安倍氏が昭和の怪物と言われた岸信介元首相の孫であり、かつて竹下、宮澤両氏とともにニューリーダーの一人として総理確実と言われた安倍晋太郎氏の息子であることはほとんどの人が知っていよう。 安倍氏を一躍有名にしたのは、拉致問題の取り組みであり、小泉内閣における40代での自民党幹事長への抜擢だ。 そして今は首相の女房役といわれる官房長官の職にあって、もっとも頻繁にメディアに登場するから、世間での認知度は非常に高い。 それをもって、世論でも安倍氏の支持率が圧倒的という話しになっているようだが、どうだろう?
安倍氏の総裁選に向けた初めての著作という「美しい国へ」(文春新書)を山口への帰省の電車の中で読んでみた。 一読しての印象は、本人があとがきでも述べているように、正直に率直に自分の政治家としての出自や考え方を述べているということ。 しかし、それが優れた見識や説得力を持つ内容かというと「?」である。 まず第一章では、「私の原点」と題して、祖父の岸首相が安保反対運動の群集に官邸を取り巻かれた幼い日の思い出や、70年安保当時高校生だった時、「安保反対はなんとなく胡散臭い」と感じた、といったエピソードが披露される。 「保守」とはすなわち「反動的」「国家強権的」な思想だとしていた当時の風潮への違和感が表明され、むしろ「国家が個人の自由を担保するもの」であり、日本は国家に対する認識が戦後の自虐史観によって長くゆがめられてきた、と安倍氏はいう。しかし、安倍氏の違和感とはすなわち「自分のお祖父さんやお父さんは国のために一生懸命やっているのに、それに闇雲に反対する人たちは変ではないか」というナイーブな印象ではないか、という気もしてくるのである。
続く第二章では、今話題の靖国神社参拝問題にも触れるが、そこでは、ワシントンのアーリントン墓地には南北戦争当時合衆国の敵だった南軍の将校も葬られているだとか、自分の会った中韓以外の世界の政治指導者や専門家は「祖国のために命を捧げた人に哀悼の念を捧げるのは自然だ」と言っており、靖国参拝自体は違憲でも道徳的に誤ってもいないと主張する。 安倍氏自身は、最近密かに靖国に参拝していることが明らかになったが、首相になったら参拝するのかしないのか、それを議論することを避けているが、彼の真意は「参拝」にあることが明らかだ。 靖国参拝するのなら、それに反対する中韓を説得する論理的メッセージが必要だし、躊躇があるなら麻生外務大臣のように靖国に変わる追悼施設の建設などの代案を提示すべきだろう。 日本の首相になろうかという人が、この問題に関する自らの態度をはっきりと表明しないのはいかがなものであろうか。 総裁選の争点がこの問題だけに集中するのは好ましくないが、避けては通れない問題である。
第4章の「日米同盟の構図」では、歴史的な経緯から見ても、今の日本の安全保障を考える上でも日米同盟は最も効果的な選択なのである、とされる。「米国の国際社会での影響力、経済力、軍事力を考えれば、日米同盟はベストの選択なのである」(p129)となる。 イラク戦争以来、日本国民がアメリカに抱いてきた違和感や、第二次大戦の反省から来る「平和国家日本」への道程に対する思慮は見られない。 日本人は自分達の最大の同盟国を尊敬に足る国家であると考えたいはずだ。それが今難しい。 テロで標的にされるような国家になってしまった理由をアメリカ人は良く考えて欲しいし、日本はそのように忠告できる良き友人であって欲しいのだ。
このような安倍氏の著書から感じるのは、戦後の安保から日米同盟、小泉政権の外交といった流れの無批判な肯定の上に立った、「日本の保守主義の擁護と国家像(のようなもの)の再興」を促しているように見える。 しかし、「美しい国へ」という題名に反して、この本からは、これからの世界において「日本人の誇り」はどこに胚胎すべきなのか、それを感じさせるものは残念ながらあまりなかった。
最後の2章では、「少子化国家の未来」と「教育の再生」では、実務的政治家として、年金問題や教育の改革を論じている。 年金制度改革を解説しているところは、自分自身が衆院厚生委員会の委員長をしていたせいか、わかりやすく書かれているところは評価できるし、実務家としての知識や能力は高いと感じさせる。 しかし、教育改革では、「大草原の小さな家」をモデルにしたレーガン時代のアメリカを引き合いに出したり、「駄目教師には辞めていただく」とか、「家族、この素晴らしきもの」といった理想像の復権をいうあたり、復古的な匂いがするのも否めない。
正直言って、安倍氏の描き出す国家像や改革にはあまり新鮮味がない。 安倍氏が圧倒的有利といわれ、メディアもそれを承認するような世論調査結果を出しており、このまますんなりと決まってしまいそうな雰囲気である。 9月の総裁戦では、一応対立候補も立つが、自民党内は政権末期でも50%近い支持率を維持する小泉総理の意中の後継者であり、選挙で民主党に対抗する上でも、若くてスマートな感じで世間受けも良く、しかも大政治家の系譜であり、お父さんは首相になれずに惜しくも他界した安倍氏になってもらうのが良かろうという打算が見てとれる。 他の派閥も弱体化しており、福田派(森派)からもう一回総理を出してもここは仕方ないか、と。 民主党のように若手グループが前原のような40代の代表を選ぼうという動きもない。 昨秋の衆院選で当選した小泉チルドレンとは何だったのか。どこに行ってしまったのか。
このような、低調な総裁選にいたる原因はもとを正せば、自民党圧勝に導いた国民にある。 祖父や父が政権の中枢にいた家庭で育った安倍氏は、「国家」というものがいつも自分の身近にあり、国家は悪くないではないか、と言っているように聞こえる。 我々国民が、国家を怖れるのは、それによる税金の増大や無駄遣いであり、戦争行為による自由の制限や生命への脅威なのだ。 だから、日本人は今も戦争の匂いには非常に敏感なのではないか。(毎年8月に繰り返し行われる原爆や日中戦争のドキュメンタリーや戦争関連のニュース番組は、その記憶を風化させまいとする国民の無意識の要請に沿っているのではないか。) 安倍氏には、国家は空気のように存在しないように機能していればいい、といった庶民の感覚はわからないかもしれない。
安倍氏は派手さはないが、バランス感覚はある人のようだから、突拍子もないこと、危険なことは起こらないかもしれない。 しかし、道路公団や郵政の民営化問題、年金改革問題や少子化対策、イラクへの自衛隊の派遣や靖国参拝などの外交問題など、小泉政権を国民は本当はどう評価しているのだろうか。 その内容に満足していない人は以外に多く、次の審判の機会が来年の参議院選挙まで巡ってこないことをもどかしく感じているのではないだろうか。 得票率では民主と自民はわずかの差しかなく、議席は3倍という先の衆院の結果は民意を正しく表わしていないとも言えるはずである。