今年6月、沖縄普天間基地移転問題で、辺野古以外の代替案を結局提示できないことが引き金となって鳩山内閣が倒れ、その後の民主党代表戦を小沢と戦って総理になった管直人がこの「小説琉球処分」を読んでいると、その頃ある週刊誌にあった。 明治維新を経て後の数年間に、版籍奉還、廃藩置県、廃刀令、四民平等と徳川260年の社会制度は根底から覆され、新しく近代社会に日本は大転換を遂げていった。そうした時代の激動はしかし、本土から1000キロ以上離れた西南海の島で、何世紀も王をいただいて独自の制度を維持していた琉球にはどこか遠くの出来事であった。
廃藩置県がおわり、征韓論が起こり、また台風で遭難した琉球の民が台湾の「生蕃」に殺害された事件に端を発した台湾遠征の声が渦巻く東京では、内務卿 大久保利通が琉球藩を明治政府に組み込む事業に取りかかっていた。明治8年、大久保の命を帯びた内務省大丞の松田道之が琉球に赴任、この難しい事業を手がける。
琉球の王を「ヤマト」の天皇の臣下とし、藩を廃して県令を置く。中央からヤマトの役人が来る。熊本鎮台の分営をおき兵隊を常駐させる。 数百年間、中華帝国に朝貢を続け、王の即位のたびに「冊封」を受け大陸との交易を行ってきた琉球に、ヤマト政府は清との縁を金輪際切れと要求するが、これは「清への大恩とヤマトへの恨み」の感情を持つ琉球の民には容易に受け入れがたいことであった(江戸慶長年間に薩摩の島津氏は琉球に攻め入り、事実上支配下におき圧制を敷いた。)首里城で政をつかさどっている親方(うえーかた)達は、必死にヤマト政府を晦渋し、この決定を受け入れなくてすむように嘆願を繰り返す。松田大丞の仕事は、困難を極めた。
当時、琉球と本土では言葉も通じない。ヤマト語を解しヤマトに「遵奉」するしかないとする開明派と、これを断固拒否しようとする「頑固党」との深刻な対立が生じ、友人や親戚関係にも深い亀裂が入る。 宜野湾親方、亀川親方、与那原親方、津波古親方など、それぞれ実力者も考えが異なり、評定すれども方向が決まらない。 新体制への移行、王尚泰の東京出仕と天皇への拝喝は避けたいという意見が大勢を占めるが、神経症を患った王は、ヤマトの怒りを恐れ一度は「遵奉」を決意するが、その承諾の書簡は頑固党一派の煽動で起こったデモの中で失われてしまう。
落胆のうちに、松田太丞はついに東京に引き上げ、それから4年間近く事態は膠着する。その間に武士階級の最後の組織的抵抗である西南戦争も終わった。 琉球人にまだしも配慮していた大久保利通が暗殺され、伊藤博文が内務大臣になると、伊藤はもはや何の感傷もなく廃藩置県と陸軍の駐在を実行に移していく。 松田が再び那覇を訪れ「琉球処分」を言い渡したのは、明治12年春。尚泰王と親族が首里城を退去し、ついに琉球はヤマトの一部となった。
かつて初めて首里城を訪れたとき、内裏の建築の片側は中華様式、反対側は薩摩風で、琉球は実際は薩摩の支配下にありながら、「両属」の形を取ることによって、武器を持たずともその平和と安定を保ってきたことがわかった。明治になって、ヤマトが近代化の道を驀進し始めたとき、琉球はヤマトの一部としてその中に組み込まれるか、大清への恩を守り、半独立を維持するかの選択を迫られた。清の海軍の救援を求めて危険を顧みず東シナ海を渡った若者たちは、幕末の尊王攘夷派と同じような愛国精神を持っていた。しかし結局、清が琉球を守ってくれるということはなく、大久保利通が予見したとおり、ヤマトに組み込まれるしか琉球が近代世界の中で生き残る道はなかったとも言える。
この「小説 琉球処分」は、沖縄出身の作家、大城立裕によって1959~60年に琉球新報に400回以上にわたって連載されたものだ。当時はもちろんアメリカ占領下である。大城氏は、松田道之が残した膨大な記録「琉球処分」を読み込んでこの小説を着想した。72年に沖縄は日本に復帰したが、「核抜き本土並み」という言葉がその復帰の条件として叫ばれ続けた。
この140年前に史実は、今の普天間基地の問題に重なって思える。 沖縄は日本にとって何なのか、また沖縄から本土はどう見えるのか、その両側から考える契機を与える。 沖縄の地政学的重要性は、日本の領海の維持や日米安保条約を機軸とした東アジアの安定と中国への牽制を考えるとき、今日ますます高まっている。 先般の尖閣諸島の事件を見ても、復活した中国が東シナ海や南西諸島で経済的権益や資源をめぐって近隣国を圧迫している。 世界第6位のEEZを持つ日本との間でもこれからもより厳しい局面が繰り返されるだろう。 しかるに、日本の今の政治家にはかつての大久保のような果断さはない。
63年前の戦争で唯一戦場となって多大な犠牲を払い、その後も県土の20%以上を基地に提供し続けて、米軍による事故も何度も経験した沖縄人の心情を理解することが本土の人間はできているのか。 鳩山前首相は「普天間移設は沖縄県外」を言ったとき、それはヤマトと沖縄の歴史の示す難しさを十分理解した上での発言だったとは思えない。 普天間問題は、かつて松田大丞が費やしたと同じような時間と労力をもって臨まない限り、打開は不可能に思えるし、さもないと再び沖縄県民に「処分」を強いることになる。
ただ150年前と違うのは、沖縄はいまや軍事的な意味だけでなく、その豊かな南海の自然、食、芸能などが、ヤマトにとってもかけがえのないものになっており、その逆も真だということだ。 県外移設の可能性を信じた沖縄の人たちの心は、また閉ざされてしまった。 今月末投票される沖縄県知事選では、自公政権下では辺野古移設を容認していた仲井現職知事がリードしているようだが、今の沖縄県民の声は、明らかに県内移設反対だ。 なぜ辺野古しかないのか、日本政府から納得できる説明がないままでは、移設は容易に進展しないだろう。