徒然なるままに……日々の出来事を

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東海道あるき旅⑯(蒲原~由比宿~興津)

2015-11-21 | 東海道あるき旅

   今回は、前からずーっと楽しみにしていた”さった峠”に行きます。

 ”さった峠”は、東海道の中でも景色がいい所として有名です。広重の浮世絵に描かれているような素晴らしい富士山を

 是非、見たいと思っているのですが・・・・・?    本日も空は、厚い雲に覆われてしまっています・・・・

 

  では、前回の続き蒲原宿を出て少し進んだ所から出発です。

 JR蒲原駅を過ぎて少し進むと「由比宿」にはいります。

 ”由比”は、鎌倉時代からの宿場で、山と海に挟まれた街道沿いの村で漁業製塩業を生業としていたそうです。

 東海道にある53の宿場の中でも、小さいほうの宿場だったようです。

 現在も小さな町ですが、古い家が残り、静かな落ち着いた街並みが続き、宿場の面影がたくさん残っています。

 

                                   ★  由比宿東枡形跡

              
   由比一里塚跡・・・日本橋から39里目

 
     宿場の出入り口の見附は、道を枡形(かぎ手)に折り曲げて木戸を設け、万一の攻撃を防ぎ治安維持を図っていました。

       真っ直ぐだった道が折れ曲がっている様子がわかると思います。こうやって宿場の安全を維持していたのですね。

       (敵が真っ直ぐに侵入してこれないようにしているのですね。宿場でこのような形を備えているのは珍しいと思います。)

  

   この枡形に折れ曲がった東大木戸を抜けると、いよいよ宿場の町並みが始まります。

   本陣・脇本陣・問屋場・旅籠・茶屋・各種の商店が続きます。

  

 ★  御七里(おしちり)役所跡

    江戸時代、西国の大大名の中には江戸の屋敷と領国の居城との連絡に自前の飛脚を持つ大名がいました。

  ここは、紀州徳川家の飛脚の中継所跡です。江戸から和歌山までの間(584Km)に、約7里(28Km)ごとに中継所を置き、

  五人一組の飛脚を配置したので七里飛脚と呼び、その中継所を御七里役所といいました。

 
  江戸から和歌山まで8日、特急便は4日足らずで到着したそうです。   本当に、電車も車もない時代にこの速さとはビックリです。

 

 ★  由比宿本陣跡

    本陣跡地は由比本陣公園として整備され、正門・石垣・木塀・馬の水飲み場などが修築、復元されています。

  敷地内には「広重美術館」があり、浮世絵の展示がされていました。どの版画も色彩がきれいで素晴らしかったです。

  また、浮世絵の基礎知識についても学ぶことが出来、よかったです。

 

 

 
          本陣井戸                                「静岡市東海道広重美術館」          

 
        馬の水飲み場・・・のんびりと亀が甲羅干しをしていました。   

 

  

 本陣のすぐ前に”由比正雪”の生家といわれる紺屋がありました・

 

  

 

  
                         明治の郵便局舎(平野氏宅)  

   

 
            加宿問屋場跡                                脇本陣徳田屋

 

 
   桜えびの看板があちこちに目立ちます。          由比宿西枡形・・・旧道は左側に曲がっています。その先に西木戸がありました。

 

  ”由比宿”の西の出入り口 西木戸です。
  
  昔は、西木戸を出ると由比川の河原に出ました。普段は仮りの板橋を渡っていたそうですが、水かさが増すと徒渡しとなったそうです。
  現在は、コンクリート製の立派な橋が架かっています。

 

       現在、由比は桜エビ・シラス干が名産ですが、桜エビ漁は明治中期以降に始まったそうで、

                                      江戸時代にはまだ食べられていなかったようです。

               
               お昼ごはんは桜エビのかき揚げ丼です。とても美味しかったです。

 

 

 ★ 船造り(せがいづくり)と下り懸魚(くだりげぎょ)のある家(稲葉家)

