放浪日記

刮目せよ、我等が愚行を。

この世界の片隅に

2018年02月28日 | 電影

実家から映画のチケットをもらった。
全国のイオンシネマなどで使えるもので、使用期限は4月末まで。
年度末にさしかかってきて、あまり映画を観ている余裕もなくなるんじゃないかという心配から、ある晩突然に映画に行くことに決めた。
近くの映画館で何を上映しているのか調べてみると、「この世界の片隅に」が再上映されていた。

公開から1年以上経っている作品。
以前に観たという友人は「泣けた」と言っていた。
よく行く立ち飲み屋のスタッフからも、ずっと薦められていた映画だった。
そのうちテレビで放映するのかもしれないけれど、映画なんて観たいときが観どきに決まっている。ほかの作品で観たいものがなかったので、それに決めた。

映画館に行きチケットを引き換えようとすると、観賞料金が1,800円ではなく1,100円だった。
「いま使われるよりは…」と言葉少なめに、損をしまっせと教えてくれる店員さん。さすが大阪である。
そこまで言われると、わざわざ損を取るのも癪なので、現金で支払ってしまった。これ、もしかして映画館の策略?

ともあれ、館内はガラガラで、客は両手で数えることができるほど。
ゆっくり観たい僕としては、またとない環境だった。
その半分くらいが、抱えるようにしてポップコーンを食べていたけれど。

作品については、詳しく書くことを避けようと思うが、「この世界の片隅に」は戦争中の物語である。
戦争映画と言えば、大砲がぶっ放され、機関銃の弾が雨のように降り、無機質に人間が粉々になっていく、というのがこれまでの常だった。圧倒的な兵器の脅威の前に、肉体はもろく、これまで生きてきたのが何の意味も持たないほど、あっけなくこの世から消えていくものだった。
ただ、この作品は違った。戦争前夜から戦後にかけての広島県呉市を舞台に、とある家に嫁いだまるで少女のような女性の物語。どんどんと悪化する戦局の様子も、一市民には届かない。ただ、徐々に配給の品がなくなっていき、空襲が増えるだけ。作中ではほとんど説明もないけれど、戦争がじわりじわりと足もとに忍び寄ってくる気配は感じ取れる。それが不気味だった。
そして、物語の場面が変わるごとに、何月何日と字幕が入る。そう、観ている僕らは知っている。広島と言えば、8月6日の原爆投下だ。原爆が落ちるまであと何日なのか、何も知らない主人公たちの日常にカウントダウンが進む。そして、終戦、戦後が始まることも。緊張感の中、スクリーンのこちら側が、時が刻むのを指をくわえて観ていることしかできない。
主人公に起こったこと、主人公の家族に起こったこと、そして、起こらなかったこと。
この映画の中は、いたって普通の、当時の市井が描かれていた(と思う)。
戦争は、淡々と一人一人の人間に寄り添い、その影を落とす。

当時の日本の様子が描かれているこの映画は、おそらく海外の人が観ても、日本人ほどに共感することはないだろう。
それは、この映画の背景に、圧倒的な情報量の日本人ならではの感覚が埋め込まれているから。

観賞して、良い映画だと思ったが、僕は泣きもしなかったし、めちゃくちゃ感動したわけでもなかった。
劇中の登場人物のように、ただ当たり前にその状況を受け止め、理解した。
この世界の片隅に。
その言葉に、制作者の想いが込められていた。



エンドロールが終わり、館内に明かりが戻ると、隣にいた嫁さんが一言。
「ポップコーンつまみながら観る映画とちゃうな」
すでに立ち去ろうとする客のポップコーンを見ると、ほぼ全員が食べきっていた。



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