My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

My Sight Seeing in Cebu]

2007-05-20 21:41:40 | Weblog

フィリピンの南部には島がいっぱい。
マニラから飛行機乗換えて、レイテ島の隣、セブ島にリゾートしたことがある。
10年ほど前のことではあるが。

飛行場からホテルまでは送迎バスで30分ほど。
10分ぐらい走ったところで人家が見え出し、バスはその中を通り抜けていく。
日が暮れかけ、人家に灯りがつき出して、家の内部がバスの車窓からはっきり見える。
皆一様に小さな粗末な平屋建て、裕福とは言い難い様子の生活。
それまでアジアへの旅行は台湾、韓国、香港のみで、しかも街中の観光。
前年にミクロネシアのロタ島で初めてリゾートなるのを体験して、それなりに楽しかったから、着いて真っ先に目に入ったこの光景にちょっとびっくりした。

そこを通り抜けるとホテルで、入口にガードマンがいて、ゲートを開ける。
ホテルの客室前は、旅行パンフによるとプライベートビーチという、海。
その海岸から幅の狭い桟橋が沖合に向かって続いていた。
「着いたー。みんな、ちょっと海を見にいこ」というノリで夜の海に出て、真っ暗な中、桟橋を歩いていった。
途中、かすかなライトが灯っているボックスにはガードマンがいた。
大きな銃を持って。

翌日、プライベートビーチの海は狭くて、シュノーケルをするには適切でなく、
プライベートビーチから出ると、海の自然条件が危険というより、ビーチ付近での治安上の問題の方が大きいということが分かった。
桟橋のガードマンも、夜に沖合いの桟橋に舟をつけて、ホテルに侵入してくる窃盗の見張りだったらしい。
しかたなく、シュノーケルができる島へのツアーを申し込む。
説明のときに、係の人が「途中、何があっても大丈夫ですから、心配しないでください」みたいなことを付け加えていた。

ツアー客は私たちを入れて日本人ばかり10名ほど。
目指す島が前方近くに現れ、その周りはサンゴ礁が太陽に反射してきらきら輝いている。
「さすがにここまで来たら海の色も違うね」と、喜んでいたとき、船が止まった。
それまで景色に見とれて気がつかなかったが、3,4艘の小さな舟が私たちの船近くに寄ってきていた。
「この船、あの島につけられへんから、乗り換えるのかな」と友人が言っていたとき、
周りを取り囲んでいた舟から、私たちの船に男たちが乗り込んできた。
みんな眼光鋭く、こわもての顔つき。
そして、片言の日本語で「ミヤゲモノ、アルヨ」と手にした貝殻細工や何やらをかざした。

なんやみやげもの売りかと、なんでこんなとこでとうんざりしたが、船は一向に動く気配がない。
しかも引率の男の子二人は、海に飛び込んで遊び出す。
男たちとは合意の上、これが何があっても大丈夫ですからということだったのだ。
それからみやげものを売ろうとする男たちと、買わない私たちの間で、気まずい、沈黙気味の30分間ほどが過ぎた。

結局誰も何も買わなかった。
男たちは引き上げて、船は動いたが、島に着く前に、予期せぬ訪問者で私はすでに憤慨していた。

島は30分も歩けば反対側の海岸に出るぐらいの小さな島。
島の内部を通ってビーチまで行くのだが、またもやここでもその生活を覗き見ることとなった。
ホテルの回りの家より、更に小さな家が点在する。
生活用水の大きな甕(カメ)が置いてある家もあった。後で本を読んで知ったのだが、大きな甕のある家は、島ではお金持ちになるのだという。

ここらあたりから、リゾート気分が吹っ飛んできていた。
リゾートをエンジョイしに来ているのに、なんでこんなやりきれない気分にならないといけないのかと。リゾートなら現実的なノイズには触れたくない。
それに輪をかけたのが、ホテルの従業員たちの、明るく、フレンドリーとはいいがたい表情だった。なんか日本人にうんざりしているようにも思えたのだ。
同行者の中でインドを旅したことのある人が、「インドの方がもっと貧しいけど、表情は明るかったよ」と言っていたのが、印象に残った。

