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先祖を探して

Vol.187 世之主の奥方の名は、、、


北山王の次男であった沖永良部島の世之主の名は「真松千代」。
その奥方であったのは、中山王の姫であった「真照間兼之前」。
真松千代については、「マチジョ」と読むようですが、奥方の読み方はどこにも記載がなく、果たしてどのように読むのか?「まてるまかねのまえ?」「まてるまけんのぜん?」「しんしょうま・・・」いろいろと読めそうですが、ついに読み方を発見致しました。

「大正10年 奄美大島史  坂口徳太郎: 編」の中に、当家の平安統惟雄が1850年に書いた「世之主由緒書」の翻訳文が掲載されていたのですが、その中にルビがふってあり、こう書いてありました。

「しんしょうま かねのまえ」

そんな読み方をするのだ、、、と、正しい?読み方が分かり少し感動。
しかし私はかねがね、この奥方の名前に疑問を持っておりました。
随分と変わったお名前だことと。
真松千代も真照間も最初の真の文字は接頭語で、琉球では階級の高い家の子供につけられる童名(幼名)の頭文字です。そこを省くと「松千代&照間」夫婦ということになります。でもこの松千代や照間が童名だったのかは分かりません。
兼之前というのが、どうも大和チックな雰囲気を醸し出しているように感じるのは私だけでしょうか? 
そうなれば、松千代だってりっぱな大和名。でも時々は丘春や千代松、護佐丸なんていう人もいるしな、、、大和の文化も交易で入ってきていたので、そこからもらった当時のキラキラネーム?
大和風の名付けについては今は置いておくとして、この照間さんの名前がどうにも気になっていたのでした。

まず照間さんは中山王の姫であったそうですが、当時の中山王は武寧王です。しかし武寧王には記録では照間さんに該当する名前のお子さんがいないのです。もちろん正妻以外の方との子供は記録には残さないこともありますので、そのせいだったのかもしれませんが。
当時の名前は特に男性は領地の名称をとってそのまま名前として使い、領地が変わると名前が変わる。厳密には呼び名という感じなのでしょうが、それが通称のようになっている。
ならば、照間という地名はないものかと沖縄で調べていたところ、あるではないですか!
しかも、あの勝連です!勝連城があるすぐ近くの海岸沿いなんです。
偶然の一致でしょうかね?





そしてこの勝連には、平安名や平安座という地名があります。この地名も気になるポイントです。
なぜなら、当家の記録上のご先祖様は、お名前が3代目からずっと平安統というのです。平安統XX、平安統〇〇と明治期まで代々続いているのです。何なんだろうこの平安統ってのは? ずっと気になっておりました。
島では「ひゃんとう」と読むのだそうですが、どういう由来でこの名前だったのか?代々続くというのは、何か意味があってのことだと思いますが、現代においてはその由来が残っていないのです。
1代目中城、2代目は池久保という名で記録が残っていますが、もしかしたら彼らも平安統という名前だった可能性はあります。
なぜなら、薩摩藩が侵攻してきた1609年の時のことを謡った島唄に、「ヒャントウ主が~」という歌詞があるからです。
その時に薩摩と対応したのが当家のご先祖様であったと言われていますので、このご先祖様が「ヒャントウ」だったわけです。(この島唄の件は、Vol.61、173に書いてあります)

勝連が交易で栄えた時代に沖永良部島との交流もあった。それは「おもろさうし」として謡い継がれていました。
そこに照間や平安といった当家のご先祖様と関わりがあるような地名が存在する。
単なる偶然なのか?
1つの可能性として今後調べていきたいと思います。


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