My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

六本木 アマンド

2007-03-04 07:49:47 | Weblog

大阪育ちの私が初めて東京に来たのは、大阪、京都、神戸がせいぜいの守備範囲だった青春時代。
そのとき、東京に住む遊び人のいとこが、「新宿なんか怖いよ」と言って、連れて行ってくれたのが、原宿、青山、六本木だった。
そう、東京シティ御三家。

70年代初めころのこれらの街は、今のようにごったがえしていなくて、静かで落ち着いた雰囲気だった。
そして、気配としておしゃれでスノッブな若者が集まる個性的な街という、大阪にはなかったオーラを発していた。
これは地方育ちの青春真っ只中の人間には、マジックのようだった。
別に東京に憧れていたわけでもなかったし、今のように東京案内の本やテレビが多かった時代でもなかったから、知っていたのは原宿ぐらいで、ただなんとなく遊びに来ただけだったのだが。

で、六本木でお茶したのがここ「アマンド」。
地下鉄六本木駅から地上に出てすぐの、六本木交差点角。
六本木は今のように満艦飾の街ではなかったから、ピンク塗りのアマンドはけっこう目立って、
明け方まで営業しているということに、「かっこいい」と思って、
当時よくあった暗い喫茶店でなくて、明るいパーラー風カフェが新鮮で、と。

今なら、なんや不二家のペコちゃんパーラーと似たようなもんや、と思う。
えらい分かりやすいところに連れて行ってくれてんなと。

以来始まった「東京の方がええ」病は、
夫との結婚で東京暮らしが実現するのだが、
大阪を離れるとき、両親に「ほんなら」とあっさり言って、迎えに来た夫の車が動き出した瞬間に、涙が溢れ出して止まらなかった。自分でも以外だった。
夫は少し走って車を止めた。
でも、もう走り出すしかなかった。

そのときから、「大阪の方がええ」病が始まった。
しかし、大阪での歳月より長くなった東京暮らし。
これで大阪に再び住んだら、「東京の方がええ」病が再発するのかな。





吉祥寺 井の頭文化園

2007-02-25 12:58:41 | Weblog


井の頭自然文化園に象の「はな子」がいる。
ひとりぼっちで。

自然文化園という名称だから動物園ではないが、
カモシカやキツネやタヌキといった小動物がいて、
ヤマドリやオシドリやラクチョウなどの鳥類が充実していて、
彫刻館なども併設されている自然文化園で、
なぜか3トンの巨大な象がいる。

しかも象がいるコンクリートのステージのすぐ近くでは、メリーゴーラウンドが回っていたりして、
最初見たときすごく不思議だった。
その組み合わせがのどかというか、船着場の埠頭でアジを釣っていたら、
突然クジラが現れたような感じがしなくもない。

はな子はタイ生まれ、昭和24年に2歳半で日本にやって来た。
戦後始めて日本が迎え受けた象だ。
戦時中に食料がなくなって、動物園の動物維持が困難になって‥‥と、
そんな戦後事情の中で、動物園の花形スターともいえる象は貴重な存在だったい違いない。
2年間移動動物園で都内各地を巡回後、29年からここにいるという。
巡回後というのがすごい。
象の歯は上下左右に4本しかないが(1つの重さ3キロ)、
はな子は上あご両側の歯が抜けてしまって、餌は流動食を日に100キロ。
今年60歳(平成19年現在)の還暦だから無理もないか。

はな子は今でも園内で一番の人気。見物客もいっぱいだ。
「ママより大きいのかな」と幼児。
「もう歳だからシワシワだね」と若い女性
「かわいそうだね、草原かどこかで走らせてあげたいね」とおばさん連れ。

確かに、ひとりぼっちで、狭い住居でちょっとかわいそう。
狭いステージゆえ5,6歩も歩けば行き当たる。
動き回りにくいのか、歩くのが面倒なのか、その場足踏みばかりしていることが多い。
でも、今日まで来園者を楽しませるはな子としての使命を、ここでけなげにがんばってきた。
ありがとね。








