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打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで。

打楽器奏者山本毅が、打楽器について、音楽について、その他いろいろ順不同で語ります。

音楽史のお勉強

2007年05月19日 21時25分08秒 | 音楽全般
音楽史のお勉強

2007年3月25日

このところ音楽史の勉強が大切だってことを書いてきたよね。

ウン、絶対に大切だ。
何度も書くけど、やっぱ大切なんだよ。

だけど、いつ、どんな作曲家たちがいて、どんな曲を書いてってことを知ることが、まあ、音楽史のお勉強の中心なんだけど、

ぼくたち演奏家にとってはもう一つ大切な音楽史の勉強がある。

それは、名付けるなら「演奏史」だ。

過去の演奏家たちが、演奏という行為にどうアプローチしてきたか、その歴史を知ることが大切だ。

最近、特殊なことではなく、ごく当たり前のことになってきた古楽器演奏の研究も、演奏史の研究の中に入るだろう。
バッハの時代、当時の演奏家たちは、どんな楽器で、どんな様式で演奏してきたのか?ってことを研究するのも演奏史の研究と言えるだろう。

これも大切な研究だ。

といっても、この研究は文献によってしかできない。
当時の音楽家たちが書き残した文章や、当時の芸術家が演奏の現場を描いた絵画によって知るのみだ。

そうなると、われわれ東洋に住む音楽家にできることはしれていて、まあ、その道の専門家たちの書いた本とか、演奏のビデオや録音から知識を得ることくらいしか手はない。

時にはアンノンクール氏やその他有名どころの古楽器演奏のスペシャリストたちが講演をしてくれたりして、そんな機会に勉強することもできたりする。

そんな勉強はすごく大切だし、実際とても有益だ。

しかし、しかしだ。
それも、結局は頭に入る知識か、間接的な知識だ。

で、というわけで、
ぼくが重視している演奏史の勉強は、耳から、または目と耳からの勉強だ。

そういう古楽器演奏家たちの演奏も含めて、昔からの多くの演奏家たちの実演や録音・録画にできるだけ多く接して、過去の音楽家たちがどのように演奏という行為に関わってきたのかを、感性で、すなわち耳と心とで知る必要があると思う。

例えば、トスカニーニとかブッシュとかまあ、ヒンデミット、ギーゼキング・・・・等々のいわゆる「ノイエ・ザハリッヒカイト」の旗手たちの演奏、

文献で知ることのできる彼らの演奏様式は、要するに「楽譜に忠実」な演奏だ。
当時彼らの演奏は「無機的・機械的」なほどに厳格な几帳面すぎるほどの演奏と評されたものらしい。

そんな演奏を、現代の我々が頭の知識だけで想像するならどんな演奏になるだろうか?
我々が思い描く彼らの演奏と、実際の彼らの演奏とは一致するのだろうか?

実際に彼らの演奏は録音でたくさん聴くことができる。

だから、ぜひ実際に聴いてみてほしい。

そうすると、彼らの考えていた「楽譜に忠実」というものと、現代に生きる我々世代の多くが思い描く「楽譜に忠実」という概念は相当に違うということが、実感できると思う。

特に、ヒンデミットという人は作曲家であり、名演奏家だ。

彼が自作自演している録音を聴くなら、彼の演奏スタイルというものがどういうものか、そしてそれが現代の演奏家の「楽譜に忠実」な演奏とどのように違うのかということがすごくよく感じ取れると思う。

ま、これは一例だが、
過去に演奏家たちが演奏という行為にどのように取り組んできたかの歴史を知るということは、現代に生きる演奏家である我々にとって、すごく大切なことだ。

いわゆる作品史、作曲の歴史を知るよりも、さらにさらに大切かもしれない。

作品の真の姿を探り窮め、それを、聴衆に提示するのが演奏家の最も大切な役割だ。

そのためには過去の演奏家たちがその作品にどう取り組んできたのか、その作品をどう観察し、解釈し、音にしてきたかを知るということがすごく大切だ。

そうでないと、その作品の真価をさらに探り窮めるということができないではないか。

過去の演奏家たちの成し遂げて来た成果をふまえて、さらに新しい領域に足を踏み出すのでなければ、その歴史に新しい一ページを書き加えることにならないわけだ。

未来に目を向けるためには、過去を知らなければならない。

歴史を学ぶということは、未来に向かって足を踏み出すという行為の裏づけになることなのだ。

音楽史、演奏史を知る。それも、耳によって、目によって、つまり、体験によって知るということ、これは演奏を生業とするものにとって必須のことではないだろうか?

などとかっこいいことを書いたが、ぼく自身それを十分してきたかと問えば、全然足りないと思う。

でも、全然やってないよりは少しでもやった方がましに決まってる。

だから、せっせと音楽会に通い、CDを集めてるわけだ。

しかし、昔は時間は十分あったが、そのためのお金がなかった。

今は、お金はまあまああるが、時間がなくなった。

CDを買うには買ったが、実際にはまだ聴いていないものが増える一方だ。

人生、なかなか思うようにはいかないなあ・・・・と実感する今日この頃だ。


┐(~ー~;)┌

もうすぐ入試

2007年05月19日 21時24分53秒 | 音楽全般
もうすぐ入試

2007年3月10日

入試シーズンだ。
私学の入試はもうほとんど終わって、国公立の前期も終わった頃か?

ぼくの勤務する京都芸大の音楽学部の入試は後期日程なのでもうすぐ開幕だ。

今年はどんな受験生が来てくれるのだろうか?
すごく楽しみだ。

この春卒業する4人、IさんとKさん、Mさん、Y君が入学してくるまでは、ぼくもプライベートレッスンで高校生を教えていた。
しかし、彼らが入試を受けたとき、前代未聞の結果、つまり、打楽器が4人も同じ学年に入学してきたという事態になり、しかも、その4人が4人とも、ぼくがプライベートで教えていた生徒さんだったものだから・・・・・・、

それを機会に受験志望の人たちを教えることをやめた。

採点にあたっては、常に公平を期してきたつもりだったが、それでも毎年結果的にはぼくが教えた人たちが合格する率が高く、これではいかんなと思ったんだ。

そのあと3回の入試を経験し、いろいろなところから多様な受験生が集まり、かつ入学してくれるようになって、よかったなと思ってる。

ま、しかし、一面では、かつてぼくが受験生を教えてた時代に、当時それほど注目されていない高校生の才能を発掘したこともある。その人は今りっぱにプロでやっている。

多分、その人はぼくが教えていなければ、京都芸大を受験することさえもなかったと思うし、受けたとしても合格の可能性はなかっただろうから、高校生を教えてるメリットもあるといえばある。

だが、今はどうあがいても高校生をレッスンする時間を見つけることはできない。
大学の仕事が忙しくなりすぎた。

(~ヘ~;)

京都芸大の入試では複数の教員が採点する。
それぞれの先生方がそれぞれの観点で採点するので、誰か一人の意見で結果が決まってしまうことはない。

だけど、ぼくが入試でどのような観点で採点しているかをここで公開しておくことは、決してむだではないと思うので、書いておこうと思う。

もちろん、これはぼくの観点だ。
他の採点者がどのような基準で採点しておられるかは不明だ。

まず、知っていてほしいのは、
入試は落とすためのものではなく、合格してもらうためにある。

つまり、決して減点法で採点するのではないということだ。

課題曲の発表から4ヶ月にわたり、合格をめざして努力してきてくれた受験生諸君だ。正常な精神状態で演奏できるとはまず考えられない。緊張のあまり、間違ってしまったり、手がふるえてしまって弱音のコントロールが不安定になったりすることもあるだろう。

