
21日の夜10時半に発ち、2時間半で松本インターを降り、午前2時ごろに沢渡の駐車場に到着。 車内で仮眠してから、朝5時に乗り合いタクシーで上高地に向かった。初日の天気は文句なしだった。 薄明の河童橋から青い空に明神岳が聳え、梓川には霧が立ちすがすがしい。 行程は、明日以降天候が崩れるという予報であり、穂高初体験のO君のことも考えて、天気のいい初日にまず穂高連峰の全貌を見せることを考え、岳沢から前穂経由、奥穂に向かうことにする。

このルートは、ちょうど4年前、単独で横尾から北穂、奥穂、前穂と縦走した際に、最後の下りで採った道で、炎天下、紀美子平からの急な下りで足に来て、ほうほうの体で岳沢ヒュッテに逃げ込んだ苦い経験がある。 標高1500mの上高地から2200mの岳沢までの道は、整備され比較的緩やかであり2時間で着いた。 かつて岳沢ヒュッテがあった場所は、2年ほど前に雪崩で壊滅し、今は城跡のように石組みが各所に残る姿となっていた。
岳沢から上の道は、石の多い険しいものとなり、標高2850mの紀美子平までは、2時間30分ほどかかった。 体力のあるB氏はもちろん、O君も、最近目方が増えてしまったとはいえ、筋肉のついたがっしりした体格であり、2人は私に先行して登り、11時には前穂頂上を極めた。 体力不足を痛感し、苦しい登りとなった自分は、前穂頂上をパスし、紀美子平から先に釣り尾根を奥穂に向かうことにした。 途中、それまで西側の斜面をトラバースしていた道が涸沢側に開けた場所で、突然雷鳥に出くわした。雛が近くにいるのか、呼びかけるように鳴き続ける鳥は、1mほどに近寄っても逃げる気配がない。 前穂や涸沢をバックにカメラに収めた。
西穂への縦走路が目近に見え、やがてジャンダルムも確認できたころには、ついにガスが上がってきた。 祠の見える奥穂頂上に到着したのは午後1時過ぎ。 紀美子平から2時間近くかかってしまった。 心肺機能も足腰も、穂高を縦走するだけの力を持たないことを痛感する。 前穂の釣り尾根では、朝方、岳沢から登る重太郎新道でさっくり抜いていった若いカップルが早くも降りてくるのに出会ったが、日帰りで上高地‐奥穂山頂を往復するのだから、見上げたものである。 とりわけ女性が元気で、 「運動してますから」と軽く挨拶して、彼氏を引っ張るように下りていった健脚にはまったく脱帽だ。
奥穂山頂では、涸沢から登ってきた中高年の大型パーティの写真撮影大会に混じって、B氏とO君とシャッターを押し合い、小一時間も過ごしただろうか。 ガスはあまり晴れる見込みがないので、赤い屋根を見せる穂高小屋へ下った。比較的最近改装されたのだろうか、きれいな小屋は200人近く収容できるらしい。浅間山という部屋に通されたが、一人分の布団は一畳の半分くらいしか幅がなく、予め山小屋仕様になっている。 空いている部屋もあるようだが、とにかく端から詰めていくため、浅間山も定員一杯満員である。 小屋の前面の涸沢を見下ろす石の桟のようなところに腰を下ろし、とりあえずビールで乾杯し、夕食までの時間を過ごす。 午後5時40分、2番目のグループで夕食を済まし、やや雲の切れてきた日没時の景色を期待して、近くのヘリポートに上がる。
西は、笠が岳にかかった雲が次第に晴れていき、遠くには白山が望めた。 東に振り返れば、雲のじゅうたんが厚くて、眼下の涸沢やその向こうの常念や蝶などは切れ切れに見えるのみであるが、そのはるか先に広がる雲海の上の空は、夕暮れの光を受けて、薄い微細なブルーを漂わせて、神秘的ですらあった。 こんな青は、下界では見られない。 日没の太陽は、結局西の水平線に姿を見せることなく辺りは暮れていき、我々も小屋にもどった。夜は、四肢の疲れのせいで、体が熱っぽく、部屋の中も蒸し暑くて安眠できなかった。他人の鼾を聞き、寝返りを何度も打ち、ペットボトルの水を繰り返し飲みながら、長い夜を過ごした形だ。
朝になり4時を過ぎると、もう人々は起きだす。外は生憎天気予報が当たって、雨が降っている。視界もほとんどなく、これでは涸沢岳から北穂への岩場を渡っていくのは無理だと、悪天候を押して苦行する趣味を持たないB氏は早々に判断し、必然的に涸沢に下ることに決まった。 部下が数日前に燕岳から穂高まで縦走して来て大いに刺激を受けていたO君は、やや残念そうであったが、体力的に今回は縦走に耐えないと判断していた自分は、ほっとしたというのが本当のところである。