続・5W利用体験

2007-02-18 10:57:31 | Weblog


前回に続き5W宿泊記を。

アイルランドのドネゴールに住む5W会員メアリーさん宅に泊めてもらったときのこと。
40歳代後半の彼女は、5Wに入って初めての受け入れメンバーが私だった。
私もまた初めての5W利用の旅。
泊まっていたアイルランド北東部スライゴーのB&Bまで迎えにきてくれた。
東洋人の一人旅宿泊者にうさんくさそうな態度だったパブ&・B&Bの親父が、
ブロンド美人の洗練された彼女を見て、急に愛想がよくなった。

家まで車で30分。初対面のぎこちなさはまったくなく、終始にこやかな彼女。
でも私は英語が堪能ではないから、度胸だけが頼りだから、私なりに緊張している30分。
自宅は、すぐ横がすばらしい眺めの海岸線で、大西洋岸だ。
この海がずぅーと行き着く先はニューヨーク。
アイルランドから多くの人が西へと目指して行った新大陸

不動産屋の夫はポーランドへ城の買いつけ行っているとかで留守だった。
「夫はお金儲けがすきみたい」とポツリ。
この近年アイルランドは景気がいいらしくて(’02年当時)、
たぶんアイルランドの歴史が始まって以来初めての裕福さへの登り状況ではなかろうかと思う。
不動産屋も忙しいのだろう。
息子は学校が遠方にあるのでいないと、広い家はガランとしていた。

メアリーさんは夕食にとサーモンステーキを用意してくれた。
日本人は魚が好きと思っているらしく、どこでも一度は出されるサーモンの食事。
早々に夕食を済ませると、まだ6時だというのに彼女が「パブに行こう」と言い出した。

「え?」と私。まさかパブに行けるとは期待していなかったからだ。
パブは大好きだけど、特にアイルランドでは。
でも一人旅だから夜に外出したくないしと半ば諦めていた。
私がそのことをメアリーさんに言うと、やはり「パブには一人で行かないほうがいい」と言う。
アイルランドはカソリックが強く、けっこう保守的。
エンヤのお父さんがやっているパブがドネゴールにあるので、行きたいのだがと尋ねると、
ここからだと車で30分かかるというので取りやめた。

彼女はいそいそと出かける身支度を整えた。

1件目。東京でもよくありそうなモダンな新しいタイプのパブ。
もちろんギネスで乾杯する。
メニューにスパゲティやピザがあって、カウンターの後ろの棚にはワインが多かったから、
イタリアンレストランぽいパブだった。
イタリア人のウエイターと顔なじみらしい。
客の中からも彼女の知り合いの男性が声をかけてくる。
そういえば通りを歩いているときも、何回か道行く男性が彼女にあいさつをしてちょちょっと話をしていく。

2軒目。広い、広いパブでアイリシュ音楽の生演奏付。
圧倒的に中高年が多く、かなりの高齢者がカップルで来ていたり、身体障害者のグループが車いすで付き添い人たちといっしょに来ていたり、週末だからか、老いも若きも男も女もで満杯状態。フロアで踊っている人も。
パブのような店に超高齢者がカップルで押し寄せるというのは、日本では見慣れない光景でびっくりしていると、
「アイルランドはパブ文化だから」とメアリーさん。

私はアイルランドの民族音楽が好きで、特に小さなパブで、プロではない地元の人が仕事の後に集まって一緒に演奏しているパブの雰囲気は、最高だ。
アイリシュ音楽を流しているパブは、日本語に訳せば民謡酒場になるのかもしれないが、
なんか、雰囲気、音楽は決定的に違う。

この店でも彼女の知り合いがいて、同じテーブルでギネスを。
店の外に出ると、車が列を作って駐車していた。
ナンバーを指差して「これらは北アイルランドの車よ」と教えてくれた。
北アイルランドに近い地域なので、週末になるとパブに来るらしい。
アイルランド紛争が激しかった当時やそれ以前には見られなかったことだという。

