質問に応えて
京都芸大を受験しようかなと考えてくれている高校生から質問がありました。
他の高校生諸君にとっても関心のあることがらだと思いますので、
私の答えと共にここに出します。
受験に関心のない方は今日の記事はとばして読んでください。
> 1.才能があるかないか、というのは、どのへんで判断できますか?
まず、「才能がある」という判断は比較的容易です。
才能が既に表に現われている場合は、判断するというよりか、その事実を認識し受け入れるという言い方の方が当を得ています。
* その分野に関して努力することが楽しい。
* 払った努力が着実に実を結んでいる。つまり、周囲の人たちよりも明らかに上達が早い。
* 多少の失敗もなぜか目立たない。
というか、周囲の人がなぜかその人の欠点には目をつぶってしまう。
というような現象が明確にあれば、その人はまず間違いなく才能に恵まれているといっていいでしょう。
あと、その道のプロとか達人とかいわれる人がその人の演奏を聴いて、
「オッ、こいつ、何かあるぞ・・・?」となぜか感じてしまうというのもあると思います。
また、
もし、あなたが過去の京都芸大の入試課題曲を見て、「これなら自分も1年後には十分できるぞ!」と思うなら、あなたはすごく楽観的な人間であるか、ある程度の才能に恵まれているかのどちらかだといっていいでしょう。
なぜなら、ほとんどの人は、「こりゃ、だめだ」と、まずは感じるらしいからです。
反対に、むつかしいのは「才能がない」という判断です。
これは、非常にむつかしい。
というのは、才能が表に現われてくるのに時間がかかる人たちが大勢いるからです。
現時点で全く才能に恵まれているようには見えない人でも、半年後にはその才能を覆っていた障害物が取り除かれ、すばらしい光を放ち始めるという例がいくらでもあるからです。
ですから、私はその人がその分野で努力することが苦にならず、あきらめないで、コツコツと挑戦し続けている限りは、「才能がない」という判断はしないことにしています。
その分野で並はずれた努力ができるってのはやはり一つの才能だと思います。
> 2.京芸に限らず、音楽大学の入試では、その大学で打楽器を担当している先生の教育方針に合った指導を受けてきた人じゃなければ、合格する可能性は低いということなのですか?
そうです。ある程度可能性は低くなります。
ただ、あくまでもある程度です。
入試では、その人の実力と同時に将来性とか素質も判断します。
京都芸大の教育がその人に対して有効であり得るかどうかは重要な判断基準です。
つまり、「この人を我々が教えたら、上達してくれるかなあ・・・・?」ということです。
ですから、
その人が学んできた方向性が京都芸大の目指す方向性と一致しているかどうかは当然非常に重要です。
ただ、方向性が違うというのは決定的なマイナスにはなりません。
その方向性が違うと判断した場合、
その修正が可能かどうか、また、その修正のために割かねばならない時間と労力がどれくらいなのかも判断します。
とはいえ、優秀な受験生が定員以上にいる場合、より方向性の一致した人が有利になることは当然です。
現在のところ、京芸の入試には定員を超えて実力のある人が集まってきてくれていますので(感謝な事です)方向性の違いはかなり重いハンディになりうると思います。
それに入学後の事を考えて下さい。
あなたの音楽的価値観は、あなたが今まで受けてきた音楽教育に強く影響されているはずです。
ですから、もしあなたが京都芸大の教育ヴィジョンとは違う方向性の教育を受けていたとしたら、あなたは京芸の打楽器教師であるぼくの演奏にそれほど魅力を感じないでしょうし、そのレッスンをそれほど価値あるものとは考えないでしょう?
音楽における教育効果は、生徒が「この先生みたいな演奏ができるようになりたいなあ・・・」「この先生のレッスンを受けたいなあ」という思いを持てるかどうかに大きく影響されます。
ですから、あなたが京芸を目指したいというなら、まずあなた自身が私の演奏なり、音楽論を知って、それを学びたいという気持ちを確認し、
あなたを今まで導いて下さった先生が、「山本にだったらこの子を委ねたい」と思って下さることが大切だと思います。
また、そうでなくては入試合格に向けて努力すること自体難しいでしょう。その努力はあなたとあなたの先生とが二人三脚でするものですし。
・・・・以下省力
京都芸大を受験しようかなと考えてくれている高校生から質問がありました。
他の高校生諸君にとっても関心のあることがらだと思いますので、
私の答えと共にここに出します。
受験に関心のない方は今日の記事はとばして読んでください。

> 1.才能があるかないか、というのは、どのへんで判断できますか?
