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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

「貼士」(チップ)についてのあれやこれや(3)

2005-06-22 23:16:52 | Weblog
ところでチップを払う側としてはできたら払いたくないのだが、もらう側は1ドルだって多くもらいたいと思うのが人情だ。そこでもらう側は払う側が少しでも払いやすいように、というか少しでもチップを多く稼ぐためにいろいろ心を砕くことになる。

その一例がおつりを細かくすることである。

例えば、150ドルの勘定で100ドル札を2枚出したとする。おつりは50ドルだから、日本なら普通50ドル札を1枚返すことになるはずだ。

しかし、香港は違う。多分ウェイターは20ドル札1枚、10ドル札2枚、5ドル玉1個、2ドル玉2個、1ドル玉1個をトレーにのせて持ってくるはずだ。

ここが勝負所である。いくらチップを渡すか、客は瞬時に決定し、すみやかにかつできるだけさりげなくトレーから自分の決めたおつりの額を取らねばならない。そうでないとダサい奴だと思われてしまう。

150ドルの勘定なら、サービス料で10%とられているし、10ドルくらいが妥当だと思うが、今日はまぁガールフレンドもいることだし、ちょっと見栄を張って20ドル置いておくか。となると、20ドル札と10ドル札をすばやく、しゅっしゅっと抜く。この場合両手を使ってもかまいません。要は速度だ。

または、帰りにはトラムに乗るから2ドル玉が要るしなぁ、として20ドル札と10ドル札と2ドル玉2個を取り、(ガールフレンドもトラムに乗るのでね。彼女の分も払わないといけないから)計16ドルをチップに置く。

んなもん、コーヒーはまずいし、ウェイトレスの態度もなってない。3ドルでいい、3ドルで。3枚の札と5ドル玉及び2ドル玉各1個をざっくり取り返す。この場合ウェイトレスから「多謝(どーちぇ)」と言ってもらえないこともたまにある。

勘定のパターンはさまざまだから、このチップの置き方のパターンも無限に増える。当然頭の悩まし方も無数にあるということになるが、これはもう場数を踏んで実地訓練で慣れるしか仕方がない。


「貼士」(チップ)についてのあれやこれや(2)

2005-06-20 22:29:01 | Weblog

「チップってどのくらい払えばいいのかねぇ」

私はいつかベリンダ・リーに聞いたことがある。

「あんたたちは外国人だから払わなくてもいいのよ、サービス料払ってるんだし。でも、香港人は仕方ないわね、払わないとケチだと思われちゃうから」

ということであった。しかし、ケチだと思われるのは外国人だって同じである。いつだったかこんなことがあった。

YMCAはチップを払わなくてもいい。私たちが夫婦で香港通いを始めた最初の頃は佐敦道のYMCAに泊まっていたのだが、その後近くの明愛白英奇賓館(カリタス・ビアンキ・ロッジ)に定宿を変えた。

で、ここもミッション系の組織だからチップを払わなくてもいいのだろうと思い、私は枕銭を置かないでいた。

すると、ある日の午後外出から帰ってきた時、その階を担当しているおじさんがしきりに何か話しかけながら私たちの部屋までついてくるのである。

さらにおじさんは部屋のドアまで開けてくれてしつこくしゃべりかけてくる。

「この部屋はわしが掃除しとるんよ。きれいになってるだろ。わしが担当してるからねえ。うんうん」

このおっちゃんは何を言っておるのか、解せないまま私は適当に相槌を打った。

「そーなの、唔該唔該」

それからなおドアに張り付くように立っているおじさんの鼻先でドアを閉めた。

しかし、おじさんの様子にはやや尋常ではないものがあった。何かをアピールしているのは確かなようだ。

しばらく考えて、私ははたと思いついた。

そうだ、あれはチップの要求ではないのか。きっとおじさんは枕銭を置いていないから、ご親切にも私たちにそのことを知らしめるためにああいった行動に出たのではないのか。

翌日の朝、私は枕の下に香港ドルのコインを置いてみた。

その後外出し、帰ってきてエレベーターを降りると目の前の小さなカウンターのところにいつものようにおじさんは座って新聞を読んでいたが、ふと眼を上げ、にっこりと極上の笑顔で挨拶してきた。

「你好。行街唖?」(こんちは。ぶらぶらしてきたんかね?)

「係呀」(そう)

「イッチバーン」

と、これは日本語であった。

つまり「いちばん」といったわけで、それが日本語で「最高」とか「すごい」という意味になるとおぼえている香港人がたくさんいるのだ。

例えば、阿ジョーが刺身を食べる時、醤油にしこたまわさびを混ぜて、いや訂正、わさびに醤油を落として、それを刺身にまぶして口に放り込み、満ち足りた顔をして言う。

「正(じぇーん)」(いける)

そして親指を立てて、

「イッチバーン デスネ」

いったい誰に習ったんだ、ったく。

だが、おじさんはもう後をついては来なかった。枕銭を獲得して所期の目的は達成したのでもう用はないといった模様であった。部屋に帰って枕を持ち上げてみるとコインはやはり姿を消していた。

「貼士」(チップ)についてのあれやこれや(1)

2005-06-19 21:27:41 | Weblog
香港はイギリスの植民地だったから、結構イギリス式の習慣が浸透している。チップなどはそのいい例だろう。茶餐廰やお粥や麺を食べさせる粥麺専家などの中国地元式食堂ではチップは払わない。

