おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

君主のためではなく、一般市民のために書かれた本-アリンスキー『過激派のルール』-アメリカ合衆国について⑦

2024-08-22 06:44:35 | 日記
マーティン・ルーサー・キングは、ワシントンが18世紀に、リンカーンが19世紀に果たした役割を、20世紀に果たした。

キングと同じ頃に活動し、キングよりもずっと知名度は低かったが、キングよりも広範囲にわたって、現在のアメリカの政界にも影響を及ぼしている人物がいる。

ソウル・アリンスキーである。

1971年、アリンスキーは、亡くなる直前に、後世の遺産となる『過激派のルール』と題した書籍を出版した。

これは、コミュニティを組織する者に向けた10章から成る手引書であり、アリンスキーの30年にわたるコミュニティ組織作りの手法(≒ボトムアップで少し ずつ世界を変える方法)の詳細を凝縮したものである。

アリンスキーの素敵なところは、人々に、
「自分の運命は、自分で決める」
ように、後押しをしたところにある、と、私は、思う。

「自分の運命は自分で決める」ことが出来るようにするために必要な前提条件について、彼は、
「戦術がいくら独創的であっても、また、戦略がどれほど抜け目ないものであっても、人々の信頼と尊敬を勝ち取らなければ、戦いを始める前に負けが決まってしまう。
それらを勝ち取る唯一の方法は、あなた自身が人々を信頼し、尊敬することである」
と、明確で説得力のあるアドバイスをした。

コミュニティに力を与えるアリンスキーの取り組みは、暴力は用いなかったものの、極めて対決的な姿勢を取っていて、多くの点において、キングの取り組みとは正反対であった。

アリンスキーは、ロバーズ・ケーブ実験(→「赤」と「青」の争いにみることができる部族主義、8/6日の日記で取り上げています)にみられる集団意識によって、コミュニティを団結させ、メンバー間の類似点と、敵との大きな違いを強調したのである。

キングが、敵との共通点を見つけようとしたのに対し、アリンスキーは、共通の敵に対する敵意を通じて、コミュニティの団結力を強めるような争いを引き起こす方法を模索していた。

キングは、そのような挑発を認めず、争いを減らす方法を求めていたのに対して、アリンスキーは、敵を倒すことを目指していた。

キングは、敵と協力したいと思っていたが、アリンスキーはコミュニティの意識をひとつにするために悪者を必要とした。

キングは、悪者はいないとし、悪者(とされている人)たちは、一時的に間違った方向に導かれただけで、今後、友人になれるかもしれないと考えていた。

キングもアリンスキーも、広く周知された非暴力のデモを展開し、デモに対する暴力的な過剰反応を利用した。

しかし、キングの目的が、敵を恥じ入らせて、善良な仲間に引き込むことであったのに対し、アリンスキーの目的は、敵に屈辱を与えて降参させることであった。
......。

確かに、アリンスキーの『過激派のルール』は、キングの手法に比べると、冷酷に見える。

また、マキャベリの説に似た雰囲気すらある。

しかし、アリンスキーのアドバイスは、決して君主でのためではなく、私たち一般市民のためになるように書かれたものなのである。

アリンスキーのアドバイスは、
「1.あなたは、実際に持っている力だけではなく、敵が想定するだけの力を持っている。

2.人々の力は、金の力と戦える。

3.あなたの得意分野で闘いなさい、敵の得意分野で敵を戦わせてはいけない。

4.嘲りによっても、敵を小さくすることが出来る。

5.楽しんで実行出来る戦術ならば、皆が従い、うまくいく可能性が高い。

6.敵に圧力をかけ続けなさい。

7.敵より一歩先を行きなさい。(→敵は防御の方法を考え、戦略を変えてきます。)

