徒然なるままに……日々の出来事を

身の回りに起こる驚きや、小さな発見

東海道あるき旅⑥(戸塚~藤沢)

2015-02-26 | 東海道あるき旅

 一か月くらい前の雨の降る日に、JR戸塚駅から藤沢駅まで歩きました。

前日の天気予報では、未明から雪が降り、関東地方では多い所で5cmの積雪が見込まれるとのことでした。

どうしようか迷いに迷った末、参加することにしました。

雪の中を歩くなどという事は、滅多に経験することが出来そうもなく、

かえって、忘れられない思い出になるのではないかと思ったのです。

朝、少し降った雪は雨に変わってしまいました。雪の中を歩くというロマンチックな気分は吹き飛んでしまいましたが……

雨にもめげず参加者は多く、シニア世代の頑張りに驚きました。

 

  戸塚宿

  戸塚は、江戸から10里あまりの所にあり、東側に権太坂、西側に大坂があるので、体力の弱い人や女性などが宿泊しました。

また,大山への参拝客や鎌倉を訪れる旅人も加わっておおいに賑わったそうです。

現在は、往時の面影は全く残っていませんでした。

 

 ◇ 澤邊本陣跡

 

 

 ◇ 八坂神社・高札場跡

   戸塚宿の鎮守、地元では「お天王さま」と呼ばれ親しまれているそうです。

   八坂神社の前の道は鎌倉道の分岐点で高札場がありました。

 

 
毎年7月14日に行われる「お札まき」は横浜市指定無形文化財。拾ったお札を戸口や神棚に貼り、厄除けとするそうです。

 

★  富塚八幡宮

   前九年の役を平定するため、源頼義・義家親子が奥州に向う途中この地で露営し、

   その時見た夢により戦功を得たとして創建されました。

   夢に現れたのは応神天皇・富属彦命(とつきひこのみこと)で、富属彦命の墳墓といわれる塚を富塚と呼んでいたことから

   戸塚という地名が生まれたと言われているとのことです。

   

 

 

 

★  上方見附跡・大坂

  
上方見附跡の碑がある、その先の坂道が大坂と呼ばれ、昔は荷車や牛馬車の後押しをする商売があったほど、きつい坂だったそうです。

現在は、さほどきつい坂とは感じませんでした。

 

 

★  原宿一里塚跡

  日本橋より11里目。

 

 

★  浅間神社

 

 
古くからの原宿の鎮守社です。中世以降に流行した富士信仰をもとにし、各地に見られるようになった浅間神社のひとつです。

 

 

                                                                           

 

  
藤沢市の手前に”鉄砲宿”という変わった地名がありました。ここを過ぎてしばらく行くと”藤沢市”に入ります。

 

 
昔は、みごとな松並木が続いていたそうですが、現在では無残にも大半が枯れてしまっています。

 

 

★  諏訪神社

   遊行寺と道一本を隔てた向い側にあります。

 

 

 

 

 

★  遊行寺

  時宗の総本山で、時宗とは一遍上人によって開かれた浄土宗の一派です。

  一遍上人が念仏をとなえ、お札を配りながら全国各地を布教のために遊行したところから「遊行宗」とも呼ばれているそうです。

  その教えは、「信仰の有無にかかわらず、南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀仏が衆生を救ってくれる。」というものだそうです。

  とても立派なお寺で、境内もすご~く広く、大きな銀杏の木もあり歴史を感じました。

 
  本堂

 
                                   一遍上人の像

  

  
梅の花が咲き始めていました。                                      大きな銀杏の木

  
   冠木門様式の山門                             いろは坂と呼ばれる48段のなだらかな石段が続いています。

 

 

                                                             

  雨に降られながらの一日でした。

 着られるだけ着込み、カイロを貼って行ったので、寒さはあまり感じませんでした。

 晴れた日とはまた違った感じで、参加者皆との距離も近くなり連帯感も生まれたような気がします。

 でもでも……やっぱり次回は晴れますように!

 

 


東海道あるき旅⑤(保土ヶ谷~戸塚)

2015-02-09 | 東海道あるき旅

 今回は保土ヶ谷から戸塚までを歩きました。

お天気に恵まれ、冬だというのに歩き始めると汗ばむほどでした。

JR保土ヶ谷駅を出てすぐ左に曲がり、東海道保土ヶ谷宿に入ります。

江戸を出て最初の難所といわれる「権太坂」の手前にある宿場で、

当時の旅人はこの保土ヶ谷宿で休息し、鋭気を養ってから坂越えに挑んだそうです。

この宿内には金沢八景・浦賀へ通じる金沢道が分岐していて、その四つ角を「金沢横町」と呼んでいたそうです。

金沢道からは梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉江の島弁天参詣などへ

江戸や近在から多くの人々が訪れ、また、そうした人々によっても保土ヶ谷宿は賑わっていたようです。

日本橋から8里9丁(約33Km)、泊るにはやや近いけれども、

次の戸塚宿で泊まらせまいと、夕方には旅籠屋の前に、顔を真っ白に塗り紺の前垂を締めた客引きの女「留女(とめおんな)」が、

大勢立って客を引き込んだと言われています。当時の保土ヶ谷宿の賑やかさがしのばれます。

  
  道標4基がありました。
  右から・・・「円海山之道」  「かなさわ かまくら道」  「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花」  「富岡山芋大明神への道」

