ではなぜ「悪霊」を再読することになったかというと、その亀山氏がN新聞の日曜版にドストエフスキーに関するエッセイを連載していて、「悪霊」の舞台になったロシアの街を訪れたという記事が目に入ったからだ。 かつて大学生になったばかりの頃、「悪霊」の主人公であるニコライ・スタヴローギンは、抽象的観念と社会へのやくざな反感で頭の中を一杯にした仲間内では、その既存の価値をすべて否定した怪物的な性格をもって一種カリスマ的に崇められていた。 早熟ではなかった私もそうした熱にそそられ読んだが、当時はこの小説をよく理解できていたとはいえない。 「カラマーゾフ」のアリョーシャや「白痴」のムイシュキン公爵の方が、よほど素直に共感できた。
初めて読んだ「悪霊」は、実家の書棚にあった中央公論の「世界の文学」の池田健太郎訳だったが、扉にあるルカ伝からの引用 ‐「イエスが出でよ、と命ずると「悪霊」は豚の群れに入り、湖に向かって突進しすべて溺死した」 というくだりが異様に印象に残ったほかは、話の筋や登場人物の詳細はあまり記憶に残っていなかった。 今回、昔より文字も大きくなった新潮文庫の江川卓訳で読んだが、余りの面白さに週末に一挙に読みおえた。
この作品は、江川卓が解説で述べているとおり「カラマーゾフ」と並ぶ傑作に間違いなく、そのテーマの今日的社会性と物語のデーモニッシュな展開、そして主要な登場人物がほとんど死に至る結末は、読者を心底震撼させるものがある。 この小説の主人公は、スタヴローギンとその分身ともいえるピョートルだが、無神論とアナーキズムという19世紀のロシアのインテリゲンチャに深く巣食った思想が、如何に人間の心に恐るべき不信と堕落をもたらすかを、作家は容赦なく描く。 妻が戻ってきて出産し生きる希望を見出したシャートフは無残に「五人組」に殺害され、自殺することによって永遠の自由を得ると宣言するキリーロフは、ピョートルの筋書きを飲んでピルトルで頭を打ち抜く。 愛すべきステパン氏は、20年来の最愛の友であるワルワーラ夫人の腕の中で、静かにあの世に旅立つ。 そしてスタヴローギンは、発作的な偽善から結婚した不具の妻マリアに「偽者」だと見破られ、そのマリアの殺害を間接的に幇助する。 最後の望みを美しいリーザへの愛に一瞬託そうとするが、結局愛することが不可能だと悟る。 そのリーザも暴徒に撲殺されてしまう。
スタヴローギンに残された道は、屋根裏で自らの縊死しかなかった。彼は悪魔などではなく、生きることの意味を見出せなかった悲劇的人物だ。 それは作家がこの主人公を「自分の魂から生み出した」と手紙で述べていることでも明らかであり、彼はアリョーシャになりそこねたもう一人のロシアのインテリの姿であり、作家自身でもあるのだ。 そうした意味で、「カラマーゾフ」と「悪霊」は、全く別のトーンを持つが、同じコインの表裏をなすといってよい。 一人の人間が善良な力と暗黒の思想を併せ持つことを、この作家ほど知悉し、悪魔のような犯罪と天使のような善行が同居する異様な小説を書き続けた人は他にいない。
有名な「スタヴローギンの告白」は、作者が校正刷りに手をかなり加えたものが1920年頃に見つかっているが、結局ドストエフスキーは、単行本の刊行の際にも、この章は除外して出版している。 新潮文庫では、この章は巻末に詳細な注とともに収録されている(元々意図された箇所に挿入されている翻訳もある。) 確かにこの章では、少女を誘惑し、「神様を殺してしまった」と絶望追いやって自屍に至らしめたスタヴローギンの犯罪が明白となり、その良心の呵責にさいなまれて高僧を訪れての哲学的対話があるという点で、意味深いものではある。しかし、この小説は、この箇所がなくても問題はないし、むしろ曰くありげなこの挿話がない方が、スタヴローギンのキャラクターは一層凄みを持ち、ストーリーは途切れなく終末へと驀進するという点でより強い悲劇となるように思う。 「スタヴローギンの告白」は、エピローグか、むしろ「カラマーゾフ」のイワンの告白(有名な大審問官の章を含む)に持ち越されて問題はないと思われる。 ドストエフスキーの主人公達が、20世紀を貫通し今日でも我々の心をわしづかみして揺さぶるというのは驚くべきことであり、世界がこの作家を持ったことに今更ながら感謝したい。