8.敵の暴力によって、あなたには友人ができる。

9.ターゲットを選び、孤立させて戦いを挑みなさい。

10.人は組織より、早く倒れる。」
というようにまとめることができる。

アリンスキーは、このように、「力のない者が、力を持つ者の略奪から身を守れるようにするという正義」に人生を捧げたのである。

しかし、アメリカにおいて力を持つものが、力のない者に対する支配をさらに強めるために、アリンスキーの手法を採用してきたことは、実に悲しい皮肉である。

キングによる非暴力のポピュリズムは、道徳性を最重要視することを基本としていたのに対して、アリンスキーの手法は、実践的で、戦術的であり、効果的である。

それは、どんな闘争でも、両陣営が等しく使える手法であった。

味方にとって頼りになる武器は、敵が手に取っても有力となる。
......。

キングもアリンスキーも、モーセのように、遠くから、約束の地を見ることは出来たが、そこに辿り着くことは出来なかった。

そして、ふたりは、多くの小さな闘争には勝ったが、大きな戦いでは勝てなかった。

ふたりに共通の悲劇は、アメリカの様相を一変させ、のちに蔓延る偽物のポピュリズムの支配を防ぐことの出来る幅広い連合を打ち立てることが出来なかったという事実である。

しかし、弱者を守り、最前線で汗を流し、個人的・政治的危機に恐れることなく立ち向かったふたりの姿と、ふたりの状況を多角的に捉え、短期的戦術と長期的戦略を考える手法に、今、私たちは、学び直すことが多いのでは、ないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

老いてリストがようやく気付いたこと-ワーグナー=リスト「トリスタンとイゾルデの愛の死」を聴いて-

2024-08-21 06:36:17 | 日記
き日のドビュッシーは、リスト編曲の「トリスタンとイゾルデの愛の死」を聴いて、

「ピアノはこれほどの表現力を持つのか」
と衝撃を受け、
「自分はこれまで、ピアノの表現力を引き出していたのだろうか」
と、発奮したそうである。

そのようにして、ピアノ新時代の扉が開かれたのであるが、ドビュッシーが力強く新時代の扉を開くことに、そっと手を貸した、老リストの存在を忘れてはならない、と思う。

しかし、それは後の世から眺めた場合であり、当時のリストを見ている家族の反応は違った。

「また、君の父さんが変な汚い音楽を弾いているぞ!
あの爺さんは、どうしようもないな......さっさとあの雑音をやめさせろ!」
とリヒャルト・ワーグナーが妻のコジマ・ワーグナーに言う日々、であった。

そして問題の「あの爺さん」こそが、コジマの父親であるリストなのである。
......。

こんなはずではなかった。

リストといえば、その若かりし頃には、社交界の花形であり、非常なイケメンかつピアノのエキスパートであり、リスト自作の超絶技巧曲の演奏を聴いた女性たちがその場で失神したと言われるほどであった。

確かに、リストも作曲はしたのだが、技巧だけが自慢のピアニストが作る曲は、底の浅さが知れていたのである。

実際、若いうちはその見た目の麗しさのためにちやほやされたのだが、加齢とともに美貌も失せてしまい、曲の音楽性そのものが問われるようになると、リストは、自らの音楽性の欠如に恥じ入るようになった。
......。

こんなはずではなかった。

結局、若さや見目麗しさが衣装にすぎず、老いとともにそれらが剥ぎ取られていったときに、肋骨や弾力を失った皮膚、貧弱で醜い自らの姿に直面し、リストは、初めて鏡を見た『テンペスト』のなかの怪物キャリバンよろしく、自分への怒りのために、悶絶せざるを得なかったのである。

「巧言令色鮮し仁」というが、リストの作る曲は、その技巧性の高さゆえに、かえって、その精神性の空虚さがあからさまになっていたのかもしれない。
......。

こんなはずではなかった。

老いてから、ようやく、自分の人生とその創作物の空虚さに気付いたリストは、一心不乱に、偉大なる先人たちの音楽、特に交響曲をピアノに移植する作業を始めた。

近代ピアノという楽器は、演奏者の技量によっては、ひとつのオーケストラを凌駕する表現力を持っているのであるが、その表現力を極限まで拡大したことこそが、このリストの晩年の仕事であったのである。

