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打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで。

打楽器奏者山本毅が、打楽器について、音楽について、その他いろいろ順不同で語ります。

質問に応えて

2007年05月19日 21時10分04秒 | 音楽全般
質問に応えて

京都芸大を受験しようかなと考えてくれている高校生から質問がありました。

他の高校生諸君にとっても関心のあることがらだと思いますので、
私の答えと共にここに出します。

受験に関心のない方は今日の記事はとばして読んでください。



> 1.才能があるかないか、というのは、どのへんで判断できますか?

まず、「才能がある」という判断は比較的容易です。
才能が既に表に現われている場合は、判断するというよりか、その事実を認識し受け入れるという言い方の方が当を得ています。

* その分野に関して努力することが楽しい。
* 払った努力が着実に実を結んでいる。つまり、周囲の人たちよりも明らかに上達が早い。
* 多少の失敗もなぜか目立たない。
  というか、周囲の人がなぜかその人の欠点には目をつぶってしまう。

というような現象が明確にあれば、その人はまず間違いなく才能に恵まれているといっていいでしょう。

あと、その道のプロとか達人とかいわれる人がその人の演奏を聴いて、
「オッ、こいつ、何かあるぞ・・・?」となぜか感じてしまうというのもあると思います。

また、
もし、あなたが過去の京都芸大の入試課題曲を見て、「これなら自分も1年後には十分できるぞ!」と思うなら、あなたはすごく楽観的な人間であるか、ある程度の才能に恵まれているかのどちらかだといっていいでしょう。

なぜなら、ほとんどの人は、「こりゃ、だめだ」と、まずは感じるらしいからです。



反対に、むつかしいのは「才能がない」という判断です。
これは、非常にむつかしい。

というのは、才能が表に現われてくるのに時間がかかる人たちが大勢いるからです。

現時点で全く才能に恵まれているようには見えない人でも、半年後にはその才能を覆っていた障害物が取り除かれ、すばらしい光を放ち始めるという例がいくらでもあるからです。

ですから、私はその人がその分野で努力することが苦にならず、あきらめないで、コツコツと挑戦し続けている限りは、「才能がない」という判断はしないことにしています。

その分野で並はずれた努力ができるってのはやはり一つの才能だと思います。



> 2.京芸に限らず、音楽大学の入試では、その大学で打楽器を担当している先生の教育方針に合った指導を受けてきた人じゃなければ、合格する可能性は低いということなのですか?


そうです。ある程度可能性は低くなります。
ただ、あくまでもある程度です。

入試では、その人の実力と同時に将来性とか素質も判断します。

京都芸大の教育がその人に対して有効であり得るかどうかは重要な判断基準です。
つまり、「この人を我々が教えたら、上達してくれるかなあ・・・・?」ということです。

ですから、
その人が学んできた方向性が京都芸大の目指す方向性と一致しているかどうかは当然非常に重要です。

ただ、方向性が違うというのは決定的なマイナスにはなりません。

その方向性が違うと判断した場合、
その修正が可能かどうか、また、その修正のために割かねばならない時間と労力がどれくらいなのかも判断します。

とはいえ、優秀な受験生が定員以上にいる場合、より方向性の一致した人が有利になることは当然です。
現在のところ、京芸の入試には定員を超えて実力のある人が集まってきてくれていますので(感謝な事です)方向性の違いはかなり重いハンディになりうると思います。

それに入学後の事を考えて下さい。

あなたの音楽的価値観は、あなたが今まで受けてきた音楽教育に強く影響されているはずです。
ですから、もしあなたが京都芸大の教育ヴィジョンとは違う方向性の教育を受けていたとしたら、あなたは京芸の打楽器教師であるぼくの演奏にそれほど魅力を感じないでしょうし、そのレッスンをそれほど価値あるものとは考えないでしょう?

音楽における教育効果は、生徒が「この先生みたいな演奏ができるようになりたいなあ・・・」「この先生のレッスンを受けたいなあ」という思いを持てるかどうかに大きく影響されます。

ですから、あなたが京芸を目指したいというなら、まずあなた自身が私の演奏なり、音楽論を知って、それを学びたいという気持ちを確認し、
あなたを今まで導いて下さった先生が、「山本にだったらこの子を委ねたい」と思って下さることが大切だと思います。

また、そうでなくては入試合格に向けて努力すること自体難しいでしょう。その努力はあなたとあなたの先生とが二人三脚でするものですし。

・・・・以下省力

打楽器上達のためにどうしても必要なこと

2007年05月19日 21時09分41秒 | 音楽全般
打楽器上達のためにどうしても必要なこと、
それは聴くことだ。

良質の音楽を生であろうと録音であろうと録画であろうと、
とにかく聴きまくることだ。

かくいうぼくも、
(ぼくのフィールドはクラシックだから)クラシックを中心にとにかくいろんな音楽を聴きまくってきた。

音楽センス、特に様式感というのはまずは聴くことによって形成される。
こればっかしは早道、近道はない。
様式感なんてのは、教えられないものだ。
感じ取るしかない。聴いて感じるんだ。

あなたがどんな音楽をどんなくらい聴いてきたかが、
何年後かのあなたの演奏をかなりの部分決定してしまう。

練習だけでは上達しない。

音楽を聴くこと、
音楽について学ぶこと、
音楽について考えること、
歴史や文学、他の芸術を知ること、
外国語の勉強、

どれも大切だ。
特に中高校生時代ってのはものすごく感性鋭い時代だから・・・・。
中高生諸君、時間はいくらあっても足りないねぇ~!