初めて読んだ「悪霊」は、実家の書棚にあった中央公論の「世界の文学」の池田健太郎訳だったが、扉にあるルカ伝からの引用 ‐「イエスが出でよ、と命ずると「悪霊」は豚の群れに入り、湖に向かって突進しすべて溺死した」 というくだりが異様に印象に残ったほかは、話の筋や登場人物の詳細はあまり記憶に残っていなかった。 今回、昔より文字も大きくなった新潮文庫の江川卓訳で読んだが、余りの面白さに週末に一挙に読みおえた。
この作品は、江川卓が解説で述べているとおり「カラマーゾフ」と並ぶ傑作に間違いなく、そのテーマの今日的社会性と物語のデーモニッシュな展開、そして主要な登場人物がほとんど死に至る結末は、読者を心底震撼させるものがある。 この小説の主人公は、スタヴローギンとその分身ともいえるピョートルだが、無神論とアナーキズムという19世紀のロシアのインテリゲンチャに深く巣食った思想が、如何に人間の心に恐るべき不信と堕落をもたらすかを、作家は容赦なく描く。 妻が戻ってきて出産し生きる希望を見出したシャートフは無残に「五人組」に殺害され、自殺することによって永遠の自由を得ると宣言するキリーロフは、ピョートルの筋書きを飲んでピルトルで頭を打ち抜く。 愛すべきステパン氏は、20年来の最愛の友であるワルワーラ夫人の腕の中で、静かにあの世に旅立つ。 そしてスタヴローギンは、発作的な偽善から結婚した不具の妻マリアに「偽者」だと見破られ、そのマリアの殺害を間接的に幇助する。 最後の望みを美しいリーザへの愛に一瞬託そうとするが、結局愛することが不可能だと悟る。 そのリーザも暴徒に撲殺されてしまう。
スタヴローギンに残された道は、屋根裏で自らの縊死しかなかった。彼は悪魔などではなく、生きることの意味を見出せなかった悲劇的人物だ。 それは作家がこの主人公を「自分の魂から生み出した」と手紙で述べていることでも明らかであり、彼はアリョーシャになりそこねたもう一人のロシアのインテリの姿であり、作家自身でもあるのだ。 そうした意味で、「カラマーゾフ」と「悪霊」は、全く別のトーンを持つが、同じコインの表裏をなすといってよい。 一人の人間が善良な力と暗黒の思想を併せ持つことを、この作家ほど知悉し、悪魔のような犯罪と天使のような善行が同居する異様な小説を書き続けた人は他にいない。
有名な「スタヴローギンの告白」は、作者が校正刷りに手をかなり加えたものが1920年頃に見つかっているが、結局ドストエフスキーは、単行本の刊行の際にも、この章は除外して出版している。 新潮文庫では、この章は巻末に詳細な注とともに収録されている(元々意図された箇所に挿入されている翻訳もある。) 確かにこの章では、少女を誘惑し、「神様を殺してしまった」と絶望追いやって自屍に至らしめたスタヴローギンの犯罪が明白となり、その良心の呵責にさいなまれて高僧を訪れての哲学的対話があるという点で、意味深いものではある。しかし、この小説は、この箇所がなくても問題はないし、むしろ曰くありげなこの挿話がない方が、スタヴローギンのキャラクターは一層凄みを持ち、ストーリーは途切れなく終末へと驀進するという点でより強い悲劇となるように思う。 「スタヴローギンの告白」は、エピローグか、むしろ「カラマーゾフ」のイワンの告白(有名な大審問官の章を含む)に持ち越されて問題はないと思われる。 ドストエフスキーの主人公達が、20世紀を貫通し今日でも我々の心をわしづかみして揺さぶるというのは驚くべきことであり、世界がこの作家を持ったことに今更ながら感謝したい。