でも、そんなことで減点したりはしない。もちろん程度問題だが・・・・。
実力不足でのミスなのか、単なる緊張によるミスなのかくらいは、判別できるつもりだ。

だから、ミスを恐れないでほしい。
もし、ミスがあってもそれを引きずらず、次のフレーズをちゃんと演奏することに気持ちを集中してほしい。

ぼくが知りたいのは、その人が基礎的な音楽性とテクニックをちゃんと身につけているかどうか、
そして、音楽を表現する能力、コミュニケーション能力といってもいい、聴き手に対して演奏によって語りかける力をどれくらい持っているのか、また、音楽を生涯にわたって追究していくだけの熱意と勤勉さを持っているかどうかだ。

1日目の試験では、

テクニックを見る。
力が抜けて、リラックスした、響きのある音がでているかどうか?
自然な身体の動きを身につけているかどうか、特に肩、ひじ、手首、指の動きが自然かどうか?
を見る。
手が早く動くかどうかとか、より強い音が出せるかどうかとかには注意を払っていない。
力を抜いて自然な動きでスティックを動かすことができる人なら、
別の言い方をすれば、響きのある自然で心地よい音色を持った人なら、
ちゃんと努力すれば、必要最低限のスピードやパワーはいずれ必ずちゃんと身につく。

だから、その人がどんな音色を持っているかがすごく重要だ。
どんなに正確に、早く、強く演奏できる人であっても、音色がよくない人に高得点はつけない。

テンポ感、リズム感も重要だ。
テンポを一定に保つことができるか?
拍を二分割、三分割、四分割する際、きちんと分割できているかどうか、
わかりやすくいえば、課題曲を正確に演奏できているかどうかを見る。
1日目の課題曲は、どの程度正確に演奏できているかどうかがかなり重要だ。

また、呼吸がちゃんと身についていて、歌として演奏できているかどうかを見る。
いわゆるフレーズ感だ。

一番よくないのは電子メトロノームかコンピューターでの打ち込みのようなリズム感、フレーズ感だ。ただ正確なだけで、ラウンドもバウンドも揺らぎも・・・・呼吸感もない演奏はNGですぞ。

ダイナミクスのコントロールがちゃんとできているかも重要な要素だ。
多くの受験生はピアノとピアニシモがまったく区別できていない。
フォルテとフォルテシモもだ。

ピアニシモ、ピアノ、メゾピアノ、メゾフォルテ、フォルテ、フォルテシモ、
この六段階くらいはきちんと弾き分けてほしい。

ま、そんな感じで、1日目は相当シビアにチェックする。

そして、二日目は
表現力を見る。

その人の音楽的な表現力に一番注目している。
どれくらい説得力を持って課題曲を演奏しているか、
つまり、課題曲をどれだけ自分のものとしているか、
それを聴き手に向かってどう提示できるかを問いたい。

お手本を、ただ正確になぞったような演奏ではNGだ。

その人の信じるその曲のベストの姿を、自信を持って表現してほしいと思っている。

繰り返しになるが、試験は落とすためのものではない。
才能と熱意のある人に入ってもらうためのものだ。

受験生諸君、がんばってくださいね。
試験、楽しみにしていますよ。

e(^。^)9  ファイトッ!!

またまたしつこく様式感のお話し

2007年05月19日 21時24分38秒 | 音楽全般
またまたしつこく様式感のお話し

2007年3月10日

ところで、このページを読んでくれてる人の中で、
「私は打楽器奏者で現代曲しか演奏しないし、バロックとか古典とかそんなにがんばって勉強する必要ないのでは?」と思ってる人もいるかもしれない。

結論から言うと、現代曲ばかりをレパートリーにする音楽家であっても、古典的な作品、つまり、20世紀前半くらいまでの音楽をちゃんと勉強しておく必要はおおいにある。

理由はいくつかあるが、

まず、現代の作曲家、それも非常に前衛的な作風の作曲家であっても、古典をしっかり勉強して、古い時代の音楽をそのバックグラウンド、というか土台として作曲している人がほとんどだ。

ただバックグラウンドに古典が存在するだけではなく、もっと直接的に関係している場合もある。
日本現代作曲家の代表選手の一人、かの武満徹氏の作品の中にもバッハより100年ほど前の作曲家、ハンス・レオ・ハスラーのメロディーが引用されていたりする。

ところで、余談ではあるが、
その武満氏の曲をCDで聴いたとき、評論家の書いた解説がついてて、そこには「この曲にはバッハのマタイ受難曲からの引用がある」と記されていた。
いやあ・・・・・・・・、それは実は間違いなんだ・・・・・・。

ρ(。 。、 )

この引用されたメロディーはハンス・レオ・ハスラーの作によるもので、バッハは当時よく知られていたこの曲のメロディーをマタイ受難曲やその他のカンタータ等にしばしば引用したのであって、正しくは「武満氏は、バッハもその作品にしばしば引用していたハンス・レオ・ハスラーによるメロディーをここに用いている」と書くべきところだ。

音楽史をちゃんと勉強していないと、こんなところでうっかりミスを知らずにおかしてしまうことになる。

話しは元に戻って、
ペルトとかシュニトケ、グヴァイドゥーリナとか現代の巨匠たちの作品もバッハをはじめ古い時代の音楽の影響が明らかに見て取れる。

ストラヴィンスキーもアルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルン、シェーンベルク等、新しい時代を切り開いた作曲家たちも非常に熱心にバッハやモーツァルト、ベートーベン等、昔の音楽を勉強していた。ウエーベルンの編曲したバッハ作品はそのオーケストレーションの精妙さで音楽史上に燦然と輝いているし、彼の書いた不朽の名作「パッサカリア」はバッハに対する知識がなければ、理解し得ないと思う。

彼らメジャーな現代作曲家たちの作品を理解するには、彼らの音楽の土台であり、バックグラウンドである古い音楽を理解することがどうしても必要なんだ。

また、どんなに斬新前衛的な作品であっても、歴史のどこかに突然変異的に偶然出現したわけではない。
そこにはちゃんと歴史的必然ってのがある。

バッハからハイドン、モーツァルト、ベートーベン、そしてロマン派、国民学派の音楽、20世紀初頭の近代音楽ってな具合にずっと歴史が流れてきて、その流れの中で前の時代の影響を受けながら、発展してきて今に至っているわけだ。

だから、今の音楽をちゃんと理解するためには古い時代の音楽を学ぶことが必要なんだ。

そして、もう一つ理由がある。

ある楽曲を演奏するための方法論は昔も今も、それほど変わっていない。
原則は単純だ。

楽譜をきちんと観察し、解釈し、適用することだ。

まず、作品(作曲家の人となりも含めて)を知り、その作品がどう鳴り響くべきかを考察し、その結果を練習して音にしていくというごくごく単純な作業が演奏という行為だ。

その単純な行為に熟達するには、できるだけ多くの様式に触れながら、つまり古い作品から新しい時代の作品までできるだけたくさんの音楽に取り組みながら、体験を通して身体で覚えるしかない。
要するに実地訓練を積み重ねるしかない。

だから、食わず嫌いしないで、昔の音楽から今の音楽までできるだけ多様な作品に広く当たる必要がある。

だからといって、おびただしい数があるから、全ての作品を研究して、さらって、本番にかけてというわけにはいかない。実際に音にして体験する、つまり、自分で演奏できる作品の数は自ずと限られてくるだろう。

だから、せめてできるだけ多くの作品に、多様な様式に、音楽史の勉強を通して触れていく必要があるわけだ。

やっぱ、音楽家をめざすってけっこう大変なことだわな。
いくらやっても、これで十分ってことにはならない。

実際のところぼく自身も、まだまだ勉強が全然足らない。
多分、あと70年生きてもまだ足らないと思う。(一応120才まで生きているつもりだが・・・・・・)

様式感の話し(おまけ)

2007年05月19日 21時24分23秒 | 音楽全般
様式感の話し(おまけ)

2007年2月14日

一昨日ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集のCDを買った。
ノーバート・ブレイニン(vn)
ギュンター・ルートヴィヒ(p)
録音時期:1989年9月-1990年2月 ブレイニン67才頃の録音だ。