3軒目。こじんまりした伝統的なパブ。
地元のお馴染みさんばかりのようで、やはりここでもメアリーさんの友人4,5人が飲んでいた。
中にゴールウエィで英語学校の先生をしているという、私の好きなアイリッシュアクセントがまったくなくて、きれいな英語を喋る男性が、生徒に日本人もいるとかで、
「日本の女の子はみんな、ほんとうにとてもかわいくておとなしい」と。
「でもおとなし過ぎる、どうしてなんだ?」と聞かれてしまった。
多分自己主張をあまりしないということなんだろうなと思ったが、
それをどうしてなんだ、と聞かれたことも考えたこともない。
うーん、どうしてなんだろう?。日本の文化ともいえるが、
「多分日本の男性がそういう女の子が好きだからじゃないですか」と答えたら、
何も言葉が返ってこなかった。
あれは納得したのか、英語が通じなかったのか、意味が分からなかったのか。

この日のパブめぐりは3軒で終わり。翌日もまたパブに繰り出した。
メアリーさん、私と同じく、パブが大好きなのだと言っていた。













神宮前 オリエンタルバザー

2007-02-04 13:34:14 | Weblog


ここは外国人向けおみやげ屋さん。
日本をイメージさせる和のテイストばかりの取り揃えで、
マンガやキャラクターグッズが好きなマニアな観光客にはお呼びでない。
日の丸に神風とプリントされた日本手ぬぐいは日本的でチープでと好評みたいです。

原宿にある明治神宮、太田浮世絵美術館、オリエンタルバザーは外国人向けの観光コースに打ってつけなので、年に1・2回は訪れます。
というのは、私は5W(Woman Welcome Woman World Wide )という非営利団体に登録していて、これはメンバー同士が外国を旅行するときに、互いの家庭にホームスティできる女性だけの組織です。
イギリスに本部があり、現在参加81カ国、2584人が参加。日本人メンバーは108人(’07年1月現在)。

会員になるとメンバーリストが送られてきます。
年齢、趣味、住居形態、宗教、話せる言語など細分化された事項がぎっしり明記されていて、個人情報にうるさい人はびっくりのリストです。
泊めるのが嫌なら「案内だけOK」とも書き込めます。
宿泊を受け入れるのは嫌だけど宿泊はしたいというのがOKかどうかはしりません。

旅行するとき、リストの自己紹介を見て自分に合いそうな人を選び直接連絡し合います。
ルールとして、初めて訪れるときは2、3泊ぐらいまでとし、宿泊は無料ですが何か小さなお土産を持参しましょうと。
宿代わりの利用ではなく友情を深めるという建前です。
英語が流暢でなくても、人や異文化に関心があればすごく楽しめる組織ですし、
受け入れるときは日本のメンバーにサポートを呼びかければ応援してくれます。

初対面の外国人がいきなり家に泊まりにくるわけで、メールでやり取りをしていてもどんな人なのかは会うまで分からない。
でも会員は熟年層が多く、おばちゃんとしての立ち位置はどこの国でも同じ。
ましてこういうのを利用して旅をしようという人は好奇心旺盛で、フレンドリーな人が多いです。

一度だけ変な会員を受け入れたことがありました。
スパニッシュ系イギリス人で、中国からいきなり連絡してきて、来ると自分で作っているネットワークの宣伝しまくりで、日本中の宿泊先を泊まった会員に要請して、苦情が出ました。
ルールとして本人がしないといけないし、宣伝や勧誘は禁止で、直前の宿泊のコンタクトは止めましょうと決められているのです。
結局このメンバーは日本旅行中に強制脱退させられました。
「まあ、こんなこともあるか」と1度ぐらいの受け入れ、あるいは宿泊失敗でもめげないほど、出会いの楽しさはあります。
袖振り合うも多少の縁、が私のモットー。

私はイギリス、アイルランドを旅したときあちこちで会員宅にお世話になりました。
5Wをしらないときは、少しでも家庭に近い雰囲気の宿泊と思ってB&Bを利用していましたが、旅の充実度は比べものにならないです。

