方ともフランキー堺が、二等兵である、善良な理髪屋さん役をやります。彼は、上官から捕虜を刺し殺せ、と命令される。ところが突き刺そうとするが殺せなかった。
>しかし、その二等兵は戦犯になって死刑になる、末端の二等兵までもが死刑になったという理不尽さを描いた話です。
>実際にこういうことがあったと信じてしまう人が多いのですが、これは明らかに事実ではありません。戦犯関係の資料を見る限り、二等兵で死刑になった人はいません。
>映画の「私は貝になりたい」は明らかに、まったくなかったことをあたかも実際にあったかのごとく人々に印象づけた、その点で戦犯裁判についての間違ったイメージを広めた映画です。
>二等兵で死刑判決が下された例もありましたが、後で減刑されて死刑にはなっていません。
>上官の命令に従っただけであるというケースでは、死刑判決が下りた場合でも、減刑されています。原作は、後で触れるように非常に優れた著作ですが、映画はきわめてひどいものです。フィクションは必ずしも事実に基づく必要はありませんが、すぐれたフィクションは現実の本質を鋭く抉り出すものです。
>しかしこの映画はむしろそこから眼を背けさせる役割を果たした映画だと私は思っています。
>上官の命令に従っただけの善意ある市民の兵士までもが戦犯として処刑されてしまったという虚構の作品が作られたとしても、それ以上に大きな問題は、それがどうして日本人のなかで広く共感をもたれるのかということでしょう。
>人がいい、善意ある庶民が戦争に巻き込まれ、悲惨な目にあったという主人公の姿に自分を一体化させて、自分たちもみんな被害者だったんだという思い込みによって安心できるからかもしれません。
>BC級戦犯裁判との関係の例をもう一つあげると、無差別爆撃をおこなって捕虜となった米軍機の搭乗員を裁判にかけることなく処刑したことで戦犯となり死刑に処せられた岡田資中将がいます。
>かれは法廷でも米軍の無差別爆撃を批判し、日本国内では良心的であるかのように描かれています。
>東海軍管区司令官だった岡田は、27名の搭乗員を軍律会議、これは軍事裁判の一種ですが、これにかけることなく斬首処刑を命じました。アメリカによる戦犯裁判で岡田には死刑が言い渡されましたが、ほかの19人は禁固刑にとどまりました。
>特に斬首を実行した下士官や兵は重労働10年の刑になりましたが、全員、刑の執行が免除されて、判決とともに釈放されています。実質的に処罰されたのは命令者である岡田中将と、幹部である大佐から大尉でした。
>無差別爆撃が戦争犯罪だとして、処刑された搭乗員はその実行者にあたります。アメリカは、裁判で上級の命令者だけを処罰したのに対して、日本側は実行者を極刑に処したと言えます。
>末端の者まで極刑に処した、しかもなんらの弁明の機会も与えずに、です。岡田を擁護するのであれば、命令に従った下級の者まで極刑に処すことを支持するのでしょうか。
>岡田については忘れてはならないことがあります。彼はそれ以前に中国にいたときに、毒ガス戦を実行しその効果を高く評価する報告をおこなった人物でもあります。
>また米軍を批判した際に、日本軍がおこなった重慶などでの中国民衆への無差別爆撃のことをどれほど自覚していたのでしょうか。
>中国人に対しては毒ガスを使っても良心の咎めを感じないような、民族差別的な意識を持っていたと批判されても当然の人物を、いまだに「良心的」と考える今日の日本人の民族差別的な意識こそが問題ではないでしょうか。
>アジアに対する加害、その背景にある民族差別をいまだにきちんと見つめることのできない日本社会を象徴しているようです。
> 戦犯裁判についての日本人の認識に、いまなお克服できていない戦後日本の問題性がたくさん詰まっているように感じています。
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http://myhome.cururu.jp/ell/blog/article/51002158496
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この聖書に
からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもをを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
http://myhome.cururu.jp/ell/blog/article/51001756724 ←かなりイエスを目覚める言葉が書かれています。
http://blog.goo.ne.jp/yosefu_001 2008.11.21(金) 271 PV 129 IP