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先祖を探して

Vol.405 徳之島の尚家②尚家の家系図

徳之島の尚家には家系図が存在していました。
Aさんはその家系図の一部を大阪の叔母さまからコピーで頂き保管されていたことは前回書きました。
その家系図がこちらです。系図の公開については、Aさんが今後の徳之島や沖永良部などの研究のために、ぜひ公開してくださいとおっしゃってくださったので、掲載しております。



現物を拝見していないのではっきりとは分かりませんが、このページの他に平成の時代にご存命の方のお名前などが書かれている個所がありますので、この家系図が書かれたのは昭和から平成の時期なのではないかと思われます。
最終と思われるページの間には始祖から続くご先祖様たちが書かれているようですので、古くなった系図を書き直した可能性があります。
残念ながら全ページが拝見できないことをもどかしく感じます。
Aさんが大阪の叔母さまにコンタクトを取られていらっしゃるようですが、現在のところはまだ不明のようです。

家系図の方ですが、琉球に渡ってきたという源為朝が始祖となっており、義本王、尚円王、尚真王へと繋がっております。
その尚円王(在位:1477-1527年)の7男であった尚源道が徳之島の尚家のご先祖様であるということです。
6男の尚享仁が沖永良部島と書かれていることも気になります。

徳之島には1562年に譜代高家按司の子孫が大屋役にて金の簪と紫の鉢巻、6名の使者に護衛されて小舟でやってきたとの話を子孫の方々が記録されており、その一族の方々が今でも島に在住されています。
こちらの尚家は、どうもその一族に繋がるようですので、詳しいことはまた検証してみたいと思います。

以前の記事でも書きましたが、尚円王の時代に王子たちが奄美の島々を統治するために派遣されたという話があります。
残念ながら、沖永良部島や与論島にはそのような記録や話が伝承されてはおりませんが、我が家の義経お爺さまは、宗家の始祖は義本王であると書いています。
義本王の子供たちの誰かが沖永良部島へやってきたのか、それともその子孫である例えば尚真王のの息子であった尚享仁がその先祖にあたるのか?
このあたりもまた詳細に見ていきたいなと思う次第です。

尚円王の父親である尚稷は伊是名島の出身であったといわれており、その先祖は義本王であったとする説もあります。
また義本王は為朝の曾孫であった説もあり、こちらの尚家の系図でもそのようになっています。
義本王から尚稷までの間がはっきり分からないのですが、思い当たることがありますので、それは別で検証してみたいと思います。

奄美の島々は薩摩の時代になって系図を取り上げられたうえに焼却処分され、琉球時代からの系図が殆ど残っていないと言われています。
しかし、こうして何らかの形でご先祖さまからの系譜をつないだ情報を各家が保管していて、島を離れ本土に暮らす子孫の家に保管されている可能性があるということです。
実際に我が宗家も、昭和28年に島を離れたお爺さまが色々な調査記録を保管していました。しかし島を離れてしまっていたことで、研究者の目には留まらずで、ずっと何十年も眠ったままになっていました。
子孫の方々は、もうご先祖さまのことも知らずに生活されている方も多々いらっしゃるでしょう。Aさんもその中のお一人でした。

これからもっと詳細をみていきたい徳之島の尚家ですが、お話しはまだ続きます。



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