リストは、自らの音楽に精神性とドラマ性が欠如していることがわかっていた。

言い換えれば、リストは、「自分は人生を生きたことが1度もなかった」ことを認識したのである。

たがらこそ、彼は、「人生を生きた」先人の音楽を編曲することによって、精神の高み、あるいは深みに達しようと目論んだのであろう。

まず、彼は、ベートーヴェンの交響曲をピアノに編曲して、楽聖の精神に触れた。

次に取り組んだのは、リストにとっては、娘のいけ好かない婿であり、傲慢不遜で人としては好きになれないワーグナーの作品である。

ワーグナーは、人としては最低かもしれないが、その音楽はリストを覚醒させたのである。

とりわけ、楽劇『トリスタンとイゾルデ』は、リストに深刻な影響を与えた。

なぜなら、そこには、真に孤独な人間が、初めて心を通わせることのできる相手を見つけ、愛に燃え上がり、愛の喜びの最中に死ぬことこそ人生の目的であるという、ピアノを弾くことだけは上手でちやほやもそれなりにされてはきたけれども、結句凡庸な生活人であったリストには、思いもよらなかった世界観が、色彩豊かに、説得力を持って、描かれていたからである。

ワーグナーが描いたのは、強烈な恋愛至上主義である。

生は愛のために存在するのであり、愛が成就すれば、その頂点で愛も生も終わりを迎えなければならない、という、常識を超越した過激な心中の思想を、ワーグナーは音楽に書いた。

思想は言葉によってのみ語られるだけではなくて、音楽は、思想を語る言語のひとつである、という境地には、これまでの手先が器用なだけのリストは、到達し得なかったのである。
......。

そうか、そうだったのか。
そうだ、これだ。

リストは、一心不乱にワーグナーのスコアに取り組む。

その過程で、リストは、ワーグナーも気付いていないような、新しい美を見出す。

ここにきて、リストの超絶技巧は、ワーグナーの音楽を咀嚼する中で、ピアノの表現力それ自体を拡大し、「ピアノでなければ伝わらない美」を表現するに至ったのである。

皮肉なことに、作曲者であるワーグナーは、リストのこのピアノ編曲を雑音と捉えていたようである。

しかし、雑音と見做された音楽は、国境を越えて響き渡り、新しい時代の基調音となったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像の写真は、いつも通る度に気になってしまうものを写したものです^_^;

それは、最近、食品サンプルの隣に置いてある、ニラそばのカップ麺です。

「お土産で買えるよ、値段はお楽しみにという意味なのかなあ」と勝手に思っております( ^_^)

暑い日が続きますね^_^;

体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

もしも、ウェルテルが歌を歌ってくれるなら-シューベルトの『美しき水車小屋の娘』を聴いて-

2024-08-20 06:37:46 | 日記
夏目漱石は『草枕』のなかで、
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界を目の当たりに写すのが、詩である、画である。
あるいは音楽と彫刻である」
と述べている。

漱石は、英国留学後、うつ病を患ったようであるが、これは、日本人が西洋個人主義というものに初めて衝突した副反応であったのではないかと、思う。

漱石は、帰国後、日本における個人の問題を考えながら小説を書いたのだが、その多くは、
「ありがたい世界」ではなく、「住みにくき世」の極みのようなどろどろの愛憎劇である。

漱石は、特に不倫が得意テーマだったようで、
不倫≒日本的家制度を超越する現象≒個人の問題の表出の端的な例

と、捉えていたフシさえある。
......。


確かに、不倫でなくとも、個人の存在というものが切実に問題となるのは、愛と死においてなのかもしれない。

私たちは、西洋個人主義ということばを用いるが、西洋社会も、はじめから、個人主義であったわけではない。

農耕牧畜社会は、必然的に共同体的であり、産業構造の変化、近代都市の誕生、旧来型の秩序の崩壊、国民国家の形成を経て、時間をかけながら、西洋個人主義は、醸成されてきたのである。