イギリスのある街で泊まった会員は家事が好きではなさそうで、クランベリーのロックフェッステバルに行ってきた子どもを羨ましがっていて、「今年は求職中だから行けなかったけど、来年はきっと行く」と言い、夫が不満げに皿洗いをしていました。
「ここは退屈な街で」とぼやくことしきり。
私がロンドンまでの交通機関を探していたら、ロンドン行き(列車で60分くらい)のバスが廃止になったと、そのとき彼女は初めて知ったらしく、
「こんな退屈な街で、おまけにロンドンまでのバスがなくなるなんて!」とインフォメーションセンターの係員に文句を言っていておかしかった。
「ごめんなさい、私は今精神的にとても家事をできる状態ではありません」と書かれた小さなボードをお土産にくれ、今我が家の台所の冷蔵庫に貼り付けています。
すごく自然体の人で、最も印象に残っているメンバーです。

日本人のメンバー同士が集まることもあります。
みなそれぞれの旅行の報告や情報交換で盛り上がること、盛り上がること。
70歳過ぎの名物会員さんがいます。
彼女は毎年3か月間ヨーロッパの5W会員宅を泊り歩くのですが、
何度も訪れている会員宅には1週間ぐらい宿泊するそうです。
彼女が言うには、どこの国がよかったかではなく、会員の誰と仲良くなったか、楽しく過ごせたかでその国の印象が左右されるとのこと。


入会希望者は本部から申込書を取り寄せて返送し、寄付金の形で年会費20ポンド(約5000円以上)を日本の5Wの口座に振り込みます。
興味のある方はこちらまで。
http://www.womenwelcomewomen.org.uk








吉祥寺 北町3丁目

2007-01-28 11:37:27 | Weblog



東京に来て最初に住んだのがここ吉祥寺北町3丁目。
閑静な住宅地に立つ洋館での借家住まいだった。
大家さんのお父さんが、近くにある成蹊大学の総長が昔に(不確か)、アメリカのプレハブ住宅を船で送らせたものを譲り受けたとかで(不確か)、
日本のプレハブから描くイメージとは全く違う大きな本格的な洋館だった。

やはりその昔成蹊大が500坪単位で売ったという大家さんの敷地は1000坪。
木立に囲まれたあちこちにこの洋館を含めて3軒の住居と、
趣味で集めたクラッシックカーが収まった広大なガレージが建っていた。
庭に放り出されていたガタガタのオースチンには犬が寝泊りしていた。

結婚して、夫が住んでいた所がそのまま新居になったのだが、
新居とはほど遠く、この洋館をまるごと借りれるほどリッチな生活ではむろんなかった。
大家さんは洋館をあちこち封鎖して5所帯、屋根裏に1所帯、洋館横に作られた山小屋風に3所帯と、賃貸をしていたのだ。
猫は各家2匹までしか飼わないでくださいとのお達しで、総計12、3匹が常にウロウロ。

建物は空き待ちの借家希望者がいるほど、雰囲気があった。
外観は‥‥。
風呂なし、共同トイレ、古い、汚いと住み心地は最悪だったのだ。
それでも内部は木造の上下に移動する洋窓、高い天井、ロングサイズの木のドアなどどれも趣きがあって、美大出身者が代々借りていたとかで、武蔵野芸術村ともねこ屋敷とも呼ばれていたらしい。
私の友人は‘ゴキブリ館(ヤカタ)’と言っていたが。

成蹊大学横の長く続くけやき並木を辿っていったところに洋館があったので、
付近は緑に囲まれ市街地とは思えないほど最良の地域だった。
私が育った、大阪の下町の、緑はどこに、といった環境とは雲泥の差。

吉祥寺駅からバスで10分ほどのここまで来る道中は、どこにでも見られる街並みである。
この西の学習院ともいわれる成蹊大が、かって広大に領地を確保したおかげで、
周辺の住宅地はいわば東京でよく言われる山の手風ではあった。
洋館の住民以外は。

長男が幼稚園の頃までここでくらしたので、
少しは洋館以外のご近所と付き合いもあったのだが、
その間低調基音のようにあった私の中の違和感が何だったのかに気づいたのは
もっと後になってから。
東京の下町を知って、そこにしっくり馴染む自分を発見したときだった。






久が原 昭和のくらし博物館

2007-01-21 08:03:33 | Weblog


ここは昭和26年に建てられた木造2階建ての住宅である。
建築技師だった小泉孝さんが妻と4人の娘たちとくらした家だ。
平成6年まで住まわれた後、昭和のくらしを伝えたいと、
家具調度品そのままで家一軒が博物館となった。
小泉家の娘さんたちとほぼ同世代の私には懐かしさの宝庫である。

