おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「よい暮らしをすることが、最高の復讐である」と述べたハーバートの真意はなにか

2024-08-17 06:44:05 | 日記
「幸福がもたらされるのには太陽が必要だと考える人は、雨の中で踊って見たことがない人である」
ということばが、俳優のマシュー・ペリーさんの周囲が訴追されたニュースを聞いたあと、私の脳裏に去来した。

私は、長くうつという病気をしたあと、多剤処方の後遺症から前を向こうと日々生きていると、少しずつではあるが、大切なものとそうでないものがわかるようになったように、最近、思う。

今、私を幸せにするものは、たいていはすぐ近くにあり、だいたいはそれほど高価ではなく、実は簡単に手の届くものである。

それは、うつという病気の時はわからなかった、髪を通り抜ける風、肌に太陽を感じること、
また、病気の時には出来なかった、友人との楽しい食事やおしゃべり、大好きな本を読み、普通に眠り、映画を観、新しい場所に行って、新しい事実を学ぶ喜びを感じることなどである。

確かに、人間や社会は、蓄える価値のないもの、また本当の幸福と健康にとって本質的でないものを守ろうとする。

しかし、5万年前の人々を本当に幸福にしたものは、今の私たちをも幸福にするようだ。

何千年何万年という時間の経過のなかで、人類の歴史を引き継いできた世代は、時間をやり過ごすための、新しい、洒落た贅沢品を生み出してきたが、よい生活に必要とされる基本的な要素は、長年驚くほど変わっていない。

幸福度に関する調査は、私たちがよく、間違った場所で幸福を探しているという、重要な点に行き着くことが多々ある。

幸福は私たちの目の前や、日常のありふれたもののなかにあり、自然や私たち本来の人間性との調和から生まれ、成長型経済の歯車となることからは生まれ難いようである。

イギリスの詩人、ジョージ・ハーバートは、シェークスピアと同時代の目立たない人物であるが、
「よい暮らしをすることが最高の復讐である」
と、いうことばは、時代を越えて有名になった。

このことばは、これまで実に多くの場合、過剰なまでに贅沢なライフスタイルを正当化するために使われてきた。

そのようなライフスタイルを、200年前、アメリカの実業家エドマンド・バークは、
「私たちが、富を意のままに出来れば、豊かで自由になる。
しかし、富が私たちを意のままにすれば、私たちは実に貧しくなる」
と、述べた。

富で幸福を手に入れることは出来ないが、貧しければ、確実に不幸を招くことになる。

また、富で不幸を招く場合もあるが、それは、よくあるように富を得ること自体が目的となったり、それを消費することにとらわれてしまったり、するときである。

幸福度は、年間1人あたりおよそ7万5000ドルまでの収入と密接に関係しているという研究がある。

その研究に拠ると、その水準に達したあとは、いくら上であろうとそれまでより、ずっと幸福になることはなく、手に入れる者が多くなればなるほど、もっと多くのものが必要になり、成功を測るための競争相手はますます手強くなり......止まらないランニングマシンに乗ってくたくたになっても走り続けるようなもの、になるようである。

ひとたび、基本的なニーズが満たされさえすれば、人生で最良のものは、プライスレスあり、お金では買うことが出来ないものなのかもしれない。

貨幣の発明は、人類史上、ごく最近のことであるため、私たちは、お金に対する欲望を抑えるための健全な恒常性を保つ仕組みを進化の過程で身につけることが、出来ていない。

私たちは、通常ファミリーレストランに入り、そこのメニューに記載されているものを全部食べ尽くす前に、満足して店を後にするだろう。

しかし、金銭の場合は、そのような満足感がなく、持てば持つほどもっと欲しい、もっと必要だと感じるようである。

マシュー・ペリーさんの周りの人々も、やはり、そうだったのであろうか......。

また、金銭のせいで、もっと満足感が得られる、ささやかな快感に目を向けることが出来なくなってしまうようである。

それは、まるで豪邸に住みながら、新たに建てる豪邸のことを延々と気にかけ、常にその手直しをし、実際そこに住んで楽しく暮らせない、古今東西にいるお金持ちの物語のようなものなのかもしれない。

実業家のハワード・ヒューズは、億万長者であることに伴う特別な不幸を身にしみて味わい、
「金で幸福は買えない」
と、斬新な表現ではないが、実に正確に、自らの人生経験について、後悔の念を込めて述べた。