この二日間この録音を聴いては甘美な音楽夢の世界を漂流してる気分だ。

ベートーベンのバイオリンソナタに関しては、全曲盤と抜粋を合わせて今まですでに
 シゲティ アラウ
 シゲティ バルトーク
 ブッシュ ゼルキン
 ケンプ メニューイン
 オイストラフ オボーリン
 ハスキル グリュミオー
 クライスラー ルップ
等、超大家の録音を持っていて、それぞれ聴くたびに圧倒され続けているのだが、
それに加えて思い切ってこのブレイニンの録音を買ったのは、ケルン時代の思い出があるからだ。

ケルン留学時代、彼と仲間達、アマデウスカルテットがケルンの室内楽クラスで教えていた。
ヴィオラ奏者である今の家内のレッスンについてぼくもブライニンのレッスン聴講させてもらったし、彼らのコンサートも何度か聴いて、いつもとてつもなく感動していた。

だから、秘かに「歴史に残る大家たちの演奏と比べたら、やっぱ聴き劣りするかなあ、やっぱりソリストじゃないし・・・・。生と録音じゃ違うしなぁ。そしたら夢が壊れるかなあ・・・・」などと思いながら、でも結局買ってしまった。

結果は、上に挙げた大家たちの演奏にまったく遜色ないと言うか、その中にあっても独自の輝きを持ったすごい演奏だと絶句させられてしまった。

こんなすごいバイオリニストが弾いているカルテットってちょっと歴史的にもすごいことなんじゃないだろうか?
それに、ルードヴィヒさんのピアノがまた絶品。

\((;◎_◎)/

ところで、様式感を学ぶ際、ある作曲家の特定の曲を徹底的に学ぶことがすごく有益だ。

ぼくがベートーベンの様式感、特にソナタ形式の様式感を学んだのはバイオリンソナタの5番なんだ。スプリングソナタってあだ名がついてる。

大学一年の頃、この曲を徹底して学んだ。ほぼ一年かけて勉強した。
全楽章暗譜したし、毎日のように楽譜を眺め、レコード(当時はCDなんてなくてレコードなんだよ)を聴いた。

一年かけて勉強したことは、実に有益だった。
遠回りしているように、停滞しているように見えて実はそうではなかった。
その後一生勉強し続けるための土台が形成されたと思う。
この時、じっくり一年かけてこの曲を学んだことで、ベートーベンの音楽に対する確かな視点が形成された。
それは交響曲や弦楽四重奏を理解するためにも非常に有益だったのだ。

その時聴いていた録音が
ヴォルフガング・シュナイダーハン(Vn)
カール・ゼーマン(Pf)
の演奏だ。

この演奏のレコードを買ったのは、単に値段が一番安かったと言うだけの理由だった。
当時はなんの知識もなかったので、誰の演奏がいいとかなんとか考えることもなかった。
お金をとって販売してるんだからどれでもちゃんとした内容だろうと勝手に思いこんでいたのだ。

しかし、最初にこの演奏を聴いてこの曲を勉強したことはその後のこの曲に対する理解、ひいてはベートーベンのバイオリンソナタ全曲に対する理解のために、いや、それどころかベートーベンの全ての作品の理解に非常に有益だったのだ。

オ~、なんという偶然・・・・というか神の恩寵としか言いようがない。
Hallelujah!

(あ、ベートーベンを理解するにはまず、交響曲、弦楽四重奏、バイオリンソナタ、チェロソナタ、弦楽四重奏曲、等の中から代表的なものを一曲か二曲選んで徹底的に勉強するのが早道だ。まずは各ジャンル1-2曲を勉強するんだわ)

シュナイダーハンという人は、フルトヴェングラーが活躍していた時代にウイーンフィルのコンサートマスターをしていた人で、ドイツ語を母国語とする音楽家たちの最も中庸を得た典型的な演奏スタイルを持っている人だと思う。(たぶん・・・)

その演奏を徹底的に聴いたことで、その後様々な巨匠たちの個性的な演奏を聴くにあたって、非常にいい座標軸を手に入れることができたと思う。

ただ音楽を聴いて楽しむだけなら別だが、音楽を勉強する上で、特に様式感を学ぶ上で、こういう演奏を最初に聴くことはとても有益だ。

演奏家のネームバリューだとか録音の新しさなどに目をくらまされてはいけないと思う。

ベートーベンの場合、最初にドイツ語を母国語としている演奏家たち、それもオーソドックスなスタイルの演奏家たちの演奏をちゃんと聴いておくことは、とても大切なことだと思う。

もちろん、ベートーベンは世界中に人たちのための大切な音楽だ。フランス人でも、日本人でも、中国人でもメキシコ人でも誰にとってもすばらしい音楽であるし、どんな国の人が演奏しても、その人がすぐれた音楽家であれば、必ず独自の美点を持つ演奏となるだろう。

しかし、それでもなお、ドイツ語を母国語としている人たちの演奏に耳を傾けることはとても大切だ。

このことに気づいたのはやはり、ケルンに留学していた頃だ。
そこに住んでみて初めて、それが本当に大切なことだと、気づいた。というか、実感した。

で、ブライニンさんとルードヴィヒさんの演奏、これもドイツ語を母国語とする人たちの演奏だ。
ブライニン氏はシュナイダーハンさんとほぼ10才違い、年代的にも近く、しかも、ウイーン人だ。共通点は多々あるわけだ。

でも、ブライニン氏の演奏はシュナイダーハンさんより少しだけ浪漫的だ。
それがまた、何とも言えないチャームポイントだ。

もう、聴いていて、胸キュンとなってしまうわぁ・・・。

(ノ∇・、)

これからおそらく何年もこの演奏を聴いて楽しむことができると思う。
うれしいな・・・・。

ヾ(´ー` )ノ

でも、この演奏のよさが判るためには、若いときに聴いたシュナイダーハンの演奏が効いてる。

シュナイダーハンさんのCDはすごく安く手にはいる。(人気もそれほどないし、録音も古いから)
ベートーベンのソナタを学ぶにあたって、ものすごくいい教材だ。
買っておいて損はないですぞ。

ブライニン氏の演奏も買って損はないぞ。
こちらもすごい。ただし、録音が新しいだけに値段は少し高い。

ついでながら
シゲティ アラウ
シゲティ バルトーク
ブッシュ ゼルキン
ケンプ メニューイン
オイストラフ オボーリン
ハスキル グリュミオー
クライスラー ルップ
これら超大家たちの演奏も聴けば聴くほどすごいです。

そして、ベートーベンのバイオリンソナタを勉強することは、ベートーベンの様式を、特にソナタ形式の様式感を学ぶにあたって、すごく有益です。

ティンパニストをめざす諸君、ベートーベンの室内楽作品を学ぶべし!

その際聴くだけではなく、必ず楽譜を買ってちゃんと読もう。
耳からだけだと学べる事が半減してしまう。

o(^_^)○  イケー!

p(#^∇°)q  ファイトッ!