住居は敷地50坪に、1階は玄関、4畳半の茶の間、台所、6畳の座敷。
2階は4畳半が2室の合計18坪。
この時期に建てられた住宅はほとんど残っていないという。
まだ新建材もアルミサッシもなかったころの建物は、
古くなるほどに趣のある佇まいをかもし出している。

ガラス戸を引いて小泉家の玄関に入る。
書斎兼応接コーナーの板の間を通って奥へ。
ちゃぶ台、火鉢、茶ダンスの上に大振りのラジオ、黒の電話機などが配置された茶の間は、
私が子どもの頃の我が家そのままだ!。

冬になると、父はいつもちゃぶ台横の火鉢にタバコの吸殻を捨てていた。
今思うと横着な親父だった。
うちに電話がついたのは、ちゃぶ台を使っていた頃よりもっと後になって。
電話を引くには、当時高額な電話債券、権利料が必要だった。
小泉家にあるのと同じ黒の重い電話機を、
新機種に変えると使い方が分からないと、亡くなるまで使っていた母。
ホントに頭の固い人だった。

茶の間の横が台所。
ここには圧巻ともいえるぐらい見覚えのある生活用具が並んでいる。
氷の冷蔵庫、都市ガスが最初に引かれたときの緑色のガスコンロ、皮ベルトがついたアルミ製の水筒等々。
ゴム製の氷枕や湯たんぽも展示されている。

私の足には幼児のときに湯たんぽでやけどをした跡がある。
それもかなり大きく2ヵ所。
湯たんぽを少し厚めの布で包んで紐で結んでいた母。
私の寝相が悪いとはいえ、
もう少し湯たんぽ管理の工夫をしてくれてもよかったのではないかしら。

そんなこんなで郷愁は絶えない。

ここを訪れた後には小津安二郎監督の映画を見たくなる。
この住居と同時代の庶民のくらしや感情のひだを、
つつましく、凛とした日本人を、
小津ならではの密度で描いた名作の数々。
高度経済成長路線を率先して日本を変えてしまった政党が、
今頃になって唱えている‘美しい日本’だった時代‥‥。
でも昭和30年代をテーマパークのように再現した映画『オールウェイズ 3丁目の夕日』
の方がいいなんて、言わないで下さいね。






浅草 花やしき

2007-01-14 00:29:39 | Weblog


「花やしき」へ行くには、観光客で賑わう浅草寺を抜けて、
その裏手、浅草公園横の通りを行く。
観光客相手の露店が立ち並ぶ道路は、
途中から、もつ煮込みやおでんなどの屋台風一杯飲み屋が多くなり、
それまでの雰囲気が一変する。

そこから少しの所に場外馬券売り場(今はサービスステーションというらしい)がある。
だから、観光客からオヤジ相手へと、客層に合った店舗展開で当然のことなのだが、
初めて来たとき、東京にもこういう濃密な所があるなんてと、
大阪のジャンジャン横丁に似ているのではと、
意外な発見をしたようで、うれしい気分だった。

その目と鼻の先に「花やしき」の遊園地がある。
冬の寒い日に訪れたせいか、
外から見ただけでは、下町にあるさびれた小さな遊園地、といった感じだった。
私はさびれた小さな遊園地というのが大好きなので、
そのときは周辺の雰囲気と共に、強烈な印象となって残った。

新春の5日、写真を撮るために今回は「花やしき」に入園する。
人もまばらだろうと思っていたのに、満杯の入場者でごったがえしていた。
誰もが東京ディズニーランドに行くというわけではないようだ。

園内は、タワー、絶叫マシン、ローラーコースターなどが狭い敷地にひしめき合い、
遊園地アイテムを目いっぱい一ヵ所に集積させたような光景。
全然さびれてなんかいない。