GDPが少しずつ確実に減少する場合でも、突如として幸福が崩壊することはない。

それでも、ペリーさんの周囲は、ペリーさんの精神や肉体の崩壊よりも、自分たちの金銭的な利益の減少や崩壊ばかりを気にしていたように思う。

ペリーさんの周囲で訴追された人の中にはアシスタントなど、ペリーさんを支える人が多かったことも、悲しく思った。

「主観的幸福」に関する調査を行った心理学者たちは、幸福をふたつのタイプに区別している。

それは、その時々の快感と、人生に対する長期的な満足感である。

これらの違いを最もよく示す例は、母親に見い出せるようである。

確かに、子どもと一緒にいて、いつも満足できるとは、限らない。

特に子育てを、他の忙しい仕事の合間にするときや、子どもが気難しい場合などは、そうであろう。

しかし、そのような立場の人たちが、「母親である」ことを後悔しているわけではない。

「母親である」人たちにとり、子どもを持つことは、「とても満足感のある経験」であり、「たいていの場合は、(あとから長期的な目でみれば)、一時のちょっとした犠牲や不快な経験をする価値があるもの」だそうである。

マシュー・ペリーという俳優と共に成長するはずの周囲は、どうしてそのような心持ちになれなかったのであろうか......昨日のペリーさんの周囲の訴追と、その内容について、やはり、とても、残念に、かつ悲しく思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

薬物依存の原点を探すとき-「化学物質が問題を解決してくれる」という幻想に憑かれて-

2024-08-16 07:02:50 | 日記
ハクスリーは、小説『素晴らしい新世界』のなかで、気分が良くなる万能薬を「ソーマ」と呼んだ。

この名前は、2500年前に、サンスクリット語で書かれた聖典から取られたものである。

ソーマは、神の名前であり、祭典で供される飲み物でもあった。

行動を刺激し、薬効や精神的効果の高いソーマは、聖典に在る数多くの賛歌で讃えられている。

ソーマに含まれる刺激成分は、おそらく麻黄で、今でも、薬品に使用されている化学物質であり、パフォーマンス向上薬として、また、メタンフェタミンを作る原料として用いられている。

ハクスリーの向精神薬についての態度は、かなり幅があり、明確ではなかったが、生きてゆく中で、向精神薬によって、ハクスリー自身の体験が広がったことを認識して、彼の考え方は大きく変化した。

1932年に出版された『素晴らしい新世界』の中では、ソーマは、「人間の精神を麻痺させ、人間を人間以下の存在に貶め、人々を危険に導くもの」であった。

しかし、26年後の、1958年、ハクスリーは、『Drugs That Shape Men’s Minds(人間の精神を形成する薬物)』というエッセイのなかで、
「薬物は人間が自らの魂を見出し、知覚を研ぎ澄ます一助となる有効な手段である」
と述べている。

気持ちの良い幻覚状態を十分に体験してしまうと、薬物に極めて懐疑的で自制をしていた人であっても、とびきりの信奉者になってしまうようである。

私は、マルクスが、「宗教は民衆のアヘン」と言ったことは、言い得て妙だ、と思う。

受け容れがたい問題から、アヘンの気持ちの良い幻覚により逃避し、根本的な解決をせずに生きるアヘン中毒者と、
目を向けたくない世の中から、宗教によって、目を背け、受け身の姿勢を取りながら、根本的な解決をしないどころか、社会を否認することを助長する民衆の行動を重ねているからである。

今では、向精神薬が人々を良い気分にさせて社会を否認することを助長している。

現に、アメリカの成人のほぼ3分の1が、肉体的もしくは精神的苦痛を和らげる目的で、合法の、あるいは違法な薬物を摂取しており、また、非常に多くの人々がさまざまな薬物を同時に摂取しており、薬物の過剰処方が主な死因のひとつとなっているほどである。

ハクスリーは、薬物愛好家の古くからの伝統に倣っているようだ。

考古学や人類学で示された証拠に拠れば、人類はその歴史が始まったときから、薬物による興奮状態を経験している。

さらに、ほかの動物は、人類が登場する以前から薬物による興奮状態を経験していた。

つまり、薬物中毒は種の違いを超えて生じてしまう弱みであり、人間が作り出したものではないのである。

私たち霊長類の祖先も、自然がバーテンダーとなって出してくれる飲み物を好んで飲んでいた。

地面に落ちて発酵した果実はアルコールを醸成し、それにより高いカロリーと心地よい陶酔感を摂取する者に与える。

リンゴは、アダムとイブに見つけられるまで、どのくらいの時間、地面に落ちていたのだろうか。

神がアダムとイブに果実を食べないように命じたのは、ふたりがアルコールの虜になり、さらには、虜になりすぎて、アルコール中毒者になることを恐れたことも一因なのだろうか。