 

 ★  本陣跡(軽部家)

  軽部家は問屋と名主を兼ねた宿内の有力者です。

  現在は、門が残るのみですが、ご子孫が今もお住まいになっていらっしゃるようです。

  
          現存している門

 

 

 ★  保土ヶ谷一里塚跡

  日本橋から8里目になります。

  京都側の出入り口となる上方見附もこの近くにあったみたいです。

 

 

 ★  外川神社

 

 

 ★  樹源寺

  日蓮宗のお寺。身延山久遠寺の末寺として開山されました。

 

  
        静かなたたずまいの境内                            日蓮宗の紋

 

 保土ヶ谷宿をすぎいよいよ”権田坂”にさしかかります。

 江戸を発ってから東海道は海沿いの平坦な道が続いていましたが、 

 ここから本格的な長い傾斜のきつい坂道となります。

 昔は、道の両側に鬱蒼とした松の木が立ち並び、旅人にとっては最初の難所になっていたようです。

 どんなに急で長い坂道かと期待していたのですが、思った程ではありませんでした。(期待し過ぎてしまいました。)

 

 「権田坂」の由来には二つの説があるそうです。

 ・「老人の返事」説・・・ある時、旅人がこの坂で近くにいた老人に坂の名をたずねた所、その老人は自分の名前をきかれたと思い込み、

              「ごんたです。」と答え、その名が坂の名になったという事です。

 ・「本当は権左坂」説・・・昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいて出来た坂道「権左坂」が、

                いつのまにか「権田坂」と呼ばれるようになったという事です。

 さて、どちらを信じますか?と、書かれた説明板が、権田坂小学校の前に建っていました。

 

 
      権田坂の入り口

 
   坂を上り終え、少し行った所。     雪の富士山が遠くに見えました。

 

 ★  投込塚跡

  病や疲労のため、行き倒れた旅人を葬り埋めた塚。

  宿場の外れにはこのような無縁仏を葬る塚があったようです。

  やはり、昔の旅が過酷であったということだと思います。

 

 

 ★  境木立場跡

  権田坂を登ったところが武蔵国と相模国の国境で、”境木”と呼ばれていたそうです。

  境木には”立場”があり、権田坂を登ってきた旅人が一服しながら、名物の牡丹(ぼた)餅をたべたようです。

(立場とは、宿と宿の間にある旅人の休憩所で、数件の掛茶屋があったそうです。杖を立てかけて休む場という意味から立場と呼ばれました。)

 

 ★  境木地蔵堂

  武蔵国と相模国との国境の峠の頂上にありました。

  

 

焼餅坂は、坂の傍の茶店で焼餅を商っていたので名付けられたようです。

 

 

 ★  品濃一里塚

  日本橋から9里目の一里塚です。

  今でも、道の両側の塚がほぼ当時の形で残っています。両側とも残っているというのは、滅多にないとのことです。

 

 明治初期の品濃坂の写真があったのでアップしてみました。

 現在とあまりにも違うのでビックリです。

 

 
      品濃坂を下ると東戸塚の街が見えてきました。環状2号線を渡ります。

 

 

 
  東海道から分岐し、大山に向かう道(追分)の入り口です。大山詣でに向う人々が通りました。

 

 
  益田家のモチの木。県の天然記念物で神奈川名木百選にも選ばれています。今は誰も住んでいないようでした。

 

 ★  齋藤家と赤レンガ倉庫

  明治14年頃、齋藤家が日本人として初めてこの場所でハムの製造を始めました。

  当時、戸塚は鎌倉郡に属していたので、「鎌倉ハム」と称して全国的に知られるようになりました。

  今でも齋藤家の自家用貯蔵庫として、現役で使われているそうです。

 

 

 ★  戸塚宿の江戸方見附跡・戸塚一里塚跡

 
               ダイエー戸塚店の前に建っています。

 
        見附跡の先、吉田橋との間に10里目の戸塚一里塚がありました。

 

 ★  吉田大橋

   広重の「東海道53次 戸塚」には、この吉田橋と橋の袂にある旅籠の様子が描かれています。

   
    現在の吉田橋辺り

 

                                                                       

  昔の人は、一日に30~40Km歩いたと言われています。京都まで、平均12泊13日で歩いて行ったそうです。

やっと、江戸時代の人々の一日分の距離を歩くことができました。

昔の旅の過酷さ、水杯をかわして大勢のお見送りを受けて出発するというのがよくわかります。

またその過酷さ故に、めったに行くことが出来ない旅に対する憧れは、

今の人々よりも強かったのではないでしょうか?

この後のあるき旅も頑張りま~す。