当時、セブ島は日本で人気のリゾート地だったように思う。セブに現地工場を持つ日本企業もある。
私たちの滞在中に限っていえば、ホテルで西洋人を見かけなかったし、日本人旅行者ばかりだった。
バブルの最後期あたりで、お金を持った日本人が大挙して押し寄せた後だったのかなとも。その日本人たちはどんな行状だったのだろうかと引っかかった。
船に乗り込んできたみやげ売りにしても、日本人なら買うだろうという雰囲気だったし、ホテルでも、ウエルカムという感じではなかった。

友人の事務所の社員旅行に仲間が加わって、毎年3泊ぐらいであちこち近場に海外旅行していた私たちはケチケチ旅行だったので、利用するのはホテル付滞在フリー型激安パックツアーばかり。
「安もんのリゾートするからや」とはなった。
しかし、西欧人とは違って、同じアジア人として、厳しい生活環境のすぐ側でリゾートを楽しむには、つわもの揃いのおばちゃん引率ツアーといえども、タフな精神がいるようで。
以後、リゾートは沖縄に落ち着いた。




有楽町 シネカノン

2007-05-13 20:47:23 | Weblog

「ボンボン」と「パッチギ!LOVE & PEACE」

有楽町シネカノンでアルゼンチン映画「ボンボン」を見た。
幸運に見放されたようなおじさんが、白い大きな犬・ボンボンをもらい受けたら、それから少しずつよいことが起こり出すという、犬の恩返しストーリー。
ブルドッグのシワをなくしたようなボンボンの顔は、思わず微笑んでしまうような愛嬌とペーソスがあって、パタゴニアの広大な自然をバックに、心安らぐいい映画だ。

シネカノンは代表である李鳳宇さんが、自分の映画鑑識眼でもって始めた配給会社。
「月はどっちに出ている」の製作・配給で成功し、韓国映画配給のパイオニアでもあり、その後に起きる韓流ブームが追い風となって、今や事業は拡大の一途。
‘93年の韓国映画「風の丘を越えて・西便制」がシネカノン最初の韓国映画配給だが、私が韓国映画を見出したのはこの映画がきっかけだった。
映画は口承芸能パンソリの唄い手である義父に指導を受けながら、旅芸人の生活を続ける義姉弟の話で、エンドロールで流れるパンソリに圧倒された。
当時はまだ今のような韓流ブームの影すらなかった。だからこの映画がシネカノンの配給と知って、マスコミでも取り上げられるようになった李鳳宇さんの控えめな物腰にも好感が持て、シネカノンに注目するようになった。

そのシネカノン主催の試写会で、「ボンボン」の後に公開されるシネカノン製作「パッチギ!LOVE & PEACE」を見た。
前作の「パッチギ!」は、60年代後半の京都を舞台に、在日朝鮮人の女の子に恋をしてしまった日本の男の子が、自分が在日の人たちのことや、なぜ「イムジン河」のレコード発売が中止になったのかなどを、何も知らなかったことに気づく。男の子の淡い恋心に、日本の高校空手部と朝鮮高校の番長一派との対立を絡めた青春熱血映画で、松山猛の原作をベースに、井筒和幸が監督した。
この映画を見終わったとき、私と友人3人は拍手してしまったぐらいだった。
ちょうど同じ時代に、在日の人たちが多い大阪や京都で青春時代を過ごした私たちには、時代の雰囲気もビビッドに伝わってきた。映画の男の子同様、私もまた何も知らなく、知ろうとしなかったことに気づかされた。

しかし、「パッチギ!LOVE & PEACE 」。
シネカノンに無料で見せてもらって言うのも何だが、
説得力に欠け、プロパガンダっぽい台詞のシーンには閉口した。
駄作なら「おもしろくなかった」で普通済ませればいいのだが、この映画に限り、見終わって何か釈然としない。
前作がよかっただけに、日本人と在日の人たちとの関係を扱っているだけに、
「こんな表現で出してくれるなよ」と、文句のひとつも言いたくなるのだ。
そのためかどうか分からないが、サイト映画レビューを見ると、すごく盛り上がっている。みんな文句バシバシ、ほとんどが☆ひとつなのに、こんなに書き込みがある映画もめずらしいのではないか。