東京育ちでない私には、なぜ場外馬券売り場のすぐ横に遊園地がと思っていたが、
ここは1853年開園、江戸時代から続く元祖テーマパークだったのだ。
開園者は植木屋・森田六三郎。
町人による本格的な庭園が次々とオープンした時期だったとかで、
当時は四季折々様々な草花が咲き乱れていたらしい。
さぞや風雅な日本庭園だっただろうと思われる。
今もその伝統が受け継がれているのか、
ほんまもん?と一瞬疑う洋風の鉢植えがやたら並んでいたりする。
池にはプラで作った電飾の桜が2本植わっていた。

私の興味を引いたアトラクションが、「見世物小屋」。
「娘軽業乙女座」「空中曲芸団」「猛獣サーカス団」と書かれたのぼりが、
色あせて、端っこが破けたりしてるのがいい。
軽業、乙女、曲芸なんて今や死語になっている言葉が新鮮。
中に入ってみると、
小ぶりのウインドゥの中で、ろくろ首の妖艶娘や、インド人のヘビ使いなどレトロなキャラものが、
客を察知すると動く仕掛けになっていた。

最新の3D音響システムで視覚と聴覚を、の時代に(それらを使ったアトラクションもあるが)、
あえて存続させているかのような「見世物小屋」。
「花やしき」は、かってジオラマや活動写真の設置、日本で初めてのライオンの赤ちゃん誕生など、
時代の先取と共に歩んできた。
その老舗の意気を見せている「見世物小屋」のようにも思えた。











東銀座 歌舞伎座

2007-01-10 10:31:48 | Weblog

数年前より突然歌舞伎を観劇するようになった。
ただし市川海老蔵が出演しているときだけ。
海老蔵襲名前の新之助時代にファンとなり、
以来ミーハーをやっている。

歌舞伎観劇は他の芝居や映画鑑賞と違ってお金と時間がかかる。
3階などの低価格席もあるが、一等席14700円、桟敷席なら16800円。
昼の部は11時から3時頃まで、夜の部は4時半から8時半位まで。
で、ウィークディは圧倒的に熟年や超熟年層の女性客が目立つ。
2600人収容の劇場はいつも満杯で、観客席はすごい迫力だ。

途中で30分間の食事タイムが設けられている。
座席でお弁当を食べてもかまわないが、建物内の日本料理・吉兆、食堂、おでん処、芝居茶屋などの飲食店で食事をする人も多い。
歌舞伎座ならではの趣向だろう。

隣席の一人で来ていた年配の女性が、
私の憧れ・吉兆の幕の内弁当を広げていたことがあった。
経済的にといつも外で買った弁当持込の私は、
そのゴージャスな振る舞いに感心してしまった。

かなり、かなり年配の女性は、
その日3つある演目の最後は海老蔵が出演しないからなのか、
その直前の休憩時間後、客席に戻ってこなかった。

やはりかなり、かなり年配の女性なので、
海老蔵のお父さんの團十郎がご贔屓なのかなと思っていると、
海老蔵が出てくるや、オペラグラスを取り出した。

心強い先輩たち。

いつも一等前の中心席を陣取る女性2人組がいる。
60歳代と40歳前ぐらいかの、親子連れにしては似ていない二人。
派手なふうでなく、ごく普通の感じだ。
「信長」公演のとき、私は彼女たちの後ろの席だった。
四国、金毘羅の金丸座でも後ろの席に。

気になっていたので、ある公演のとき声をかけてみた。

聞けば、私と同じく歌舞伎を見るようになったのは海老蔵からだと。
「信長は15回見ました。今回の公演は7回しかチケット取ってないんですよ、この間のイギリス公演に行ったから‥‥」。

14700円×15×2!!!。
イギリス公演!!。
当然その前のパリ襲名披露公演だって行っているはず!。
いやはや、すごい追っかけがいるもんで、
いったい何を生業としている方たちなのか、
私は海老蔵よりそっちの方に俄然興味が湧いてしまった。

「歌舞伎にそんなに何回も来れるて、何のお仕事してはるの」と、
大阪のおばちゃんなら初対面であってもきっと聞くだろうことを、
さすがに、ここは東京、私は必死にこらえた。
以来、密かにこの2人組を歌舞伎座の怪人と呼んでいる。












