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左から、弟、父、母
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そして20年後
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偶然にも、同じ並びで、弟、父、母
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そして、今日(9月25日)
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家族葬
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母と義理の妹
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私が写真を撮るとなぜか笑ってくれる母。
無事、色々と終了いたしました。
実は9/21に父が他界しておりました。
翌日9/22、中根さんだけには、お伝えして新木場練を走っておりました。
私の父親はとっても我慢強く、頑張る人でしたので、9/22の新木場練は父親に見習って最後まで頑張りました。
半分は、お仕事ですので。

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おかえりなさい「おとうちゃん」
49日の法要の為、今年一番の目標としていた「ツール・ド・おきなわ」行きをキャンセル致しました。
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9/25
本日はお忙しい所、また遠路にも関わらず、父、倉本三郎の告別式に御会葬くださいまして誠にありがとうございました。
こうして多くの方々に最後までお見送り頂き、父もきっと喜んでいる事と思います。
ここからは、「おとうちゃん」と呼ばせていただきます。
古くからお付き合い頂いている方は「サブちゃん」と聞いて下さい。
「おとうちゃん」の「孫」は「おじいちゃん」と聞いてください。
「おとうちゃん」は、とにかく子供の為に、一生懸命に、真面目に人生を送った人でした。
私が小学生に上がる前には「おとうちゃん、一緒に寝ていい?」と勝手に布団の中に潜り込んでは朝まで一緒に寝てくれました。
現在の千住元町の自宅を建てる時⇒私が、小学校に入学する時にはワンボックスカーにボットン便所が付いたぐらいのバラック小屋で家ができるまで2人で暮らしていました。
その時も「お父ちゃん」の布団で一緒に寝ていました。
小学1年生になって2階建ての家が出来てからも、たまに「おとうちゃん、一緒に寝ていい?」と「おかあちゃん」との夫婦生活を邪魔しに布団に潜り込んでいました。
優しく抱っこされて、良く眠れたことを覚えております。
優しい「おとうちゃん」でした。
ただ、金銭感覚には厳しかったです。
お小遣いは1日30円で、1週間分の210円を渡され、「足りなかったら、次の週まで我慢しろよ。」といった感じの人でした。
おもちゃは、買ってくれませんでした。
お金を貯めて、自分で買うという癖が自然と出来上がっていきました。
私が自己管理をできるようになったのも、この厳しさがあったからだと思います。
優しさゆえに、厳しい「おとうちゃん」でした。
私の少年野球時代は、野球友達にアイスを買ってあげたりしていて「貧乏なのに大丈夫か?」と子供ながらに心配したり、ヤキモチを妬いたものでした。
年に1度、問屋さんに行って「くじ引き」でおもちゃを貰うことが小学生低学年の頃はとっても楽しみでした。
呉服屋を営んでおりましたが、晩年は夜の警備員との掛け持ちで仕事をしていました。
私が商売を始めるにあたり、呉服屋を閉め、お店を貸してくれると同時に「孫」の面倒を見てくれるようになりました。
「おとうちゃん」のおかげで「4人の孫」は全員、成人してくれました。
3人は立派な社会人として生活できているのも「お父ちゃん」のおかげです。
あと1人は薬学部に通っています。
ず~っと、お給料は上げていましたが、他に何もしてあげられなくてごめんね、おとうちゃん。
これからは、残された家族「ちから」を合わせて、「おとうちゃん」の意思を受け継いで参りたいと思います。
今後とも今まで同様に、ご指導とご鞭撻をお願い申し上げまして、御礼のご挨拶とさせていただきます。
本日は誠にありがとうございました。
喪主 倉本佳明
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涙が止まらなくなったので、セールは明日のブログにて。