それよりも私は、ご自身も在日の立場である李鳳宇さんが、製作、プロデュースをしたこの映画の出来についてどう思っているのだろうかと気になった。
シネカノン配給の映画ならという信頼みたいなものがあっただけに、なおさら。
これなら「ボンボン」を引き続き上映していた方がいいと思うのだが‥‥。






秋葉原 路上販売

2007-05-06 17:14:53 | Weblog

先週のブログに紹介した築地観光から、秋葉原へと足をのばしたときのこと。
ジェニーさんと私は、観光どころではないトラブルを引き起こしてしまった。
原因はけっこうな人だかりがしていた路上販売。

覗くと、紙に描かれた人形が、「立って」「こんにちは」と売り手の男のかけ声で自在に動いていた。
その前には「これは手品です」の張り紙があった。
孫のお土産が念頭にあったジェニーさんは、俄然興味を持つ。
「何で動いているの?」、私が男に聞くと、
「これは手品で、コンピュータのチップとかが付いているわけではないですよ」と言う。
こちらの質問に答えているわけではないが、それ以上突っ込まなかった。

ビニール袋に紙の人形が入って1000円。
袋の上から人形の首の辺りを触ると、仕掛けのような何かが入っている感じはする。
何かなと思案する間もなく、彼女は買ってしまった。
「中に説明が英語でも書かれていますから、よく読んでくださいね」と男は言った。
ここがポイントだったのだが、そのときは気づかなかった。

立ち去ろうとしたとき、女の子が私たちの側にやって来て、小さな声で何か言った。
何を言ったのかはっきりと覚えてないのだが、多分に察知できた。

「むむ、やっぱり」。何か嫌な予感がしてたんだよね。
でもまさかジェニーさんが買うとは思っていなかった。
で、私はその場で袋の封を切って、男に向けて
「これ、ここで動くようにしてくれない」と言った。

「説明書読めば分かるから」と、取り合おうとしない男。
今ここでしてもらいたいと、なおも食い下がる私と押し問答になった。
しかたなく男が「はい、動かしますよ」と、買った人形になんらの手を加えることもなく、見本の人形との定位置を入れ替えると、見本は動かなくなって、買った人形が動いた。
それから私たちに人形を返す。
「これやったら、元のままやんか」、子どもだましみたいなことしてと思いながら言った。

更になぜ動くかを聞こうと追求していると、明らかに客ではない男二人がやって来て、すぐに立ち去った。
その後、男は「もうおしまいだから」と周りを取り囲んでいた客たちを追っ払ったが、客の間に立っていた男一人だけが残っていた。
そして私たちに、「手品だといったでしょ。今、種明かしをするから」と。

手品と断っているのだから仕掛けがあり、それを知れば「なあんだ」で、それが説明書に書かれているというわけで、こちらが勝手な思い込みをして買ってしまい、おまけに封まで切ってしまったのだが、
それでも「それじゃ4歳のお孫さんが一人で遊べないじゃないですか」と、他の日本人同行者も加担する。
ジェニーさんも一緒になって英語でなんだかんだと言っていたら、
立っていた相棒の男が、
「この人どこの国から来たの」と私に聞いた。
「イギリス」。
「アメリカ人は喜んで買ってくよ」。
「ごめんなさいね。イギリス人って、とてもシビアなんですよ」と、シビアを強調する私。

そこへ1000円札を広げて手にした別の男がやって来て、客が立つ位置にヤンキー座りした。
それをジェニーさんは客と勘違いしたらしく、その男のところに行き、「あなた買うなら私のを買ってよ」みたいなふうに詰め寄った。
その男が合図だったのかは知らないが、相棒の男が「お金を返したら」と、売り手の男に声をかけた。

というわけで、お金は戻ってきた。
普段なら1000円のお勉強代と諦めただろうが、今回に限り国際問題と、私は即、反応してしまったのだが(私のことを知る夫や友人は違う見解であったが)、ジェニーさんは「これはprinciple(道義、主義)だ」と言っていた。
確かに、ちょっと怖かったけど、納得のいかないことに抗議した爽快感はあった。

だが、男たちがお金を返しそうな段階にきたとき、ジェニーさんは私にウインクを寄こした。
談判の途中から、私は私で、彼らは日本人の客なら取り合わないだろうが、おばさんで、西欧人が英語でまくしたてていて、それを長引かすのと、客を呼べないリスクを考えれば、お金を返すのではないかと踏んでいた。
彼らもしたたかではあるが、おばさんも人生経てきて、日本も外国もたくましくはある。
秋葉原のしたたか合戦は、日英同盟の勝利となったのであります。