矢川 素朴庵

2006-12-31 14:45:38 | Weblog


今日は大晦日。
子どものころ年越しそばは、
家から10メートルほど離れた、角のうどん屋からの出前だった。
うどん優勢の大阪でのことだから、
普段はもっぱら「きつねうどん」。
夏はざるそばより、ざるうどんやソーメンが多く、
それでもさすが年の瀬は、年越しうどんではなく、
年越しかけそばだった。

大阪ではうどんがおいしいから、そばの存在は希薄だ。
この年越しかけそばが私のそば初体験。
そばはグレー色で、うどんとは確かに違ったが、
うどんを痩せさせたようなしまりのない細さで、粉っぽい食感だった。
当時そば不毛地帯だった大阪ゆえか、実家の外食範囲のせいか、
そばとはそんなふうだと思っていた。
グルメなんて言葉がなかった時代のこと、
今は大阪でもうまいそばを食べさせる店が増えているという。

東京に来てそばの味わい深さに驚いた。
やはり江戸時代からの伝統か、更級、藪、砂場など老舗も多い。
ただし砂場はその発祥が大坂だという説がある。
18世紀に大坂から江戸に出てきたと。
だとすれば、砂場のおいしいそばは実家の東大阪辺りまで浸透せず、
大坂ではうどんに負けると、いきなり江戸を目指したのだろうか。

そばに「田舎」だ、「更級」だと種類があり、
そば粉が「十割」だ、「二八」だとの区別があることも知らなかった。
だがご多分に漏れず、かけつゆの真ッ茶・茶色には参った。
「色ばっかりで、ちっとも出しが効いてへんやんか」と関西人定番の文句。
今では半ば諦め、半ば慣れた。

JR南武線矢川駅(国立市)下車徒歩3分にある素朴庵は、
加納龍一さんが脱サラして開いたそば屋。
「北海道幌加内産の玄そばを殻つきのまま石臼で挽く自家製粉そば粉十割で、」(ここまで聞いただけでもそのこだわりは立ち昇ってくるが)、
「そば打ちは水回しからこねに入る瞬間で味が決まるから息を止めて一気にこね切り手の圧力で摺りつぶして粘りをだして、」と加納さん。

元来そばとは素朴な食べ物という思いから店の名をつけたそうだ。
気取ったそば屋に聞かせたい。
ここは街も店構えもそばの価格も店主も素朴である。
老舗よりもっとおいしいそばを出す店が、さりげなく営業しているところが、
東京のそばの奥深いところだろう。


(写真は素朴庵の「田舎」、「もり」、「更級」の3種が一度に味わえる「三色そば」)











銀座 ユニクロ

2006-12-25 17:36:20 | Weblog


銀座中央通り4丁目角に位置する高級品専門店「和光」。
クラッシックなビルは昭和7年建築。
その上に頂く「時計塔」と共に銀座の象徴であるが、
敷居が高すぎて私は入ったことがない。

ブランドの先鋒エルメスを並べる「メゾンエルメス」。
ガラス張りの超モダンなビル。
ブランドには縁がなくて覗いたことがない。

4丁目の目印、書道具、和紙細工を取り揃える「鳩居堂」。
創業は1664年京都だが、銀座には明治13年進出。
いつも混雑している様子を見ながら通り過ぎるだけ。

と、並べていくと馴染みの店は皆無だが、
銀座は東京で私の好きな街のひとつである。
伝統と時代の先端が同居し、大人っぽい雰囲気で、
他の街には見られない存在感を持つ。
さすが全国津々浦々の銀座通り総本元、東京・銀座。

その伝統の銀座に、超高級ブランドショップが目白押しの銀座に、
あのユニクロが出店して(’05年10月)1年が経つ。
しかも路線価格日本一の4丁目角鳩居堂の並び、中央通りに面して。

以前、紳士服チェーン店のアオキが銀座に出店したとき、
ついに銀座にもといった否定的な声があったと聞く。
しかしアオキはユニクロのようにメイン通り出店ではなかった。
これはユニクロのオタカイ銀座への挑戦だろうか。

銀座にこぞって店を構える世界中の一流品と、
ユニクロが肩を並べているなんてエキサイティングだ。
伝統と家柄を誇る梨園に嫁に入った庶民の娘みたくて、
がんばれ、ユニクロ。