おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「もう一つの現実」を広める現在の『キージェ中尉』は誰か-私たちが直面していることについて考えるⅡ②-

2024-02-29 06:30:43 | 日記
ある日、気まぐれな皇帝が昼寝をしていると、女官の悲鳴に起こされてしまう。

昼寝を邪魔された皇帝は癇癪を起こして、警備の不手際の犯人を探させるのだが、
皆、慌てていたため、「中尉」の位が記入されているだけの衛兵の名簿を見て、
それを口ごもりながら返答するのだが、いろいろと齟齬が生じた結果、皇帝は、「キージェ中尉」と聞き違えたのである。

気まぐれな皇帝のミスを訂正するには、あまりに怖く、面倒であったため、皆、架空の「キージェ中尉」のせいにしてしまう。

皇帝は居もしない「キージェ中尉」の警備の不手際に怒り狂い、「キージェ中尉 」をシベリア流刑にしてしまう。

もはや、周囲も馬鹿馬鹿しいと思いながらも、やはり相手は気まぐれな皇帝なので、
架空の人物であるキージェ中尉をシベリア送りにしたことにして終わらせたつもりになっていた。

ところが、である。
やはり気まぐれな皇帝は、
「キージェ中尉は偉い。シベリアから呼び戻せ」
と言い出した。

皇帝は、キージェ中尉が自分を暗殺者から守ろうとして、わざと女官に悲鳴をあげさせ 起こしてくれたような気がしてきたのである。

そして、皇帝はキージェ中尉を呼び戻し、昇進させ、美しい女官が妻として与えられ、盛大な結婚式が行わせることにした。

周りは、気まぐれな皇帝は、やはり怖いし、面倒なので、
架空の「キージェ中尉」は、昇進し、結構式を挙げ、なぜか子宝恵まれ、充実した人生を送るのである。

何しろ「キージェ中尉」はもともと存在しないので、よくある汚職とも無縁なおかげで、皇帝の忠実無欲な部下としてついに出世する。

このように社会を風刺したトゥイニャーノフの小説『キージェ中尉』は、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)によって映画音楽として作曲され、後に組曲に改められた。

交響組曲『キージェ中尉』は
「キージェの誕生」、「キージェの結婚」、「キージェの葬送」というようにストーリー展開に沿って音楽が配置されているので、あらすじを知っていると音楽を楽しめるようになっているのである。

実際に、プロコフィエフは、存在しない「キージェ中尉」をめぐって繰り広げられるドタバタ劇を活き活きと描いている。

圧巻なのは、「キージェの葬送」である。

気まぐれな皇帝は、忠実な家臣であるキージェ中尉との面会を望み出す。

架空の「キージェ中尉」を使い回してきた皇帝の周囲ももう、くたくたである。
そこで急遽、キージェ中尉が亡くなったことにするのだが、その死を惜しんだ皇帝はなんと国葬を命じるのである。

こうして、空っぽの棺桶とともに、壮大な葬儀が執り行われる。

この場面を描くにあたり、プロコフィエフは、悲しげな旋律と陽気な旋律を「同時に」演奏させるのである。

天才プロコフィエフだからこそ描けた音楽であるといっても過言ではないであろう。

ところで、
テオドール・アドルノは、ナチス・ドイツの被害者であり、賢明な観察者でもあった。

彼は、人々がいとも簡単にファシストの支配に屈してしまうのはなぜか。

彼は、その理由を理解するひとつの方法として、心理学を活用した。

アドルノがアメリカで行った調査で明らかになったのは、多くのアメリカ人もまた、いわゆる
「権威重視のパーソナリティ」の特徴を持っているということである。

その特徴には、
強い因習主義、権威のある者に対する服従、弱い者に対する傲慢な態度、知的活動の軽視、力と強さの過大評価、他者への攻撃、ひねくれたものの見方、陰謀論や迷信を信じる傾向、
などがあげられる。

こうした「権威重視のパーソナリティ」を持つ人は、権力を持つ支配的な指導者に従い、そのもとに集まり、ときに自分がそうした指導者になることもあるのである。

そして、彼/彼女は、特に脅威を感じたときには、部外者に対して攻撃的な反応を示すのである。

「権威重視のパーソナリティ」を持つ人は、強い人間を演じることで、自分の権威主義的な性向をあらわにしているし、また支持者(→ただの取り巻きも含む)の権威主義的な性向にもつけこんでいるともいえるのである。

アドルノは1950年に発表した著書で
「もう一つの現実」を広める指導者たちの能力を予測していた。

アドルノは
「嘘は長きにわたって人を引きつけ、時代の先を行く。
真実の問題が、すべて、権力の問題に置き換えられることによって、
過去の独裁体制のときのように、真実が抑圧されるだけではなく、真実と虚偽を区別することそのものが攻撃される」
と述べている。

また、アドルノは、
「万一、ファシズムが強力で重要視される社会運動となった場合に、それを受容しやすい様子を示す人々に見つけるのは容易かった」
とも述べているのである。

アドルノは、テレビやラジオ、映画を通じたプロパガンダによって、
ファシズムがまともなものとして受け入れられることを、恐れていた。

1950年代にアメリカ国民に対して、反共主義が訴えられていた中で、アドルノは、21世紀の世界を視ていたのかもしれない。

マシュー・マクウィリアムスは、アドルノを詳しく研究することによって、トランプが2016年の大統領選に勝つことを本気で予測した数少ない人物のうちの1人である。

予想を外した者が多いなか、彼の予想が当たったのは、彼が行った1800人の調査に、アドルノの調査項目と似た項目を含めたからであるとも考察されている。

古代ギリシャの偉大な悲劇作家であったアイスキュロスは、

「戦争で最初に犠牲になるのは真実である」と今の時代にも通じる洞察を述べていた。

かなりの部分で、どんなことでも許されてしまう政界の戦いにおいて、
大胆な嘘は、あらゆる政治的武器の中で最も強力なものとなった。

いつでもどこでも、さまざまな意見にかつてないほど触れられる環境に私たちはいるが、
「もう一つの事実」や極端な見解は、あからさまな嘘であることも多く、常に「公平でバランスが取れた」内容ではないだろう。

プロパガンダでヒトラー政権を支えたゲッベルスの恐ろしい言葉だが、私たちが情報に接する際のいましめとしたいと思う。

「四角いものが実は丸であると証明するのは、不可能なことではない。
関係する人々の心理を理解し、そうであることを十分に繰り返し言い聞かせればよいのである。
それは単なる言葉であり、言葉は偽りの概念をまとうように形作ることができる」(ヨーゼフ・ゲッベルス)

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日は特に力が入り、長くなってしまいました。

暑苦しく長い文章を読んで下さりありがとうございます。

朝はやはり寒いですね。
寒暖差に気をつけながら、体調を崩さないようにしたいですね。

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。