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東海道あるき旅⑪(箱根湯本~箱根関所)

2015-05-20 | 東海道あるき旅

   箱根山の火山活動により、大涌谷は立ち入り禁止になっていますが、

 東海道は大丈夫ということなので、箱根湯本から箱根関所まで歩いてきました。

 湯本駅前には取材に訪れている報道人の姿も見られましたが、特段変わった様子もなく、

 平和ないつもの温泉街で、賑わっていました。

 

  

 

 

 まず、箱根湯本駅から早川に架かる三枚橋を渡り、旧東海道にはいりました。

  
  53次の浮世絵と比べてみると、遠くに見える山の形だけは、昔と変わらず同じでした。

 

 ★  早雲寺

  早雲寺は、小田原北条家歴代の菩提寺です。

 天正18年(1590)、小田原攻めの秀吉は、始め早雲寺に本陣を構えましたが、

 石垣山に一夜城を築いた後、早雲寺に火を放ち燃やしてしまいました。そして本陣も石垣山に移しました。

 北条氏は5代で滅んでしまいましたが、北条一門の狭山北条氏と玉縄北条氏が生き残り、

 江戸時代初めの寛永4年(1627)に早雲寺を再建しました。

 境内には有名な枯山水庭園や北条5代のお墓があります。

 (枯山水庭園は今回見ることが出来ませんでした。現在は公開されていないようです。?)

 
          惣門                               北条5代の墓

 

★  正眼寺(しょうげんじ)

  湯本地蔵堂として有名だそうです。

 曽我兄弟のゆかりの寺でもあるそうです。

  

  
                                                           曽我兄弟供養塔

 

★  湯本茶屋一里塚跡

    日本橋から22里目。

       

 

★  石畳道入り口

   ここから芦ノ湖湖畔までの間の所々に、当時の石畳が保存整備されて残っています。当時を偲びながら歩いてみました。

 

 

★  鎖雲寺(さうんじ)

  江戸時代の初め、早雲寺にあった庵を移築して開いた臨済宗大徳寺派のお寺。

 歌舞伎「箱根霊験いざりの仇討」のモデルとして有名な勝五郎と妻・初花のお墓があります。

 足が不自由になった勝五郎が夫唱婦随で父の仇討ちをこの付近の箱根道で遂げるという物語だそうです。

 ここ湯本には「初花」という看板が多く見受けられますが、きっと内助の功で夫に本懐を遂げさせることが出来た素晴らしい妻として

 人々に受け入られているからなのでしょうね。お墓にも、きれいな花が手向けられていました。

 

 
                                            勝五郎・初花の墓・・・寄り添うように並んでいます。

 

★  女転し坂(おんなころしさか)

   箱根道の難所のひとつであり、急な長い坂道で、馬に乗った婦人がこの付近で落馬し、

  死んだことから「女転し坂」と言われるようになったとのことです。

 

 

★  割石坂(わりいしざか)

   曽我五郎が、富士の裾野に仇討に向う時、刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています。

 

★  石畳み

  江戸幕府は、湯本の三枚橋から須雲川沿いに進み、畑宿を経て二子山の南麓を通り、

  元箱根に至る最短距離の古い山道を拡張整備し、東海道のルートとしました。

 当初の山道は雨が降ると道がぬかるみ、脛まで浸かる泥道となってしまったそうです。

 そこで幕府は「箱根竹」という細い竹を束ねて敷いたそうですが、竹なので1~2年で朽ちてしまいメインテナンスが大変だったようです。

 それで石を敷き石畳とし、同時に並木も造成したのだそうです。昔の街道に植えられた並木は杉が多かったようですが、海の近くでは

 潮風に強い松が植えられたようです。杉の方が松よりもお金になりやすく経済的に理にかなっていたのだそうです。

 

 
         石畳の構造も現代の土木技術に劣らないすぐれたものだったようです。

 

★  茶屋本陣茗荷(みょうが)屋跡

   畑宿の名主・畑右衛門家は「茗荷屋」と呼ばれ茶屋本陣を営んでいたそうです。

  庭園が美しく浮世絵にも描かれていたほどだったそうです。

  今は昔の建物もなく説明の立札があるのみでした。

 

 

 畑宿は宿の名が付きますが、正式には畑宿村といい江戸時代以前からの集落です。

 今は、箱根伝統工芸「寄木細工の里」として知られていますね。箱根駅伝の往路優勝のカップも寄木細工で出来ているそうです。

 

 

 

★  畑宿一里塚

   日本橋から23里目。

 道の両側に塚が残っているのは、とてもめずらしいそうです。

 塚の直径は約9m、高さは4.5mで、右の塚にはモミ、左の塚にはケヤキが植えられていました。

 

          
        モミの木                                ケヤキの木

 

★  橿木(かしのき)坂

  

 

 

★  猿滑り坂

 

 

  急坂が次から次へと続きます。もうすぐ甘酒茶屋があるはずなのですが……。 ガンバレガンバレ

 