では、とりあえず、さしあたって、どんな音楽聴けばいいか?

一つの参考意見は
ぼくの好きな演奏家を紹介したよね。

彼らのCDを片っ端から聴いていくってのもいいと思う。

あと、音楽史の流れに沿って聴いていくってのもいいね。
もし、あなたが高校生で音大受験を考えているなら、
まずはバロック、古典派から聴き始め、大学入学までにロマン派の主要作品まで聴いておくと入学後の勉強がスムーズに行くと思う。

20年ぶりに

2007年05月19日 21時08分43秒 | 音楽全般
20年ぶりに

2006年6月26日

先週の土曜日、ほぼ20年ぶりに東京交響楽団の天野佳和さんの演奏を聴いた。

ぼくは20年以上前、駆け出しのころ、天野さんと仕事で一緒になり、強烈な印象を受けた。

普段はおもしろおかしく冗談の連続で周囲をなごませることこのうえない人なのに、
ひとたび演奏が始まると、音楽以外のことには目もくれない、「全ては音楽のためだけに・・・・」といった風情で、ストイックなまでに無駄なく、的確に音を出していかれるその演奏に、大いにあこがれたものだ。

ほぼ20年ぶりに聴いて、その時の印象はいささかも揺らぐことがない。
本当に、「音楽ってかくあるべき!」と思わせる説得力のある、それでいて全く押しつけがましいことのない、的確な演奏をされている。

二日を経過して、まだ天野さんの演奏を聴けた喜びで興奮している。

天野さん、どっかの音大で教えておられるわけでもなく、打楽器関連のニュースで話題なることもほとんどなく、目立たず、地味な存在だけど、(いや、実はぼくが知らないだけで、東京では超有名人なのかもしれないが・・・・・)こんなすばらしい音楽家がいるんだと、声を大にして語りたい人だ。

もし、あなたが東京周辺に住んでいるなら、東京交響楽団のコンサートに行って、天野さんの演奏を聴けばいい。音楽大学での数時間のレッスン以上に豊かなインスピレーションを受け取ることができるだろう!いやあ、大げさな話しではない!

こういう人もいるんだ。日本のオーケストラって、結構すごいかも・・・・。
いや、日本のオケって本当は相当な実力だ。

もし、欧米のオケと同じくらいの予算をつぎ込んで、うまく経営すれば、十分世界の一流に互していけるはずだ。

だって、世界の一流オケに日本人奏者ってたくさんいるんだ。個々の音楽家の力は相当な水準だ。

ヤッパ社会が変わらないとね。

日本という国が文化にかける予算と熱意の乏しさは世界の七不思議だと思う。
先進国(あまり好きなことばではないが・・・、なんか差別的な印象があるような気が…)といわれる国の中で、こんなに文化にお金をかけない国は他にあるんだろうか?



ま、そんな悲観的な話しはこれくらいにして、
もう一度言いたい。

天野さんの演奏聴けて、

本当にうれしい!





会議のあとで

2007年05月19日 21時07分07秒 | 音楽全般
会議のあとで

2006年6月13日

今日は午後一時から六時半までほぼぶっ続けで会議だった。
終わったら茫然自失状態。
めっちゃ疲れた。



が、

そのあと一時間チョイ練習をした。
土曜日のコンサートに備えて楽譜の確認をしながら基礎練習。
音階練習も少しだけした。

そしたら、とたんに元気になった。

疲労回復には、ヤッパ練習が一番だ。

そのあと家まで一時間の道のりをのんびり歩いて帰った。

練習と散歩のおかげで、しんどい会議デーが結構楽しい一日のように思えた。

音楽っていいなあ・・・・・・。


霊の耳で聴く

2007年05月19日 21時04分29秒 | 音楽全般
霊の耳で聴く

2006年5月9日

不思議な体験をした。

以前、「霊とたましいとからだの耳」って話しをしたけど、
霊の耳で音楽を聴いたのではないかと思う。

Ludmila Ferber って歌手の歌を聴いた。ポップス系の教会音楽だ。
どこの人でどんな人かって全然知らない。たまたま聴いただけで、多分ブラジル人だと思う。

この人はキリスト教の牧師でもある女性だ。

で、彼女の歌は多分全曲自分で作詞作曲してると思う。伴奏はいたってシンプル、キーボードとドラムだけだった。

ぼくとしては、彼女の歌も演奏もそれほど好きなわけでもないし、
「メチャうまいなあ!」と思ったわけでもない。

実は、ぼく、どちらかというとポップス系の音楽は苦手の部類に入るんだ。

にもかかわらず、この人の歌を聴いていて、

(◎_◎;)  

「おっ!」って感じ。

最初は身体が反応した。
鳥肌がざーっと立って、筋肉がけいれんし、
聴きながら腹の底から叫び声が出てきた。
(なんせPAが入っててすごい音量だから、ぼくが叫んだぐらいではとなりの人に迷惑がかかったりはしない。ポップス系のコンサートって、耳がじょうぶでないと・・・・)

