システィーナ礼拝堂において秘曲中の秘曲として、限られた機会にしか演奏されず、
また、その楽譜も門外不出であり、持ち出した人は破門されることになっていた曲が在る。
グレゴリオ・アレグリ(1582~1652年)の「ミゼレーレ」である。
現代の私たちが、アレグリの「ミゼレーレ」を聴くことが出来るのは、モーツアルトという天才のおかげである。
14歳のモーツアルトは、この10分ほどの9声部の音楽を1度聴いただけで暗譜してしまい、記憶を元に楽譜を再現してしまったのである。
そして、その楽譜は、イギリスの出版業者の手に渡り、広く世に知られることになった。
なお、モーツアルトの暗譜の正しさは、ローマ教皇庁自らによって認められた。
モーツアルトの楽譜が完全なものであることを認め、また、モーツアルトの才能を讃えて、ローマ教皇自ら14歳の少年に黄金軍騎士勲章を授け、門外不出の音楽を外部に出したことを不問に付したのである。
さて、「ミゼレーレ」を聴けば、アレグリも天才作曲家だとは思えるものの、天才アレグリの生涯は天才モーツアルトとは異なり、記録はほとんどないのである。
ローマ教皇ウルバヌス8世に寵愛され、システィーナ礼拝堂専属の聖歌隊の歌手として、そして作曲家として活躍したことだけが記録として存在している。
カストラートであったとも伝えられはいるが、それすらも定かではない。
ただ、「ミゼレーレ」はアレグリの最も素敵な生きていた記録のひとつである、と言えるであろ
う。
「ミゼレーレ」は、9つのパートから成る合唱曲なのであるが、それによって音楽は複雑になるどころか、むしろ素朴さと、抑揚の効いた感情表現に留められており、音楽はドラマチックではなく、
「miserere mei,Deus......(神よ私を哀れんでください)」
という神へのすがるような、ひそやかな思いが全曲を貫いている。
もうひとつ確かなことは、アレグリは死ぬまでシスティーナ礼拝堂を離れることはなかったことである。
そのことから、私は、
ミケランジェロの作品に囲まれながら、世俗を離れ、静かに神への音楽を書き続けた、ひとりの中世人の魂のかたちが、「ミゼレーレ」となって表出したのだと、思っている。
ところで、
アレグリが、もし、生きていて、
ローマ教皇フランシスコの
「『私は正真正銘のカトリック教徒で、いつもミサに行っている』と言う人がいる......だが、彼ら/彼女らは、従業員に適正な給与を支払わず、人々を利用し、汚いビジネスに手を染め資金洗浄を行っている......そんなカトリック教徒になるくらいなら、無神論者にであるほうがましだ」
という、蔓延る宗教上の偽善に対する嫌悪感を述べたことばを聞いたらどう思うであろうか......。
......。
私でも、え、本当にローマ教皇のことばなの!?と驚いたのである。
さらに教皇の(偽善者に対してだが)
「あなたは天国に辿り着いて、その門を叩き、
『神様!私です』と話しかける。
『覚えておられませんか?私は教会へ行きあなたのおそばにいました......私が献金したことをすべてお忘れになったのですか?』
『覚えています。しかし、その献金はすべて貧しい人から巻き上げられた汚い金です。私はあなたのことを認めません』。
これが、裏表のある人生を送る恥ずべき者に帯する神の答えである」
ということばを聞いたら、アレグリは失神するであろう......。
ローマ教皇でなくとも、アレグリでなくとも、あまり宗教に関心があるとは言えない私のような者でも、
いわゆる「原理主義者」の宗教的政策や、億万長者の意志を受けた主張を後押しするために、貧しい人々や抑圧された人々が、必要とするものを駆け引きの材料にすることは、あってはならないことだと考える。
しかし、アレグリが絶望の淵に沈むような出来事がアメリカでは起こっている。
2016年、トランプはクリントンの4倍という驚くべき大差で福音派の票を獲得し、白人のカトリック教徒からはクリントンの2倍の票を得た。
これは、神ではなくトランプに魂を売り渡したような身勝手なキリスト教指導者が、
中絶や同性愛者の権利に反対する彼ら/彼女らの強硬な立場をトランプが支持することと引き換えに、
彼ら/彼女らが何千万という信者になんとしてもトランプを支持させようとした結果を反映しているとも言えるのである。
こうした駆け引きは、アメリカの多くのキリスト教指導者の宗教上の偽善だけではなく、彼ら/彼女らの政治的手腕をはっきりと物語っている。
銀貨30枚で裏切るようなことはしなかったにしろ、間違いなくイエスの教えは、ないがしろにされた、と言えるであろう。
実際のところ、イエスは中絶も同性愛も気にかけていなかった。
イエスが活動していた当時、中絶は合法で広く行われていたし、同性愛も容認されていたため、イエスは多くの説教のなかで、1度もそれをとがめたことなどなかったのである。
イエスはトランプのような特権に浴した金持ちから、弱者や身分の低い者を守ろうとする、いわば「与える者」であった。
「与える者」の教えが、「奪う者」に利用されるとは皮肉である。
アレグリが現代に生きていたとしても、怒り心頭でシスティーナ礼拝堂から出て来てくれず、現代ならば、どんな曲を作っているか、を知ることは、出来ないのであろう。
さまざまな分野で力のあるひとたちは、自らが、世界に影響を与えることの意味をいま一度、考えてみて欲しい、と、私は思う。
直接手を下してはいないが、例えば、安直なモデルに拠って医療保険を奪う試みは、多くの国民の命を奪い得、目先のGDP優先で長期的には地球温暖化を促進する行動は、最終的に、何千万人、あるいは何億人もの人々を死に至らせる可能性が、あるのである。
同じ天才ならば、その手が紡ぎ出した、非経済的だけれども、ときに、経済的なものよりも大切であることもある芸術に、たまにはひたる時間を作ってみようと思う。
まずは、アレグリの「ミゼレーレ」から聴いてみよう。
今、私が、ブログを描いている、このスマホからも、聴けるはずだから。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
アレグリの「ミゼレーレ」は急に、今朝、ネットを見ていて描きたくなり、描きました^_^;
毎回、ふらふらしたテーマでも読んで下さり、皆さまには感謝しかありません( ^_^)
ありがとうございます(*^^*)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。