また、植物が、寄生虫や若芽を食べる動物から身を守るために出すさまざまな自然由来の精神作用物質を、野生動物も乱用している。

そして、私たち人間も、そのような物質を好む。

アヘンの原料はケシ、マリファナは大麻、コカインはコカ、サイロシビンはキノコ、ニコチンはタバコ、カフェインはコーヒーである。

アラビアアチャノキには、アンフェタミンに似た興奮物質が含まれる。

馬はロコ草が好きだし、猫はイヌハッカ、ジャガーは精神作用のある熱帯性のツタ、トナカイはキノコ、ワラビーはケシ、豚はカンナビノイドを含むトリュフを好む。

自然はまるで、精神作用薬を各種取り揃えたドラッグストアである。

人間は、自然の薬物をもとに創意工夫を凝らして、ますます強い薬物を作り出した。

人間のシナプスは、100以上の神経伝達物質の効果のバランスを取るように進化しており、各物質は、調和の取れた平衡状態を維持するチームの一員として働く。

しかし、現代の薬物は、いわば神経伝達物質のオーケストラピラミッドを占領し、オーケストラの他のメンバー(物質)を完全に圧倒している状態である。

例えば、コカインとアンフェタミンは、シナプスから放出されたドーパミン回収を阻害し、報酬系をこれまで意図されなかったレベルにまで急激に活性化させるが、その後、ドーパミン濃度の急上昇がなくなると、避けがたい禁断症状に襲われて無性に薬物が欲しくなる。

体外から侵入した薬物が、快楽を司る報酬系を完全に支配し奴隷にしてしまうのである。

コカインから引き離された中毒者が、コカインを得るためにとんでもない行動を取ることがあるのは、そのためである。

ニコチンとカフェインは、ドーパミンにそのように大きな影響はあたえないが、それでも何億という人々が中毒になるという意味では、強力な効果を持つ物質である。

ヘロインと処方薬のオピオイド系麻薬は、このような物質と似てはいるが、快感を脳内で司るエンドルフィンの働きをさらに危険な形で圧倒し、命に関わる可能性もあるのだ。

オピオイド受容体部位が飽和状態となることによって、普段は、制御され有効に働く報酬系が著しく活性化され、薬物に対する抑えきれないほどの強い欲求が生まれる。

大脳皮質が薬物の使用を止めたいと思っても、貪欲なオピオイド受容体との戦いに負けてしまうのである。

現在、アメリカは、これまでで最悪のオピオイド中毒の蔓延に直面しており、今やそれは、全世界に広がってしまっている。

毎年、4万人以上が亡くなり(新型コロナの影響下で7万人を超えた時期もある)、何百万という人々が医療行為を原因とする中毒にかかっている。

ケシは、医薬として、精神を高揚させるものとして、また、気晴らしとして、長く用いられてきた。

ケシは、確かに、常に何らかの害をもたらしてはいるが、今のオピオイドほど惨憺たる状況になったことはないだろう。

今日のオピオイド中毒の蔓延は、医薬品業界が薬物を強力に売り込んだことに加え、ますます強いオピオイド誘導体を合成したことも大きな原因である。

例えば、カルフェンタニルの作用は、モルヒネの1万倍である。

この鎮痛剤の不用意な処方の根本的な原因は、医者や患者の間で、
「どんな問題にも対処できる薬物があり、どんな痛みや苦痛も、すぐに抑えることができる」
という期待が広まっていることにある。

個人であろうと、社会であろうと、複雑な問題に対して、簡単な解決策を求めると、事態をさらに悪化させることが多いのである。

薬物依存の蔓延は、多くの人々の人生に破壊的な影響を与えるのみならず、病んだ社会に至る危険を伴っている。

化学物質が即座に問題を解決してくれることを期待する社会は、誰かが、何かがすぐに問題を解決してくれるという、安直な期待を持つ社会に繋がりやすいのではないだろうか。

薬物にまみれた人が、その人の幻想の中だけで生きるように、薬物にまみれた社会は、社会の幻想を助長し、幻想を抱く人を助けてしまうだろう。

社会の成熟を否認することを止めて、ありのままの現実に向き合える成熟した社会を実現したいと願うのであれば、私たちは、かつてない薬物依存の現実から少しずつでも、抜け出さなくてはならないであろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