次に聴いたときは何でか知らんけど涙があふれるように出てきた。
全然止まらない。

しかし、その間ぼくの心というかたましいはいたって冷静だった。
別に感動したというような感じはなかった。

今この人のCDを聴きながらこれを書いているのだが、今冷静に聴いても、それほど好きな音楽とは言えないし、うまいなあとも別に思わない。

しかし、なぜか聴き続けてしまう。

不思議だ。

これは、ぼくのたましいの部分ではなく、霊がこの音楽を聴いて喜んでいるということではないかなあと思う。

好きな(尊敬してるを含む)演奏家

2007年05月19日 21時04分08秒 | 音楽全般
2006年4月28日

更新、滞ってます

書きたいことは山ほどあるが、ウー、時間がない・・・・。

そこで、今日は好きな演奏家を紹介しよう。
好きなって意味は尊敬するって意味も含んでるんだけど、
好きな演奏家、尊敬する演奏家、好きだし尊敬している演奏家等々・・・・・

指揮者

オットー・クレンペラー!
ジョージ・セル
カール・ベーム
フルトメンクラウ、もとい、フルトヴェングラー
クナツバーブッシュ
トスカニーニ
フリッツ・ライナー
サー・ジョン・バルビローリ
ヴァーツラフ・ターリッヒ
カレル・アンチェル
ブルーノ・ワルター

ピアニスト

リパッティー!
ルドルフ・ゼルキン
バックハウス
ギーゼキング
ヴィルヘルム・ケンプ
マイラ・ヘス
シュナーベル
クララ・ハスキル
エリー・ナイ
エドヴィン・フィッシャー
エミール・ギレリス
ホロヴィッツ!
ルービンシュタイン

ヴァイオリニスト

ヨーゼフ・シゲティー!
ヘンリク・シェリング
ナタン・ミルシテイン
オイストラフ

ヴィオリスト

パウル・ヒンデミット
ペーター・シドルフ
ドルジーニン
ピンカス・ズーカーマン
今井信子
山本由美子!

チェリスト

カザルス!
シュタルケル
ロストロポーヴィッチ(アルペジオーネソナタだけだが・・・)

弦楽四重奏団
アマデウス弦楽四重奏団!

フルート

ニコレ
ツェラー
細川順三
大嶋義実

オーボエ

ローター・コッホ

ティンパニ・打楽器

ゲオルク・ブライヤー
ウェルナー・テーリヘン
クロード・ダフ
中村功
かつて教えた、また、今教えている全ての打楽器奏者たち

マリンバ

レイ・ハワード・スティーブンス
種谷睦子
かつて教えた、また、今教えている全てのマリンバ奏者たち

相当偏見に満ちたリストかもしれないなあ・・・・。
けど、ここにあげた演奏家の演奏は生で聴いても、録音で聴いても、飽きることがない。
何度でも聴きたいと思う人ばかり。

しかし、過去の演奏家が多いなあ・・・・・。

耳をいくつ持ってるだろう?

2007年05月19日 21時03分50秒 | 音楽全般
耳をいくつ持ってるだろう?

2006年4月20日

人間には耳がいくつあるだろう?

二つだ!と、誰しも答えるに違いない。

ぼくの尊敬するピアニスト、ティニー・ヴィルツさんもそう語ったらしい。
門下生だった友人から聞いた話しだ。

「人間には耳が二つあります。
一つは頭の側面に。
そして、もう一つは心に・・・・・
音楽は心の耳で聴かなくてはなりません。」


\( . . )


そう、本当にそうだ。肉体の耳と心の耳がある。アーメン!

肉体の耳で聴くのは音だ。
音楽は心の耳で聴くものだ。

そして、最近ぼくは思う。

人間には耳が三つあるんじゃないだろうか?

肉体の耳と、心の耳と

そして、

「霊の耳」だ。

人間には肉体と、たましいと、そして霊があるとぼくは信じている。

で、たましいに響く音楽もあるし、
たましいと霊との両方に響く音楽もある。

そして、霊だけに響く音楽もあるかもしれない。
いや、きっとある。

ぼくはバッハの音楽がものすごく好きだ。
バッハについての知識はさほど持っているわけではない。
彼の作品を全部聴いたことがあるわけでもないし、その生涯を詳しく調べたわけでもない。

しかし、彼の作品を聴いたり演奏するとき、ことばでは言いつくせない感動がある。

それは、
バッハの音楽がたましいと霊との両方に響く音楽だからではないだろうか?

映画に

2007年05月19日 21時02分45秒 | 音楽全般
映画に

2006年4月5日

今日は妻と映画を見に行った。
ナルニア国物語 ライオンと魔女って映画。

すごくおもしろかった。

映画ってすごいエンターティメントだなあって思った。

最初、まだ物語の本題に入る前、主人公の子どもたちが汽車に乗って疎開の旅に出る。
そこですでに感動してしまった。

なんたる演技のうまさ、カメラワークの巧みさ、映像の美しさ!
もうびっくりしてしまった。

ちなみに、ぼくは映画ってほとんど行ったことがない。
あまり、興味がないんだ。この映画も見に行くつもりは全くなかった。

今回はナルニアって映画のチケットを家内が友人と行くつもりで買っていたのだが、なぜか巡り合わせで、その友人が別の日に行ってしまい、「一人で行くのはイヤじゃ・・・」とのたまったので、一緒に行ったわけ。

要するに、家内と二人でどっかに行けるからってのが動機で、映画が見たかったわけではない。

しかし、家内と二人で映画見て、かかったお金が2300円。交通費を入れても3000円で2時間以上楽しめた。

これは、コンサートに人が来ないはずだぁ・・・・・・・!