50年前のシカゴ響

2007年05月19日 21時24分09秒 | 音楽全般
50年前のシカゴ響

2007年2月10日

今日は土曜日、ぼくにとって大切な日だ。

ユダヤ教では土曜日が安息日、敬虔なユダヤ人は皆、この日家でゆっくり休みをとる。
キリスト教徒であるぼくにとって安息日は関係ないが、
ぼくも原則的に土曜日は肉体的休息をとっている。
教会の牧師もしているぼくにとって、土曜日は朝から聖書を読み、祈り、日曜日の説教原稿を書く大切な日なんだ。

当然、原則として仕事も入れないし、練習もしない。
朝からずっとパソコンの前にすわって聖書を読むか、寝っ転がって祈っている。
でもって、頭の中に原稿ができあがるとやおらパソコンのキーボードをたたき始めるわけだ。
だから、肉体的にはとてもよい休みの一日だ。

やはり、土曜日に仕事が入ってる時は肉体的にも精神的にもちょっときつい。

ユダヤ人には優秀な音楽家が多いでしょ?
ぼくはその秘訣が安息日にあるんではないかと思っている。
一週間に一日まったく練習しない日があるということは、テクニックにとって、肉体にとって、すごくいいことだ。

もし、あなたが技術的な行き詰まりを感じているなら、思い切って一週間に一日くらい、定期的に練習しない日を設けてみてはいかがだろうか?
きっと良い結果が出ると思う。
筋肉も精神もずっと緊張しっぱなしってのはよくないんだ。

で、本題に入ろう。

今日は4時頃には明日の説教原稿を書き終え、そのあと少しDVDを見た。

親しい友人がずいぶん前に(実は昨年)貸してくれたのだが、ずっと見る時間がなくて見られなかったDVDをこの際見ようっていうわけだった。このままだと借りっぱなしになってしまうという危機感もあったしね。

**さん、ゴメンナサイです m(_ _)m

このDVD、フリッツ・ライナーの指揮するシカゴ交響楽団の1953-4年頃のコンサートを収録したものだ。

曲目は
 モーツァルトの39番、
 ドビュッシーの小組曲
 チャイコの花のワルツと眠りのワルツ
 バッハ トッカータとアダージョとフーガハ長調!
 それにベートーベンの2番・・・・だ。

見始めたら、興奮の一時となった。

このディスクにはすごい事が3つある。

まず、フリッツ・ライナーの指揮姿が見れること。

当時の首席チェロ奏者、若きヤーノシュ・シュタルケルの演奏姿が見れること。

そして、名前は知らないけど、老練としかいいようのないすばらしいティンパニストの演奏が聴け、そして演奏している姿がチラッとではあるが見れるって事だ。(ら抜き言葉の連続で、申し訳ない。山本さんけっこう若いなということにしといてくだされ・・・)

フリッツ・ライナーの指揮ってのは、指揮の理想の姿に最も近いものだと思う。
(個人的に、ぼくが理想に最も近い指揮技術を持っている人だと思うのは、フリッツ・ライナーとジョージ・セルだ)

彼の指揮、そしてシュタルケルのチェロ、このティンパニストの演奏、この三者には共通点がある。

それは、力が完璧に抜けていること、
むだな動きが一切といっても大げさでないくらいに無いこと、
出てくる音楽が限りなく充実しているということだ。
いわゆる物理的なパワーではなく、真の(芯の?)力強さがある。

ところで、なんといっても50年も前だ。
オケの技術はいかにシカゴ響といえど、現代から見たら完成度が低い。

木管楽器のピッチの不揃い具合はなかなかのものだ。
今の京都芸大オケでももう少し合っている。

しかし、ここに聴ける音楽の充実度は最近の有名オケのビジネス的演奏ではめったに聴けないものだ。

どう考えても最近のオケの方が技術的にはものすごく上なのだが、音楽を聴く充足感は50年前のシカゴでのこのコンサートの方が遥かにまさっている。

技術は磨かなくてはならない。ぼくも完璧をめざして日々精進している。
このページを見てるみんなだってそうだよね。

でも、どんなに技術的に完璧な演奏をしたところで、それだけでいい音楽になるわけではない。

また、技術的な難点が相当にあっても、ミスが多くても、感動的な音楽は存在しうるし、かつて存在してきた。今現在だってそうだ。

いやあ、音楽って謎な芸術だわ。

まあ、謎だからこそやりがいがあるんだと思う。

しかし、このDVD、というか、この当時のシカゴシンフォニーの演奏は一聴の価値、いや一見の価値ありだ。この老練なティンパニストの演奏、チラッとでも見ることができるなら、大いにインスピレーションを与えられると思う。

シュタルケルの演奏姿もすばらしい。
ライナー氏の指揮もすばらしい。

ただ、ライナー氏の顔はちょっと・・・・・・・。

(◎-◎;)

あまりに怖いよ~。
こんな恐ろしい目つきでにらまれたら、ぼくだったらマレット持つ手が硬直してしまい一音も発する事ができなくなるかもしれない。

かのバーンスタイン氏もライナーのレッスンは恐怖だったと・・・・・。


様式感・・・どうやって身につけるの?

2007年05月19日 21時23分51秒 | 音楽全般
様式感・・・どうやって身につけるの?

2007年1月28日

これは重要な情報だ。

実際、様式感は教えることができない。一人一人が感じ取るしかないと思う。

どうしたら一番簡単に感じ取ることができるのだろうか?

まあ、手当たり次第に音楽を聴いていくというのもひとつの方法だ。
実は、ぼくのとった方法はこれだった。

だけど、あまり能率のいい方法ではない。
んまあ、だけんども、仕方なかったわけ。

音楽の聴き方なんて誰も教えてくれなかったし、とにかく手当たり次第に何でも聴いてみるってことしか現実には道がなかったわけだ。

ま、回り道はたくさんしたが、それはそれでよかったと思う。回り道もむだではないのだから。

しかし、できるだけ短期間で、そこそこ様式感を身につけようと思ったら、次の方法が一助になると思う。

まずは、バッハやヘンデル、ヴィヴァルディなど、バロック後期の作曲家から20世紀前半くらいの作曲家までの主要作品を、地域ごとのまとまりを意識しながら、年代順に聴いていくことだ。

地域ごとのまとまりというのはイタリア周辺、ドイツ周辺、フランス周辺等と大まかな地域性、民族性を意識しながら聴くということだ。

で、その際、誰の演奏を聴くかというと、
その作曲家の母国の演奏家で、一般にオーソドックスと目されている人たちの演奏を主に聴いていくといい。

例えば、ベートーベンだったら、イッセルシュテット指揮のウイーンフィルとか、フランツ・コンヴィチュニー指揮のライプチッヒ・ゲヴァントハウスとかの演奏だ。

カラヤン・ベルリンフィルとか、バーンスタイン・ウイーンフィルなんていう個性的な名演を先に聴いてしまうのは悪いことではないにしても最上の方法ではないとぼくは思う。

こういう個性的な演奏は、すでにオーソドックスな演奏スタイルをある程度知っている人が聴いたときに初めてその真価が理解できる類のものだと思うんだ。

そうこうしてるうちに、
ベートーベンならベートーベンの作品の中で何曲かとっても好きな曲が出てくると思うから、
そんな曲だけは複数の演奏家の演奏を聴く。

その曲に限っては現存する全てのCDを片っ端から聴いていくって方法もけっこういい方法だと思う。
ちょっと大きな街の図書館とかに行くと、けっこういろんなCDがそろっている。
聴くチャンスはたくさんあるはずだ。

そんなふうにしているうちに、いつの間にかぼくたちの感性の領域にベートーベンの様式感ってのが刻み込まれていくわけだ。

これは自分でがんばって刻み込むんじゃなくて、いつの間にか、知らない間に刻み込まれていくって感じのものだ。

いつの間にか、「ベートーベンの音楽では、これだけは絶対ふまえておかないといけない!」という根っこの部分が自分の無意識下の領域に形成される。

これは、教えて教えることができるものではないし、教えられてわかるものでもない。

しかし、すでに様式感を身につけている人が、誰かの演奏を聴くと、その演奏家が様式感を身につけているかどうかを、瞬時に判断できてしまうものだ。

「面白い演奏だし、見事な演奏だけど、これはベートーベンではないよ・・・・」ってことになるわけだ。

もちろん音楽に正解も不正解もない。
楽譜を勝手に書きかえてしまったりしない限り、どんな演奏も許されるし、価値があるわけだけど、やっぱり様式感を身につけ、そのスタイルをきちんとふまえた演奏ができるかどうかはとっても大切なことだ。

(^-^)b

で、古い時代の作品から新しい時代の作品へと音楽史の順番に聴いていくってのもかなり重要なポイントだ。

というのは、音楽史の流れも、やっぱ、歴史の必然ってのがあるんだわ。

どんな作品でも、どんな様式でも、その前の時代にちゃんとルーツがあるわけ。

だから、その一つ二つ先代のご先祖様の音楽様式を理解してから聴くのとそうでないのとは、理解の度合いがちがうんだ。

だから、理想をいえばバロック後期の音楽からではなく、バロック以前の音楽作品から始めて、歴史の流れに沿って聴いていくのが一番だ。

だけど、それはちょっと手間がかかりすぎるかもしれない。
ぼくたちがクラシック音楽の分野で打楽器奏者として生きていくためだったら、まずはバッハ時代くらいから聴き始め、現代の音楽まで一通り聴いてから、バロック以前のいわゆる古楽を聴き始めても遅くはないと思う。