台風が接近しています^_^;

気をつけて、対策して過ごしたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

歪んだ診断の鏡がもたらすもの②-精神医学と法律の境界線について-

2024-08-15 07:18:25 | 日記
1881年、ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺事件の裁判で、チャールズ・ギトウは、

「愚か者として釈放されるよりは、人間として絞首刑にされる方がましだ」
と、陪審員たちに叫んだ。

この裁判では、多数の医師が、弁護側および検察側の証人として証言し、弁護団はギトウの精神障害を主張していたが、ギトウは、拒否していたのである。

この裁判で、法廷での歪められた診断や診断インフレという今日まで引き継がれる先例が作られたといっても、過言ではない。

そして、現在に至るまで、歪められた診断や診断のインフレは、精神医学と法律の境界線を絶えず脅かし続けているのである。

今でも、一部の国においては、政治的な対立や、経済的な不満や、個人の差異を抑え込むために、刑罰制度が、精神医学を危険なまでに濫用している。

また、先進国(と呼ばれている国)でさえ、目先の面倒な犯罪に対処するために、憲法の原則を危うくするような法制度が作られている。

そのような法制度は、いずれ、さらに進んで、面倒な政治的目標、宗教的信念、性的嗜好を持った人々に対しても、精神医学を用いるようになるのかもしれないように、私は、思うときがある。

以下は、アメリカにおける例であるが、法律の抜け道と連邦最高裁判所の優柔不断とDSM-4の不手際にまつわる話であるが、それだけにとどまらず、法律の抜け道と連邦最高裁判所の優柔不断とDSM-4が組み合わさって、憲法違反と精神医学の甚だしい乱用を生み出した話でもある。

そもそもの始まりは、真っ当な法改正が、予想外の悲惨な結果をもたらしたことであった。

約40年前、アメリカの公民権運動は、同じ罪を犯しても、黒人の方が白人より長い禁固刑を下されることに、当然ながら、関心を向けた。

解決策は、それまでの不確かで、偏見に左右されがちな司法判断に委ねるのではなく、犯罪の種類に応じて、固定された刑を科すことであった。

これには、統一性、予測可能性、そして、公正さを確保するという目的があったのである。

刑務所のベッド数を一定に保ち、それにより経費を抑えるために、各犯罪の固定刑は、それまでの幅広かった量刑の平均に定められた。

レイプ犯の場合、それは7年に定められた。

残忍な連続レイプ犯も、以前なら、25年の刑を引き出すことも出来たのに、最長でもわずか7年の刑しか科されないことになってしまった結果、やはり残酷な常習犯が釈放直後に同じ過ちを犯す例が多発したのである。

人々がこれに憤り、レイプ犯を閉じ込めておくために法律の抜け道が作られた。

20の州と連邦政府で「性的暴力犯(SVP)」に関する法律が成立し、犯人が精神疾患をであると示されれば、精神科の施設に引き続き収容できることになった。

受刑者は刑期の終わりに精神病患者にされ、実態は刑務所に酷似した精神科「病院」に強制的に移される。

強引に収容された性暴力犯のうち「治療」が進められた者はほとんどおらず、その発言はすべて後の審理で不利に扱われた。

そして、「治療」を終えても、釈放される者は皆無であった。

確かに、市民の安全という観点からは、この一生塀の中に入れておくアプローチは見事な解決策であり、危険の恐れのあるレイプ犯が街をうろつかないようにする便利な方法であった。

しかし、これには悪い面もあり、別の種類の危険を生んでいた。

それは、予防拘束と二重処罰の禁止は、苦労の末に勝ち取られた憲法の核心であるのに、SVPに関する法律は、それに真っ向から反しているのである。

「厄介な事件が悪法を作る」
という格言が在るが、何千もの嫌悪すべきレイプ犯が、至極真っ当な理由から閉じ込められているのだとはいえ、その際に、最悪の方法が用いられ、憲法による保護を蝕むという危険な道に踏みこんでしまっているのである。

連邦最高裁判所の優柔不断に話を進めると、最高裁は、非常に曖昧な判決を、僅差で下し、性的暴力犯を「都合よく」精神病院送りにすることは、合憲だとした。

しかし、
「レイプ犯が、精神疾患ゆえに犯行に及んだ場合に限って合法だ」、と釘を刺したのである。

アメリカ合衆国憲法は、どれほど危険性の高い犯罪者に対しても、予防拘束を認めていないが、精神病患者を長期にわたって強制的に治療することは、認めている。

最高裁による、性的暴力犯拘禁の支持は、よくある犯罪性向のためではなく、病気のために性的に危険になっている人間を識別できると見なして、それを完全にアテにしている、というわけである。