\((;◎_◎)/!

と、思ったねえ。

アンサンブル・フィリアのコンサートは一枚2000円だ。

2000円は非常に安いとよく言われていたが、それでももしカップルで聴きに来てもらったら、4000円だ。

帰りにちょっとケーキとお茶でも飲んで帰ったら、交通費も含めてすぐに6-7000円かかってしまうだろう。

庶民の年収が300万円って時代が来ると言われている昨今、これではなかなかお客さん集まらないよなあ。

実は、日本のコンサート、ぼくが昔留学していたドイツに比べたら、ものすごく高いんだ。
ケルン放送交響楽団の定期演奏会は学生券一枚一マルク、約80円だった。
一般席も一番安い席が5マルク、400円だった。
アマデウス弦楽四重奏団のコンサートはいつもケルン音大がスポンサーになっていて、無料!
なもんだから、時には週に三日も四日もコンサートに行ってた。
貧乏学生でも、安月給のサラリーマンでも、コンサート通いが思う存分できる。
映画の方がよほど高かったはずだ。

それに、かの地ではコンサートが始まるのは7時半か8時。仕事や練習を終えてからゆっくり来れる。
晩飯を食ってからでも十分来れる。

そりゃあ、コンサートに行く人、多くなるよなあ・・・・・。

日本のコンサート、何とかもっと安くできないもんだろうか?
もっと、来やすくならないだろうか?
しばし、考え込んでしまった。

しかし、映画館の音って、もう少し何とかならないんだろうか?
あれは音の暴力だ。

耳元で大声で叫ばれているって感じだし、
トライアングルやシンバルが目の前で炸裂して、星が飛びそうになる。

(◎_◎;)

こんな音をしょっちゅう聴かされていたら、そりゃあクラシックのコンサート、物足りなくなるだろうなあと感じた。

だども、いくら映画がおもしろくっても、安くっても、やっぱりぼくは映画よりコンサートの方に行くだろうなあ。

ヤッパ、音楽好きだもん。

古楽器演奏

2007年05月19日 21時02分30秒 | 音楽全般
古楽器演奏 2006年4月3日

バッハやヘンデル、モーツァルト等、相当古い時代の音楽を演奏するとき、古楽器を使うのか、それとも現代の楽器を使うのかという問題は多くの人にとって関心のある話題だと思います。

以前、ある方からこの問題についての意見を求められ、返信をしたためたことがありますので、それを一部補筆改訂してここにのせておきます。

現在の古学復興の動きは、私にとっても大変に関心のある問題です。
当時どのような楽器で、どのようなスタイルで演奏されていたかを知ることは、有意義であり、必要なことだと思います。

しかし、当時の楽器をそのまま復元して、文献によって知ることの出来た当時の演奏スタイルに従わなくては正統的な演奏ではないという考えには賛成できません。

その理由は
まず第一に、楽器の変化は必ずしも改悪ではないということです。
バッハは存命中当時の楽器に完全に満足していたのでしょうか?
また、当時の楽器の性能の範囲内でいつも作曲していたのでしょうか?
また、当時の演奏習慣、スタイルに満足していたのでしょうか?

どの楽器も絶え間ない改良が試みられてきました。
その結果今では当時の楽器とはかなり変わってしまったことは間違いありません。
弦楽器などは当時作られたものであっても長い間にかなりの改変が加えられているはずです。
その中で大事なものが失われていった可能性はあります。

しかし、その改良の試みには、必ずさらによい演奏をしたいという動機があったはずです。

また、その際、どんな曲を、どんな演奏を求めてその改変が加えられたのでしょうか?

その時代のもっとも先端的な音楽の演奏だけを念頭においていたのではないはずです。

また、常に演奏家の恣意的な表現意欲の犠牲になってきたわけでもないでしょう。

それまでの音楽の歴史で生み出されたあらゆる時代の遺産を念頭において、
しかもそれらの作品がもっとも美しく、正しく、作曲家の意図どおりに鳴り響くことを願って改良が加えられたはずです。

確かにバッハの音楽は彼の死後忘れ去られた面もあって、演奏スタイル継承の歴史に断絶が生じている可能性もあります(特にオーケストラと合唱の編成とヴィブラート)が、モーツアルトもベートーベンもツェルニーもリストもシューマンもブラームスもシェーンベルグもバッハの音楽を愛していました。
つまり、あらゆる時代のすぐれた音楽家たちがバッハを演奏し続けてきたのです。

ですから、どんな音楽家もその楽器の改良にあたっては、いかに「バッハをも」より音楽的に演奏しうるかということを念頭に置きながら試行錯誤を重ねていったはずなのです。

現代においても、私の周りの音楽家たちが楽器を選ぶにあたって試奏するのはまず、バッハであり、モーツァルトであり、ベートーベンです。
楽器を選ぶ時現代曲を試奏する演奏家はまず少数派だと思います。

また、バッハの時代の楽器が彼を完全に満足させることが出来ていたかということを考えるとどうでしょう?