まあ、手っ取り早いのはまずバッハを聴くことだ。
(もちろんヘンデルやコレルリ、ヴィヴァルディ、テレマンなんかも聴くにこしたことはないが・・・・)

バッハの主要作品をまず一通り聴いて、そこから次の時代の音楽を聴いていったらいい。

バロック時代までは音楽史の主流はイタリアだったが、バッハ以降はドイツの音楽家たちも突然幅をきかせ始める。
そして、一方ではフランスにまったく別世界の流れが存在する。
もちろん、イギリスとか北欧、東欧にも独自の流れがある。

そして、それぞれ互いに影響を与えたり受けたりしながら発展していくわけだ。

その大きな歴史的流れとスタイルをおおざっぱにつかんで理解することが必要だ。

いやあ、音楽をやるってのはけっこう知的な作業でもあるんだ。
肉体と感性、そして知性のバランスが大切だ。

だからこそ面白いといえるだろうね。
何年やってても、いまだに興味はつきない。

音楽って本当にいい芸術だなあ~~~~~~。

ρ( ^o^)b_ ♪ランランラン♪

スタイル=様式

2007年05月19日 21時23分40秒 | 音楽全般
スタイル=様式

2007年1月14日

スタイル=様式という概念はすごく重要だ。
どっちかというと太鼓のたたき方だとか、マレットの持ち方よりずっと大切だ。

いかにしてスタイル=様式を身につけていくか・・・・・。

いくら頭をひねっても無理。
これは外から情報を入れるしかない。

つまり、先人たちがその曲をどのように演奏してきたかを知るしか方法がない。

もちろん、文献からでも少しは知ることができるだろう。
しかし、耳から入れるに勝るものはない。

かつてはスタイルを身につけるのは至難のわざだった。
耳から、目から入れるべき情報が非常にとぼしかったからだ。

自分の先生の演奏やレッスン、同僚たちの演奏くらいしか情報源がなかった。
ごくまれに、他国、他地域の演奏家の演奏などから断片的な情報しか得られるにすぎなかった。

しかし、現代にいたって情勢は大きく変化した。
今や、情報には事欠かない。

過去の偉大な演奏家たちがその作品をどのように演奏してきたかが、自宅に居ながらにして知ることができる時代となった。

スタイルの会得はかつてより大幅に容易になったと言えるだろう。

ぼくたちが、どんな音情報を耳に入れていくか、それがその人の様式感を相当なところまで決定する。

普段、どんな音楽を聴いているか、どんな録音を聴き、どんな映像を見、どんなコンサートを聴きに行っているかが、何年後かのその人の演奏を決めることになる。

聖書に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるが、音楽も同じだ。

聴くことによって音楽観が生まれ、育ち、形成されていく。

何を聴くのか、どう聴くのか?
あなたはどうですか?

試行錯誤

2007年05月19日 21時23分25秒 | 音楽全般
試行錯誤

2007年1月1日

あけましておめでとうございます。
ながらく更新を怠っておりましたが、今年は心機一転無理のないペースでゆっくり着実にと考えております。
目標としては月二回の更新をめざします。

本年もどうかよろしく。

☆⌒(*^-°)v

一月一日の新聞に江崎玲於奈博士の書いた文章が載っていた。
題して「ノーベル賞がとりたいならしてはいけない五箇条」

その第二に
「教えはいくら受けてもいいが、大先生にのめりこんではいけない。のめりこむと権威の呪縛は避けられず、自由奔放な若さを失い、自分の創造力も萎縮する」との項があった。

これ、すごく大切なことだ。
実はぼく自身もこれで痛い思いをしてる。

ぼくがドイツで習ってたブライヤー氏があまりにすばらしい音楽家だったので、ぼくは彼に習ったとおり、彼が演奏していたとおり、まったくそのとおりにしたいといつの間にか無意識のうちに彼を追っかけてしまっていた。

それに気がついたのは札幌交響楽団に入って4-5年たったころだ。
いろいろと四苦八苦したあげく、「習ったとおりにはできないよな・・・・」とようやく悟った。
それからふーっと肩の力が抜けて演奏が楽になった。

ぼくはぼくだ。他のどんな打楽器奏者とも、手の形、大きさ、腕の長さも、重さも、体格も、
そして感性も、好みも、違うんだ。

他の人と同じことができるはずはない。する必要もない。

ぼくにはぼくの音楽があるし、ぼくにはぼくのテクニックがある。

そう気がついた。

ああ、なんと悟るに遅い、にぶいことか・・・・・。

今、京都芸大の打楽器研究室には10人ほどの学生が在籍していて一緒にがんばっている。
しかし、ぼくの生徒には一人もぼくと同じテクニックの人はいない。

だれもぼくのテクニックを真似してくれていないのは、少し寂しい気もするけど、それでいいのだ。

テクニックは音楽表現の手段だ。

その人が表現したい音楽があって初めて、その音楽を実現するための手段の選択が可能になる。
その人がどんな音を、どんな演奏をしたいのかってことはその人の個人としての尊厳と深く結びついている。
だれもその人の音楽を「そら、あかんでぇ~」と否定する権利を持っていない。

当然テクニックもさまざまあっていい。
どうやったら、自分の出したい音が出るのかということは、結局自分で試行錯誤して研究するしかないのだ。

それに、ぼくは今まで失敗したとき、悩んだとき、試行錯誤したときにより多くのことを学んできたと思う。
人間は成功体験からよりもずっとずっと失敗から多くのことを学ぶものだ。

三谷康人さんというビジネスマンの書かれた本に興味深い言葉があった。
この人はカネボウ薬品の社長さんだったか会長さんだったかって人で、すばらしいビジネスマンだ。
彼の本を昨年二冊読んだがとてもいい本だった。

はっきりとは覚えていないが、その大意は、
「ビジネスにおいて、リーダーのなすべき最大のテーマは次のリーダーの養成だ。
そのためにもっとも大切なことは、次世代のリーダーに失敗を経験させることだ。」

失敗する権利、悩む権利、試行錯誤する権利を他人から取り上げてはいけない。
あなた自身からそれを取り上げてはいけない。

皆さん、今年は大いに悩み、試行錯誤して、音楽の真理を探究する一年にしましょう。

スランプ

2007年05月19日 21時22分36秒 | 音楽全般
スランプ

2006年11月30日

長いこと音楽やってると何度もスランプを経験する。

過去最大のスランプはロールがキッカケだった。

札響に入団して一年くらいたった頃、プーランクの牝鹿って曲で、小太鼓のロールがでてきた。
そこで指揮者が何を思ったか「もう少しいいロールができてほしい。オレのことは棚に上げて言ってるんだけど・・・・・」って言った。

ぼくはそれまで自分のロールがへただという認識がなかったもんだから、

「どこが悪いの?」

( ̄~ ̄;)??