    船造りとは軒先の長い屋根を支えるために、平軒桁に腕木を継ぎ足して出桁とし、垂木を置いた造りです。

   由比地方に多い特徴ある民家の造りです。

    下り懸魚とは、平軒桁の両端を風雨による腐食から守るために桁の両端に付けた雲形の板のことです。

 
                                  軒先の長い屋根

 
                                         軒桁の両端に雲の形をした板が取り付けられています。

 

 

 ★ 豊積(とよつみ)神社

   元旦から3日の朝まで行われている「お太鼓祭り」が有名だそうです。

 
                                                    社殿

 

 
                         本殿・・・流造(ながれづくり)の立派な屋根

 

 

 

  

 名主の家・小池邸・・・寺尾村の名主。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務,他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中で
                                                                 もっとも重要な役割を担っていました。

 

 

 ★ 間(あい)の宿・西倉沢村

   西倉沢村は、由比宿と興津宿の間の宿で、”さった峠”を登り降りする人馬が休息するために、

  茶屋が10軒ほど並び、茶屋本陣・脇本陣がありました。

  

   
            現在は人通りもなくひっそりとしていました。

 

 

 ★ 藤屋望嶽亭(ふじやぼうがくてい)

   藤屋は、間の宿倉沢の網元で茶店をしていました。アワビ・サザエの壺焼きが有名で、

  茶店座敷からの富士山の眺めが良かったので「望嶽亭」と呼ばれたのだそうです。

 
            望嶽亭                        西倉沢一里塚跡・・さった峠東登り口に位置し、日本橋から40里目

 

  望嶽亭では、幕末のドラマチックなお話をご主人にしていただきました。

 江戸城無血開城の交渉のため、府中(静岡市)にいる西郷隆盛に会いに訪れた幕臣・山岡鉄舟は、さった峠で官軍に遭遇してしまいました。

慌てて引き返した鉄舟は、望嶽亭の蔵座敷にかくまってもらい、漁師に変装し、隠し階段より脱出したそうです。

この脱出劇に一役かったのが、あの清水の次郎長だったそうです。そして、鉄舟は無事に府中の旅籠・松崎屋で西郷隆盛と会談することが

出来ました。この会談が江戸城無血開城交渉の第一歩になったようです。まさにこの地が歴史の舞台になっていたと思うと、興味深かったです。

現在も、当時と変わらぬ建物が残され(隠し階段も)、鉄舟が残して行ったというピストルもあり、まるで時間が止まったかのようです。

ただ、蔵座敷の隠し階段のすぐ下にあったという海だけが、今は遠く離れてしまい、時の流れを感じさせてくれました。

 

 

  さあ、いよいよ”さった峠”に登ります。

 現在は、道も整備され思ったほど大変ではありませんでした。

 幸運にも、厚かった雲がきれ、富士山と青く輝く駿河湾を一望することができました。                                           

  

 

 

 
                                             広重の保永堂版「東海道五十三次 油井」

   (とても良い景色だったのですが、やはり富士山は白い雪を被っているほうが存在感があり素敵かもしれませんね。)

 

 

                  
                      途中見かけたみごとなお花    きれいでした。  

 

 

 ★ 興津川川越跡

   興津川の川幅は当時25間(45m)あり、徒渡しだったそうです。

  旅人は、越し札を買って、人足の肩車や蓮台に乗り川越えをしました。越し札は、その日の水深により値段が異なっていたそうです。

 

 

 

 ★ 宗像神社

   平安中期に創建されたと伝えられています。

  大きな松の木が生い茂った森は、漁師の灯台の役目をしていたそうです。

 

            
                        現在も境内には大きな松の木が生い茂っていました。

 

 

 

 ★ 身延道標・興津一里塚跡

   
     この追分から身延までは3里                          興津一里塚・・・日本橋から41里目

 

 この辺りから興津宿にはいります。

 

     ◇           ◇           ◇           ◇           ◇           ◇           ◇

 

 今回は、お天気にも恵まれ、富士山を始めとして、青く輝く駿河湾、鈴なりのみかん畑などいい景色をたくさん見る事が出来良かったです。

 また、広重美術館で浮世絵の美しさを知ることが出来本当によかったと思います。

 日本の文化の素晴らしさを見直したいと思いました。

   


東海道あるき旅⑮(原~吉原宿~蒲原宿)