築地 築地市場

2007-04-30 14:02:35 | Weblog

観光来日の5W会員ジェニーさんは食関係の仕事のため、築地市場を見たいとの希望で、案内することになった。
案内といっても、私も今まで行ったことはない。

築地市場といえば魚河岸。
セリ売りは午前5時ごろから始まるらしいが、仕事の取材ならともかく、観光案内で4時起きはかんべんしてもらいたい。
そこで、10時ごろのこのこと築地市場の門をくぐる。

ダンボールの山が並ぶ青果部門を横目に場内市場へと一目散。
近づくに連れ、ターレット車と呼ばれる三輪自動車が煩雑に行き交っている。
ドラム缶にハンドルを装着したような一人乗り三輪自動車に、黒のゴム長にゴム前掛け姿の男性が乗っている。そこにリヤカーや小型トラックも行き交って、部外者がボヤーと歩いているとぶつかりそうになる。
のんきに観光気分でやって来たが、ここは仕事場なんだと思わせる緊張感が漂っている。
この緊張した雰囲気のせいか、忙しそうに働いている男性たちが頼もしげで、自分の仕事に一生懸命そうで、活きのいい職場のせいか、魅力的に見えた。
電車の中でくたびれた様子で眠っている背広姿の男性だって、仕事をしているときは颯爽としているのかもしれないが。
それでもこの時間帯は一仕事終え、そろそろ店じまいの準備のころで、仕入れにやって来る街の魚屋さんや料理屋さんなどで最も混雑するのが8時ごろとか。

市場の狭い通路沿いに仲卸業者の店がびっしり並んでいた。
観光丸出しで物珍しそうに歩いていると、ジェニーさんを見て
「どこから来たの?」と店の中から声がかかる。
「イギリス」。
「あー、ベッカムね。もっと早い時間に来なきゃ」。
そう、築地市場ではせり売り現場を見なきゃね。すごい迫力なんだろうな。
そこで競っている姿はもっと魅力的かも。

ジェニーさんは築地市場に隣接の場外市場で、お土産に寿司のりとワサビを買った。
昨晩我が家で出した手巻きすしが気にいって、帰国後、寿司が好きな息子のために手巻きすしパーティをするといっていた。
140円のチューブ入りワサビは、ロンドンのハロッズでは2ポンドするとかで、すごく喜んでいた。
いずこも主婦感覚は同じようだ。




田原町 かっぱ橋道具街

2007-04-22 12:26:33 | Weblog

浅草通りと言問通りを南北に結んで全長約1Kmに、飲食用具のことならなんでもおまかせの専門店がひしめく道具街。
調理器具や厨房設備、食器、看板など、本来プロ向けなのだろうが、個人売りもしている。海外でも評判の食品サンプルを扱う店には、外国人観光客の姿が。

私は’ところ天突き’を探してここにやって来た。
細長い木製の囲いの先に、3ミリ四方ぐらいの網目が張られ、中に寒天を入れて付属の棒で押し突くと、寒天がスルスルとところ天になって出てくる用具である。
昔からあるものだが、今はスーパーやデパートに行っても、そんなレトロなものは販売していない。

テレビや雑誌でブレイクした寒天健康法にはまった友人が、寒天に黒蜜をかけて食べていたのを横から味見したら、おいしかった。
海藻が原料の寒天は低カロリーで植物繊維が豊富でと、成人病予防や改善だけでなくダイエットにも効果があるという。
私は痩せているのでダイエットとは無縁なのだが、そのときいただいた黒蜜の自然な甘さと、さっぱり味の寒天との調和が後味を引いて、これで健康にもいいならいうことないと、作るようになった。
黒蜜は「沖縄・波照間産の無添加黒砂糖から作るのがベスト」と言う友人に従って、去年那覇の国際公設市場で買い込んだ。