当然、その過渡期には、漱石と似たような苦しみも西洋社会はは経験した。

その発露として、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が在るが、この小説は、近代社会が生み出す孤独と、居場所の無さを、そして自らの存在を肯定してくれるシステムを恋愛に求めた青年の苦悩と絶望の物語であった。

もしも、ウェルテルが歌う歌を聴くことが出来るならば、それはシューベルトの『美しき水車小屋の娘』ではないかと、私は、思う。

歌曲集『美しき水車小屋の娘』は、旅をする快活な青年が、水車小屋の娘に出会い、恋をし、失恋し、失意のうちに自殺するまでが描かれる。

主人公の青年は、水車職人で、修行の旅に出ているのであるが、それはまさに
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜い」て、自らの足で自由に世界へと、踏み出してゆく喜びに満ちている。

そうして、小川に沿って旅を続けるうちに、水車小屋に行き当たる。

青年はそこで働き始め、その小屋の娘に恋をするのである。

原詩は、ミュラーによるものであり、舞台も中世が想定されているのだが、中世ドイツでは、職人は比較的自由な存在であったようである。

特に建築職人や主人公の職業である水車職人は、定住する必要もなく、己の手腕だけで都市から都市へ、村から村へと渡り歩くことが出来た。

しかし、ミュラーと、そしてシューベルトが水車職人に託しているのは、極めて近代的な意識である。

何にも縛り付けられない自由の謳歌は、拠り所を持たない孤絶の不安と表裏一体である。

だからこそ、主人公は、さすらいつつ寄る辺を探し求めている。

そして、美しい娘がいる水車小屋に仕事を見つける。

このあたりまで、シューベルトのメロディーは、瑞々しく、優美極まりない。

シューベルト自身が、この青年に十分に心を共鳴させている表情を窺うことが出来るかのようである。

しかし、シューベルトは、その表情を仕舞い込み、芸術家特有のあの冷たい表情をしながら、物語を暗転させてゆくのである。

恋の喜びの弾むような音楽から、荒々しい音が現れる。

そう、狩人が現れ、青年から娘を奪っていくのである。

第18曲「枯れた花」で、青年は、
「ああ、涙は5月の緑を育てはしない、死んでしまった愛を再び花咲かせたりはしない。

それでも春はやって来て、冬は去って行くだろう、そしてはなが草の中に育つだろう」
と、嘆き、
「僕の墓の中に置かれている花々、その花々はみな、彼女が僕にくれた花だ。

そして彼女がこの丘を通りかかった時、心の中で思ってくれたなら、『あの人は誠実だった』と!

その時には、すべての花々よ、咲き出せ、咲き出せ!

5月が来たんだ、冬が、去ったんだ」
と、いうようにして死を選ぶのだが、シューベルトは、嘆きの縁にある青年の歌、そして、青年の霊を慰める最終曲「小川の子守歌」に、最も繊細で、最も優しく、最も美しい音楽を付けるのである。

シューベルトの共感は、恋に弾む青年の心ではなく、死を見つめる青年の暗い心にこそ、向かっていたのであろう。

シューベルトのそのような眼差しの背景には、ロマン主義において、死が、
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて」、個人を解放する最後のよすがとなっていたことが関係しているのかも、しれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

着地点に迷っていたら、今日は、何だか暗い日記になってしまったかもしれません^_^;

まだまだ、暑いですね。

体調管理には、気を付けたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

音楽による詩の批判-シェーンベルク 弦楽6重奏「浄夜」を聴いて-

2024-08-19 07:03:46 | 日記
ことばが限界を迎えたところから、始まる芸術があるように、思う。

絵画や彫刻、音楽などのなかに、私は、それをみることが多いように思う。

ドイツロマン派最後の光芒であり、無調音楽の始祖であり、19世紀の扉を閉ざして、20世紀音楽の扉を開いた作曲家であるシェーンベルクは、音楽による、デーメルの詩の批評を行っている。