精神疾患が存在しなければ、精神病院兼刑務所への強制収容は法の適正手続きに対する明白な違反になり、明白な人権侵害にもなる。

アメリカ合衆国憲法は、もしかするとまだ危険かもしれない、という不安のみに基づいて、釈放間近の受刑者をすべて本人の意志に反して患者にすることを、認めては、いない。

性的暴力犯が合憲かどうかは、精神を病んだ性犯罪者と単なる性犯罪者を区別する妥当な方法があるかどうかにかかっている。

3度の機会がありながら、「どのような診断ならば条件を満たすのか」という決定的な問いに、最高裁は、指針を示そうとしなかったのである。

残念ながら、州の定めた性的暴力犯法も曖昧に過ぎて、役には立っていないようである。

アメリカ精神医学会は、揺るぎない立場を取っている。

それは、DSM-3、DSM-3R、DSM-4、DSM-5において、
「レイプは犯罪であり、精神疾患ではない」
と明言していること、に表れている。

しかし、釈放を待つレイプ犯に法制度が何をするのかというところに、DSM-4の不手際が絡んできてしまう。

DSM-4全体のなかで、最悪とも言える記述は、性に関する障害の項目に集中していた。

後の性暴力犯の審理で、DSM-4が濫用されると、想定していなかったため、不明瞭な言葉づかいとなっていた部分が、精神疾患の定義を拡大して、レイプを含めようという動きへの歯止めにならなかったのである。

結果、DSM-4の意図は曲解され、レイプと精神疾患が結びつけられ、精神科病院への収容は正当化され、レイプの動機になるさまざまな犯罪要素を無視することにも繋がった。

レイプは、医療の対象になり、ご都合主義的の法と市民の安全に適う形で、予防拘禁とレイプ犯の人権剥奪が認められたのである。

レイプを精神疾患と見做すことは、常識に反するし、古くからの法律の前例にも反する。

レイプはつねに犯罪として扱われ、決して病気として扱われなかった。

聖書でもそうであり、ずっと古いハンムラビ法典でもそうであり、これまでに編纂されたあらゆる法典でもそうである。

刑罰は異なる。

しかし、時代が、現代に近づくにつれ、女性の地位が向上し、レイプを金銭的損失としてだけではなく、女性と国家に対する犯罪として扱うようになった。

着目したいのは、いまだかつて、レイプが病気として法的に認められたことはなく、レイプ犯の拘禁が、刑罰ではなく精神医学に基づいたこともない、という事実である。

レイプ犯は、悪人に他ならず、精神病を患っている者はごくまれであり、精神疾患を正当な理由として使わせるべきではないが、レイプを精神科病院に入院させる理由にすべきでもない。

非常に長い刑を言い渡して、街をうろつかせないようにするべきであり、法律の抜け道を作って精神科病院に強制収容すべきではない。

私の懸念は、犯人を不公正に扱えば、もっと広範囲における憲法の地位低下がもたらされ、法の適正手続きの神聖な価値や市民の自由が擁護されなくなるのではないかということと、先に挙げたように、一部の国のように、経済的な不満や政治的な対立、個人の差異を抑え込むために、刑罰制度が精神医学を危険なまでに濫用する未来が訪れてしまうことである。

70年前、オーストリアの作家ローベルト・ムージルは、
「医学の天使が、弁護士の主張に耳を傾けすぎたら、自らの使命をしょっちゅう忘れてしまうだろう。
その時医学の天使は、羽をたたみ、法廷の天使の補欠のように法廷で振る舞うだろう」
と述べている。

ムージルの指摘を、忘れないようにしたいものである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

歪んだ診断の鏡がもたらすもの①-時流に乗ってしまった自閉症の診断-

2024-08-14 06:29:49 | 日記
私は、自らの闘病経験や、知人の闘病生活についての情報から、特に精神科の医療において、

「正確な診断と治療は、人生や人命を救い得、不正確な診断と治療は人生や人命を奪い得る」
と考えている。

もちろん、私にも、診断を受け、治療を開始する日が在った。

多くの人々にとって、最初に診断を受け、治療を開始する日は、先行きに大きな影響を及ぼす転換点になる。

診断が正しく行われ、有効な治療に繋がれば、最初に診断を受け、治療を開始する日は、素晴らしい1日となるが、診断が軽率、無神経に行われれば、それは無益どころが有害な長期治療の引き金となり得る。

