現在における偽のポピュリズムに対する唯一の解毒剤は、
未来における本当のポピュリズムであろう、と思う。
私は、恥ずかしながら、トランプが登場するまで、ポピュリズムについてまともに考えたことは、1度もなかった。
しかし、トランプによって世界が表情を変えるさまを眼の前にして、私のように傍観者を決め込まず、むしろ自ら動いた過去の人々について尊敬の念を抱くとともに、まず彼ら/彼女らについて知ろう、と思うようになった。
知れば知るほど、彼ら/彼女らは、踊らされるどころか、むしろ自ら美しく踊っていた。
密になり、速くなる世界のなかでは、私たちに、ゆったりと傍観者を決め込んで、誰かが助けに来てくれることを待つ時間はあまりないのかもしれない。
また、政治プロセスを退化させる二極化を覆すことが出来るプログラムによって、
私たちを惑わす安易なスローガンに対抗しなければならなくなってきたのかもしれない。
ところで、
マーティン・ルーサー・キングは、ワシントンが18世紀に、リンカーンが19世紀に果たした役割を、20世紀に果たした。
キングは
「平和を愛する者は、戦争を愛する者と同じくらい効果的な組織づくりを学ばなければならない」
と言った。
彼には、ものを見る目、聞く耳、感じる心を持つ人に訴えかけるような力が備わっていた人である。
キングは、黒人の公民権を要求する運動家として活動を始めたが、最終的にはあらゆる人々の人権を求める運動家として活躍した。
また、彼は、個人的・政治的危機に立ち向かう際、状況を多角的に捉え、短期的な戦術と長期的戦略のどちらを考えることも、同じくらい得意であった。
キングは、差別を助長するレイシズムという悪と戦ったが、
レイシストたちを、理解も、今後、協調も出来ない相手だと決めつけていなかった。
むしろ、レイシズムを実践する者は、ある意味でその被害者であるとも言えることから、キングは、レイシストたちがターゲットとする人々を解き放つと同時に、レイシスト自身をもレイシズムという偏見から解放したいと願っていた。
敵に対する憎しみは、運動だけでなく、憎しみを抱く人自身をも破壊してしまうからである。
キングは、早すぎる死を迎える前に、経済、社会、性別に関わるあらゆる形の不平等を無くし、ベトナム戦争を終わらせることを目的とした、きわめて幅広い連合を作ろうとしていた。
だが、労働運動の強力な支援者であったキングは、メンフィスで清掃労働者のストライキ支援に参加しようとしたところを銃撃されてしまったのである。
今、キングが生きていたら、社会の不合理で不条理な幻想に対抗しながら、やはり民衆の幸福や未来のために戦っているであろう、と、私は、時折、想像してしまう。
キングが移民のためにデモ行進をし、ウォール街占拠運動にも加わっているだろう。
また、銃の被害者家族を慰め、NRA(全米ライフル協会)を恥じ入らせるかもしれない。
さらに、住宅差し押さえに遭っている人々を守り、彼ら/彼女らの苦境に救いの手を差し伸べるように銀行に呼びかけるかもしれない。
多国籍企業から環境を守ろうともするだろう。
そして、国民に発言の機会を与えるだろう。
キングが生きていたら、という私の想像にはキリがないのでこのあたりにしておくのだが、
キングが生きていたら、
今や聞き慣れてきてしまった自らの利益を図るような言葉とは違う国民の声が、聞けるはずである。
確かに、キングの
「愛は敵を友人に変えることのできる唯一の力である。
憎しみに憎しみで応じていては、決して敵を一掃することは出来ない」という言葉は、現実的ではないように思える。
しかし、キングは実践的なノウハウや心理面の理解、組織化のスキルと理想主義を組み合わせ、その運動は効果を発揮した。
彼の基本的な手法は非暴力の大規模な民衆デモで、その様子は、全米のテレビ画面に映し出された。
眼の前で繰り広げられる受難劇のような行進の様子は、アメリカに潜む人種意識を刺激したのである。
キングは当初から自らが道徳的に正しいことを主張し、その主張を決して捨てることはなかった。
白人の差別扇動家たちは、彼の人間としての尊厳を揺るがすことはできなかったし、短期で攻撃的な若い黒人の活動家たちも、キングに対して明らかに挑発的な戦術を採るように迫ることはなかった。
マーティン・ルーサー・キングは特別な存在だと、私は、思う。
彼の誠実さは、偽善に切り込むことを恐れず、その高潔さは、欺瞞をあらわにした。
また、彼の善良さは悪を辱める、彼の明快な表現は政治の世界だけで通じる意味をなさない言葉たちに打ち勝ったのである。
だが、キングは、彼がいなければ一致することがなかった人々の信条を、本来の意味でのポピュリズムというひとつの幕屋のもとにまとめ上げることが出来たために、エリートと「呼ばれる」一部の人々には特に危険な存在であった。
数の上でも、共同する取り組み方においても、相乗的な力が発揮されていたからである。
キングの暗殺は歴史の転換点となった。
それは、さらに重要となるはずだった、彼のライフワークの第2章が道半ばで終わることになったからである。
キングの道徳的な力は、アメリカのあらゆる領域に存在する不正に及んでいた。
多数の人々を動員する彼の実践的なスキルは、アメリカをもっと違った、より生産性の高い方向に導いたかもしれない。
また、健全で思い遣りのある彼のポピュリズムは、今日のアメリカをある意味支配しているティー・パーティーによる逆行的な偽のポピュリズムに打ち勝って広まっていたことであろう。
包容力のある愛情に根ざしたキングのポピュリズムの影響を受けた世界に、憎しみと搾取、そして分断など入り込む余地はない。
マーティン・ルーサー・キングのような人物の登場は待ち遠しいが、待つだけにしてはあまりに長い時間を浪費してしまいそうである。
なぜなら、彼の登場は1世紀に1度(あるかないか)しかない現象だったからである。
しかし、私たちは、キングを思い出すことで、ふたたび、気持ちを奮い立たせ、彼の手法に学ぶことが出来るのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
朝から暖かい、いやいや、温かすぎるよね......(・_・;)という気温に、驚いています^_^;
何かは着なければならないのですが(→当たり前)、
本当に今年は(→去年も?毎年??、気温のせいにしていますが、今年は特に)服のレパートリーが狭すぎる私は、いきなり気温に変わられても、何を着るのかに困ります^_^;
明日は、また気温が下がるというので体調管理に気をつけたいですね( ^_^)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。