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先祖を探して

Vol.311 宗家に連なる人々7 : 池久保①プロフィールから

あけましておめでとうございます。
新年早々のご先祖様探しは謎の整理からスタートです。

当家の記録上の2代目である池久保。どのような方であったのか、個人的なことについての情報はほとんどありません。残された記録やそこから考察される内容は以下の通り。

①1695年に他界している
 生まれ年の記録は無いが、父親が1619年生まれのようであるから、父親18才
 のときの子として計算しても1637年以降の生まれである。

②長男が1675年生まれである
 この長男が生まれた年を池久保が18歳とすると、父親である池久保は1657 
 年生まれになる。①での計算とは20年ほどの開きがあるが、どちらの可能性
 が高いかは、後で考えることとする。
 長男が20才の時に池久保は他界したことになる。

③五男が1692年生まれである
 この五男が3歳の時に池久保は他界したことになる。五男は後とりとして3代
 目当主となった。

④子供は8人(男子5人 女子3人)
 長男と五男以外の生年月日が不明なため生まれた順番は分からないが、長男
 と五男では17歳の差がある。仮に娘3人が長男の前に生まれていたとして
 も、五男の後に生まれていたとしても、長子と末子の差は20才前後くらいで
 あると思われる。

⑤島役人である喜美留与人であった
 父親は大城与人であったが、この時代の与人は大城・喜美留・時徳与人の3
 名体制。同時代の他の与人の記録が残されていないので、同時期に与人をし
 ていたのかは不明。

⑥妻である梅千代は出水郷士の娘
 これは以前の記事でも書いたことがありますが、梅千代の父親は薩摩から測
 量のためにやってきた武宮大覚左衛門という人物です。この梅千代が覚右エ門
 の本妻の子供なのか島妻との子供なのかは不明。どういったいきさつで梅千
 代を妻に迎えたのかも分からない。梅千代以降は、薩摩関係の人との婚姻や
 アングシャリについても宗家は関わっていないようです。

⑦父親の7年後に他界
 父親である中城は1688年に他界し、息子である池久保は7年後の1695年の他
 界である。父親が69才で他界なので、池久保は早死だった可能性がある。


こうして池久保のことを見ていくと、③と⑤の情報から彼の年齢が気になります。
五男が後取りになったことにも不思議を感じますが、そのあたりは別で考察するとして、五男が後取りであったということは、正妻の子供だと思います。妾がいたかどうかは分かりませんが、後妻の情報もありませんので、五男は梅千代の子供であったはずです。
そうなれば五男が生まれたのは梅千代が遅くとも40才前後だった可能性があります。
梅千代の生まれ年は不明ですが、1721年に他界していますので五男が生まれた1692年に40才とするなら、死亡時の年齢は69才となり現実的な年齢ですね。
逆算すると1652年頃の生まれとなります。

夫である池久保も同年代なら1652年頃の生まれになります。そうなれば②の長男の生まれ年から考察した1657年と近くなり、憶測ですが1650~1660年の間頃の生まれとみなすことができます。
そうであれば、死亡時の年齢は45~55歳頃となり少し早い他界となっていたのでしょうか。
年の離れた夫婦であったのでしたら、池久保の生まれがもう少し早かったかもしれません。

池久保の他界時期が父親の8年後であったこと、五男が生まれて3年後の他界であったことなどが少し気になっていたため、年齢の考察をしてみましたが、あくまで憶測です。
あーでもない、こーでもないと色々と考察するのも楽しいご先祖調査です。



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コメント一覧

yononushi
ryuさん
ご訪問ありがとうございます。
池久保の妻以外には、薩摩役人の娘との婚姻は今のところ記録からは見えないです。
島の一族の家、もしくは島役人(親戚かどうかは不明)の娘との婚姻が多いようです。
ryu
池久保の妻が薩摩役人の娘ということは、その後の宗家は、本家も薩摩役人との混結になるのでしょうか? だと意外ですが、奄美大島の笠利氏も、代官の娘が嫁に来てたり、どこでも薩摩との混血は進んだようですね。
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