寒天を切って食べているうちに、ところ天のような形状にした方が、口あたりがよくてもっとおいしく感じるのではないかと思いだした。

かっぱ橋道具街入口を入って、最初の調理器具店で聞いてみる。
「ああ、天突きね。ありますよ」と、店員は店の奥にどんどん入っていく。
食器や鍋やらがこざっぱりと陳列されている店の入口と違って、奥に進むほどプロしか使わないのではと思えるような調理器具の倉庫状態。
その中に埋もれて、ところ天付きは、あった。
さすが道具街、1件目で発見だ。

ところ天状態にした方が、と思いつくまで忘れていたのだが、
大阪ではところ天は酢じょう油でなく黒蜜で食べる。
酢じょう油をかけると、料理の一品のようで、
東京に住むようになったとき、甘味処で酢じょう油のところ天があるのが不思議だった。
酢じょう油で摂取する方が健康にはよいかもしれないが、
今のところ健康より味覚優先で、寒天に黒蜜たっぷりで食べている。

果たして体にいいのか、わるいのか。
それでもところ天なら黒蜜だけでいただける。
これが寒天を四角く切って黒蜜を流し込むと、さらにハーゲンダッツのアイスクリームと小豆あんを入れたくなるので、それよりはいい。




5W受け入れ記 in Kyoto

2007-04-16 14:24:33 | Weblog

私が参加している5W (Women Welcome Women World Wide 、詳細は当ブログ2月4日神宮前オリエンタルバザーの項)のイギリスからのメンバー3人が、東京、京都観光にやってきました。
私はちょうどその前後、法事で大阪にいたので、京都の鞍馬、修学院離宮の2日間だけ同行。日本メンバー3人と、日本メンバーの友人で日本滞在10年のアメリカ人女性と、総勢7人で桜満開の京都紀行しました。

私たち日本人はイギリスとついひとまとめに言ってしまうのですが、
彼女たち3人は、国籍を聞かれたときは「Britain」と言い、そしてイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを総合してブリテンと言うのだと熱心に付け加え、さらに私たちは「スコテッシュ」であると念を押します。
そこになみなみならぬ決意というか、歴史というか、反イングランドの気配を感じるのは私だけでしょうか。
彼女たちは特に政治的人間というわけでなく、ごく一般人です。
アイルランドの歴史に興味を持つまでは、the BritainイコールEnglish manと単純に思っていたのですが、ヨーロッパは民族意識が強く、複雑です。

スコットランド人一行のうち、アンさんは去年に2日間だけ初めて日本に立ち寄り、そのとき宿泊ホテル近くで、今回の私たち日本メンバー3人とランチしました。
日本は清潔で人々がrespectし合っていてとてもいい、来年は母を連れてくるとのことで、今回は本当に78歳のお母さんといっしょの来日でした。
彼女の来日目的の第一が鞍馬山に行くことで、ヨガや東洋医学に造詣の深い彼女にとって、鞍馬山は宇宙エネルギーが満ち満ちている霊的な場所として、憧れの地であったらしい。
アンさんはエネルギーをすごく感じたと言っていましたが、私は北山杉のメッカで、納まっていた花粉症をすごく感じて、その日から数日悩まされました。

京都宿泊は日本メンバーの友人の伝統的日本家屋で、御点前を披露していただけるというとてもラッキーなめぐり合わせ。しかもその家は修学院離宮から徒歩5分。
昭和初期頃に建てられたらしい貴重な日本家屋のシンプルな美しさと、日本庭園の落ち着き。こういった伝統的な日本家屋はこれからはもっと見出しにくくなるかもしれない。
主は東京に住み、お茶の先生をしていて、毎月京都に帰って、両親の残した家を守り、夫がリタイア後は京都に戻ると、さすが京都人。
彼女の献身的なホスピタリティ精神のおかげで、御点前を体験、着物を着れて、畳に布団でと、一行にとって初体験づくしの京都でした。

道中、タクシーに乗ったとき、運転手さんが
「京都は電鉄それぞれの連結が悪うてね、不便なんです。保守的やから何か作るいうたら何でも反対でね。それでも革新的なことは京都から始まってることが多いんですよ」と、下げてもちゃんと上げることを忘れない。
「でも京都駅なんかいい建物ですよね」と建築家のメンバーが口を挟む。
京都駅建設にも当然のこと反対があったという。京都タワー建設のときも猛反対があったのに、今では京都駅より古いということだけで、京都人は京都タワーの方が許せるらしいとか。
「駅の外観がね。もっと京都らしく建てたらよかったんです。ああいう外観は東京や大阪に任しといたらええんです」と運転手さん。