まず、「才能がある」という判断は比較的容易です。
才能が既に表に現われている場合は、判断するというよりか、その事実を認識し受け入れるという言い方の方が当を得ています。
* その分野に関して努力することが楽しい。
* 払った努力が着実に実を結んでいる。つまり、周囲の人たちよりも明らかに上達が早い。
* 多少の失敗もなぜか目立たない。
というか、周囲の人がなぜかその人の欠点には目をつぶってしまう。
というような現象が明確にあれば、その人はまず間違いなく才能に恵まれているといっていいでしょう。
あと、その道のプロとか達人とかいわれる人がその人の演奏を聴いて、
「オッ、こいつ、何かあるぞ・・・?」となぜか感じてしまうというのもあると思います。
また、
もし、あなたが過去の京都芸大の入試課題曲を見て、「これなら自分も1年後には十分できるぞ!」と思うなら、あなたはすごく楽観的な人間であるか、ある程度の才能に恵まれているかのどちらかだといっていいでしょう。
なぜなら、ほとんどの人は、「こりゃ、だめだ」と、まずは感じるらしいからです。

反対に、むつかしいのは「才能がない」という判断です。
これは、非常にむつかしい。
というのは、才能が表に現われてくるのに時間がかかる人たちが大勢いるからです。
現時点で全く才能に恵まれているようには見えない人でも、半年後にはその才能を覆っていた障害物が取り除かれ、すばらしい光を放ち始めるという例がいくらでもあるからです。
ですから、私はその人がその分野で努力することが苦にならず、あきらめないで、コツコツと挑戦し続けている限りは、「才能がない」という判断はしないことにしています。
その分野で並はずれた努力ができるってのはやはり一つの才能だと思います。
> 2.京芸に限らず、音楽大学の入試では、その大学で打楽器を担当している先生の教育方針に合った指導を受けてきた人じゃなければ、合格する可能性は低いということなのですか?
そうです。ある程度可能性は低くなります。
ただ、あくまでもある程度です。
入試では、その人の実力と同時に将来性とか素質も判断します。
京都芸大の教育がその人に対して有効であり得るかどうかは重要な判断基準です。
つまり、「この人を我々が教えたら、上達してくれるかなあ・・・・?」ということです。
ですから、
その人が学んできた方向性が京都芸大の目指す方向性と一致しているかどうかは当然非常に重要です。
ただ、方向性が違うというのは決定的なマイナスにはなりません。
その方向性が違うと判断した場合、
その修正が可能かどうか、また、その修正のために割かねばならない時間と労力がどれくらいなのかも判断します。
とはいえ、優秀な受験生が定員以上にいる場合、より方向性の一致した人が有利になることは当然です。
現在のところ、京芸の入試には定員を超えて実力のある人が集まってきてくれていますので(感謝な事です)方向性の違いはかなり重いハンディになりうると思います。
それに入学後の事を考えて下さい。
あなたの音楽的価値観は、あなたが今まで受けてきた音楽教育に強く影響されているはずです。
ですから、もしあなたが京都芸大の教育ヴィジョンとは違う方向性の教育を受けていたとしたら、あなたは京芸の打楽器教師であるぼくの演奏にそれほど魅力を感じないでしょうし、そのレッスンをそれほど価値あるものとは考えないでしょう?
音楽における教育効果は、生徒が「この先生みたいな演奏ができるようになりたいなあ・・・」「この先生のレッスンを受けたいなあ」という思いを持てるかどうかに大きく影響されます。
ですから、あなたが京芸を目指したいというなら、まずあなた自身が私の演奏なり、音楽論を知って、それを学びたいという気持ちを確認し、
あなたを今まで導いて下さった先生が、「山本にだったらこの子を委ねたい」と思って下さることが大切だと思います。
また、そうでなくては入試合格に向けて努力すること自体難しいでしょう。その努力はあなたとあなたの先生とが二人三脚でするものですし。
・・・・以下省力