おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「告白」という形式に依拠する近代文学への批判を込めた『仮面の告白』というタイトル-三島由紀夫の「仮面」の下-

2024-09-19 06:42:00 | 日記
三島由紀夫は『仮面の告白』の書き出しの一節なかで、主人公が、

「自分の生まれたときの光景を見たことがある」
と言い張り、周りの大人たちに笑われ、疎まれる場面を描いている。

しかし、言い張っている主人公自身も「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という意見の事実問題にこだわっているわけではなく、むしろ自分自身の主張は正しくないことをわかっているようである。

『仮面の告白』の主人公は、自分の告白が正しいか、正しくないかを議論したいのではなく、このような突飛な意見が、周りの他人に対してどのような反応を惹起するのか、という役割の問題に拘泥しているようにもみえる。

三島由紀夫は、さらに続けて主人公に
「笑う大人は、たいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。
そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとえ万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりした観念が得られたはずはないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと意気込むときの多少芝居がかった熱心さで喋り出すのが定石だった。
ねえねえ、そうだろう、とまだ疑り深そうにしている私のちいさな肩をゆすぶっているうちに、彼らは私の企みに危うく掛かるところだったと気がつくらしかった」
と語らせている。

この大人たちの過剰反応こそが、『仮面の告白』の主人公の告白であり、意見の目的である。

つまり、この主人公の突飛な意見の目的は、これら大人たちの過剰反応によって、十二分に達成されたわけである。

ところで、三島が、タイトルを『告白』ではなく、『仮面の告白』としたところに、三島由紀夫の視座が在るのではないだろうか。

三島は、「告白」を嫌っていた。

つまり、自己を語ることを嫌悪していたのである。

しかし、他方で、三島もまた、ともすると誰よりも、自己を語ることの好きな作家であった。

無論、ここには矛盾が在るが、この矛盾は、単に批判や否定をすれば済むという問題ではないことは明白であろう。

三島由紀夫が『告白』ではなく、『仮面の告白』としたのは、『仮面の告白』というタイトルを付けることによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判し、否定したかったのであろう。

この告白批判は、小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識を共有するもののようである。

小林秀雄は、「告白」というものについて『批評家失格Ⅰ』のなかで、
「どんな切実な告白でも、聴衆は何か滑稽を感ずるものである。
滑稽を感じさせない告白とは、人を食った告白に限る。
人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない」
と述べている。

小林秀雄は、「告白」という形式それ自体が、必然的に滑稽になってしまうし、滑稽でない告白がどこかに在ると述べているわけではないのである。

ちなみに、小林秀雄以前の批評家たちは、「告白が正確であるかどうか」を問題にしており、「告白という形式それ自体を問題にしたわけではない」のである。

つまり、「正直に、そして正確に告白しているかどうか」という点に、文学価値の基準を置いていたのである。

田山花袋の『蒲団』などにはじまる「私小説」という近代文学の基本構造を否定したり、批判するだけでは済まなかった「告白」という形式それ自体の行き詰まり、という問題が、小林秀雄にいたってはじめて自覚されたということなのであろう。

文学批判としての小林秀雄の「批評」の意味は、要するに「告白」の不確実性の自覚以外の何物でもないのだろうから。
......。

さて、三島由紀夫は『仮面の告白』の月報ノートに
「肉にまで喰い入った仮面、肉付きの仮面だけが告白をすることができる。
『告白の本質は不可能だ』ということだ」
と書いている。

三島は「仮面」を被ることによって「素顔」を隠したのであろうか?

三島由紀夫の「仮面」の下には、はたして素顔が隠されていたのだろうか??

おそらくそうではないのだろう。

はじめから「素顔」などというものなど、どこにも存在していないにもかかわらず、私たちは、近代的な認識論的布石が作り上げた幻想にすぎないものを「素顔」だと思い込んでいるようである。

三島由紀夫が、
「告白の本質は不可能だ」
と述べているのは、「素顔」などというものはどこにもないと意味ではないだろうか。

私たちの『仮面の告白』の読み方を嘲笑するかのように、三島は、「私の文学を語る」というインタビューのなかで、
「自分に対するこだわりだけを『誠』と思っているのでしょう。

一度ぐらいこだわってみせないと、だれも信用しないですね。
僕の場合は『仮面の告白』でちょっとこだわってみせたら、たちまち信用を博したのです。
後はどんな絵空事を書いても大丈夫だ。

ところが、それを一生繰り返している人がいるから実に神経がタフだと思って感心している」
と語っているのである。
......。

三島由紀夫が『仮面の告白』で企図したことは、「告白」という形式への批判なのであり、作中人物と作者自身とを同一化する者たちへの批判なのであろう。

三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的な嫌悪感を抱いていたのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難かったからではないだろうか。

それは、自分にこだわっているフリをすることへの嫌悪でもある。

確かに、「告白」という行為のみでは、人は、自分自身に直面することなどないのだから。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

日仏哲学会のあと、もう一度日本からベルクソンを考え直そうと思い始めています😊

(→日仏哲学会に参加して☺ in 南大沢)

まだまだ残暑が厳しいですね😅
体調管理に気をつけたいですね☺

今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。