雨とガスで視界がほとんどない中、ザイテングラードと呼ばれる涸沢への岩場の下りには、間もなく列が出来た。買ったばかりの撥水・水蒸気透過性の軽量雨具が役にたったが、軽装のシューズのB氏の足は、間もなく浸水したようだ。 涸沢ヒュッテで暑いコーヒーで暖をとって、8時半には再び横尾目指して歩き出した。 二刀流のO君のストックを一本借りることになったが、下りに弱く、膝と右足親指に痛みを覚え始めた自分には、これが大いに助けとなった。 途中、雨模様にもかかわらず登ってくる何十というパーティとすれ違ったが、一番多かったのは、ツアーっぽい中高年の女性グループだった。 さすがに穂高。 夏休みも残り少ない週末ということもあろうが、200人くらいとすれ違っただろうか、半端でないハイカーの数だ。
横尾には11時前に到着。トイレ休憩だけで、一挙に上高地まで歩き続ける。 徳沢園を過ぎ、明神を越えていくが、途中、土砂が道を横切っている箇所に何度か遭遇。 道も以前はもっと河原沿いだったはずだが、山側にかなり迂回している箇所があった。
上高地には午後1時過ぎに到着。 ここで温泉というのも考えたが、靴が変えられないので、再び乗り合いタクシーで沢渡まで出て、駐車場の傍の日帰り湯で汗を流した。 湯船に疲れた足を横たえ、運動の後の心地良い疲労感が全身を弛緩させる。 雨は続いているが、さっぱりして松本に向けてクルマを走らせる。 途中、蕎麦屋を見つけて遅い昼食をとり、4時前に帰途につく。 ハンドル握ったのはO君。 途中、大月付近で渋滞が少しあったが、大したこともなく、8時ごろ新百合のB氏宅に帰着。 O君は250ccのスクーターで、小雨の中を自宅に帰っていった。
「日頃トレーニングで鍛えておかないと、毎回山に来てもつらいでしょう」とB氏は言うが、確かにその通りだ。 体力に余裕のないと、毎回苦行に近い登山をしている感じだ。 それなのになぜ行くのかと聞かれそうだが、山登りは、神経を集中し一歩一歩確実な足場を選び、息を切らしながら少しずつ高度を上げていく。その間は雑念の混入する余地もない。 汗は噴出し足は萎え、呼吸は苦しいが、長時間登り続けている間に自分の体が次第に軽くなったり、逆に疲労で重くなったりする。 もう歩けないという限界付近まで体を使いきったときに感じる、浮遊感とも脱力感ともつかないものは、山歩き独特のものだ。
前回もそうだったが、穂高に来ると体力のなさを思い知らされる。この山塊を軽々と縦走し槍まで駆け抜ける力があればと思う。 それだけのスケールと難所を持つだけに、登山者を魅了して止まないのであろう。愛着を持つ北穂高小屋を今回訪れることはできなかった。 次こそ、大キレット経由で北穂小屋をまた訪れたいと思う。滝谷を愛し北穂小屋を立てた小山義治さんの忘れがたい著作の文字を追いながら、再び穂高を訪れる日を思う日がしばらく続きそうである。

このルートは、ちょうど4年前、単独で横尾から北穂、奥穂、前穂と縦走した際に、最後の下りで採った道で、炎天下、紀美子平からの急な下りで足に来て、ほうほうの体で岳沢ヒュッテに逃げ込んだ苦い経験がある。 標高1500mの上高地から2200mの岳沢までの道は、整備され比較的緩やかであり2時間で着いた。 かつて岳沢ヒュッテがあった場所は、2年ほど前に雪崩で壊滅し、今は城跡のように石組みが各所に残る姿となっていた。
岳沢から上の道は、石の多い険しいものとなり、標高2850mの紀美子平までは、2時間30分ほどかかった。 体力のあるB氏はもちろん、O君も、最近目方が増えてしまったとはいえ、筋肉のついたがっしりした体格であり、2人は私に先行して登り、11時には前穂頂上を極めた。 体力不足を痛感し、苦しい登りとなった自分は、前穂頂上をパスし、紀美子平から先に釣り尾根を奥穂に向かうことにした。 途中、それまで西側の斜面をトラバースしていた道が涸沢側に開けた場所で、突然雷鳥に出くわした。雛が近くにいるのか、呼びかけるように鳴き続ける鳥は、1mほどに近寄っても逃げる気配がない。 前穂や涸沢をバックにカメラに収めた。
西穂への縦走路が目近に見え、やがてジャンダルムも確認できたころには、ついにガスが上がってきた。 祠の見える奥穂頂上に到着したのは午後1時過ぎ。 紀美子平から2時間近くかかってしまった。 心肺機能も足腰も、穂高を縦走するだけの力を持たないことを痛感する。 前穂の釣り尾根では、朝方、岳沢から登る重太郎新道でさっくり抜いていった若いカップルが早くも降りてくるのに出会ったが、日帰りで上高地‐奥穂山頂を往復するのだから、見上げたものである。 とりわけ女性が元気で、 「運動してますから」と軽く挨拶して、彼氏を引っ張るように下りていった健脚にはまったく脱帽だ。
