見出し画像

先祖を探して

Vol.182 「おもろさうし」から見る琉球時代の歴史(2)運天港に上陸したのは為朝ではないの?


源為朝が琉球へ上陸し、その子が舜天王となった説は有名です。その為朝が流れ着いたのが、沖縄本島の北部にある運天港。
運を天に任せて流れ着いた場所という意味で、港にはそのような名前がついたとか。
そしてその時の様子を歌ったおもろが、巻14・1027の歌です。

***********************************

勢理客ののろの / あけしのののろの / 雨くれ 落ろちへ / 鎧 濡らちへ
又運天 着けて / 小港 着けて
又嘉津宇嶽 下がる / 雨くれ 降ろちへ / 鎧 濡らちへ
又大和の軍 / やしろの軍


勢理客ののろの、あけしのののろの、雨を降ろして鎧を濡らして、運天に着けて、小港に着けて、嘉津御嶽の山に下がる雨を降ろして鎧を濡らして、大和の軍、やしろの軍

***********************************

これまでこの歌は、為朝がやってきた時の様子を表した歌であると解釈されていました。しかし、昭和時代の沖縄の研究者であった奥里将建先生は、逃れ逃れて運天港にやってきた為朝が、多くの軍勢を率いて来ることができたのか?と疑問を呈しておられ、この時の軍勢は実は平家の一行なのでは?と解釈をされていました。実際に沖縄の地名には大和にちなんだ地名が多く、琉球語は京言葉がベースとなっており、琉球の文化は京文化にちなんだものが多いとか。そんなわけで、運天港にやってきたのは平家一行だったのでは?というような話です。

それが最近の新しい研究では、歌の中にある「やしろ」という言葉に注目。この「やしろ」はこれまで「山城」と解釈されてきたようですが、実はこれは熊本の不知火海に面した「八代」ではないかという見解です。
戦国時代にこの「八代」を領有していた相良氏の「相良家文書」の中に、1542年の日付の「琉球円覚寺全叢書状」というものがあり、その中に「国料之商船」の記述があり、これは琉球国と通商をしていたことを表しているといいます。九州の戦国大名の1人として相良氏が琉球貿易に重大な関心を持ち、国料船を派遣していたということです。

この「やしろ」という言葉を使った歌は、他にも93・96・97・538・637・1497にもあるようです。その「やしろ」の歌の中での扱いですが、専門家でも解釈が非常に難しいようです。歌の中で敵になったり味方になったりのような内容だそうで、でもそれは九州南部の支配層と権力が移りかわっていく中での琉球との関係を表しているのだろうという見解です。
歌の順番が時代の順番であるかどうかは分かっていません。1027の歌は、倭寇的な要素を含んでいるとも言われています。やしろの軍とやまとの軍は倭寇だったのか?

もしこの1027の歌が為朝ではなく、この八代の相良家のことを歌っていたのであれば、それは1500~1600年頃の話であって、為朝上陸説の為朝が生きた時代1139~1170年とも大きく異なります。
そもそも「おもろさうし」自体が時間的な要素を含んでいないので、時代がはっきり分からないのですが、これまで解釈されてきた時代や事象については、明らかであること以外は検討の余地があるなと思った次第です。
もちろん私自身が全てを解釈できるわけではありませんが、当家に関わるおもろについては、これまでの解釈が全てだとはせず見ていきたいと思います。

次回は沖永良部島に関わる歌についてです。




ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「おもろさうし」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事