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東海道あるき旅⑭(沼津~原)

2015-07-24 | 東海道あるき旅

  連日の猛暑に少々バテ気味で、何もする気が起こりませんでしたが、今日は頑張ってアップしてみることにしました。

もうだいぶ前に歩いたので記憶も薄らいできていますが、なんとか思い出してみるつもりです。

 今回は、沼津宿から原宿までです。

梅雨の終わり頃の、曇り時々雨というお天気のなか歩いてきました。

 

★  沼津城本丸跡

  沼津城本丸跡は、川廓通りから入ってすぐの所にあり、現在は中央公園になっていました。

周りはビルや家が建て込んでいて、公園の中には木々もあまりなく、「沼津城本丸跡」の石碑がなければスルーしてしまいそうな所でした。

 沼津城は、三枚橋城より規模は小さかったそうですが、二代目・水野忠成(ただあきら)が文政元年(1818)老中になり、

幕府の財政を立て直す業績を上げたために5万石に加増され、幕末まで続いたそうです。

 

 

 

 沼津宿は、川廓通りから西に14町(約1.5Km)続いていました。

狩野川河口の川湊から、今の清水や豊橋への航路が開かれると、江戸へ年貢米や竹木類を積み出しました。

江戸時代の沼津は、鰹の産地で鰹節の生産は日本一だったようです。

 

 

★  本陣・脇本陣跡

  本町通りには、本陣3軒・脇本陣1軒の標識がありました。この辺りが、沼津宿の中心地だったそうです。

今は、走っている車も少なく静かな通りでした。

 

  

 

 

 

★  丸子・浅間神社

 

 
     もともとは、浅間神社、丸子神社という別々の神社でしたが、明治時代に浅間神社があった当地に、

    丸子神社が遷座され、めずらしい一扉二社となりました。

    拝殿の左側には浅間神社の提灯が、右側には丸子神社の提灯が かかっていました。

   

 

★  千本山乗運寺

  戦国時代の天文6年(1537)増誉上人が開基となり創建されました。

増誉上人は知恩院で修業の後、諸国行脚に出掛けました。そして沼津にまで来た時、農民が塩害の被害に苦しんでいるのを見て、

海岸に砂防林を築くことにしました。念仏を唱えながら千本の松の木を植えたそうです。

農民達は、上人に感謝し庵を建てました。これが乗運寺の始まりとなりました。

 また、沼津に住んだ若山牧水の菩提寺でもあります。

  

 
     残念なことに、お寺の境内に入ることはできませんでした。若山牧水のお墓を、遠くからズームでパチリ。

 

 

★  千本松原

  松原は、幅180メートル、長さ15.6キロメートルもあり、

 狩野川から田子の浦にかけての海沿いに、長~く延々と続いています。

 本当に広くて、静かでいい所でした。

 増誉上人像若山牧水碑井上靖文学碑などがありました。

  

 
                                   増誉上人の像  

 
                  「一本植えては なむあみだ  二本植えては なむあみだ」 の文字が刻まれていました。

 

 
   海沿いに長く続く千本松原。 はるか向こうまで松林が続いています。そして目の前には広大な海がありました。
      ( 今にも雨が降りそうなお天気だったので、海と松原のいい写真が撮れませんでした。 )

 

 
             若山牧水の歌碑         

 
                                     井上靖 文学碑 

 

 
 海からの強風を受けて、松の木がみな同じ方向に傾いています。 この松原がなかったら本当に大変なことになりますね~。

 

 

★  千本浜合戦首塚

  明治33年(1900)、暴風雨の時に倒れた松の根元から多数の人骨が発見されました。

 これを弔ったのが、この首塚で、この人骨は、天正8年(1580)に、武田と北条で戦った千本浜合戦の際の戦死者のものだそうです。

 

 

 

★  六代松(ろくだいまつ)の碑

   六代とは、平家6代目を継ぐ御曹司のことです。ちなみに、平家3代目が清盛です。

 平家一門の滅亡により六代は捕えられ、鎌倉に護送の途中、千本松原で処刑されようとしましたが、

 文覚(もんがく)上人の命乞いにより赦免となりました。しかし、結局はその後文覚上人の謀反に連なり処刑されてしまいました。

 その首を、松の根元に埋め弔ったと伝えられています。この松を土地の人々は「六代松」と称したそうです。

 六代の処刑をもって、平家の血筋は途絶えることになりました。

 
    天保12年(1841)松の木が枯れてしまい記念碑が建てられたそうです。

 

 

                                                                      

折角の沼津です。お昼ご飯は、沼津漁港へ…… 

 

  

 海鮮丼をいただきました。やはりいつ食べても新鮮で美味しいです。

 食べるのにむちゅうになってしまい、写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。

 

 

 

★  沼津藩領境榜示

 
     「従是東」だけの部分が残っていました。下半分の「沼津領」はありませんでした。

 

 

                                                                     

 いよいよ沼津領をでてに入ります。

昔この辺は、浮島沼を中心とした湿地帯だったそうで、住民は海へ放水路を作ったり、新田開発に努めたりしたそうです。

その名残の川(水路)や地名(大塚新田)が見受けられました。

 

 

 

★  松長一里塚跡

     日本橋から31里目

 
        民家の門柱の脇にありました。

 

 

原宿は、特になんの産業もありませんでしたが、雄大な富士山が眺められる地として人気があったそうです。

この辺りから、雨がポツリポツリ降り出してきました。残念なことに富士山の姿を見るどころではありませんでした。

 

 

★  松陰寺

  臨済宗妙心寺派の寺。享保2年(1717)白隠禅師が住職になりました。

 白隠禅師は、臨済宗中興の祖といわれた人で、「原」で生まれ「原」で没しました。

 「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と原の白隠」と謳われたそうです。

 

  

 
                                     白隠のお墓

 

 
                                           白隠産湯の井戸

 

            
                           問屋場跡

     

 
              本陣・渡辺平左衛門家跡……門が閉じられ今は誰も住んでいませんでした。

 

 

         ◇          ◇           ◇           ◇           ◇          ◇          ◇

 

   あまり良いお天気ではなかったので、雄大な富士山をまじかに見られずとても残念でした。

 でも、沼津の千本松原は、思っていたのより大きくて広く素敵なところでした。

 かなり前ですが、井上靖の「しろばんば}を読んだ時、沼津の海岸の描写があったと思いますが、

 千本松原のような海岸を想像することはできませんでした。

 やはりいろいろな所に行って、実際に見て、見聞をひろめるということは、大事だと思いました。

 これを機に、この夏、また井上靖の作品を読んでみたくなりました……。

  


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
東海道あるき旅⑭(沼津~原) (ナオ)
2015-08-17 23:07:16
おくさんの記事を拝見するようになり、道にある
石碑を注意して見るようになりました
千本松原の木は海の風で傾いていますね
実際に見て触れて、文芸を読むとより楽しめそうですね
沼津港の海鮮が食べたくなりました
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東海道あるき旅⑭(沼津~原) (おくさん)
2015-08-30 18:37:20
ナオさん
沼津港の海鮮は、とても新鮮でおいしかったですよ。
私もまた食べてみたいで~す。
私も今迄は歴史があまり好きではありませんでしたが、
この旅を通して昔の人々の生活を身近に感じることができ興味が湧いてきました。
また、涼しくなってきたので「あるき旅」続けていけたらと思っています。









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