2015-11-09 | 東海道あるき旅

   このところ忙しい日々が続いてしまい、ゆっくりとパソコンに向かう事ができませんでした。

  東海道歩きは、夏の暑さが少し遠のいた9月中旬頃から、また、始めてはいたのですが、アップすることが出来ずにいました。

  原から蒲原宿まで実際は2回に分けて歩いたのですが、今回はまとめてアップです。

 

  吉原宿は、日本橋から数えて14番目の宿場で、現在の静岡県富士市にあたります。

 原から次の吉原宿にかけて、昔は ”浮島ヶ原"と呼ばれる広大な湿地帯が続いていたそうです。

 海抜が低いために水はけが悪く、 胸まで泥に浸かって田植えをしなければならなかったり、苦労して植えた作物も海水の流入により

 ダメになってしまったりと、人々はとても苦労していたようです。

 江戸時代初期から新田開発が進められ、排水路防潮堤が作られたそうですが、その工事はとても困難を極めて大変だったようです。

 

 
        浮島沼の干拓のために作られた水路。海水の流入を防ぐ関門も設けられています。

 

 
                           植田新田開発に尽力した植田三十郎のお墓 

 

 

                雲に隠れていて見えなかった富士山が、やっと頭を出しました。昔から、雄大な富士山が眺められる地として人気があった”宿”だそうです。

 

 

 
 増田平四郎は 度重なる水害から村民を救済するため、浮島沼の大干拓を計画し、大堀割(スイホシというそうです)を完成させました。

 

 
 高橋勇吉は、近隣の三つの水田を水害から守るための排水用の堀を14年かけて完成させました。自分の田畑を売って工事費に充てたそうです。

 また、天文の知識や土木技術に優れていたので、村人はこの堀を「天文堀」と呼んだそうです。

 

 ★ 妙法寺(毘沙門天)

  香久山妙法寺。日蓮宗。

  主神毘沙門天像は、聖徳太子の御作といわれ、開運の守護神として篤く奉られているそうです。

  毘沙門堂は平安末期に富士修験の道場として開かれたという説がありますが、よくは分かっていないそうです。

  大祭は江戸時代中期から始まったとされ、旧暦正月に行われる「だるま市」は、高崎・深大寺とともに日本三大だるま市として知られ

  多くの人びとが訪れるそうです。

 

 
       和風、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にあって不思議な感じがするめずらしい所でした。

 

 ★ 左富士

  東海道を江戸から京都まで旅するとき、富士山はいつも右手に見えますが、

  吉原の沼川を過ぎた辺りで道が大きく北へ向かって曲がっている為に、富士山が左側に見える所があります。

  それを「左富士」と呼ぶそうです。

 
 現在は、道の両側には工場が建ち並び、おまけに本日は雲も出てしまい富士山の姿を見ることは出来ませんでした。

 昔は、上の写真のように道の左側にちゃんと見えたんですね~。 長閑な感じでいいですね。

 

 

 江戸時代の吉原は、駿河半紙の産地だったそうです。明治23年、富士製紙工場が建てられ、近代製紙業の町へと変わっていったようです。

 そのため街並みも大きく変わり昔の面影は無くなっていきましたが、今でも江戸時代から営業している旅館が1軒だけ残っていました。

 

 
  次郎長や鉄舟がよく訪れていた宿「鯛屋旅館」です。現在も営業中。

  次郎長の写真や江戸時代に使われていたものなどが展示されていて歴史を感じました。

 

 

   
               現在の富士市内   土曜日だというのに人通りはあまりなく静かな感じ……

 


 

 
       常夜燈道標     ( 街道にはこのような常夜燈が置かれていました。 )

 

 

 ★ 雁 堤 (かりがねつつみ)

   江戸時代初期の富士川は、いくつもの支流があり、度々洪水を起こしていました。

  駿河代官・古郡重高・重政・重年の親子3代が新田開発と富士川治水工事を行いました。

  そして失敗を重ねながらも50年の歳月をかけ、大きな遊水地を持つ堤を築きあげました。

  大変な難工事で、富士川を渡ってきた千人目の巡礼僧が人柱になったという悲話が伝えられています。

  以来350年あまり雁堤は一度も決壊せず、下流域は洪水から救われたそうです。

 
   人柱になった僧を祀った神社「護所神社

 