バッハが当時の楽器の性能に完全に満足していたと考えることは私にとってはあまりにも荒唐無稽な考えです。

たとえばティンパニー一つとっても、当時の楽器は調律したあと30秒ぐらいしかそのピッチを維持できません。

ですから、当時の楽器を復元して演奏している団体の演奏はCDであっても大体調子はずれのティンパニーの音が聴こえます。

調子はずれなのが正統的な演奏であるとは私には思えません。
バッハやヘンデルが「ティンパニのピッチなんてどうでもいいのさ」とうそぶいていたとはとうてい思えません。

ティンパニーの今まで300年にわたる改良の歴史はいかにピッチを安定させるかという点での苦労がその多くをを占めています。

また、ベートーベンの時代のティンパニーでは、いや、それどころか20世紀前半の楽器であっても、
たとえば4番や8番、9番の交響曲、ミサソレ、フィデリオ等の演奏には、音域の面でも、ダイナミクスの面でも、相当無理があることはティンパニー奏者であれば誰でも知っています。

モーツァルトのオペラが当時の楽器でちゃんと演奏できたとは到底信じられません。

チャイコフスキーやワーグナー存命中存在した多くのティンパニーの性能では、楽譜どおりの演奏はまず無理だったでしょう。

バルトークの多くの作品のティンパニーパートが楽譜どおりに世界中で演奏できる時代がくるまでは相当の年月がかかりました。

実際、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタをバルトーク夫妻がピアノを担当して演奏した録音が残っていますが、打楽器パートは抱腹絶倒というか、悲惨な出来です。しかし、当時の楽器では、「よくぞここまでがんばった!」というのが正直な感想です。

また、演奏スタイルヤ、テクニックを考えても、その時代の最先端を行く作曲家は、いかに演奏家が身につけた「常識的なスタイル」や「技術的限界」を突き崩して自分の思いどおりの演奏をしてもらうかにものすごく苦労しているものです(その点R・シュトラウスは達観していて、「いやー、何十年かたてばみんなやってくれるようになるさ」と言ったとか言わないとか。)ベートーベンも彼のハンマークラヴィーアソナタを普通のピアニストが弾けるようになるのには相当の歳月が必要だと考えていたようです。

演奏スタイルの変遷も、楽器の改変も、時代時代の音楽家たちが作品の本質をいかに理解し、実際の音として表現していくかの、血のにじむような探求の結果なのです。そこには負の側面もあったかもしれませんが、必ずプラスの面もあったはずなのです。

実際、バッハのバイオリン曲を多くのピリオド奏者たちが演奏していますが、
シゲティーやシェリングの様な崇高さに到達した演奏を聴いたことは残念ながらありません。

ピリオド奏者たちの演奏は、音やスタイルはとても共感できる時が多いのですが、
自分が本当に共感と畏敬の念を持って聴くことが出来るのはやはりシゲティーやシェリング、ミルシテイン等の巨匠たちの演奏です。
もちろん、彼らの演奏スタイルはすごくロマン的なものと感じ、バッハ的でないと思う時もあります。
しかし、そんな外面的なところでない本質的な部分で真のバッハとはこれだと納得してしまうものがあります。

ですから、当時の楽器や、スタイルを知ることはとても大切なことなのですが、
そこから何を取り入れ、何を捨てていくかが重要です。

私は基本的にプラスチックヘッドを張ったモダンの楽器を用いています。
ただ、作品の成立年代によってチューニングや奏法をいろいろ変えてその音楽に最もふさわしい音がするように工夫しています。

まだ、発売にはなっていませんが、長岡京室内アンサンブルで録音したモーツァルトのセレナータ・ノットルナではその音を聴いていただくことが出来ます。

音色の点では限りなくピリオド楽器に近くなっていますし、しかもピッチはすこぶる安定しています。

まあ、そこにくるまでには自分でピリオドの楽器を購入してずいぶん試行錯誤したのですが、
もう本番でピリオド楽器を使うのは出来れば避けたいところです。
やはりステージ上では音楽だけに集中したいのです。
ピッチの維持に神経をすり減らすのはつらいですね。
それに、どんなにがんばっても本当にあってる瞬間は一瞬でしかありませんし・・・。

まあ、そんな点で、ピリオド楽器の演奏家の成し遂げた成果には心から敬意を払いますが、
そうでなければ正しくない演奏だとは思いません。

今、私のCD棚ではモダン楽器による古楽演奏とピリオド楽器による古楽演奏が混在していますが、私はどちらも大変楽しませてもらっています。

アンナービルスマがバッハの無伴奏チェロ組曲を再録音した際、モダン楽器をピリオドの弓で弾いて素晴らしい演奏をしましたでしょう?ぼくはその姿勢にすごく共感します。

また、最近クイケンが無伴奏チェロ組曲をモダンスタイルの楽器で録音しました。これもすばらしい演奏です。

ちょうど昨日読んだアンノンクール氏のインタヴュー記事にこうありました。
古楽を演奏するにあたって「大切なのはどの楽器を使うかではなくて、どう弾くかです」と。

本当にそのとおりだと思います。

兵士の物語(その後)

2007年05月19日 21時02分16秒 | 音楽全般
兵士の物語(その後) 2006年4月3日

いずみシンフォニエッタ定期での兵士、終わったぁ!