ということで、たいして気にしなかった。
というか、自分では結構ロールに自信あったし、
「もっといいロールができる人、どこにいるの?」とマジで思っていた。

実際、昔々の、それ以前の演奏を録音で聴くと、結構ロールうまいよ。
「へえー、こんなにきれいなロールができてたんだぁ・・・・。」ってわれながら感心する。

でも、誰かになんか言われると人間ってそれが気になり始めるものだ。
それから、小太鼓のロールが出てくる度に何か気になり始め、だんだんとうまくできなくなり始めた。
何週間かすると、本当にロールがうまくいかなくなり始めた。

他のところでは何ともないのだが、ロールが出てくると突然金縛り状態になり、とんでもなくへたなロールになってしまう。

そのうち周囲の人たちも気にしだして、「おいおい、どうしたの?」ってことになってきた。

中には「おいおい、しっかりしろよ」「なんだそれ、札響はプロだぞ!」ってな感じで後ろを振り返ってにらみつける人まで出てきた。

こうなるともう悪循環の連続で、ついにはロールだけでなく、どんな簡単なパッセージでも、札響で音を出していると常に全身金縛り状態になってしまうようになってしまった。

特にロールは小太鼓だろうと、トライアングルであろうと、タンバリンであろうと、シロフォンであろうと、とにかく全滅。特に弱音ロールは完全に全滅。

まあ、そんな苦しい状態が二年ほど続いた。

仕事が終わる毎に、「あ~あぁ、今日もまたダメだったなあ・・・・」と絶望的な気分で家に向かう日々が続いた。

で、二年ほどたったころ、ラベルのボレロって曲の小太鼓をやることになった。

それが決まって、ぼくは
「これでぼくの太鼓たたきとしての生命は終わり」と本気で思った。

「最後はボレロでぼろぼろになってこの仕事を終えるのかぁ・・・・・」と思って、そのコンサートを終えたら辞表を出すつもりだった。

家内がロールに関してアドヴァイスをくれたのはその最悪の状態のころのことだ。

ところが、この演奏会、なぜかそんなにみっともない出来にはならず、何となく、まあ、なんとか、かんとか、無事にというか大過なく終わった。

その日から演奏が少しずつ楽になってきた。

それから4年くらいかけて少しずつリハビリを続け、札響入団7年が過ぎる頃、自分としてはようやく入団した頃の水準まで回復したなと感じた。

そのころ、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のティンパニを演奏したときに、
「あ、ようやくオケマンとしてのスタートラインまで戻ってきたぞぉーっ!」と感じた。
長い長い、足かけ6年間のスランプだった。

そのあとの一年間は自分がいろんな面で成長していくことが実感できる一年だった。

ところが、その一年でぼくはオケマン生活を終えることになってしまった。

京都芸大の先生としてスカウトされてしまったんだ。

まあ、悩みに悩んだ末、京都に来ることになった。

だって、ようやくスタートラインに戻ってまだ一年しかたっていない。
「これからだぁ!」って時だったんだからそれは悩むよ。

でも、今では「来てよかったぁ!」ってホントに思う。

なぜって、京都でいろんな人たちと出会った。
特に学生たちとの出会いは全て素晴らしい出会いだ。

その出会いの一つ一つを思うたびに来てよかったと思う。

また、音楽的にも技術的にも成長できたと思う。

ただ、オケマンとしての勘は相当鈍ってしまったと思う。
こればっかしは、オケにいて常時コンサートに出てないと仕方ないよね・・・。

今は、コンサートの回数こそ札響時代より大幅に減ったが、
一つ一つのコンサートの充実度がすごく高いので、うれしい。

先日の京都芸大ガラコンサートも、いずみシンフォニエッタもすごく楽しいコンサートだった。
演奏する喜びってのが実感としてある。

いずみシンフォニエッタのコンサートでは久しぶりにベートーベンの田園を演奏したが、
札響時代よりもずっと理解が深まったし、あのころは出せなかった音が出せたと感じてうれしかった。

でも、何よりうれしいのは、生徒たちの演奏を聴いて彼らが成長していることを確認するときだ。
彼らがどんどん成長していくのを見るのは、本当に楽しい。

また、かつての教え子の演奏を久しぶりに聴くときなんかも、「ああ、京都に来てよかったなあ!」って思うときだ。

打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで!

☆⌒(*^∇゜)v


音階とか・・・・・

2007年05月19日 21時19分39秒 | 音楽全般
音階とか

2006年9月15日

いずみシンフォニエッタのコンサートがあるので、忙しくてヒマがないはずなのに、
何を思ったか二日間にわたって往年の名ピアニスト バックハウスの録音を聴いた。



彼の最晩年、死の一週間前の録音だが、
「まあ、何と深い、すごい世界だろうか」と恐れ入ってしまい、まいりましたぁ・・・・。

「人生には、飲んだり食ったり騒いだりするよりもずっと大事なことがあるなあ」と、
しみじみ思った。

演奏芸術ってこんなにすごい芸術なんだなあ。
もちろん、バックハウスという人は、それこそ100年に一人というくらいのすげえピアニストだからこういう事ができるわけであって、誰にでもできることではないと判ってはいるが、
同じ分野の芸術に携わるものとして、励みになるというか、いずまいを正される思いだ。

で、彼のことばの中にこんなのがある。

「私は、コンサートの準備に際して、楽譜の研究とともに、何よりも音階練習に集中する。それに加えて、アルペジオの練習、さらにバッハの平均律。これが私のテクニックの基礎である。私のテクニックに興味をいだく人たちに、『私が頼りにするのは音階練習だ。音階プラス努力だ』と言うと、たいていの人は驚くようだ。・・・・・しかし、私は、まじめに努力する音楽学生に手の届かないような、そんな不思議な秘訣など、何も持ってはいない。・・・・・もう一度言うが、私のテクニックの基礎は、ただただ音階につきるということを特に強調しておきたい。日ごとの絶えざる音階練習こそ大切なのだ。」

「モーツァルトをちゃんと弾くことは、非常に難しい。ピアニストにとって、10分も練習すれば仕上がる華麗なパッセージが、多くの心ない聴衆を熱狂させ、反対に、何ヶ月も準備し努力の末に仕上げたモーツァルトやハイドンのソナタなどの苦心が、ほとんど顧みられずに終わるということは、まじめなピアニストにとって、このうえもなく不幸なことである。」

われわれにとっても、非常に意味深いことばだ。

マリンバを演奏する者にとって、日々の音階練習(アルペジオ等基礎的な他の練習も含め)は、ものすごく大切だ。また、バッハ、モーツァルト等のバロック期、古典派時代の音楽を勉強することは、絶対必要なことだ。

太鼓たたきにとって、日々の基礎練習はものすごく大切だ。
また、モーツァルト、ハイドン、ベートーベンのシンフォニーを研究する事はどうしても必要なことだ。

ぼくのお師匠さんゲオルグ・ブライヤー氏は、「ティンパニストにとって最も大切な、そして難しい課題はベートーベンだ。ツヨシ、ベートーベンを勉強しろよ。」と絶えず絶えず強調していた。

実はどんな楽器にとってもこのことは真実だ。

基礎練習と古典派以前の音楽の勉強。これはどうしても必要だし、それをどれだけ念入りにやるかで、演奏家としての将来がかなりのところ決まってきてしまう。

基礎練習、音階、アルペジオ、
そしてバッハ、モーツァルト、ベートーベン、

大切ですぞ・・・・・!

アンサンブルフィリアのコンサート、練習期間は六ヶ月だった。
ぼくたちはこれが長いとは思ってない。むしろ、足りないくらいだった。

バッハをちゃんと弾くってのは想像を超えてムツカシイ。

しかし、同時にその長期にわたる練習が、すべて実になる。すべてが自分にとってはかりしれない貴重な財産になるんだ。

バッハ、やらなきゃ損だよ。
音階、やらなきゃ損だよ。
基礎練習、やらなきゃ損だよ。

みんな一緒にガンバロウゼ!



