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巻13 860
永良部孫八が / 玉のきやく 崇べて / ひといちよは / すかま内に 走りやせ 又離れ孫八 / 玉の
沖永良部島の孫八、離れ島の孫八が国頭村奥の御嶽の神である玉のきやく神を崇敬して、ひといちよ(船名)を早朝に走らせよ
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このおもろは世之主の四天王の1人であった後蘭孫八のことを歌っています。永良部孫八としっかり名前も出ていますから、後蘭孫八のことであるのは間違いありません。しかしこれがいつ頃のことを歌っているのかは、もちろん不明。
この書き下し文のままでは、ちょっと意味不明なところがありますね。翻訳すると以下のようになります。
離島の永良部の孫八が神に祈りに、早朝にひといちよという船を出して行った
孫八が祈りにいった「玉のきやく神」は他のおもろにも出てくるようで、沖縄の国頭村辺戸あたりの海岸沿いにある航海の安全と武力の神であったようです。
孫八は倭寇であったと言われていますので、船で航海に出るときには必ずこの地の神に安全祈願の祈りに出かけていたのでしょう。わざわざ琉球の歌に詠まれるほどですから、有名人であり結構な頻度で祈りに行っていたのだと思われます。
航海に関して、永良部の地名が出てくる歌がいくつかありますが、注目すべきノロと航海の祈願についての歌があります。
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巻13 942
永良部 おわる 三十のろ / 三十のろは 崇べて / 吾 守て / 此渡 渡しよわれ 又離れ おわる 三十のろ
沖永良部島、離れ島におわす三十人ののろ達、私を守護してこの航海上の難所の海をお渡しください
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聖域で航海守護を祈願するノロたちに、船の上から航海の守護を祈る人々がいるということを歌っています。
聖域で祈願するノロと聖域を一体化したものとして、船の上の人たちが崇敬しているようです。
三十人のノロとは実数のことではなく、大勢の神女達の比喩的表現だと言われています。
そしてなぜこの歌が注目すべきかというと、このように大勢の神女達を抱えることができるのは、そこに相当な財力がある人物がいたということです。
琉球のノロが政治体制に正式に組み込まれたのは、第二尚氏の三代目の国王であった尚真王(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))の時代だと言われています。もちろんそれ以前から、いつのころからかははっきりとはしませんが、ノロという立場の神女は存在しており、政治に関わっていた部分もあったとは思われます。
そして正式に政治に組み込まれて以降、ノロには領地をあてがったりするなどの好待遇があったようです。ノロのことについては詳しくは別記したいと思いますが、薩摩侵攻後に羽地朝秀が政治の大改革を行った時にノロ制度を廃止し、その時に削減できた経費は膨大な額であったといいます。それくらいに、ノロを抱えるということは財力も必要であったわけです。
この歌が歌われた時期ももちろん分かりませんが、海の航海を頻繁に行い、海の外の取引相手と交易をしていた時代に、沖永良部にはたくさんのノロがいた。そして時代の前後ははっきりとはしませんが、後蘭孫八などによる倭寇の拠点としての沖永良部島があって、その時の島主は世之主と呼ばれた当家のご先祖様。倭寇の交易によって、島は豊かに潤い、財力の豊富な世之主がおり、たくさんのノロを抱えていた。
思った以上に繁栄していた島がその時代にあったということが、このおもろから分かります。
沖永良部島が富に溢れていたことが分かる歌、他にもありますので次回に紹介したいと思います。