京都は学生さん以外のよそ者にとって、住みにくい街とよくいわれるが、
私ははるか昔、それも承知の上で、一度は住んでみたい憧れの街だった(今は住みたい街1位は沖縄だが)。
「東京だからお茶の先生できるの。京都は家元がいてはるからね、私なんか教えられないのよ。お道具だけでもいい物揃えるのに三代かかるからね」とは先ほどの彼女の弁。
確かに京都はステキですが、歴史的厚み、民度、文化度が完成されている街は、一筋縄ではいかないようで、そこがまた味わいでもあります。


さて、比叡山の麓、東山連峰の山裾に造られた修学院離宮は、やはりすばらしい日本美を誇っていましたが、「桂離宮はもっとすごい」という声も。これよりすごいとはどんなのだろうと、紅葉は桂離宮へと目指したいです。





外苑前 青山墓地

2007-04-01 09:20:23 | Weblog


今年もまた桜の季節が巡ってきた。

数年前まで花見といえば、友人の会社が主催するここ青山墓地での夜桜が恒例だった。
花見の宴を張る場所は、広い墓地の中でも桜が多く、幅広い通路のある一角で、朝から場所取りが行われる。
夕刻から仕事を終えた人たちが集まり出して、それぞれ派手に宴会している。
鉄板持ち込んでやきそば、コンロ持参で焼き鳥と、料理も人も溢れ返って、
それを盛り上げるかのように、この時期だけ通路にライトが点く。
当然回りは墓石に囲まれているわけで、そちらは薄暗がりだ。
場所を取れなかった少人数組が、通路から外れた墓石の横、暗がりの中で座っているのを見たときは、さすがに花見とは思えない光景だった。

吉祥寺・井の頭公園の桜も優雅だが、こちらの花見は若者が多くて騒がしい。
知り合いのポーランド人女性は、井の頭公園が借景のマンションに住んでいる。
日頃は静かな場所なのに、花見シーズンは毎年うんざりするらしい。
日本人男性と結婚して、すでに日本での暮らしの方が長いのだが、
日本社会、日本人、日本文化に独自の見解を持つ彼女。
ポーランド人が2人よれば、3つの意見が出るといわれる国民性だとかで無理もないが。
そんな彼女が、桜が咲いたからといって酒を酌み交わす日本人の気持が分からないという。
自宅ベランダの前方で騒音を撒き散らす、迷惑以外の何ものでもないのだろう。

あるとき私が何気なく「昨日は青山墓地で花見だった」と彼女に言ったら、
びっくりして、「お墓でしょ。人が眠っているのよ」と。
『まったく、日本人のすることは信じられない』とでも言いたそうに、あきれ返った表情。
桜を愛でることは理解できても、お酒を飲んでのドンチャン騒ぎを、しかも墓場でというのが、
信仰心の厚い外国人の彼女に理解できないのは、最なことだろう。
桜ほど、時の流れ、人の移り変わりを感じさせる花はないが、
その日本人的心情は、外国人にとっては異文化かもしれない。

「でも、お墓の下にいる人たちも喜んでると思うけど」と私は彼女に遠慮がちに言った。
人間ウオッチングの好きな私がお墓に入ったとしたら、
どれほど美しくとも桜だけ見ているのはもの足りない。
飲んだくれていてもいい、生身の人間も見ていたいと思うのだが。



(来週日曜のブログアップはお休みします。)









広尾 ぼちぼち

2007-03-25 20:47:29 | Weblog


ここは、週刊誌が「東京・天現寺で繰り広げられるお好み焼き戦争」として紹介していた7店のうちのひとつ。
東京でお好み焼きの激戦区?と信じられなかった。
たこ焼きやお好み焼きの大阪名物が、東京でも認知されてきた今日この頃ではある。
しかし大阪出身者としては、貪欲に探せばあるのだろうが、今まで東京でおいしいお好み焼きに出会ったことがなかった。
東京でよく見かける大阪本店の「ぼてじゅう」。
ここのは本体が固くて(小麦粉が多過ぎ)、
あれが大阪のお好み焼きと思われるのは心外だ。

