おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

人生を疑問形にして他人に問うなかれ

2023-07-10 06:10:58 | 日記
先ほど、まだ布団でうだうだとしていたとき地震が起きた。
驚いて確認したところお隣の千葉県で最大震度2とのこと。被害も余震もなくてほっとした。
このようなかたちで、眠りから覚めたので(いまだに地震は怖い)、災害に遭って考えたことと病気になって考えたことの共通しているところが在ると思っているので以下、それを描いてみたい。
まず、地震が起きたときに、どうやって逃げて命を守るかを考える。そこには、どこで、何をどうするかが生死を分けるが、病も同じだと思う。起ってしまったことへの対応という観点に立てば、その後、行うことの決定が先々の選択に与える影響は計り知れない。
私の場合は、「投薬」の段階といえる
つぎに、逃げようと避難先に急いでいる段階で避難先に着く前に予期せぬ事故に遭ってしまったとき、例えば(これは、私が子どもの頃起きた地震で実際ごく近い周囲から見聞きした話からずっと考えてきた事例)、倒壊した建物に腕や脚などが片方挟まれてしまい自力では抜けない、が、レスキューを待っていたら余震で更なる建物の崩壊で命の危険がある。しかし、腕や脚を切断して逃げるようと決断する時、「余震とレスキューどちらが先か」、「いま、ここ、この自分の選択に誤りはないか」、そして「何が1番大事か」を私は考えるし、選択した後も考え続けるだろうと思う。
私の場合は断薬の段階とも言える。
そして、地震発生後、さまざまな決定後の心身のリハビリ、その後の生き方の心構えは同じであると思う。
私の場合もなんとか心身が生き残り、断薬の後遺症と伴走しながら生きていて、生き方を試行錯誤している段階だ。
ここまで読んでくださりありがとうございます。災害とはちがいどうして病になったかについては心当たりがありますが、そこはゆっくりと描いていきたいと思います。
では、また次回。


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