おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ことばの「意味」にこだわると読めない三島由紀夫の恋愛小説にみるもの-「意見」や「思想」を持たない論理的な恋愛劇の登場人物たち-

2024-09-21 07:28:37 | 日記
三島由紀夫は、「思想」や「意見」を持たない人であったのかもしれない。

そのように考えると、「思想」や「意見」がないからこそ、逆に、いつでも、その時代の思潮に反対するような、逆説的な、反社会的な「思想」や「意見」をものの見事に操ることが出来たとも言えるだろう。

三島由紀夫が、自決する1週間前の『戦後派作家対談』のインタビューで、
「私は、十代の思想に立ち戻ってしまった。
『敗戦より妹の死のほうが、ショックだった』と書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。
どうしていいかわからなかった。
政治のことはわからないので、芸術至上主義に逃げ、そこから古典主義に移行し、行きづまると、十代の思想にかえったのです」
と、述べている。
ここに、三島にとっての「思想」や「意見」が語られているようだが、三島は同じ対談でさらに、
「まず、天皇があって、それに忠誠を違ってゆくのではなく、自分に忠誠心が始めに在って、そのローヤリティーの対象としての天皇が必要なんだ」
と述べている。

これらの発言から、三島の天皇観について議論するつもりはなく、私が注目したいのは、これらの発言から、三島由紀夫が主体であって、天皇は客体であるという思惟構造である。

つまり、天皇、美学、美意識、芸術至上主義といった、いわゆる「思想」は、三島由紀夫にとって、正しいか正しくないかといった「内容」の問題として考えられているのではなくて、ただ単に「役割」の問題として考えられているのではないだろうか。

正しい思想や、間違った思想が在るのではなく、ただ思想を必要とする人間がいるという「だけ」だということが、三島由紀夫にはよくわかっていたように見える。

三島由紀夫の恐ろしさは、そのことを知り抜いていたというところに在るのではないだろうか。

三島由紀夫は、『反革命宣言』というエッセイを書いているが、このエッセイのタイトルが象徴するように、三島由紀夫の「思想」なるものは、すべて「反」(→前々回の日記で触れていますが)なのであり、それは、思想的なものに対する挑戦としての「反」なのであろう。

また、三島由紀夫に「思想」がないということは、言い換えれば、三島由紀夫が「論理」の人だということではないだろうか。

論理的思考が衰弱したとき、人はよく「思想」を作り出す。

「思想」とは、「論理的思考の挫折」であることも多いだろう。

三島由紀夫の小説が、無味乾燥な印象を与えるとすれば、それは、三島由紀夫のテーマが「論理」に在り、いわゆる生活や現実の問題には無いからである。

例えば、三島由紀夫は、好んで恋愛を小説の題材として使っている。

それほどドラマチックな恋愛ではなく、どちからといえばプラトニックラブに近い恋愛が多い。

しかし、その恋愛を記述する場合にも、三島由紀夫の主たる関心は、恋愛心理メカニズムの論理的分析にのみ向けられており、いわゆる恋愛のもたらす生活や現実の問題はほとんど最小限に抑えられている。

三島の最初の長編小説である『盗賊』のなかの登場人物たちは、ことばの「意味」を誰も信じていない。

登場人物たちは、ことばの「論理」だけで生きているため、ことばの「意味」こだわる人は忽ちのうちに、三島の論理的な恋愛劇に敗れるほか、ないのである。

「意味」を信じないということは、「内面」を信じないということであり、また、「自己意識」を信じないということではないだろうか。

ただ、三島由紀夫も「思想らしきもの」を主張しているようではある。

しかし、それはあくまでも、対抗思想であって、いわゆるテーゼではない。

つまり三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想でしかないのだろう。

だから、あくまでもテーゼを前提とした上の思想であって、それ自体が自立した思想体系たり得ているわけではなく、三島の思想とは、いわば、「反対のための反対」の思想でしかないのだろう。

だから、三島由紀夫を「反戦後」という思想や、晩年の「右翼思想」や「反革命思想」のみに拠って語ったり、三島由紀夫の問題を捉えることは出来ない、と私は思うのである。

問題は、三島由紀夫の思想の内容ではなく、
なぜ、三島由紀夫は単なる「反対のための反対」の思想ではなくて、「自立した思想」を語ろうとはしなかったのか、ということである。

三島由紀夫の小説の主人公たちもまた、自分の「意見」や「思想」を持っていない。

一見して「意見」や「思想」のように見えるものも、実は相手との関連性のなかに発生した、役割としての「意見」であり、「思想」でしかないのである。

このように、三島由紀夫に「思想」がないことは、三島由紀夫にとって批判されるべきことではない。

三島由紀夫が思想をその「内容」によってではなく、「役割」においてとらえているという意味からいうならば、思想を構築すること自体のなかに、批判され、否定されるべき自己欺瞞が在ると言わなければならないだろう。

危険な思想家が危険だというよりは、思想を持たない思想家が危険なのだ、と私も、思う。

それに、もし三島由紀夫が危険な思想家であり、危険な文学者であったとするならば、それは、三島由紀夫がファシズムやテロリズム、あるいは美や殉教の思想と関係していたからではないだろう。

それは、三島由紀夫がいかなる思想も相対化し、思想を単なる役割として捉える視点を獲得していたからでは、ないだろうか。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

見出し画像は、ある経済学者の先生が「良いと思います」とオススメされていた本を、
「経済のことはわからないので、芸術に逃げ、そこからも移行し、行きづまると、もともとの場所にかえってみた」のです、が楽しく拝読し始めている本です😊

......今回の日記の冒頭の三島のことばのパロディーですが😅


まだまだ、暑い日が続きますね😓

体調管理に気をつけたいですね☺

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。