病に苦しみ、さらにそれに付随する現実の問題に加えて、歪んだ診断の鏡に向き合わされることは、非常な苦痛である。

歪んだ診断の鏡は、自分の真の姿や、こうありたいと願う姿とは、著しく違う、誰かを映し出す。

私は、そのような歪んだ診断の鏡に向き合った闘病生活を経て、多剤処方の後遺症から立ち直ろうとしている人間としての視座から、過去に在った問題を考えてみようと思う。

山ほどの味気ない統計よりも、数個の痛ましい具体例は、有用であると思う。

精神医学が適切に用いられない場合、どれだけ多くの人々が、どれほどひどい害を被っているかを知り、また、良くない精神科の診断は、良くない精神科の治療をもたらし、そのふたつの組み合わせは、さらに良くない結果を招くことを学ぶことは、精神医学の分野に何より必要なことではないだろうか。

ただし、精神医学をむやみやたらに批判することは、あまりに無分別である、と思っている。

さて、自閉症の診断は、過去30年間で爆発的に増えた時期がある。

DSM-4以前、自閉症は、極めてまれな疾患で、診断される子どもは、2000人に1人だった。

しかし、今から十数年前には、アメリカでは80人に1人、お隣の国、韓国では、なんと38人に1人の割合にまでになっていたことがあるのである。

イギリスの週刊医学誌「ランセット」に、予防接種が自閉症の原因になり得るとする論文が掲載されたことが発端となり、憶測が憶測を呼び、さらに予防接種が自閉症の発症時期と重なるという偶然の一致が不安を強め(→のちにこの論文が捏造出あることが暴かれても)、親の恐怖は根強く残ることとなった。

わずか20年ほどで、20倍にも診断は増えてしまったのだが、それは、ただ、診断の習慣が根底から変わってしまったためであり、子どもたちに自閉症の症状が、いきなり出始めたためではないのである。

自閉症が「流行」 してしまったことには、3つの原因がある。

1つ目は、医師、教師、家族が注意深くなり、自閉症を見つけやすくなったこと。

2つ目は、DSM-4がアスペルガー障害をはじめて載せたこと。

3つ目には、不適当な診断を受けても、充実した精神保健医療が受けられるサービスが出来たこと、である。

従来型自閉症の深刻な症状を抱えた人は、わずかであり、そのような症状は、特段の注意を払わなくとも、ごく容易くみつけられるものである。

これに対して、アスペルガー障害は、興味の対象が限られたり、目につきやすい行動をしたり、対人関係がうまくいかなかったりはするものの、従来型自閉症のように、意思疎通が出来ず、知能指数が低くなってしまうなどの問題は、まず見られない人を指して使われるのである。

ただ、アスペルガー障害ではないが、社交下手な人と、アスペルガー障害の人との間に明確な境界線は、ない。

また、DSM-4作成委員たちが、アスペルガー障害と見なされる人は重度の従来型自閉症の患者の3倍に達するだろうと試算していたのだが、アスペルガー障害ではないがアスペルガー障害と誤診されり、他の精神疾患をかかえた多くの人たちが、かかりつけ医、学校、親、さらには患者自身によって、自閉症と誤診されたために、有病率は、人為的に上昇させられることになってしまったのである。

確かに、自閉症が流行するきっかけを作ったのはDSM-4かもしれない。

しかし、特にアメリカにおいてだが、予想も出来なかったほどに流行を推し進めてしまった力のなかで、最も重要なのは、活発な患者支援運動と、自閉症の診断を条件にして教育や治療のプログラムを提供するシステムとの間に在る、正のフィードバックグループであろう。