10年続けたら、きっと「続けてよかったぁ・・・・!」とマジで実感すると思うよ。




(またまた)未知との遭遇

2007年05月19日 21時19分22秒 | 音楽全般
(またまた)未知との遭遇

昨日、坂井千春さんのピアノリサイタルを聴きに行った。
彼女は京都芸大で同僚として一緒に働かせてもらっている方で、すばらしく魅力的なパーソナリティーの持ち主だ。

なもんだから「この演奏会は絶対行くぞっ!」って感じで、前々からスケジュールを確保しておいた。

でも、「あの坂井さんのコンサートだ」って理由で聴きにいったので、コンサートが始まる直前までプログラムを知らなかった。

座席についてプログラムをめくると、フランス音楽での一夜となっていて、サンサーンスに始まり、いわば定番のドビュッシー、ラヴェルと続き、後半はデュカ、プーランク、最後はメシアンというプロだった。

いやあ、これは垂涎のプログラムでしたねえ。

演奏は予想通り、坂井さんの誠実で飾らないお人柄が如実にあらわれた極上のもので、
その演奏で普段聴くことのないデュカとかプーランク、メシアンが聴けたのだ。

サンサーンスのピアノ曲って、きっといい曲がいっぱいあるんだろうなあと思ってたけど、実際に聴いた事はなかった。デュカやプーランク、メシアンに至っては、曲名さえ知らない。

この辺の作曲家の作品は是非聴いておくべき作品だとわかってはいても、実際には自分が仕事で取り組んでいる曲や、大好きなBachとかの作品さえ聴く時間を確保しにくい日常の忙しさだ。まず自分でCDを聴いたり、コンサートを探したりはしないだろう。

こういう曲が聴けるってのは地元の演奏家のコンサートならではと思う。

外来の演奏家の場合だと、興行的なリスクがあって、大体は無難な名曲ばかりが並ぶ事になる。

もしくは、すでに名前だけで切符が売り切れる超大物アーティストが、超絶的最先端のレアものを弾いて一般聴衆を煙に巻くって事もある。

だけど、この日聴けたサンサーンス、デュカ、プーランク、メシアンの作品は恐らくこういう機会でなければ聴けないものだと思う。

しかも、これらの曲は、すごーくいい曲だった。ホントに素敵な曲ばかり。特にプーランクとメシアンはいいなあと思った。今度CDを買ってこようかな……。

坂井さんがご自分で書かれたわかりやすい曲目解説もあったから、メシアンみたいな難解な音楽でもすっと楽しめた。

この日の聴衆はすごく得をしたと思う。

しかし、これだけの実力派ピアニストの演奏でこんなに面白いプログラムが身近な場所でしかも安く聴けるってのに、たった200席のホールが満席にならないなんて、ヘンな国だなあと思う。

これが、某有名演奏家がヘンデルの「メサイア」なんて超名曲ではあってもそう簡単によさがわかるはずがない曲を原語で演奏する超マニアックなコンサートだったら、24000円のチケットが即日完売だ。

ぼくも実はメサイア大好き人間なんだけど、正味2時間座席に縛り付けられて、字幕もなしに原語で聴き続けるってのは、はっきり言ってやり通す自信がない。
途中で寝てしまったら、丸損ではないか…。

一晩のコンサートに24000円払う聴衆がそんなにたくさんいる国で、国際級の実力を持つ地元演奏家のコンサートに空席がある。

不思議の国ニッポンって感じですなあ……。

 

試演会を聴いて(2)

2007年05月19日 21時11分55秒 | 音楽全般
試演会を聴いて(2)

2006年8月18日

で、その「ゴール設定」は自由だと思う。
音楽の価値観は多様だし、誰もその人の音楽観を間違ってるとか、おかしいとか決めつける権利はない。

が、しかしだ。

そのゴール(目標)を設定するにあたって、ある程度客観的に状況を見ていく必要があるだろう。

つまり、もしクラシック音楽というフィールドでこれから活動していくことを願うのであれば、
そのフィールドで、どんな音楽が、どんな音が求められているのかを、ある程度知っておく必要があると思う。

そのフィールドというのをどの範囲までと考えるかもすごく重要だ。

それを打楽器の世界にとどめるのか?
それとも、もっと広い世界にまで広げて考えるのか?

我々は日々目の前の楽器と悪戦苦闘しているので、いつの間にか「音楽」をやってることを忘れて、「打楽器」をやってしまってることはないだろうか。

でも、ぼくたちは音楽をやってるのであって、そのための手段として打楽器を使ってるだけだ。

というわけで、できる限り、打楽器以外の楽器(歌を含めて)による音楽を一生懸命聴くことを勧めたい。

いろんな楽器を考えてみると、打楽器のようにたたいて音を出す楽器は意外と少ない。
打楽器以外ではピアノぐらいのものだ。
それ以外の楽器では、こする、はじく、息を吹き込む等の方法で音を出すのがほとんどだ。

そういう感覚って、打楽器奏者は意外に理解しづらい・・・・・ハズだ。

これは非常に重要なことだと思う。
なぜなら、そういう楽器の人たちと仕事をしていくわけだし、そういう楽器や歌を聴いている人たちを聴衆として相手にしなければならないからだ。

たたいて音を出す楽器とそれ以外の楽器の音の出方は非常に違う。

最も顕著な違いは
たたいて音を出す場合は運動の終着点から音が出始めることであり、
それ以外の場合は運動のプロセスがそのまま音になることだ。

管や声は息を出している間しか音が出ないし、
弦楽器は弓を動かしている間しか音が出ない。
ギターやチェンバロは弦をはじいた瞬間に音が出る。

ところがピアノや打楽器は運動の結果というか、運動の終着点から音が出始める。

さあ、どうしたらいいのだろうか?
この二つの世界に折り合いをつけ、同時にその違いを生かしていくってことは、すごいチャレンジだと思わない?

いや~、打楽器をやるって、奥が深くて、すごく面白くて、めちゃエキサイティングなことだと思わない?

みんな一緒にがんばろうゼ!

 e(^。^)9

試演会を聴いて

2007年05月19日 21時11分38秒 | 音楽全般
試演会を聴いて

2006年8月18日

家を出てから、右へ百メートル、そこで左折して600メートル、銀行の四つ角を右へ、数メートル歩く。
という風にぼくが歩いているとしたら、ぼくは自分でどこに向かって歩いているのか、多分意識しているはずだ。

もちろん、あてもなくブラブラという散歩もある。

しかし、普通は行き先をちゃんと意識して歩いている。

車で移動するときもそうだ。
今日はどこに向かって走っているのかをちゃんと意識している。

目的地はどこそこだと。

ところが、これが空間移動ではなく、人生の旅、音楽の旅だとしたらどうだろう?

8月16日、ぼくの生徒たちが自主的に試演会を開いた。
ぼくが一切コントロールすることなく、彼らもぼくに相談することなく、自由に企画して、全て自分たちで運営管理する試演会だった。

ぼくも、まったく自発的に勝手に聴きに行った。

みんなとてもがんばってる様子がうかがえて、とてもうれしい一時だったのだが、少し気になることもあった。

試演会ということで、多分全ての出演者が「現在の途中経過」という感じのできばえだったのだが、
もちろん、それは当然のことで、何ら問題はない。恥じる必要もない。

スタートラインからまだ数歩しか歩いていない人もいれば、すでに何千キロも歩いた人もいたと思う。

でも、それは人それぞれで、自分が今到達しているところから次の一歩を踏み出せばいいわけで、他人と比べてどうこう言う必要は全くないことだ。

ただ、聴いていて気になったのは、
みんなはそれぞれ、自分の行き先をちゃんと意識しているのだろうか?ということだ。

みんな、それぞれ本当に一生懸命努力している。そして、成果も着実にあがっていると思うけど、
その努力というか、今までの軌跡の延長上に、ちゃんと自分の目的地があるのだろうか?

