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香港独言独語

長らく続く香港通い。自分と香港とのあれやこれやを思いつくままに語ってみる。

赤白青袋外伝(4)

2007-12-20 21:06:43 | Weblog
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「頭は垂れても諦めはしない」

後期の赤白青袋は工場から大量生産され、値段が下がった。スーパーでも買えるようになり、材質はやや薄くなって、縫い目もちょっと粗くなった。後期の赤白青袋はおそらく大陸香港間の頻繁な往来に用いるのに都合がいいようになったのだろう。貨物取引の双方が必ずしもすぐに袋を「回収」する必要はなく、気が向いた時に持っていくことができるわけだ。

現在大陸で多くの模造品のコロ付の皮製キャリーバッグが生産されおり、値段も材質に比例して安くなったため、中年男性の中にはそれに物を入れて里帰りする人も出始めた。

庶民の生活水準の改善は往々にして生活の質の下降を伴うものだ。貧民に魚や肉を食べさせ、衣服を着させるには、彼らに大量生産された有毒なものを食べさせ、有害な繊維の服を着させるしかない。資本主義社会の富の公平さがよって立つものが正にこれなのだ。

しかし、赤白青袋は依然としてこれらの皮製のキャリーバッグに淘汰されてはいない。

英語のbag people とは、物をビニール袋に入れて街をさすらうホームレスの人を指す。羅湖で税関を通り抜ける赤白青袋は、ビクトリア湾の古い中国帆船のように香港人のさまよえる生活を表しており、また香港人の運命に逆らわない分をわきまえた生き方と同時に、運命に負けず奮闘努力する様を象徴している。

天秤棒が禁じられれば、布袋と手押し車を使い、禁令の下を頭を垂れて通りすぎていくが、自分の荷物は離さない。

赤白青袋外伝(3)

2007-12-19 21:26:57 | Weblog
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「風物調査」


伝えられるところによると、王家衛の映画がベルリン映画祭に出品されてから、映画の中の赤白青袋がヨーロッパの文化人の間で流行となり、それに荷物を入れて飛行機に乗ったりするようになったそうだ。

もし香港の民俗的名物を選ばねばならないとしたら、その他の二つが何か(鉄製のベッドかそれとも丸い折りたたみ椅子かだろうか)は知らないが、赤白青袋は「香港の三種の神器」のひとつに入れるはずだ。赤白青色袋には赤白青でないものもあるのだが、しかしすべてが赤白青袋と呼ばれることからみて、あの種の三色のナイロン生地の「威名」がどれほど轟きわたっているかがわかる。

私が資料をあたった訳ではないが、あれは軍隊などの、縁に銅製の輪がついていて、そこに綿の縄を通して口を締められるようになっているズック布の袋から派生してできたものに違いないと思う。

私も生地の専門家ではないが、想像してみるに、三色の布は街のズック布店が縫い合せる時に、「目測法」で幅を量るのに便利にできているのだろう。

赤白青袋は最も「愛国的」な現代的文化財なのだが、残念ながら今に至るも依然として誰もその歴史を研究しようとはしない。それは最低限の最も材料を節約したデザインだが、機能は多い。摩擦に強く、防水で、ファスナーで密閉でき、持ち手もついており、その上完全に平たく畳めるので、収納場所が少なくてすむ。

赤白青袋は香港の工業デザインの偉大なる成果なのだが、知的所有権はなく、誰が発明したのかも分からない、どうも集団的に創作されたもののようだ。

初期の赤白青袋は材質が厚くて、縫い目は太くて細かく、縁取りはきつく縫ってあり、上水のズック布店か雑貨店にしか売っておらず、手工業の生産物だった。

記憶では、あれは多分80年代初期に九廣鉄道と税関が大陸へ里帰りする老人たちが天秤棒で荷物を運ぶことを禁止したことに関係していると思う。帰省者たちは手に提げるカバンにしなければならなくなったのだが、税関は混雑し、帰省する人たちの多くは貧しい民衆で、貴重な皮製のバッグなど使えるはずがなかった。そこで、ナイロン生地の赤白青袋が、機運に応じて誕生し、さらに鉄パイプを組み合わせた、折りたたみ式の手押し車までできたのだ。