「自閉症」の患者と家族が増えるにしたがって、さまざなま追加サービスを求める声が高まる。

時には、訴訟を起こして勝つことによってまで、追加サービスは求められてゆく。

そして、追加されたサービスは、診断の増加を求めるさらなる動機になる。

診断される人が増加するにしたがって、もっと多くのサービスを求める支援者も増えるのである。

確かに、自閉症への偏見が軽いものにはなった。

インターネットは、コミュニケーションや社会的支援や連帯の機会を快適かつ便利に提供した。

また、自閉症は、出版物やテレビで好意を持って詳細に取り上げられ、映画やドキュメンタリーでも描かれた。

さらに、多くの成功者が、自分はアスペルガー障害の定義にあてはまると認め、名誉の勲章のように扱う者も現れた。

その結果、アスペルガー障害そのものが、他にない魅力を持つまでになり、特にハイテク好きの人たちの間で人気になった。

確かに、こうした評判は、診断に伴う苦しみを減らすという、好ましい効果があったが、やはり、行きすぎも在った。

アスペルガー障害は、突然、医師の「本日のオススメの診断」となり、医師にも患者にも気軽に診断されやすくなってしまい、個人のあらゆる差異を説明するものになってしまった。

2010年度前後でいえば、診断されている子どものおよそ半数は、基準を慎重に適用すれば、実際にそれを満たさなく、再評価したら、もう、自閉症でなくなる子どもたちが、半数にのぼると試算されたのである。

自閉症の流行には、正負の面が在った。

正しくレッテルを貼られた患者は、診断により、よりよい教育や治療のサービスという利益を得られ、偏見が軽くなり、家族の理解が深まり、孤立感が和らぎ、インターネットで支援も受けられていった。

一方で、誤ってレッテルを貼られた患者は、偏見が本人の負担になり、自分や家族が期待をあまり抱けなくなっていった。

また、きわめて希少かつ貴重な資源を誤って配分するという、社会的損失についても忘れてはならない。

教育のことをあまり考えず、臨床のことだけを考えて生み出された精神科の診断に、学校の決定をあまり深く結びけるべきではないだろう。

誤ったレッテルを貼られた子どもたちの多くは、特別な注意を払うべき問題を他に抱えていることも多い。

自閉症の不正確な診断に伴う偏見を余計に着せる必要はまったくなく、学校のサービスは、学校のニーズに基づくべきであり、精神科の診断に、基づくべきではない。

DSM-4の作成委員の長であった医師が、アスペルガー障害の過剰な診断の激増を予見できなかっことに責任を感じていた。

その彼が、
「レッテルの意味するものと意味しないものとを、つまり、子どもたちが変わったのではなく、診断のされ方が変わっただけであることを、人々やメディアに教えるという事前措置を講じるべきだった」
と述べていたことを想い起こす。

さらに、彼は、続けた。
「流行は、終わらせるより、はじめる方が容易い」
と。

そのことばを、今、また、私は、かみしめよう、と思う。

今回は、どんな味がするだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日から、日記の通常更新を再開いたします( ^_^)

また、よろしくお願いいたします(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

グラズノフの「ヴァイオリン協奏曲」を聴いて

2024-08-09 06:58:15 | 日記
三島由紀夫が、『春の雪』のなかで
「この邸のまわりにあるもの、十重二十重に彼女の晩年を遠巻きにやがて押しつぶそうと企んでいる力への、祖母のこんなしっぺ返しの声は、明らかに、あの、今は忘れられた動乱の時代、下獄や死刑も誰も怖れず、生活のすぐかたわらに死と牢獄の匂いが寄せていたあの時代から響いてきていた」
と書いている部分を読むとき、
私は、亡命先のフランスで各死したグラズノフを想い起こす。

なぜならグラズノフの死亡の報に接し、世界は
「グラズノフがまだ生きていた」
ことに驚き、自分たちが勝手に
「とっくの昔に亡くなった」
と思い込んでいたことにも驚いたからである。

グラズノフの音楽は、1936年には、もう過去のものであり、グラズノフは、創作の絶頂期である1904年に書かれたヴァイオリン協奏曲と結びつけられていたようである。

グラズノフと、同時に、想い起こすのは、シュフテン・ツヴァイクは、自殺する直前に『昨日の世界』という回顧録の序文である。

ツヴァイクは、序文のなかで、
「この時代を通って歩んだ、あるいはむしろ駆り立てられ、けしかけられ者は誰でも-実際私たちはほとんど息つく暇もなかった-その祖先の人間が体験した以上の歴史を体験したのである」
と述べている。

実際に、19世紀末から20世紀初頭は、生きにくい時代だったようである。

政治的には、国家主義が台頭し、経済的には資本主義が発達し、マルクスが「人間の疎外」と言い、チャップリンが『モダン・タイムス』で描いたような人間の機械化、商品化が進んだのである。