「デーメルの詩『浄夜』のなかの人間が語ることばは、慈愛と包容力に満ち、楽観的に過ぎる。
これほどの楽観的な人間像は、リアリティを持って私たちに迫って来るだろうか」
という疑問を、シェーンベルク持ったのであろう。

25歳になったシェーンベルクは、デーメルの非現実的に思えるほど静謐な赦しの物語を、叙情と激情、愛の苦悩と極限的な赦しに満ちた弦楽6重奏「浄夜」に創り直したのである。

それは、まさにドイツロマン派音楽が腐り落ちる直前の爛熟した音楽であり、その書法はワーグナー、ブラームス、マーラーに影響を受けつつ、ワーグナー的半音階が多用され、ときには、調整を失いかねない場面も現れるが、それによって音楽は、混乱するのではなく、かえって喜びと苦悩の間を揺れ動く情感の世界を描き尽くす効果を得ている。

デーメルの詩「浄夜」が、5部に分かれていることに対応して、シェーンベルクの音楽も5部に分かれてはいるが、詩のように女の心理描写があり、それから男の心理描写がなされているのではない。

女が自己嫌悪と、母親になる喜びとの間で身を引き裂かれ、愛する男に捨てられることを覚悟して、ついに男に告白するとき、それを聞く男の心も、ズタズタに切り裂かれている。

シェーンベルクの書いた激しい苦悩の旋律は、女のものであると同時に、男のものである。

むしろ、この詩と音楽は全般にわたって、男の苦悩を描いているといっても過言ではないように思う。

愛は、自分の内部から湧き上がるというよりも、いずこからともなく襲いかかり、自分の理性の力では決して制御できなくて、理性で決して赦せないことすら赦すということが、愛という経験であり、そこにこの世の絶望も歓喜も同時に存在するのかもしれない。

人間は結局、愛なしには生きることは出来ないが、同時に、愛によって死ぬほどの深手を負う。

そして、愛によって与えられた致命傷すら愛すること、死を愛すること、運命を愛すること、これ以外に愛の苦悩の救済はないのであろう。

しかしながら、果たして、男の言うように
「その見知らぬ子は浄められた」
のだろうか。

このふたりは、今や、冷たい月の光ではなく、柔らかい温かい光の中で歩いて行き、やがて朝を迎え、昼を迎えるだろうが、そのときも、まだ「浄められた」状態なのであろうか。

もしもそうだとするならば、それは、いわゆる単純な喜劇ということになるのではないだろうか。

しかし、人間はひとつの信念を持ち続けることなど、なかなか出来ないし、時間の経過とともに、かつての想いも変質せざるを得ない。

この夜に男が到達した赦しの想いも、いつまでも、は続くわけではないであろう。

やがては自分の子どもではない子どもを疎んじ、女のそのような過去を憎む時もあるだろう。

さまざまな文学が、芸術が、描いてきたように、かつて愛したものが、今度は憎悪をかきたてる原因となることさえあるだろう。

愛とは、本質的には、悲劇的な出来事なのかもしれない。

私たちは、「永遠」ということばを使うが、それは、私たちが「永遠ではない」存在であることを知っているからこそ、「永遠」を夢見るからこそ、使うのであろう。

「永遠」という不可能への挑戦のために、私たちは、瞬間のなかに「永遠」を見出そうとする。

ファウストの
「瞬間よ、止まれ、お前は実に美しい」
という台詞(→まさにドイツロマン派の台詞である)や、
ジークフリートに
「私はかつて永遠でした。
そして、今もまた永遠なのです」

と、語りかけるブリュンヒルデのように、私たちが経験するのは、現在だけである。

過去は、すでに手元にはなく、未来は、本当に訊ねてきてくれるかも、わからない。

すると、はかなくも「永遠」を信じる現在しか、私たちにとって確かなものはないのである。

確かに、この夜に、ふたりの心は浄められ、そしてそれが永遠に続くことを信じきっているようである。

そこに、人間の悲劇もまた存在する。

「永遠」を信じる愛が、やがて喪われることを、分かっているからこそ、この瞬間は、その分だけ、かえって、崇高な美しさを得るのである。

それこそが、この物語を聴く私たちが、看取ろうとする美である。

そして、私たちひとりひとりが抱く愛も、やがては何らかの形で終焉を迎えるという苦さと、それゆえの甘美さに溺れてゆくことをも、この音楽は、教えてくれているのであろうか。

