おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

老いてリストがようやく気付いたこと-ワーグナー=リスト「トリスタンとイゾルデの愛の死」を聴いて-

2024-08-21 06:36:17 | 日記
き日のドビュッシーは、リスト編曲の「トリスタンとイゾルデの愛の死」を聴いて、

「ピアノはこれほどの表現力を持つのか」
と衝撃を受け、
「自分はこれまで、ピアノの表現力を引き出していたのだろうか」
と、発奮したそうである。

そのようにして、ピアノ新時代の扉が開かれたのであるが、ドビュッシーが力強く新時代の扉を開くことに、そっと手を貸した、老リストの存在を忘れてはならない、と思う。

しかし、それは後の世から眺めた場合であり、当時のリストを見ている家族の反応は違った。

「また、君の父さんが変な汚い音楽を弾いているぞ!
あの爺さんは、どうしようもないな......さっさとあの雑音をやめさせろ!」
とリヒャルト・ワーグナーが妻のコジマ・ワーグナーに言う日々、であった。

そして問題の「あの爺さん」こそが、コジマの父親であるリストなのである。
......。

こんなはずではなかった。

リストといえば、その若かりし頃には、社交界の花形であり、非常なイケメンかつピアノのエキスパートであり、リスト自作の超絶技巧曲の演奏を聴いた女性たちがその場で失神したと言われるほどであった。

確かに、リストも作曲はしたのだが、技巧だけが自慢のピアニストが作る曲は、底の浅さが知れていたのである。

実際、若いうちはその見た目の麗しさのためにちやほやされたのだが、加齢とともに美貌も失せてしまい、曲の音楽性そのものが問われるようになると、リストは、自らの音楽性の欠如に恥じ入るようになった。
......。

こんなはずではなかった。

結局、若さや見目麗しさが衣装にすぎず、老いとともにそれらが剥ぎ取られていったときに、肋骨や弾力を失った皮膚、貧弱で醜い自らの姿に直面し、リストは、初めて鏡を見た『テンペスト』のなかの怪物キャリバンよろしく、自分への怒りのために、悶絶せざるを得なかったのである。

「巧言令色鮮し仁」というが、リストの作る曲は、その技巧性の高さゆえに、かえって、その精神性の空虚さがあからさまになっていたのかもしれない。
......。

こんなはずではなかった。

老いてから、ようやく、自分の人生とその創作物の空虚さに気付いたリストは、一心不乱に、偉大なる先人たちの音楽、特に交響曲をピアノに移植する作業を始めた。

近代ピアノという楽器は、演奏者の技量によっては、ひとつのオーケストラを凌駕する表現力を持っているのであるが、その表現力を極限まで拡大したことこそが、このリストの晩年の仕事であったのである。

リストは、自らの音楽に精神性とドラマ性が欠如していることがわかっていた。

言い換えれば、リストは、「自分は人生を生きたことが1度もなかった」ことを認識したのである。

たがらこそ、彼は、「人生を生きた」先人の音楽を編曲することによって、精神の高み、あるいは深みに達しようと目論んだのであろう。

まず、彼は、ベートーヴェンの交響曲をピアノに編曲して、楽聖の精神に触れた。

次に取り組んだのは、リストにとっては、娘のいけ好かない婿であり、傲慢不遜で人としては好きになれないワーグナーの作品である。

ワーグナーは、人としては最低かもしれないが、その音楽はリストを覚醒させたのである。

とりわけ、楽劇『トリスタンとイゾルデ』は、リストに深刻な影響を与えた。

なぜなら、そこには、真に孤独な人間が、初めて心を通わせることのできる相手を見つけ、愛に燃え上がり、愛の喜びの最中に死ぬことこそ人生の目的であるという、ピアノを弾くことだけは上手でちやほやもそれなりにされてはきたけれども、結句凡庸な生活人であったリストには、思いもよらなかった世界観が、色彩豊かに、説得力を持って、描かれていたからである。

ワーグナーが描いたのは、強烈な恋愛至上主義である。

生は愛のために存在するのであり、愛が成就すれば、その頂点で愛も生も終わりを迎えなければならない、という、常識を超越した過激な心中の思想を、ワーグナーは音楽に書いた。

思想は言葉によってのみ語られるだけではなくて、音楽は、思想を語る言語のひとつである、という境地には、これまでの手先が器用なだけのリストは、到達し得なかったのである。
......。

そうか、そうだったのか。
そうだ、これだ。

リストは、一心不乱にワーグナーのスコアに取り組む。

その過程で、リストは、ワーグナーも気付いていないような、新しい美を見出す。

ここにきて、リストの超絶技巧は、ワーグナーの音楽を咀嚼する中で、ピアノの表現力それ自体を拡大し、「ピアノでなければ伝わらない美」を表現するに至ったのである。

皮肉なことに、作曲者であるワーグナーは、リストのこのピアノ編曲を雑音と捉えていたようである。

しかし、雑音と見做された音楽は、国境を越えて響き渡り、新しい時代の基調音となったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像の写真は、いつも通る度に気になってしまうものを写したものです^_^;

それは、最近、食品サンプルの隣に置いてある、ニラそばのカップ麺です。

「お土産で買えるよ、値段はお楽しみにという意味なのかなあ」と勝手に思っております( ^_^)

暑い日が続きますね^_^;

体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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