楽しい本番だった。
太鼓を演奏するためにステージに出て行く時って、本当に楽しい。
思わず笑いがこみ上げてくる。今回も押さえようとしても押さえられず、舞台に出た瞬間にニコニコしてしまった。

結構シリアスな音楽なのに、これじゃマズイでやと思って、一生懸命まじめな顔をしようとしたが、全然無理・・・・。

しかし、だからといって緊張してないわけではない。ヤッパ、ドキドキするし、身体も若干硬くなる。

で、事故も起こる。

何年か前、事故った同じ箇所で事故ってしまい、ちょっと落ち込んだ。
しかも、その時聴きに来てた生徒(今はプロになって、同僚になってるが)がまた聴きに来てくれているのにもかかわらず、その前でやっちゃったんだ。
チョイがっくし・・・。

でも、「まあ、いいや」と、すぐ開き直る。

かのアンノンクール氏も言ってる。
「芸術において美と安全とが両立しないのは自明の理だから」と。

最後のソロはクレッシェンドで終わった。

今回の演出は、最後に悪魔が堂々と正体をあらわして終わる設定だったので、
クレッシェンドでいいと思った。
それに、バレエが無い場合は、センプレ・ピアノでは音楽表現としてはやや無理があると思う。

いずれは踊り、振り付けつきで、センプレ・ピアノバーションの演奏をしたいものだ。
次回の楽しみにとっておこう。

今回、スコアを再確認していたら、なんとパート譜のミスプリントを発見した。
今まで何度もスコアを読んだのに、なぜ発見できなかったのだろうか?

これだから、いつも心を白紙にしてスコアを勉強しないといけないんだなあ・・・・。

どこでしょうか?ナ・イ・ショのショ。

パート譜の間違い探しって結構楽しいんだ。皆さんからその楽しみを取り上げるなんてこと、できないで~す。

(V^-°)

最後になりましたが、ご来聴下さった皆様、

まことにありがとうございます。
また聴きに来てください。よろしくお願いします。   

兵士の物語(4)

2007年05月19日 21時00分30秒 | 音楽全般
2006年3月10日

兵士の物語、楽器に関する文献資料は知らないが、音の資料なら重要なのがある。

ストラヴィンスキー自身が指揮をしたCDが出ている。
で、そのCDで打楽器を演奏しているのがなんとウイリアム・クラフトだ。

これは重要な資料だ。打楽器奏者なら絶対に聴いておくべきものだ。
もちろんぼくもこのCDを持っている。

あと、ストラヴィンスキーの最大の理解者アンセルメの指揮した録音も聴いておくべきだろう。
この曲が初演された地、スイスで活躍した指揮者だ。

ただ、そういう資料を参考にする場合、気をつけないといけないことがある。

それは、その資料を絶対視しないことだ。

たとえば、その録音で使用されているバスドラム、作曲者が望む楽器であった保証はない。

「クラフトさん、もう少し小さいバスドラムありませんか?」

「いやあ、残念ながらこのスタジオにはこの楽器しかないんです。」

「じゃあ、別の楽器をどこかから運んできて録ることはできますか?」

そこでプロデューサーが一言、「いや、それは予算がありません。今日の録音のために払うギャラと場所代で精一杯です。」

「じゃ、仕方ない。これでいきましょう。」

てな会話が飛び交った録音である可能性はおおいにあるのだ。

ぼくは今までいろんな作曲家の立ち会いのもとで演奏する機会がけっこうあった。
その際、それが初演でなければ当然、初演の録音をはじめとした過去の録音を(あれば)参考にする。
特に初演の録音というのは、たいがい作曲者立ち会いで練習・本番が行われているので、最重要参考資料となる。

ところが、それを聴いていて、その演奏にどうしても納得いかない事がけっこうある。

で、その録音をほとんど無視して、自分の感性に忠実に演奏してみたら、作曲家もすごく喜んでくれる。・・・・・という経験をたくさんしてきた。

だから、作曲家の自演であろうと、立ち会いの録音であろうと、それを絶対視したり、縛られてしまうのはやっぱよくない。

楽譜同様、音資料も十分な考察による解釈が必要だ。



観察、解釈、適用 これが楽譜に取り組む原則だ。

まず、楽譜を十分に観察し、そして、読み取った情報を解釈し、そのあとでそれを音にすべく練習するわけだ。

この順番を飛ばして、観察した楽譜をいきなり音にしてしまうとアカンねん。

このフォルテはどんなフォルテだろう?
ここにあるスタッカートはどういう意図で書かれているのだろうか?
このアクセントはどういうニュアンス?

と、考察して解釈する必要がある。

観察、解釈、適用 この原則しっかりふまえよう。



ところで、
昨日書いてた
10年来の友人が大事な所持品をなくしたって事件、
無事に解決した。見つかったそうだ。

心配して祈ってくださった方もいらっしゃるでしょう。
感謝です。Hallelujah!

God is

未知との遭遇

2007年05月19日 21時00分16秒 | 音楽全般
2006年3月9日

今日は京響の定期演奏会だった。

毎回思うが、自分の街にオケがあるって幸せだ。

今日のメインプロはヴォーン・ウイリアムスの交響曲第6番。
こんな曲が生で聴けるのは、自分の街のオケの定期演奏会ぐらいで、他にチャンスはまずないと思っていい。

これが、いい曲だった。
京響の皆さんも熱演で曲の良さがバンバン伝わってきた。
打楽器陣もさすがの玄人仕事。

知らない曲を聴けるというのは本当にうれしいことだ。

家でCDをかけて聴いてみるってこともできるはずだが、そうなるとぼくの場合、ほとんど自動的に大好きなバッハに手が伸びてしまって、結局こういった曲は聴けずじまいとなることが多い。

今日も新しい経験ができて、幸せな気分。
ルンルンだ。

・・・・・・が、

友人が大切な所持品をどっかでなくしたという連絡が入り、
心配な気分だ。

早く見つかるといいが・・・・・。

祈ってから寝ることにしよう。

神様、***の大切な品々をどうか***の手に戻してください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン!