つまり、私はこの曲をこう演奏したいという明確なゴールがあって、それを目指してがんばっているのかどうかが、すごく気になった。

テクニックというの、音楽表現の手段だ。
手段は目的があってこそ意味がある。

で、練習すること、努力することも目的達成のための手段だ。

生徒たちの努力は本当に賞賛されるべきものだ。
この暑い時期に本当によくやってると思う。

しかし、「ゴールがちゃんと見えているのか?」
「今までのあなたの軌跡の延長線上にはちゃんとあなたの思い描くゴールがあるのかどうか?」

その二点を彼らに問いたいなあと感じた次第だ。

ぼくは打楽器を始めてからの33年間で、大きなテクニックの転換を五回経験している。

なぜ、転換を決意したかというと、
自分のやりたい音楽、出したい音が年齢と共に変化してきたからであり、
そして、その音を、その音楽を音にするためには、今までのテクニックでは到達できないという事を認識したからだ。

方向転換というのは、けっこう大変だ。決意がいる。

特に、それまでにある程度成果があがってきている道を降りて別の道に進むというのは、なおさら大変だ。はっきり言って勇気がいる。
危険もある。

しかし、今ぼくが言えるのは、
その方向転換に悔いはない。というより、方向転換して本当によかったということだ。

彼らが、自分のゴールを明確に認識してほしいと思ったし、
今までの軌跡の延長線上にそのゴールがあるかどうかをちゃんと検証してほしいと感じた。
そして、もし、方向転換というかコースどりを替える必要を認識するなら、勇気を持って決断し、実行してほしいと思った。

p(#^∇°)q  ファイトッ!



古典舞踊のセミナー

2007年05月19日 21時10分58秒 | 音楽全般
古典舞踊のセミナー

古典舞踊(ルネッサンスダンス、バロックダンス)の講習を受けてきた。
京都芸大で行なわれた平尾雅子先生の集中講座だ。

この講座はルネッサンス期バロック期の踊りを知り、実際に踊って見て体験しようというものだ。

若くて運動神経バツグンの学生たちに混じって、大きなおなかをかかえて踊ってきた。
ダイブ恥ずかしかったなあ・・・・。



しかし、そんな恥をも吹っ飛ばしてしまうたくさんの収穫を得たぞ!

バロック音楽を演奏する機会がある人なら、また、古典派の音楽でもある程度当てはまるが、
古典舞踊を経験することはとてもとても有益だ。

バッハの音楽をとってみても、そこには数多くの舞曲がちりばめられている。
アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、ジーグ等々・・・・・。

それらは踊るために作曲されたものではないにせよ、そのルーツが実際のダンスにあることは言うまでもない。

であるから、その元々の踊りを文献ではなくまた音楽からだけでもなく、実際に踊ってみて経験することはぜひ必要なことだと思う。

で、この講座が一年に一度京都芸大で開かれることは、15年前から知っていた。それで、ぜひぼくも聴講させていただきたいとずっと願ってきたのだが、この15年間、一度も日程が合わなかったのだ。

今年ようやく三日間をほぼ確保できて、全3日間午前午後あわせて6セッションの内5セッションを受講することができた次第だ。

\( ^o^ )/ ヤ ッター♪

ぼくの教え子たちも今までたくさんの人がこの講座を受けている。

その結果、彼らと一緒に演奏していると、
「先生、メヌエットのステップは二拍目にこう来ますから、そのやり方ではだめですよ!」と弟子からおしかりを受けたりする。

もちろん、彼らはとっても優しいからもう少しソフトな言い方をしてくれる。

「先生、メヌエットの二拍目のステップはこうですよね。だからもう少しこんなニュアンスで弾いてみるともっとよくなるんじゃないでしょうか・・・・?」といった具合だ。
(ナンテヤサシイセイトタチダ・・・)

まあ、その優しさには感涙ものだが、やはり、彼らがすでに知っている(体験している)事を、自分は知らないというのは悔しいものだ。

今回受講して「目からウロコが・・・」と思ったことはたくさんある。

中でも、すごくうれしかったことは、Loureについて教えていただけたことだ。

この舞曲、バッハの全作品中フランス組曲中と無伴奏バイオリンパルティータ第3番の中との二曲しかない。(もっとあるかもしれないが、ぼくの調べた範囲では見つからなかった)

そして、その二曲が、いろんな人の演奏を聴いてもずいぶん性格が違う。
バイオリンパルティータの方ではずいぶん遅く演奏されている例があるし、相当穏やかな音楽に聞こえる。

音楽事典でも調べたが、どんな踊りなのかもう一つよくわからない。

でも、今回習った(踊りを見せていただいた)ことによると、Loureはジーグの一種で男性的な踊りだと言うことだ。その特徴は5拍目の裏から6拍目に向かう「タタン」(八分休符・八分音符・四分音符)というリズムにあり、6拍目にアクセントが来ることが多いそうな。

一般に演奏されているよりはずっと速いテンポの踊りで、当時バッハがその踊りを知らなかったはずはないので、今演奏されている一般的なテンポは、踊りから見ると遅すぎるそうだ。

で、今日習ったその早めのテンポでこの曲を見直してみると、本当にしっくり来る。
なるほどそういうリズム感、テンポ感だったのかぁ・・・・と感心した次第だ。

こういう事は過去の演奏の記録をいくら聴いても、それだけではわからない。
やはり実際にそのダンスを見て、できればそのステップを実際に踏んでみて初めて体感できる事だ。

バッハやヘンデル、バロック音楽を演奏する皆さん、ルネッサンスダンス、バロックダンスを知ることはメッチャ有益ですぞ!

前にも書いたと思うんだけど、
ぼくが演奏において最も重視していることの一つは様式感だ。
生徒たちにも「様式感を身につけるべし!」と、事ある毎に語っている。
いい加減、聞き飽きてうんざりしてるかもしれない。

んでも、様式感って、習ったり教えたりすることはできないと思う。
これって、ひたすら聴くことで身につくものだ。
知識ではなく、感性なんだから。

しかし、舞曲に関して言えば、聴くだけでは不十分だと思う。
その踊りを耳からだけでなく、目を通して、足を通して、身体全体で経験することが必要だと思う。

下手でもいいから、見よう見まねで実際に踊ってみよう。

だから、バレエなんか絶対に見た方がいい。
もし打楽器でメシを食うことになったら、まず確実にバレエ音楽を演奏する機会があるのだから、今のうちにバレエも見ておこう。

実際に演奏となると舞台を見ているヒマはないぞ!

才能って・・・・・・

2007年05月19日 21時10分22秒 | 音楽全般
才能って、プロを目指すなら絶対に必要だと思う。
努力さえすれば誰でも名人になれるってのは幻想にすぎない。

だけど、才能さえあればプロになれるかって言われると、それも違う。

才能があって、しかも努力した人に、たまたまチャンスが回ってきて、そのチャンスにチャレンジして、どういうわけかその時に限って力を十分に発揮できて、たまたまそれを高く評価してくれる人がいて・・・・と、驚くほどたくさんの条件がそろってようやくプロになれる。

まあ、プロを目指すって大変なことだ。
だから、よほど好きでない限りプロを目指そうなんて思わない方がいいかもしれない。

才能もあって、めいっぱい努力もして・・・・・・でもプロにはなれなかったって人も半端でなくたくさんいるのだから。

で、もし誰かが「才能」ってやつに恵まれていたとして、
その時は気をつけないといけないと思う。

才能ってただで与えられるものだ。
無条件の恩寵だ。

だから、才能があるからって威張ったり、誇ったりすることは絶対にできないと思う。

それと、もう一つ。
誰でも、少なくとも一つは何らかの才能に恵まれていると、ぼくは信じている。
神様が人をこの地上に送り出された以上、必ずその人には使命があるし、使命がある以上、その使命を達成するための能力も与えられているはずだ。

それを才能って呼ぶんだろうなあ。

だから、打楽器をやってはみたものの、「あんまし上達しなかったなあ。やっぱし才能なかったかも」と思う人がいたとしても落ちこむ必要はまったくない。

その人には必ず他の分野で「才能」とか「素質」というものがあると思う。

大切なことはそれを発見することだ。
絶対に発見できるはずだとぼくは信じている。

自分の使命を見つけ出す必要がある。

使命って、命を使うって書くでしょ。
自分の人生をささげるべきもの、それが使命だ。

その使命を発見しないといけない。
だいじょうぶ。絶対に発見できる。それはすでにあるのだから。

ぼくたちが今ここに存在している以上、使命もすでに存在している。
であるなら、そのために必要な才能も自分の中にすでに存在している。

神は私たち人間をそのように創造されたと、ぼくは信じてる。

God bless you!