すべての芸術は、音楽は、物語は、つまるところ、ただひとつの愛の物語であり、絶望と歓喜の物語に過ぎないのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

デーメルの詩は新田誠吾先制の和訳を参考に致しました(*^^*)

今日の日記は、全体的に、ちょっと、暗かったかしら......^_^;

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

快楽と苦痛のあいだ-古今東西の人間の葛藤から-

2024-08-18 06:54:51 | 日記
「快感を最大限にし、痛みを最小限にする」ことは、最も基本的で古くから存在する、あらゆる行動の動機である。

数十億年前に初めて誕生した生細胞には、感触の良いものには近づき、感触の悪いものを避けるという識別能力があった。

蠕虫やハエなど、数億年前に初めて神経系を進化させた地球上の生物と私たち人間が、いまだに全く同じ神経伝達物質ドーパミンを活用していることは、進化の連続性と保守性を瞭然と裏付けている。

食欲、性欲、他者との交流など、生存によいことの追求を促す仕組みはまさに人間と同じである。

扁桃体は、人間の報酬系にとって重要な役割を果たすが、快感は、脳のあらゆる部位、特に記憶や意思決定の中枢との強い繋がりを形成するほど大切なものなのである。

よい決断を下すには、快楽の誘惑になんとか負けないように努力し、苦痛がもたらす不快感に耐え、各人がどれだけのことを期待できるかについて現実的な観点を持つことが必要であるため、ほぼすべての哲学者と心理学者は、快感と苦痛、さらにそれらと日常の現実との関係に向き合わなければならなかったのである。

古代ギリシャやローマのエピクロス学派の人々は、科学者でもあったので、現実に対する最も反直感的な原理をいくつか考え出している。

彼らの理解に拠れば、まず単一のそれ以上分割出来ない、万物を構成する基本要素である原子が、空間を四方八方に動き回り、時々互いに衝突して、自然界の複雑な物体を形成する。

さらに、私たちは、それぞれ所定の場所、番号、重量、形がある原子が高速で感覚器官に到達することを通じて物事を知覚するというのである。

エピクロス学派の哲学は、あくまで唯物論的であり、神も迷信もユートピア的幻想もなく、私たちに在るのは、1度きりの人生と、たった1つの「快楽を追求し、苦痛を最小限に抑えることによって、人生を精一杯生きる」という目標だけだというのである。

そして、それが可能になるのは、私たちが幻想に惑わされることなく、真正面から現実と向き合う場合だけであるというのだ。

エピクロスが最後に残したことばは、死と生に対する彼の冷静で現実的な評価を表している。

エピクロスは、
「この手紙をあなたに宛てて書いたのは、私にとっての幸せな日であり、人生最後の日でもある。
なぜなら、私は、排尿困難と赤痢に見舞われていて、これ以上の苦痛はないと思うほどつらい。
しかし、哲学について思いを巡らせてきたことすべてを思い出すと心が明るくなり、このような苦しみを埋め合わせてくれる」
と述べたのだ。
なんと心の平静と大きな度量を持っているのだろうか。
......。

ストア派とエピクロス派は、紀元前3世紀の同時期に発展したことから、相対する主要な哲学となった。

一方は、苦痛をなんとか耐えることに重点を置き、他方は快感を生み出すことを重視する。

しかし、これは、些細な違いを強調するナルシシズムによる歳に過ぎず、どちらの哲学も唯物論的に見るところや、世界での最善の振る舞い方に関する考えは、よく似ていたのである。