時間もないし、

2007年05月19日 20時59分45秒 | 音楽全般
今、勤務校は入試の真っ最中、
ぼくも時間がなく、
たとえあっても他の部屋では試験をしているので、音が出せず、練習がチョーむつかしい。

で、どうするかっていうと

全部ピアニシモで練習するんだべさ!
(これ北海道弁かも? ぼくは昔、札幌に住んでたんだ)

それもチョーゆっくり。

本来のテンポの2倍くらいのゆっくりテンポで、全部ピアニッシモでさらう。
これ、効果絶大ですよ。

手の動きを、身体の動きをしっかりチェックしながら・・・・・。

試しにやってみて。ぜったい損はしないよ。

それと、鍵盤楽器だったら、マレットを使わず、指先で弾く。
これなら、夜中でもできる。

これもゆっくり目のテンポでやるとなお効果的。

だまされたと思ってやってみてほしい。

明日も打楽器の専攻実技入試、二日目。
点数の集計もしないといけないし、   遅くなるなあ・・・。


兵士の物語(3)

2007年05月19日 20時59分14秒 | 音楽全般
兵士の物語(3)

このところ兵士の物語をさらってる。
簡単な楽譜なのに、なかなかうまくいかない。時間ばかりがどんどん過ぎ去っていく。

過去にも何度かステージに載せてるのに、その時はどうやってたんだろう?

( ̄~ ̄;)    ウーン・・・

この曲はしかし、練習も大切だけど、楽譜を読むことも同じくらい大切だ。
特にマレットの指定が細かく、けっこうややこしい。
説明書きがフランス語なのでいっそうややこしい。

これもねえ、ただ日本語に訳すだけではだめだ。それを解釈しないといけない。

たとえばバスドラムのバチとあるが、これを見ていきなりバスドラムのバチを持ち出してきてもだめだ。

一体どんなタイプのバスドラマレットをストラヴィンスキーが思い描いていたのかを考えないといけない。
ぼくの知っている限り、文献はない(誰か知ってる人いたら教えてくださーい!)ので、推測するしかないが、

ゴールデンベルクのモダンスクールを見ると、これは革巻きのマレットだと書いてある。
ゴールデンベルクはかなり昔の人で、ストラヴィンスキーとおそらく面識があったと思われるので、これは相当に信憑性がある。

・・・・・が、

そうするとだ、
ロイヤルマーチで「右手は固めのマレット、左手はバスドラマレット」と指定してあるところが、ほとんど聴感上差がなくなってしまう。

そうすると(「そうすると」が続くなあ・・・・)、
この指定を守るために右手に相当な技術的負担を強いているので、それが無駄になってしまう。

それもイヤだしなあ。・・・・・と考え悩むわけだ。

それに、バスドラムっていってもどんなバスドラムだろうか?

ぼくはこの曲のイメージとして、旅芸人一座とか、ストリートミュージシャンのグループを頭に描いている。
そんな人たちが使ってるバスドラムって、小さくって、言っちゃワルイが安っぽい音だ。
でも、一応由緒あるいずみホールをはじめとするコンサート会場で演奏するわけだから、多少はセレブな雰囲気もほしい。

というわけで、この曲のためにTAMAにバスドラムを特注で作ってもらった。
24インチの口径でヘッドは本皮だ。
それにバスタムの足をつけてもらって、床に横向きに置いて演奏できるようになっている。

結果はかなり満足。普通のバスドラより、かなり軽量な感じで、テナードラムとの音のつながりもスムーズだ。適度に安っぽく、適度にセレブな・・・・。

「一体ゼンタイ、そりゃどういう音だぁ?」

知りたい人は3月30日、いずみホールに聴きに来てくだされぇ!

ただ、マレットには注意しないと、普通のバスドラマレットではうまくなってくれない。

そんなわけで、バスドラマレットという指定の箇所を、実際にはどんなマレットで演奏するか、相当考えないといけないわけだ。

こうやってあれこれ考えるのも、面倒に見えて実は楽しい。

いやあ、打楽器ってホント楽しいよ。オモロイよ。ホンマやで!

兵士の物語(2)

2007年05月19日 20時59分00秒 | 音楽全般
兵士の物語(2)

兵士の物語の最後は打楽器のソロだ。
ここは演奏していて最高におもしろく、また、スリルのあるところだ。
今まで名手といわれる奏者たちが、どれほどひんぱんにここで事故を経験していることか・・・・。

ぼくは幸い今まで一度もここでは事故っていない。
だからといって、次もダイジョウブとは絶対に言えない。
いつ何が起こかわからないのがステージ上だ。

対処方はただ一つ。練習と祈りあるのみ。
ベストを尽くして練習する。そしてやるだけやったら、あとは神様の前に頭を垂れて祈る。
どちらが欠けてもだめなんだ。
練習不足はてきめんだ。そして、神の前にへりくだって祈ることも欠くことはできない。

やるだけやって、祈るだけ祈って、それでもミスった時は・・・・仕方がない。
その時はその結果を感謝して受け取るだけだ。

神様はミスというマイナスのできごとも、ぼくにとってプラスに変えてくださる方だ。



話しを元に戻そう。
この部分、多くの指揮者が徐々にクレッシェンドして、最後はフォルテシモまで持っていく。
で、ナレーションが悪魔の勝利を高らかに宣言し、大見得を切って終結となるわけだ。