奥穂山頂では、涸沢から登ってきた中高年の大型パーティの写真撮影大会に混じって、B氏とO君とシャッターを押し合い、小一時間も過ごしただろうか。 ガスはあまり晴れる見込みがないので、赤い屋根を見せる穂高小屋へ下った。比較的最近改装されたのだろうか、きれいな小屋は200人近く収容できるらしい。浅間山という部屋に通されたが、一人分の布団は一畳の半分くらいしか幅がなく、予め山小屋仕様になっている。 空いている部屋もあるようだが、とにかく端から詰めていくため、浅間山も定員一杯満員である。 小屋の前面の涸沢を見下ろす石の桟のようなところに腰を下ろし、とりあえずビールで乾杯し、夕食までの時間を過ごす。 午後5時40分、2番目のグループで夕食を済まし、やや雲の切れてきた日没時の景色を期待して、近くのヘリポートに上がる。
西は、笠が岳にかかった雲が次第に晴れていき、遠くには白山が望めた。 東に振り返れば、雲のじゅうたんが厚くて、眼下の涸沢やその向こうの常念や蝶などは切れ切れに見えるのみであるが、そのはるか先に広がる雲海の上の空は、夕暮れの光を受けて、薄い微細なブルーを漂わせて、神秘的ですらあった。 こんな青は、下界では見られない。 日没の太陽は、結局西の水平線に姿を見せることなく辺りは暮れていき、我々も小屋にもどった。夜は、四肢の疲れのせいで、体が熱っぽく、部屋の中も蒸し暑くて安眠できなかった。他人の鼾を聞き、寝返りを何度も打ち、ペットボトルの水を繰り返し飲みながら、長い夜を過ごした形だ。
朝になり4時を過ぎると、もう人々は起きだす。外は生憎天気予報が当たって、雨が降っている。視界もほとんどなく、これでは涸沢岳から北穂への岩場を渡っていくのは無理だと、悪天候を押して苦行する趣味を持たないB氏は早々に判断し、必然的に涸沢に下ることに決まった。 部下が数日前に燕岳から穂高まで縦走して来て大いに刺激を受けていたO君は、やや残念そうであったが、体力的に今回は縦走に耐えないと判断していた自分は、ほっとしたというのが本当のところである。
雨とガスで視界がほとんどない中、ザイテングラードと呼ばれる涸沢への岩場の下りには、間もなく列が出来た。買ったばかりの撥水・水蒸気透過性の軽量雨具が役にたったが、軽装のシューズのB氏の足は、間もなく浸水したようだ。 涸沢ヒュッテで暑いコーヒーで暖をとって、8時半には再び横尾目指して歩き出した。 二刀流のO君のストックを一本借りることになったが、下りに弱く、膝と右足親指に痛みを覚え始めた自分には、これが大いに助けとなった。 途中、雨模様にもかかわらず登ってくる何十というパーティとすれ違ったが、一番多かったのは、ツアーっぽい中高年の女性グループだった。 さすがに穂高。 夏休みも残り少ない週末ということもあろうが、200人くらいとすれ違っただろうか、半端でないハイカーの数だ。
横尾には11時前に到着。トイレ休憩だけで、一挙に上高地まで歩き続ける。 徳沢園を過ぎ、明神を越えていくが、途中、土砂が道を横切っている箇所に何度か遭遇。 道も以前はもっと河原沿いだったはずだが、山側にかなり迂回している箇所があった。
上高地には午後1時過ぎに到着。 ここで温泉というのも考えたが、靴が変えられないので、再び乗り合いタクシーで沢渡まで出て、駐車場の傍の日帰り湯で汗を流した。 湯船に疲れた足を横たえ、運動の後の心地良い疲労感が全身を弛緩させる。 雨は続いているが、さっぱりして松本に向けてクルマを走らせる。 途中、蕎麦屋を見つけて遅い昼食をとり、4時前に帰途につく。 ハンドル握ったのはO君。 途中、大月付近で渋滞が少しあったが、大したこともなく、8時ごろ新百合のB氏宅に帰着。 O君は250ccのスクーターで、小雨の中を自宅に帰っていった。
「日頃トレーニングで鍛えておかないと、毎回山に来てもつらいでしょう」とB氏は言うが、確かにその通りだ。 体力に余裕のないと、毎回苦行に近い登山をしている感じだ。 それなのになぜ行くのかと聞かれそうだが、山登りは、神経を集中し一歩一歩確実な足場を選び、息を切らしながら少しずつ高度を上げていく。その間は雑念の混入する余地もない。 汗は噴出し足は萎え、呼吸は苦しいが、長時間登り続けている間に自分の体が次第に軽くなったり、逆に疲労で重くなったりする。 もう歩けないという限界付近まで体を使いきったときに感じる、浮遊感とも脱力感ともつかないものは、山歩き独特のものだ。
前回もそうだったが、穂高に来ると体力のなさを思い知らされる。この山塊を軽々と縦走し槍まで駆け抜ける力があればと思う。 それだけのスケールと難所を持つだけに、登山者を魅了して止まないのであろう。愛着を持つ北穂高小屋を今回訪れることはできなかった。 次こそ、大キレット経由で北穂小屋をまた訪れたいと思う。滝谷を愛し北穂小屋を立てた小山義治さんの忘れがたい著作の文字を追いながら、再び穂高を訪れる日を思う日がしばらく続きそうである。