大阪は一坪の空地があると、緑を植える代わりに、お好み焼き屋やたこ焼き屋ができると言われる土地柄である。
しかも、大阪人はうるさい!、味と値段に。
で、まずは行ってみる。
7店のうちからここを選んだのは店名からで、
おまけに店の外には「やいてまっせ」の立看。
シビレルなー。

四国を舞台にして、女子高生ボート部を描いた映画「がんばっていきまっしょい」で、
女子高生たちが学校帰りにうどん屋に入るシーンがある。
そのさりげなさが、なるほど、四国ではやっぱり‘さぬきうどん’かと納得がいった。
マクドナルドなんてまだなかったころ、
大阪で女子高生が学校帰りに寄るのがお好み焼き屋だったからだ。
でも私が通っていた女子校は、思いっきり厳しい校則のミッションスクールで、寄り道は厳禁だった。
それでも学校から2駅離れた繁華街に寄り道して、よくお好み焼きを食べた。
ある日、学校から一直線の距離わずか約300mのお好み焼き屋で鉄板を囲んでいた。
大阪ならどこの街にもある、おばちゃんが一人でやっている小さなお好み焼き屋。
そこの引き戸がガラッと開いて、同級生が「センセイ、来るで」と言ってくれた。
女子校には先生にチクルご忠臣女子もいたが、校則違反組にシンパシーという女子もいたのだ。
「どないしょ」と一同浮き足だったとき、
間髪を入れずにお好み焼き屋のおばちゃんが一言。
「裏から逃げ」。

さて、ここの味だが、私の中でベストのお好み焼きぐらいにおいしかった。
これぞ本場の味、いや大阪でもそうそうないかもしれない。
甘さを感じるけど甘ったるくない抜群の特製ソースや、小麦粉を溶くだし汁などは大阪からの取り寄せ、
キャベツは普通みじん切りだが、ここは千切りとミックスさせていると(そのためうま味が増している)、
広尾は開店6年目だとかで、都内にチェーン店17店舗、俳優伊原剛志がオーナーでと、
友人と二人、大阪弁で話していたためか、九州出身の店長と大阪出身の店員が次々と話してくれた。
お好み焼きとは関係ないけど、ガールフレンドが私と同じく上記の女子高出身だったとか、
店側と客のこの気さくなやりとり、これこそが大阪の味といえる。






南青山 岡本太郎記念館

2007-03-18 10:19:48 | Weblog


ここは岡本太郎が1996年84歳で亡くなるまでのアトリエ兼住居だ。
1953年から暮らしてしていたという。
随分いい場所に住んでたんだなと思うが、
岡本一平・かの子・太郎が戦前から暮らしていた地というから、
南青山といっても当時は普通の住宅地だったのだろう。

現代アートに疎くとも岡本太郎はよく知っていた。
名前だけ、顔だけは。
あの日本万国博覧会で太陽の塔を創ったへんな人として。

「人類の進歩と調和」がテーマの日本万国博覧会は、1970年大阪・千里で、
高度経済成長真っ只中の日本での一大国家イべント、だったらしい。
当時、地元大阪での開催だから何度か訪れたが、いったい何を見てたのだろう。
♪コンニチハ、コンニチハ♪と三波春男が声高に歌っていた万博音頭同様(まさかあれがテーマソングだった?)、外国人がやたら多いお祭りみたいな印象しかない。
それでも大阪万博といえば、真っ先に浮かぶのが岡本太郎の太陽の塔だが、
へんなもん作ってんな、という感じしかなかった、そのときは。

太陽の塔の内部は、「生命の樹」というパビリオンになっていたことも知らなかった。
内壁は真っ赤なウロコ状で、そこに生物進化の過程を表す大小299体の模型がちりばめられ、電子制御装置によって精巧に作動していたという。
模型制作は円谷プロダクション、音楽は黛敏郎が担当したと記載されている。
写真で見る限り、あっけらかんとしたオブジェの外側とは大違いの、神秘のジャングルのような迫力だ。
37年の時の風化を経てもいっこうに古くなっていない。
むしろテーマの‘進歩’のみ目立った万博当時より、‘調和‘の必要性が求められている今の方がマッチしているかもしれない。