このふたつの主義のうち、より厳格なストア派は、残酷な運命が放つ石や矢に対する感情的な反応を抑えることの価値を教えた。

「自然に従って生きよ」

つまり、もし、自然が理性に導かれているのならば、私たち人間の本性も完全に理性的になるよう努めるべきではないか、また、苦痛や病、貧困、熱情、幸運にも無頓着であるべきではないか、と考える。

ストア派の人たちならば、今の私たちに、問題解決のために理性を働かせろ、とか、問題解決の過程で直面する苦痛に怯むな、と檄を飛ばしてくれそうである。
......。

唯物論に基づいた倫理学に、次に大きく貢献したのは、2世紀ほど前に登場したベンサムであろう。

啓蒙活動に繋がる古代学問の復活に感化されたベンサムは、個人の道徳的判断と社会的決断に関する実用的な指針として、功利主義に則った計算法を編み出した。

ベンサムによれば、快楽と苦痛は、その強度、持続時間、予測可能性、直接性、危険性、他者にも広がる一般性に従って、可能な限り正確に計測することが出来る。

さらに、これらの数値を個人ごとに合計し、さらにそれを合計して、社会全体の数値とすることが出来る。

公共政策の良し悪しは、抽象的な原則ではなく、むしろ政策がもたらす実際の結果に即して判断される。

つまり、「最大多数に対して最大の善を、現在にも将来にももたらしているか」という観点で考えるのである。

功利主義は、欠点はあるものの、必要不可欠なものでもある。

その欠点とは、価値判断から離れて功利を計測することが出来ないという点である。

例えば、ヒトラーは、人類に対する極めて残虐な行為をはたらく一方で、「自分はドイツのために最大の善を促進する功利主義者である」と主張できてしまうのである。

また、功利主義が必要とされる理由は、個人の行動や公共政策にとって、これ以上よい指針がないからでも、あるのだ。

生存する上で、最も本質的な価値は何か、
その達成度合を計測する最善の方法は何か、
未来の長きにわたって人類の快感を守り、苦痛を最小限に抑える責任を考慮しつつ世界の快感を増やし、苦痛を減らず可能性が最も高い政策は何なのか、
といった課題に対して、自分勝手で、気難しく、面倒な私たち人類が協力して解決策を見い出せるかどうかが、まだ答の出ていない重大な疑問である。
......。

フロイトは、私たちに過小評価されがちであることにより、彼が生きている間に過大評価されたツケを払っているようである。

神経病理学と進化論に対する確かな知見を持っていたフロイトは、人間の精神が、動物の祖先の脳を基本とし、段階的に層をなす人間脳の構造を反映しているものであると直感したのである。

無意識の脳の働きのほとんどは、原始的な本能を満たすように機能し、即座の満足を得ようとする「快感原則」に従う。

つまり、これは、外界の要請や機会に対して、満足を遅らせ、合理的な理由付けを行い、適切に対応する能力である。

フロイトは、
「このようにして教育された自我は『理性的』になり、もはや自らを快感原則に支配させることなく、現実原則に従う。
実は、現実原則も快感を求めてはいるが、快感は現実を考慮した上で確保され、延期されることもあれば、軽減されることもある」と述べている。

乳児は純粋に快感のみに従い生きているが、その精神は、健全な現実検討の経験とともに、快感原則を抑える能力が向上するに従って成熟する。

フロイトは、のちのカーネマンのシステム1とシステム2という思考モードに先駆けてこのような区別をしていたのである。

社会が抱く幻想や抱える問題は快感原則の具現化かもしれない。

その際、現実に向き合わず、誠実ささえも打ち捨てている、私たちの姿があるだろう。

フロイトは、セラピーの目標について
「イド(本能的欲求)在るところに、自我を在らしめよ」
と述べた。

同様に、私たちの社会の目標は、合理的な長期計画を適用し、現実世界の問題に対処することであって、短期の放縦な快感を助長する否認や願望的思考に従うことであってはならないはずである。

私たちは、社会として成長し、私たちの未来の難題に対して、確りと、現実原則を適用する必要があるとき、ところに、もう、すでに来ているのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。