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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

「玻璃之城」-「秋天的童話」に続いて(3)

2005-06-13 22:54:22 | Weblog
私の友人知人もたくさん移民して香港を離れた。

しかし、阿豪やその兄もあれやこれやと移民の努力をしながらも、結局最後には香港にとどまることを選択した。スタンレーも一度ハワイに様子を見に出かけたことがあるが、やはり移民は断念した。

「向こうに行ってゼロから始めるのはリスクが大きすぎるんだ」

スタンレーはふっきれたような顔をして結果をそう報告した。

阿ジョーの両親と兄、それと姉がカナダに移民したが、阿ジョー自身は結婚して香港に残り、柴湾に家を買い、夫婦共働きであくせく働きながらもそれなりに安定した日々をおくっている。

多くの企業が工場を大陸に移転したり、大陸の地方政府や現地企業と合弁で新しい会社を興したりしている。

また、ある新聞報道によると、大陸で働いている香港人の中には現地の生活が気に入りそのまま大陸で生活し続けてもいいと考えている人の比率が上がっているのだそうだ。

若者たちに関していえば、香港大学や中文大学、理工学院など香港の一流大学をねらうには成績が芳しくなく、かといって海外留学をするには経済的に無理がある場合は大陸の大学を受験したりするのだそうである。

これはまた聞いた話だが、大陸には香港人学生枠を設けている所があって、香港人学生は大陸の学生よりかなり合格ラインが低いらしい。もっとも学費の金額が両者同じかどうかはわからない。多分香港人学生のほうが高いのではないだろうか。

大陸の大学を卒業した学生がそのまま大陸で就職するケースも今では珍しくはないという。その方が大陸独特の人間関係や商習慣にすぐに溶け込めて、香港の大学を卒業した者より即戦力になるからだという話である。

こんな風に、香港と大陸の融合が進み、香港人が逆に大陸に活路を見出していくという状況も生れた。

映画「慕情」の原作者であるハン・スーインが香港を「借り物の土地 借り物の時間」と形容したのは有名な話だ。

だが、時代は変わり、今や香港は大陸から逃げ出す希望の目的地、あるいは外国へ移民するための基地ではなくなり、留まることも選択しうる土地となったのである。

返還を前に、多くの香港人にとって香港はすでに「借り物の土地」ではなくなっていたのではないだろうか。スタンレーやベリンダなど、香港で生まれ香港で育った香港人にとって、香港は自分のアイデンティティを置く場所なのだ。

「玻璃之城」-「秋天的童話」に続いて(2)

2005-06-05 17:06:42 | Weblog
「秋天的童話」をメイベル・チャンが構想していた頃、香港は発展の上昇気流の中にあった。しかし、人々はまだまだ過去の貧しさの記憶を持っており、ひたすら向上することを目指していた。

だが時代は変わり、香港は豊かになった。

この「玻璃之城」では、中年になった女主人公役の舒淇はセスナの操縦なんぞを習っているし、黎明たちは二人で隠れて会うためにえらくきれいな家を借りるのである。これは経済的にかなりなもので、まぁ香港人なら誰しもできるというものではないが、主人公たちをこう描くことで時代の変化を象徴的に表している、といえる。

つまり、「玻璃之城」に登場するのは奮闘努力しなければならない人物ではなく、豊かになった香港人であり、結果としてメイベル・チャンはそうした登場人物を通して香港社会の成熟した状態を描いているのである。

成熟した社会は、がむしゃらに夢を追いかける世界ではない。しかも、その先の香港の未来は中国への返還という香港人には選択不可能な運命にがっちりと拘束されている。思い通りに自由に夢を描ける未来はそこにはもうない。

「點算(てぃむしゅん)?」(どうしよう?)

私には不確かな未来を前に戸惑ってたたずむ香港人の姿と同様に、メイベル・チャンもまた迷い、考えあぐねているかのように見えた。

メイベル・チャン自身、その後自分を含めて香港人がどう生きればいいのかつかめていなかったのだろう。「秋天的童話」のように、単純に向上を目指しがんばるような応援歌はもう歌えないのだ。

しかし視点は定まらない。だから映画の中で過去を振り返っても、それは単にノスタルジアにしかならないのである。

「玻璃之城」では黎明と舒淇の二人の子供たちが香港の返還を迎える場面で終わる。しかし、その場面の意味するところは「秋天的童話」のラストシーンのように明確なものではない。

確かに、若い二人、つまりこれからの香港が、新しい時代を何はともあれそのまま受けとめて生きていこうとしているのだ、ということを表していると解釈することはできる。だが、それはやはりあいまいで、「秋天的童話」の力強さにはかなわない。

もちろん、それは仕方のないことなのだ。

「玻璃之城」の香港人は失うものを持った人々であり、「秋天的童話」の徒手空拳の人々とは違う。香港にとって、ただがむしゃらに前進する時代は終わってしまったのである。

「玻璃之城」-「秋天的童話」に続いて(1)

2005-06-03 22:53:35 | Weblog
3、4年前に私はメイベル・チャンの「玻璃之城」(ガラスの街)を観た。「秋天的童話」の監督作品とくれば見に行かないわけにはいかない。

内容はというと、こんなところである。

70年代に大学生だった恋人同士が、大学生活、学生運動、留学という経過の中で別れ、それぞれ別の相手と結婚したが、その後中年になって偶然再会し、また密かに愛し合うようになる。その後一緒に乗った車が事故を起こし、二人は死ぬのだが、その二人のそれぞれの子どもが二人の死の真相を追う中で反発しあいながらも、次第に自分たちの親のことを理解するようになり、97年の香港返還を迎える。

この子どもたちが自分の親たちを理解していく過程を描くことで、メイベル・チャンは返還前までの香港の姿を描き、その香港が返還を迎える場面を描くことで、香港が新しい姿に生まれ変わることを表そうとする。

見終えた後、私はため息をついた。

おそらくそれはメイベル・チャン自身の青春体験をもとに作られたストーリーなのだろう。バックに流れるブラザーズフォーの「トライ・トゥ・リメンバー」は私にも懐かしい曲だった。

しかし、はっきり言って失敗作である。黎明(レオン・ライ)の大学生役はちょっと無理がありすぎるということだけではなく(舒淇の方はもちろん許せちゃうのだけれど)、全編に漂っていたのは単なる甘ったるいノスタルジアだけであった。

例えば、学生運動の場面にしても、青春のひとコマとして懐かしんでいるだけとしか私には見えなかった。

さらに、大学の何かの大騒ぎの中で、黎明と舒淇がストップモーションでお互いを熱く見つめ合う場面があるが、まるで少女コミックの世界のようでおしりがこそばゆくなり、私は暗闇にまぎれて苦笑してしまった。

そこには監督メイベル・チャン自身が「トライ・トゥ・リメンバー」を聞きながら青春の感傷にうっとりと浸っている姿しか浮かび上がってこないのである。

この作品は98年製作だから、「秋天的童話」の11年後の作品であり、それぞれの主人公は違うとはいえ、いわばその続編の意味を持っているといえるだろう。