太陽の塔は今も残っているが、内部は封印されてしまった。
ところが、2003年、33年振りに一般公開された。
多くの展示物は撤去されてしまったが、恐竜や三葉虫など一部がそのまま残っており、
動いていないエレベーターやエスカレーターもそのままだったという。
まるで廃墟のようではではなかったろうか。
万博当時にリアルタイムで見なかったのが残念だが、封印が解かれた生命の樹の趣も格別に違いない。

で、ここ記念館に入って、二階の壁一面に張られた岡本太郎の顔写真の目に驚いた。
異様に鋭いというか、突き抜けたというか
狂気を秘めたというか、哀しげというか、
心ここにあらずのようで、本質を見据えているようなというか、
何より岡本太郎の目が爆発している。





新宿3丁目 新宿バルト9

2007-03-11 09:37:23 | Weblog

新宿東映映画館跡地に建てられたビルにマルイシティ1が入っているが、その9階から13階は、2月9日にオープンしたシネコン。
最多433席から最少70席まで、なんと9シアターが入っている。
全館デジタル映写機導入という最新の設備だ。

オープニングを飾る上映のひとつが「ドリームガールズ」。
60年代に活躍した女性ボーカルグループ・シュープリームスを題材にしたミュージカルの映画化で、圧倒的熱演と評判のジェニファー・ハドソンが、先ごろアカデミー女優助演賞を獲得した。

で、水曜日のレディズ1000円サービス・ディに行くと、レディズは実施されてなかった。
代わりに、平日午後3時から6時までの間に開始される特定作品に限り1200円という。
200円という微妙な上げ幅と時間の条件に感心しながら切符を買う。
全席指定なので上映時間近くになると、チケットコーナーに列ができていた。

9階ロビー・チケットコーナーは10階まで吹き抜けで、らせん階段の先にバルコニーが設置されている。
これがちょっとレトロな感じの、趣きのある空間なのだが、初日舞台挨拶やライブイヴェント用らしい。

この日早めに来たので上映時間までちょっと間があった。
でもせっかちな私はとっとと13階の劇場に行く。
と、パウダールームや喫煙室はあれども、どこにもイスがない。
まるでホテルの客室通路のようだ。
仕方がないから、10階にあったカフェに入る。
劇場側としてはカフェに入れということなんだろうが、別にコーヒー飲みたくない。でも座れる場所はここだけだ。
しかし、細かいことを言うようだが、
カフェのジャイアントポップコーン150円なのにコーヒー400円は矛盾してない?。
何かと深遠配慮の劇場側。

映画はというと、危惧した通り、ミュージカル仕立てだった。
ミュージカルの映画化だから当たり前なのだが、音楽映画は好きだが、ミュージカルが私はいまいち入り込めない。
R&B音楽が、シュープリームスが大好きで、映画評も絶賛だし、今回はちょっと違うかなと期待があった。
冒頭部分やステージの場面はすごくわくわくさせられるのだが、ストーリーが入り出して、状況や心境を歌い上げるパターンになると、私の中でテンションが下がる。
やはりシュープリームスのヒット曲をちりばめて、前編R&Bのリズムでと思う方が無理なのかも。
そう思わなければ十分に楽しめる映画だろう。

映画ではシュープリームスの、ポップスを取り込んだ音楽やソフィケイトされた歌い方が、白人の間で受け入れられていく過程が、大雑把ながらも描かれている。
それまで白人と黒人では放送局も違って、音楽のジャンルも違った時代、個人的嗜好では、そこらあたりにもう少し軸を置いて、スパイスを効かせてほしかったが、そうなるとモータウン・レコード物語になってしまうか。
ジェニファー・ハドソンは主演女優賞ではなかったの、と思えるくらい主役を食っていた。熱演が過ぎて、ちょっと肩と声に力が入り過ぎ。
ダイアナ・ロスを演じた主役ビヨンセ・ノウルズが、ダイアナ・ロスのあの迫力とアクの強さには及ばないけど好演だった。他にエディ・マーフィーも。

座席はすこぶる快適で、劇場内での飲食もOKだ。
でもこの映画を上映していたシアター9は、座席の中央部分が通路なしで、切れ目なく長く、長く続いている。
これは通路側に座らないと、本編が終了してもエンドロールが終わるまで出られそうにない。
いつも早々と出てしまうせっかちな私としては、今後、通路側席獲得が必須の劇場だ。