要するにテーブルで埋単するレストランではチップを払うが、出入口のレジで埋単する所ではチップは払わないと考えればいいわけだ。

こうしたレストランなどのチップは、ウェイターがもらった後カウンターのところの箱にチップをのせたトレーをひっくり返すようにざっと入れる。それを後で調理場のスタッフも含めてみんなで均等に分けるのだそうだ。

アメリカやヨーロッパには行ったことがないが、彼の地のレストランなどでは自分の受持ちのテーブルが決まっていて、もらったチップはすべてそのボーイなりウェイトレスなりの取り分となるそうだ。つまり彼らには給料はなく、そのチップで生活しているということになるらしい。この点では香港様式はまったく異なる。

第一、香港ではチップを払うようなレストランではすでに10パーセントのサービス料が加算されている。だから香港のチップは日本の心付けの意味合いがあるということになる。

ということは、香港のチップは欧米式と日本式の中間に位置するもののようだ。

このチップには香港人でも頭を悩ますことがあるらしい。

丸テーブルを囲んで一緒に食事をして割り勘で払う時など、まとめ役の人間が隣と真剣な顔でひそひそ話をしたりすることがある。チップを幾らにするか相談しているのである。

現金で払う場合はチップ分を余分に渡せばいいが、クレジットカードで払う場合はサインの時に自分でも金額を記入するようになっていて、その際にチップ分を上乗せして書いているようだ。日本の場合だと金額を確認してサインするだけだが、香港ではチップを払わなければならないだけに手間がちょっと余分にかかるわけである。

「玻璃之城」-「秋天的童話」に続いて(5)

2005-06-17 22:24:43 | Weblog
メイベル・チャンは1998年にこの「玻璃之城」を発表し、2001年に「北京楽與愛」という作品を制作した。これは、「香港から来た若者の眼を通して、北京の若者たちの実態を描く青春映画」なのだそうだ。彼女もまた大陸中国へ活路を見出しているようだが、その作品が日本で公開されたかどうかは知らないし、その後私の耳に入るほど話題になった映画を製作してはいないようだ。もっとも、私もそれほど映画に詳しい人ではないけれど。

周潤發は「男たちの挽歌(英雄本色)」のヒットで日本でも有名になったが、その後はハリウッドにまで進出し「王様と私」のリメイク版である「アンナと王様」に出演してジョデイ・フォスターと競演したし、主演した「グリーン・デステニー」がアカデミー賞を受賞して国際的な大スターになった。シンガポール人の奥さんをもらい、映画や事業の面でも順調らしい。

「秋天的童話」で十三妹を演じた鐘楚紅は1989年に突然実業家と結婚して映画から引退した。その後はCMに少し顔を出すくらいで、映画界から遠ざかった静かな生活を送っているという話である。

Danny Chan こと陳百強は、1993年の10月に死亡した。薬物中毒で1年以上もの長い昏睡状態の末に息を引きとったが、一時エイズにかかったのではという噂も流れた。35歳だった。

10年近く前のことになると思うが、スタンレーから盧冠廷というシンガーソングライターのカセットテープをもらった。一風変わった独特の曲ばかりだったが、なかなか良かった。後で調べてみて、彼が「秋天的童話」の音楽を担当していたのだということを知った。

「秋天的童話」の製作に携わった岑建勲は、アフロヘアーというより天然パーマのもじゃもじゃ頭に眼鏡というとぼけた風貌にしわがれ声で香港映画にコメディアンとしてもよく顔を出していたが、1989年の天安門事件の際、香港で中国の民主化を支援する運動の先頭に立って活動していた。その後長い間中国への入国を当局から拒否されていたが、昨年ようやく1回限りの「回郷証」が発行され、10日間ほど上海などを訪れたということがニュースになっていた。写真を見ると、かつてのもじゃもじゃ頭がすっかり禿げ上がっていた。

「玻璃之城」-「秋天的童話」に続いて(4)

2005-06-16 22:42:59 | Weblog
ところが、香港人が香港にアイデンティティを持つといっても、返還によってさらにその上に中国というものが存在するようになった。香港へのアイデンティティと中国へのアイデンティティはどちらが優先するのだろうか。

理屈で言えば当然中国が優先順位で一番となるはずだが、心情的にはそう簡単に割り切れるものではないだろう。私には、香港人はまだまだ大陸中国を一歩引いた目で眺めているように感じられる。

香港が植民地でなくなったとはいっても、それは香港人自身が独立を勝ち取ったわけではない。中国とイギリスの頭越しの交渉の下で、香港人たちは受動的にその運命を受け入れただけなのであり、そこには何がしか悲哀を含んだ諦めがあったように思える。

そのような状況の中では、メイベル・チャンは香港の明確な未来像を描くことはできず、ただ現実をなぞるだけしかできなかったのだろう。

「明天会更好」(明日はもっとよくなる)とは返還時によく言われた言葉だ。しかし、皮肉なことにこの言葉は「秋天的童話」にぴったりの言葉であり、「玻璃之城」にはそぐわない。

もし、「玻璃之城」で「明天会更好」を前面に出せば、それはひたすらしらじらしいものになっただろう。

かといって「明天会不好(明日はよくならない)」とはメイベル・チャンには言えなかった。それはそれを言う度胸がなかったのか、それともまったくそうは思っていなかったのか、そこは私にはわからないが。

だが、「秋天的童話」のような一直線のストーリーが描けないのなら、思い切って、揺れ動き迷い続ける香港人たちの姿をありのまま描くという手もあったのではないかと私は思うし、それができなかったことが「玻璃之城」の敗因だと考えている。

さらに、ひょっとしたらそれがメイベル・チャンの限界なのではないか、と疑ったりもするのである。