おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

憲法上の危機を生み出した偽りの精神疾患-時代と文化により変容するものとしないものに対して-

2024-08-30 07:08:02 | 日記
よく
「三島の作品は、どうも受け付けない」
と言う人がいるが、三島由紀夫の『鍵のかかる部屋』も、その中のひとつかもしれない。

「戦後の混乱期における一青年の退廃的な内面を描いた」文学作品とされているようだが、はっきり言ってしまえば、小児性愛者の話だからであり、私たちに、戦後間もない日本の混乱期だけが原因ではない問題にも意識を向けさせるからである。

これは、病院で治療できる精神疾患ではないにもかかわらず、アメリカにおいて、SVP(性的暴力犯)の審問で、精神科病院への強制収容による予防拘禁を正当化する目的から、1世紀以上前に、小児性愛に対応する語として「少年性愛」という、いかにも医学的で珍妙なことばがひねり出されたことがある。

区分としては、小児性愛は、思春期以前の子どもを 、少年性愛は思春期以降の子どもを対象にする、ということにしたようだが、少年性愛は、臨床単位として受け容れられておらず、研究もほとんど行われていない。

しかし、この偽りの診断は、精神医学の濫用の代表例であるにもかかわらず、都合のいい治安対策にされ、二重処罰の禁止という憲法によるかけがえのない保護までを侵したのである。

DSM-5すら、少年性愛を正式な診断に入れることを検討したが、性に関する障害や法科学の専門家たちの、ほぼ総反対に遭い、中止を決めた。

実際、「少年性愛」の採用を支持したのは、一握りのその研究者と、それよりはいくらか多くの、「少年性愛」の誤診を生活の糧の一部もしくは全部にしているSVPの鑑定者たちの一団だけであった。

勿論、年端もいかない思春期前後の子どもに対する性的暴力は、投獄に値する卑しむべき犯罪であるが、病院で治療できる精神疾患ではないのである。

おびただしい研究が証明するように、思春期前後の子どもに性的興味を持つこと自体は、なんら精神疾患に固有のものではないからである。

年齢や文化や時代によって大きく異なるものの、思春期は自然の定めた性的適齢期の境界線であると解釈されることが多い。

例えば、100年ほど前まで、アメリカの合意年齢は13歳であり、発展途上国の多くでは今でも合意年齢は低いままであるし、欧米諸国の多くでもそれが引き上げられたのは、ごく最近のことである。

生物学的に、思春期前後の子どもに対する性的興味は、進化の過程で、男性の本能に組み込まれている。

寿命が今よりずっと短く、いつ不慮の死を遂げてもおかしくはなかった時代に、性的に成熟し次第、DNAが子孫を作りだがることは、理に適ってはいたのである。
(→かつての平均死亡年齢は、現在の平均結婚年齢とほぼ同じであることに留意したい。)

しかし、現在のように、寿命が延び、乳幼児の死亡率が低下すると、最適な求愛戦略は、大きく変化した。

80歳くらいまでは余裕で生きられるにもかかわらず、焦ることはない、子孫を作ることも子育ても十分に成長してからの方が安全、かつ賢明に行える、と考えられるようになった結果、現代社会の一般的な状況や余命などの期待値を考えれば、当然、子どもへの行為はまだ早すぎると見なされ、それから子どもを守るために法的な合意年齢が引き上げられたのである。

しかし、だからといって性的な本能が、これに従ったわけではなかった。

基本的な欲望が変化するのには、少なくとも何万年から何十万年という進化期間を必要とする。

法律の変更は一日で可能かもしれないが、もう適切だと見なされないから、という理由だけで、長年培われた本能を消し去ることは出来ないのである。

実際、広告業界は、多くの大人が、今でも、思春期前後の子どもたちに性的興味を持っているという事実を知っており、童顔のモデルにきわどい服を着せたり、大胆なポーズをとらせたりして、この興味につけ込んでいる。

そのようなセクシーな広告に刺激された性的衝動を精神疾患であると主張するならば、それは、常識にも、経験にも、研究に拠る証拠にも反するであろう。

思春期前後の子どもに性的興味を持つこと自体は、犯罪でも精神疾患でもない。
人間の本質である。

しかし、今の私たちの社会でこの衝動を行動に移すのは重罪であり、長期刑に値する。

仮に、「少年性愛」の診断を用意する正当な理由がひとつだけあるとするならば、それはごく幼い子どもだけに対して、異常に執着する、まれな個人にレッテルを貼るためかもしれない。

しかし、DSM-5に少年性愛の診断を載せないだけの説得力のある理由はたくさん在り、それらは、この有用かもしれない唯一の使い道よりもはるかに重みがある。

「少年性愛」という、つくられた病は、研究されていないし、そのような病があったとしても、どうすればうまく診断できるのかも、有効な治療法があるのかどうかもわかっていない。

この診断案に臨床上の必要性は見当たらない。

治療法があったとしても、助けを求めていて、治療したいという意志と回復できる見込みがある犯罪者候補が大量にいるわけでもないのである。

また、SVP(性暴力犯)の裁判に法科学が軽率に利用されすぎていることは、既に、深刻な問題になっている。

これまでの流れからするに、法科学の鑑定者たちは、SVPの審問で、この診断を強制収容の支持材料としてむやみに拡大解釈することを止めはしないであろう。

子どもに性暴力や性的虐待を行う者に、同情の余地などない。

しかし、最も嫌悪すべき者たちに対してであっても、間違った人権侵害を許せば、憲法の安定は損なわれる。

三島由紀夫をはじめ、文学が作品を通じて、思春期前後の子どもへの性的興味、同性愛、政敵や少数派の宗教の弾圧などを考えさせられることは多い。

しかし、私たちが、将来にもっと無知蒙昧な時代に転げ落ちたならば、それらに精神医学を利用するような状況を、どのように防ぐというのだろうか。

つくられた精神的な病に、臨床上の実用性が少しでもあったところで、法科学に悪用される、恐るべき危険の方がはるかに大きいだろう。

現代に、三島が生きていたら、何を思うのであろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。