当時、私たちはまだ赤白青袋を「大陸袋」とか「帰省袋」とか呼んでいたが、それはずばりその名の由来を表していた。天秤棒の使用禁止がいつだったのか確定し(時)、国境の上水のズック布店(地)から調査を始めれば、赤白青袋の創始者(人)を探し当てることはさほど難しいことではないはずだ。


赤白青袋外伝(2)

2007-12-18 21:16:07 | Weblog
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「麻袋の日々」


子どもの頃、家は窪地にあり、木造の掘っ立て小屋には箪笥がなく、普段着る服は畳んで枕元に置き、あまり着ない服は麻袋で包んで、天井の梁につるしていた。そうすれば場所が広使えるし、湿気も防げる。

麻袋は元は米袋で、洗ってきれいにすれば、後は好きに使うことができたし、もしとっておいて自分で使うのでなければ、「くず屋さん」に売ればいくらかのお金になった。

梁に吊った包みは家財道具であり、一家離散の生涯を映し出すものでもあった。台風の季節になると、夜麻袋が石油ランプの下でゆらゆら揺れているのが見え、それが影に連れて見れば見るほど大きくなっていくのだった。

その後叔父が水夫になって海外へ出て行き、工場近くの部屋を引き払った際に、楠木の箪笥を我が家に運んできたため、麻袋の中の服を箪笥のそれぞれの引き出しにしまい込んだ。時にはどこに入れたか忘れてしまい、引き出し全部を探さなければならないこともあった。麻袋から箪笥に慣れるまでにはしばらく時間がかかった。

現在我が家のプラスチック製の衣装ケースは透明で、中が丸見えだから探すのが簡単だ。麻袋が赤白青袋に変わり、楠木の箪笥から新たにプラスチックの衣装ケースを使うようになり、新しい材料がみんなの生活を便利にした、というのが香港の豊かさなのだ。

安い赤白青袋から簡単に申請できるキャッシュカードやクレジットカードにいたるまで、現代社会の豊かな物質的生活はすべて有害なプラスチックによって維持されている。


赤白青袋外伝(1)

2007-12-17 22:23:04 | Weblog
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「舊時風光-香港往事回味」より『紅白藍袋外史』

作者:陳雲
発行:花千樹出版有限公司


「赤白青袋外伝」

部屋の中にぺちゃんこに畳まれた赤白青袋がごちゃごちゃと置かれているが、それは去年引越しの時残しておいたものだ。引越し、避難、収納、それと羅湖での往来の時に、赤白青袋ほど役に立つものはない。

赤白青袋は期せずして私にフランスの国旗を思い起こさせる。自由、平等、友愛。80年代初期に、朝早く母に連れられて里帰りする時、眼がぼうっとなって、ただ税関の地面いっぱいに赤白青袋がおびただしくうごめいているのが見えるだけだった。

郷里の貧しい親戚はただ単に赤白青袋の中の食料に目が釘付けになっているだけだったのだが、袋も一緒に残したことで、彼らがいつの日かこの色の意味に気がつくことがあるだろうか。

1989年に爆発した「天安門事件」の民主化運動は赤白青袋の流行に起因している、と私はずっと勝手に考えていた。もっとも、学術的訓練を受けたことのある人間がこんな考え方をすべきではないのだが。

だが、89年以後、大陸産の赤白青袋は簡単で明快な赤白青の三色を次第に使わなくなり、すべて雑多な色の袋か、外国アニメの登場人物を付け加えたものに変わってしまった。

赤白青、それは簡潔かつ清浄であり、またずしりと重い。



阿差

2007-12-15 01:37:34 | Weblog
「アチャ」とはヒンドゥー語で、「良い」とか「OK」とかいう意味だそうだ。

「隙間にご注意ください」でミシェル・チュガニは「摩囉差(もろちゃ)」がインド人の蔑称だと書いていたが、もうひとつ「阿差(あちゃ)」というのがあり、これはインド人やパキスタン人などへの一種の蔑称だ。まぁ、私たちが「日本仔(やっぷんちゃい)」と呼ばれるようなものである。