しかし、この解釈には大いに問題がある。

まず、ストラヴィンスキーはこの部分をずっとピアノ一つで演奏し続けるよう指示している。
だから、作曲者の意図に反しているわけだ。

そして、もう一つの理由は悪魔に対する認識の問題だ。

この終曲、「悪魔の勝利の行進曲」と名付けられている。
だから、ストラヴィンスキーはここで彼のというか聖書の悪魔論を展開しているのだ。

悪魔は歴史の様々な場面でひどいことをしてきた。その度に彼は自分の勝利を自ら祝ってきたことだろう。
しかし、彼は断じて大声で勝利宣言をして大見得を切るようなことはしない。
いつも自分の存在を隠し続けてきているのだ。
悪魔はその邪悪な行為で人間社会をめちゃめちゃにし続けてきた。
しかし、どんなにひどいことをやったときでも、大体において彼は自分の存在を巧妙に隠してきたのだ。

そして、歴史は記録する。「ヒットラーが悪かった。スターリンがやったことだ。日本の軍国主義が悪かった。あの極悪犯誰それがやったことだ・・・・」と。

もちろん、邪悪な行為を為した本人の責任はあやふやにしてはいけないと思う。その責任はきちんと追求されていいと思う。歴史に記録されて当然だ。それが次の罪の発生を防ぐことにある程度役に立つ。

しかし、本当に悪いのは、人間を邪悪な行動に誘い込んだ悪魔だ。最も軽く見たとしても、共犯者としての責任が悪魔にはある。

しかし、彼はいつもさりげなく巧妙に隠れて働くので、その行動が補足されにくいのだ。

しかし、彼が行動した跡には累々たる遺体と、悲惨な肉体と心の傷が残り、多くの人々がその後何十年、何百年にもわたって苦しみ続ける。その最たる症状は「恨み」だ。
「赦せない!」「憎い!」「復讐したい!」そういう思いが人間を苦しめ破滅にまで追いやるのだ。
しかもこの思いは親から子へ、孫へと受け継がれていく。
あのユーゴスラビアの悲惨なできごと、ほんの十年くらい前のできごとだ。しかし、その根っことなった恨みは一体何百年昔までさかのぼることか・・・・!

しかし、悪魔はほとんどの場合、さりげなく、ピアノで、そしてとどまることなく働き続ける。
ちょうどこの曲の最後の打楽器ソロのようにだ。

だから、この部分はどうしてもピアノ一つでないといけない。
クレッシェンドしてフォルテシモで終わるなんてとんでもない。

また、ピアニシモでもいけない。
絶妙なピアニシモってのはかえって人の耳をそこに釘付けにしてしまうんだ。

悪魔はそんな愚かなことはしない。彼はものすごく知的なずるがしこいやつなんだ。

だからここは、さりげない、なんでもない、ただのピアノ一つでないといけない。
そして、どこまで行っても終わりがないかのように淡々と演奏し続けないといけないのだ。
そして、曲が終わって音がなくなって初めて「ァ、そういえばさっきまで打楽器が鳴ってたなあ・・・そういえば、あれソロだったなあ。いつの間にか他の楽器が消えていたのでソロだとは気づかなかった・・・・。それにたいして難しそうでもないし、かっこよくもないし・・・」という感じで終わりたいのだ。

今度のコンサート、指揮者の飯森氏はここをどんな風に解釈してくるのだろうか?
願わくはピアノ一つで譜面の通り演奏させてほしいものだ。

いうまでもなく、楽曲の解釈は指揮者が責任と権限を持っている。
その解釈は全曲を通じて一貫したものが必要だから、この部分だけを太鼓たたきであるぼくの解釈でやらせてくれとは言えない。

ぼくはこれまで兵士の物語、何度か演奏する機会をもらった。
でも、どのコンサートでも最後はクレッシェンドして終わったんだ。
演奏はその方がずっと楽だ。悪魔に扮したナレーター氏も高らかに勝利の笑いの声をあげて、お客さんも喜んでくれた。華やかなソロパッセージになってしまうので太鼓たたきとして拍手喝采を受けることもできる。

しかしぼくは「違うんだけどなあ・・・・。」と思いながら家路についてきたものだ。

でも、ピアノ一つで、さりげなく、何でもなさそうに、淡々と演奏するってのは技術的にも精神的にも相当に難しいことだ。

しかも、勝利にこっそりほくそ笑む悪魔の役を務めるわけだ。愉快ではない。

だが、もしぼくが歌い手であるとして、あのすばらしい「マタイ受難曲」を歌うことになったとしても、ユダの役をしたり、ピラトの役、パリサイ人の役、イエスを「十字架につけよ!」と叫ぶ群衆の役を歌うことだってあるわけだ。

ここは悪魔に対する警戒を訴えるためと割り切り、最善を尽くして「悪魔の勝利の行進曲」を演奏しようと思う。

皆さん、悪魔は現実の存在ですよ。警戒してくださいね。
人と人との争いや諍いのあるところ、必ず彼は働いてるんだ。
敵は人ではない。真の敵は人ではない。
その背後で隠れて働く悪魔、こいつが本当の敵だ。

シャローム、平和がありますように!