★  甘酒茶屋

  甘酒をだす茶屋は箱根八里の間に13軒ほどあったそうですが、この場所は間の宿の畑宿と箱根宿との中間に位置し、

 四軒の甘酒茶屋が並び立場としてにぎわっていたようです。現在は江戸時代から300年続く甘酒茶屋が1軒のみです。

 

 
     昔の旅人のように、ここで一休みで~す。 とても甘い甘酒でした。 少し元気になれたようです。

 

★  於玉坂(おたまざか)

     
  お玉という娘が関所破りをして捕まり、この辺りで獄門にされたのでこの名が付いたそうです。

 

 

 

 
  途中、皆で「唱歌 箱根八里」を歌ったりして楽しかったです。 本当に歌詞のとおり山深いところでした。

 

★  杉並木

 
  樹齢400年、高さ30メートルほど。 うっそうとした木立の杉並木でした。約400本位残っているそうです。

 

★  賽の河原

   芦ノ湖の湖畔にありました。

 

 

★  箱根一里塚

   日本橋から24里目。

 

 

★  箱根関所

   やっと関所までたどり着きました。閉館時間ぎりぎりでしたが、なんとか間に合うことが出来ました。

 現在の関所は、発見された資料に基づいて幕末の姿に完全復元され、平成19年より公開されているものだそうです。

 徳川幕府は、全国53ヶ所に関所を設けましたが、その中でも中山道木曽福島(長野県)、碓氷(群馬県)、東海道新居(静岡県)、

 そして箱根(神奈川県)の4ヶ所は、規模も大きく、最も重要な関所と考えられていたようです。

 関所の役割は、「入り鉄砲に出女」を監視することです。

 つまり、江戸に入る武器類と江戸から出ていく女性に対して、目を光らせていたと言われています。

 しかし、ここ箱根の関所では、幕府が安定した3代将軍家光時代の寛永9年(1632)以降は、「入り鉄砲」の調べは止め、

 もっぱら「出女」を厳しく取り締まったそうです。

 
                                    江戸口御門

  
                                                          足軽番所

  
 人見女(ひとみおんな)                                   面番所(めんばんしょ) 

 【 女性の検査は厳しく、「人見女」が関所手形と照合し、更に密書などが隠されていないか髪をほどいたり

                                        時には裸にして性別をチェックしたりしたそうです。】

 

 
  小高い所にある遠見番所から見た箱根関所と芦ノ湖。 とてもいい景色でした。まるで昔にタイムスリップしたようでした。

 

 
                                    京口御門 

 

 
  関所を出たところのお土産やさん

 

 

                                                                    

 

 箱根八里とよくいわれていますが、小田原宿から箱根宿までの4里8町(16.6Km)、箱根宿から三島宿までの3里28町(14.8Km)の

 合計8里(31.4Km)のことを示しているそうです。(36町=1里)

 江戸時代の旅では通常、小田原から三島または沼津までを一気に歩いたそうです。

 本当に昔の人の健脚ぶりには、驚いてしまいます。

 

 この東海道あるき旅の中で、一番きついコースであろうと思われる「湯本から箱根まで」を無事に終えることが出来、

                                                                  本当によかったです。

 これから、いよいよ静岡県に入ります。きっと、東海道らしい景色に沢山出会えることでしょう。 

 期待に胸がふくらみます。 では、では……  加油加油(がんばれ、がんばれ)です。 

 


東海道あるき旅⑩(小田原~箱根湯本)

2015-05-04 | 東海道あるき旅

 四月中旬、小田原から箱根湯本まで歩きました。

曇り時々雨という天気予報でしたので、空模様の心配をしながらの一日でしたが、

幸いにも途中たいした雨に降られることもなく、無事に行って帰ることができました。

 小田原には、本当にず~っと前30~40年位前に行った記憶があるのですが、細かいことはほとんど憶えていません。

今回、小田原城を中心に小田原の街を歩いてきました。

 

  小田原城

 小田原城は、15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏が築いた山城が前身で、

その後、戦国大名の小田原北条氏の居城となってから、支配地域を拡大しながら次第に拡張されていきました。

城下町全体を総構(そうがまえ)と呼ぶ9Kmにも及ぶ土塁で囲み、堅牢な城郭を築き難攻不落を誇りました。

しかし、秀吉に抵抗したため、天正18年(1590年)秀吉軍22万に包囲され、3か月以上籠城しましたが、

秀吉の石垣山一夜城の完成と降伏勧告に5代城主・氏直は降伏を決意し落城しました。

こうして小田原北条氏は5代・96年で滅んでしまったのです。

 北条氏滅亡後、家康の家臣・大久保氏が城主になると、城は改修され近世城郭の姿になります。

その後、大久保氏が改易され約50年間稲葉正勝が城主となり稲葉時代となりますが、

再び大久保氏が城主になり、明治まで180年間続きました。

 

 

 
   幸田門跡……小田原城三の丸の城門のひとつ        東側に続く三の丸土塁が小田原郵便局の裏側まで残っています。

 