 

 

全長2.7Kmの堤。 上から見た堤の形が、雁が連なり飛ぶ様子に似ていることから雁堤(かりがねつつみ)と呼ばれているそうです。

 

 
  堤に植えられた満開のコスモスのむこうには大きな富士山が見えました。 とても広々した気持ちの良い所でした。

 

 

 ★ 富士川渡船場跡

  慶長7年(1602)富士川の渡船が開始されました。

  東岸の川沿いには3ケ所の渡船場が置かれましたが、西岸には1ケ所だけが設けられました。

  主に東岸の水神社前におかれた渡船場が使われることが多かったようです。

 
                水神社

 

 

 

 

 
  現在の富士川に架かる橋                         富士川・・・川幅もひろく水量も多くゆったりと流れていました。

 
 川の向こうには富士山も見え、とてもいい景色でした。             対岸(西岸)の旧岩淵村

 

 

     ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※         

 

 富士川を渡り、橋の近くのお店で昼食です。本日はシラス丼とお蕎麦でした。桜エビものっていて美味しかったです。

 

     ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※

 

 

 西岸の岩淵村は、富士川を渡る前に、渡船準備のために人々が一時休憩をする間(あい)の宿でした。

 休憩施設としては小休み本陣、脇本陣、茶屋などがありました。

 

 ★ 小休み本陣跡(こやすみほんじんあと)・常盤家(ときわけ)

 

  

  

  
                                                            天然記念物のマキの木

 

 ★ 新豊院(しんぽういん)

  曹洞宗の寺院。布の大観音が有名。

 

 

 ★岩淵一里塚

  日本橋から37里目。

  この付近には岩淵名物「栗の粉餅」を売る立場茶屋が並んでいたそうです。

  栗を茹でて実をつぶし、裏ごしして粉状にしたものを餅にまぶしたもので、一皿12文だったそうです。

 

 
                                          栗の粉餅食べてみました。
                                          お餅の中には餡が入っていて、外側は栗の粉に包まれていました。

 

 

 いよいよ蒲原宿に入ります。

 ★ 蒲原一里塚跡

   日本橋から38里目。

 

 

 ★ 木屋三階建て土蔵(渡辺家)

  木屋の屋号をもつ渡辺家は、材木商でこの辺りの旧家です。

 この三階建の土蔵は「四方具(しほうよろこび)」または「四方転び」という柱組で、当時の耐震構造だったそうです。

 後の安政の東海大地震でも、この土蔵だけが無傷で耐えたようです。そのため江戸時代の貴重な資料を多く残す事が出来たそうです。

 

 

 

  蒲原は江戸後期の土蔵造りの町屋・連子格子の旅籠・明治大正時代の建物なども保存されていて、

 昔をしのばせる落ち着いた街並みでした。

 

  なまこ壁と「塗り家造り」の家

  

 

 

 ★ 蒲原夜之雪記念碑

  広重が描いた保永堂版「東海道53次」の中でも傑作といわれている「蒲原夜之雪」の記念碑。

 

 

 

 ★ 旅籠和泉屋(鈴木家)

   江戸時代の上旅籠。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れたそうです。

 

 

 ★ 西本陣跡(平岡家)

   黒塀に囲まれた建物は大正時代に建てられたものだそうです。

  

 

 

 

 
     手づくりガラスと総欅の家                       大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」

 

 

  

 西木戸にたどり着きました。蒲原宿もここまでです。

 

     ◇          ◇          ◇           ◇           ◇           ◇           ◇

 原から吉原にかけては、新田開発にかける人々の情熱と苦労を、地名や水路を見ることにより感じることが出来ました。

 富士川の堤防の素晴らしさ、満開のコスモスの花も見れてよかったです。

 蒲原のレトロな街並み・・・・・シラス丼 などなど・・・東海道を十分満喫することができました。

 残念なのは、思っていたよりも富士山を見られなかったということです。

 でも 、全体としては楽しいあるき旅となりました。