彼ら同士がヒンドゥー語で会話するときによく使う「アチャ」という言葉が中国人の耳に残り、彼らを「阿差」と呼び始めたという話だ。もちろん、インドには他にもウルドゥー語などたくさんの方言があるし、パキスタンはパキスタンでヒンドゥー語を使うのかどうか、これも私にはよくわからないが、要するに色の黒い彼らをひっくるめて「阿差」なのである。

呼ぶ側にとっては、インド人であろうとパキスタン人であろうとどうでもいいのだ。それは白人を称して「鬼佬(ぐわいろう)」と呼ぶのと同じだろう。アメリカ人でもフランス人でもスウェーデン人でも白人はすべて「鬼佬」なのである。

差別的心理というものは、実は結構大雑把なものであって、とりあえず相手より優位に立てればいいという感覚に裏打ちされている。相手を個としては見ず、総体としてしか見ないのだ。

この夏だったか、香港のテレビのある番組で、パキスタン人青年がゲストとして出演していて、キャスターからインタビューされていたのだが、彼はこんな趣旨の話をしていた。

「阿差」は蔑称だとは思うが、でも今ではさほど深刻なものとは考えていない。だから友人たちが面と向かって冗談半分に自分を阿差と呼ぶのは別にかまわない。しかし、見ず知らずの人が、すれ違いざまに自分を指して阿差という声が耳に入ったら、やはり反感を覚えるだろう。

そういう感覚は私もわかる。2年前だったか、スタンレーの肝いりでマカオへ日帰りの団体旅行に行ったことがあった。その時、各人のお土産の袋をまとめて置く際に、判りやすいように印か名前を書こうということになった。

みんなそれぞれ自分のあだ名などを書いていたが、私はどう書くと聞かれて、即座に、「写日本仔就得架」(やっぷんちゃいと買いとけばいいぜ)と言った。同行者たちは笑って「日本仔」と書いた。

だが、私も見ず知らずの中国人が背後でこそこそと私を日本仔と指差していたら、きっと気を悪くするだろう。

これはずっと前のことだが、スタンレーの親戚が広東省の中山県からやってきて、彼らとの食事会に誘われた。そのいとこだかはとこだかは結構事業で成功しているらしく、会社の部下たち数人と一緒に来ていたのだが、当然広東人らしく食事の合間はおしゃべりに夢中である。

こういう場合彼らは言葉のわからない外国人がいるからといってもおかまいなしで、自分のおしゃべりを制御しようとはしない。広東人に無言を強要するのは拷問として結構有効なのではないか、と常々私は思っているぐらいだ。

しかし、私のヒアリング能力はぜんぜんだし、そこへ持ってきて、中山県あたりの訛りの入った広東語だからなおさらわからない。私と老姑婆は蚊帳の外といった感じで、こっちも二人だけでしゃべりながら勝手にやっていたのだが、ふと「日本仔」という言葉が耳に入った。

孫文が日本へ行った時、日本人は彼を尊敬して土下座(叩頭という言葉を使っていた)したと言うのだが、その際「やっぷんちゃい」と言ったのである。

すると、スタンレーが慌てふためいて、「おいおい、こいつ広東語がわかるんだぞ」と制止したのである。私はさほど気にしてはいなかったが、スタンレーのその慌て振りに却ってこっちの方が驚いてしまった。

だがここでよくわかったのは、彼ら香港人自身が「日本仔」を差別言葉だとはっきり認識しているということだ。

そのことがあって、私はいたずら心を起こし、ある時スタンレーに電話し、受話器の向こうで「喂邊位?」(もしもしどなた?)という声が聞こえてから、「係日本仔嚟架」と言ってやった。すると、受話器からスタンレーのもう勘弁してよとでもいうような笑い声が漏れてきて、スタンレーの苦笑する顔が目に見えるようだった。

スタンレーのような善人相手にこんないたずらをする私も大分人が悪い。

短期滞在者の私たちにはミシェル・チュガニが書くような黒人差別を目にする機会は今までなかった。しかし、一方、とある香港好きの日本人が本の中で、国際都市の香港人は差別心を持っていない、と書いていたのを読んだことがあるが、それには安直過ぎると感じた。

ミシェル・チュガニが書くように、どんな種類のものかはさておき、私たちは誰しもが差別心を持っていることは認めておいた方が良さそうだ。