 
   二の丸東堀                                     学橋

 
                                    二の丸東堀

 
        東堀に架かる学橋                   三の丸小学校が見えます。まるでお城の一部のようです。

 
  馬出門……二の丸正面に位置する門で、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。
          馬屋曲輪(うまやくるわ)へ通ずることからこの名が付いたようです。                                

 
                               馬出門を枡形の中から見た様子
                      

 
                                    住吉橋

 
   銅門(あかがねもん)……二の丸の表門、  門扉が銅板で筋状に覆われていたことによりこの名があるようです。

 

 
                    常盤木門……本丸御殿の正面にあり、城内で最も堅牢な門

 

 常盤木門を抜けると本丸御殿跡です。将軍宿泊専用の御殿で、畳だけでも670畳もあったそうです。

元禄16年の大地震で倒壊焼失し、その後は再建されなかったようです。

さあ、その先にいよいよ天守閣が見えてきました。

 

 
   天守閣は、戦時には望楼でもあり、また最後の戦闘拠点ともなりますが、平時は武具や食料の倉庫であったそうです。

 

折角なので、天守閣に上ってみました。

 

◇  報徳二宮神社

   幕末の農政家・二宮尊徳を祀った神社で明治27年(1894年)の創建だそうです。

   城内の一角、天守閣のすぐ隣にありました。

 

 
    お宮参りをしているご家族がいました。

  

  通称は金次郎。薪を背負って本を読む姿の像は、小さい頃見たことがありましたので、なんだか懐かしい気持ちになりました。

 金次郎は、天明7年(1787年)小田原郊外の豪農の家に生まれましたが、16歳の頃に両親と田畑を失い困窮する中、

 努力して勉学に励み、19歳で独立、23歳で父が失った田畑を取り戻したのだそうです。

 その後、 質素倹約を旨として報徳仕法と呼ばれる独特の合理的手法で小田原はじめ北関東の農村復興に尽力したのだそうです。

 

 

 

 
  三の丸小学校の校門、かっこいいですネ!                         箱根口門跡

 

◇  ういろう(外郎)

   創業600年。我が国最古の薬屋です。

  外郎家の先祖は中國「元」の官僚で、元が明に滅ぼされたので日本に渡り帰化したのだそうです。

  中国での官職名「礼部員外郎」から「外」の字を「うい」と読んで「外郎(ういろう)」と名乗ったそうです。

  家伝の薬「ういろう」は小粒の丸薬で胃腸・のどの痛み・痰に効き、船酔いにも効くといわれたそうで、

  旅人は常備薬として買い求めたようです。

  また、朝廷が外国使節を接待する際に供するお菓子を創り出し評判となり、それがお菓子の「ういろう」になったのだそうです。


       お店は、北条時代の8棟造りの姿をしていました。

 
  店内ではお薬とお菓子が売られていて、お客さんで賑わっていました。お薬の「ういろう」は一人二箱までしか購入できませんでした。

 

◇  小田原城総構早川口遺構

 
     城下町を囲んだ総構(そうがまえ)の土塁と堀の南西の虎口(城の出入り口)にあたる所です。

 

◇  大久寺

  小田原城主・大久保家の菩提寺。大久保寺の意味で「大久寺」と名付けたそうです。

  

 

◇  上方見附跡

  板橋見附とも呼ばれていたそうです。現在は信号の地名となって残っていました。

     

 

◇  板橋地蔵尊

 
                                  本堂右脇に木彫りの大黒天像がありました。

 

                                                                     

 

本日のお昼ごはんは、蒲鉾で有名な「鈴廣」でいただきました。一階の売店では色々な蒲鉾の試食が出来て、楽しかったです。

     
    
           金目鯛の炙り飯が美味しかったです。

 

◇  風祭一里塚跡

    日本橋から21里目の一里塚。  案内板の前の石仏は「小田原の道祖神」です。

     

    

◇  紹太寺と稲葉一族の墓地

  江戸時代の初期に3代・50年にわたり小田原城主だった稲葉氏の菩提寺。

 当時は広大な敷地に七堂伽藍があり黄檗(おうばく)宗では関東一の大寺院だったそうです。

 寺は、幕末と明治初年の火事で焼けてしまい、現在は稲葉一族と春日局のお墓が残っているだけのようです。

 
                             長い階段を上っていきます。

  
      上りきった所。    蜜柑の木が植えられた果樹園や山林になっていました。             

 
   樹齢330年以上のシダレザクラです。 もうすっかり若葉になっていました。 咲いているのを見られず残念でした。

 

                                                                  

 

 この後、箱根登山鉄道に沿うように歩いて箱根湯本駅に向いました。

若葉がしげる新緑のなかを歩くことが出来、とても楽しかったです。

車でしか来た事がなかった湯本に、歩いて来たという事が信じられませんでしたが、

すこしずつでも、一歩一歩進めば此処まで来られるのだという事が分かり嬉しかったです。

ういろう(お菓子)や蒲鉾も美味しかったです。