特に、19世紀に生まれた人々にとっては、この急激な変化は耐え難いものであっただろう。

なぜなら、彼ら/彼女らは、人間が疎外されず、人間らしく生を謳歌できた、いわば「昨日の世界」を、体験していたからである。

「昨日の世界」を体験した者にとって、20世紀は、人間が破壊されてゆく過程である。

「今日の世界」の痛ましさに疲れ果てた人々は、必然的に「昨日の世界」へと郷愁の眼差しを向けずには、いられない。

これは、グラズノフがいたロシアでも、事情は似ていた。

ロシア音楽は、リムスキー・コルサコフらを代表とする「国民音楽派」、つまり、ロシア民謡や、ロシア独特のメロディー、といった、ロシアの土着性に根ざした音楽を中心に発達してきた。

その系譜に連なる最後の代表的作曲家がラフマニノフである。

彼の音楽もまた、母なるロシアの大地、というイメージが溢れている。

しかし、20世紀に入ると、ラフマニノフの音楽ですら、「昨日の世界」になってしまうのである。

革命の嵐が吹き荒れ、労働者による新社会の建設が、始まったのである。

グラズノフの名前は、ラフマニノフに比べて、有名とは、言い難い。

しかし、「昨日の世界」では、グラズノフこそが、ロシア音楽界の重鎮であったのである。

1881年、とある無名の作曲家の交響曲第1番が初演されたとき、そのあまりにも洗練されたスタイル、美しいメロディーに聴衆は熱狂した。

作曲家をひと目見たがる聴衆の前に呼び出されたのは、学生服を着た16歳の少年であった。

神童グラズノフのデビューである。

それからのグラズノフのキャリアは華々しく、書く曲は、ロシアのみならず、西側諸国でも喝采を浴び、その重厚な作風から、「ロシアのブラームス」と称され、やがて、1905年には、ペテルブルク音楽院院長として、後進の指導にあたるようになる。

しかし、時代は激動期に入りつつあった。

ペテルブルク音楽院長に就任した同年、「血の日曜日事件」が発生、戦艦ポチョムキンが暴動を起こすなど、ツァーリ支配は揺らぎ始めていたのである。

革命の機運が、「明日の世界」、つまり、未だ見ぬ新しい世界を目指す熱気が、ロシアを覆い、「昨日の世界」は、忘れ去られようとしていたのである。

そして、ソビエト体制が発足すると、グラズノフの音楽は、過去のものとなった。

新しい時代には新しい音楽が、求められたのである。

時代に取り残されたグラズノフは、アルコール中毒になり、やがてフランスに亡命し、そこで客死し、1936年まで生きていたことに驚かれることとなる

皆、彼の死によって、束の間、彼と、彼の音楽と、「昨日の世界」を想い出したのではないだろうか。

一時は、世界的名声を浴びながら、グラズノフは歴史から忘れ去られた。

彼の名を、音楽史にとどめているのは、その創作の絶頂期である1904年に書かれた、ヴァイオリン協奏曲、ただ1曲のみによって、といっても、過言ではないだろう。

しかし、物憂げなロシア情緒に溢れ、協奏曲として不可欠な技巧の見せ場にも富み、形式と内容が素晴らしいバランスを保つヴァイオリン協奏曲は正しく傑作であろう。

広大な大地とともに、生き暮らした、ロシアの「昨日の世界」の太陽が沈みゆくときの最後の残照、美しい暮れなずむ夕映えにも似た味わいがある。

そして、それを聴くとき、私は、時代に取り残された天才の悲哀を感じながら、「昨日の世界」、「今日の世界」、「明日の世界」に想いを馳せる。

冒頭にあげた『春の雪』は、くわしくいえば、『豊饒の海第1巻・春の雪』であり、4巻からなる『豊饒の海』のはじめの巻である。

『豊饒の海』おわりの巻である『天人五衰』は、三島由紀夫が自殺する直前に書いた小説なのだが、
三島は『天人五衰』のなかで、
「ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせていた素晴らしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに」
と本多が考えるところがあり、また、私は、グラズノフを想起してしまうのである。

さらに三島は、本多に、
「一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人々は何という稀薄な生の意識ですり抜けるのだろう」
と考えさせている。

どんなときも、ところも、必ず「昨日の世界」となる。

三島が『豊饒の海』を通じて、表したかったことを、もういちど、探してみよう、
遅い読書感想文の宿題をしよう、と思った。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新となります( ^_^)
また、よろしくお願いいたします(*^^*)

今日も、またまた、まだまだ、暑いですね^_^;

体調管理に気をつけたいですね。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。