音楽史のお勉強
2007年3月25日
このところ音楽史の勉強が大切だってことを書いてきたよね。
ウン、絶対に大切だ。
何度も書くけど、やっぱ大切なんだよ。
だけど、いつ、どんな作曲家たちがいて、どんな曲を書いてってことを知ることが、まあ、音楽史のお勉強の中心なんだけど、
ぼくたち演奏家にとってはもう一つ大切な音楽史の勉強がある。
それは、名付けるなら「演奏史」だ。
過去の演奏家たちが、演奏という行為にどうアプローチしてきたか、その歴史を知ることが大切だ。
最近、特殊なことではなく、ごく当たり前のことになってきた古楽器演奏の研究も、演奏史の研究の中に入るだろう。
バッハの時代、当時の演奏家たちは、どんな楽器で、どんな様式で演奏してきたのか?ってことを研究するのも演奏史の研究と言えるだろう。
これも大切な研究だ。
といっても、この研究は文献によってしかできない。
当時の音楽家たちが書き残した文章や、当時の芸術家が演奏の現場を描いた絵画によって知るのみだ。
そうなると、われわれ東洋に住む音楽家にできることはしれていて、まあ、その道の専門家たちの書いた本とか、演奏のビデオや録音から知識を得ることくらいしか手はない。
時にはアンノンクール氏やその他有名どころの古楽器演奏のスペシャリストたちが講演をしてくれたりして、そんな機会に勉強することもできたりする。
そんな勉強はすごく大切だし、実際とても有益だ。
しかし、しかしだ。
それも、結局は頭に入る知識か、間接的な知識だ。
で、というわけで、
ぼくが重視している演奏史の勉強は、耳から、または目と耳からの勉強だ。
そういう古楽器演奏家たちの演奏も含めて、昔からの多くの演奏家たちの実演や録音・録画にできるだけ多く接して、過去の音楽家たちがどのように演奏という行為に関わってきたのかを、感性で、すなわち耳と心とで知る必要があると思う。
例えば、トスカニーニとかブッシュとかまあ、ヒンデミット、ギーゼキング・・・・等々のいわゆる「ノイエ・ザハリッヒカイト」の旗手たちの演奏、
文献で知ることのできる彼らの演奏様式は、要するに「楽譜に忠実」な演奏だ。
当時彼らの演奏は「無機的・機械的」なほどに厳格な几帳面すぎるほどの演奏と評されたものらしい。
そんな演奏を、現代の我々が頭の知識だけで想像するならどんな演奏になるだろうか?
我々が思い描く彼らの演奏と、実際の彼らの演奏とは一致するのだろうか?
実際に彼らの演奏は録音でたくさん聴くことができる。
だから、ぜひ実際に聴いてみてほしい。
そうすると、彼らの考えていた「楽譜に忠実」というものと、現代に生きる我々世代の多くが思い描く「楽譜に忠実」という概念は相当に違うということが、実感できると思う。
特に、ヒンデミットという人は作曲家であり、名演奏家だ。
彼が自作自演している録音を聴くなら、彼の演奏スタイルというものがどういうものか、そしてそれが現代の演奏家の「楽譜に忠実」な演奏とどのように違うのかということがすごくよく感じ取れると思う。
ま、これは一例だが、
過去に演奏家たちが演奏という行為にどのように取り組んできたかの歴史を知るということは、現代に生きる演奏家である我々にとって、すごく大切なことだ。
いわゆる作品史、作曲の歴史を知るよりも、さらにさらに大切かもしれない。
作品の真の姿を探り窮め、それを、聴衆に提示するのが演奏家の最も大切な役割だ。
そのためには過去の演奏家たちがその作品にどう取り組んできたのか、その作品をどう観察し、解釈し、音にしてきたかを知るということがすごく大切だ。
そうでないと、その作品の真価をさらに探り窮めるということができないではないか。
過去の演奏家たちの成し遂げて来た成果をふまえて、さらに新しい領域に足を踏み出すのでなければ、その歴史に新しい一ページを書き加えることにならないわけだ。
未来に目を向けるためには、過去を知らなければならない。
歴史を学ぶということは、未来に向かって足を踏み出すという行為の裏づけになることなのだ。
音楽史、演奏史を知る。それも、耳によって、目によって、つまり、体験によって知るということ、これは演奏を生業とするものにとって必須のことではないだろうか?
などとかっこいいことを書いたが、ぼく自身それを十分してきたかと問えば、全然足りないと思う。
でも、全然やってないよりは少しでもやった方がましに決まってる。
だから、せっせと音楽会に通い、CDを集めてるわけだ。
しかし、昔は時間は十分あったが、そのためのお金がなかった。
今は、お金はまあまああるが、時間がなくなった。
CDを買うには買ったが、実際にはまだ聴いていないものが増える一方だ。
人生、なかなか思うようにはいかないなあ・・・・と実感する今日この頃だ。
┐(~ー~;)┌
2007年3月25日
このところ音楽史の勉強が大切だってことを書いてきたよね。
ウン、絶対に大切だ。
何度も書くけど、やっぱ大切なんだよ。
だけど、いつ、どんな作曲家たちがいて、どんな曲を書いてってことを知ることが、まあ、音楽史のお勉強の中心なんだけど、
ぼくたち演奏家にとってはもう一つ大切な音楽史の勉強がある。
それは、名付けるなら「演奏史」だ。
過去の演奏家たちが、演奏という行為にどうアプローチしてきたか、その歴史を知ることが大切だ。
最近、特殊なことではなく、ごく当たり前のことになってきた古楽器演奏の研究も、演奏史の研究の中に入るだろう。
バッハの時代、当時の演奏家たちは、どんな楽器で、どんな様式で演奏してきたのか?ってことを研究するのも演奏史の研究と言えるだろう。
これも大切な研究だ。
といっても、この研究は文献によってしかできない。
当時の音楽家たちが書き残した文章や、当時の芸術家が演奏の現場を描いた絵画によって知るのみだ。
そうなると、われわれ東洋に住む音楽家にできることはしれていて、まあ、その道の専門家たちの書いた本とか、演奏のビデオや録音から知識を得ることくらいしか手はない。
時にはアンノンクール氏やその他有名どころの古楽器演奏のスペシャリストたちが講演をしてくれたりして、そんな機会に勉強することもできたりする。
そんな勉強はすごく大切だし、実際とても有益だ。
しかし、しかしだ。
それも、結局は頭に入る知識か、間接的な知識だ。
で、というわけで、
ぼくが重視している演奏史の勉強は、耳から、または目と耳からの勉強だ。
そういう古楽器演奏家たちの演奏も含めて、昔からの多くの演奏家たちの実演や録音・録画にできるだけ多く接して、過去の音楽家たちがどのように演奏という行為に関わってきたのかを、感性で、すなわち耳と心とで知る必要があると思う。
例えば、トスカニーニとかブッシュとかまあ、ヒンデミット、ギーゼキング・・・・等々のいわゆる「ノイエ・ザハリッヒカイト」の旗手たちの演奏、
文献で知ることのできる彼らの演奏様式は、要するに「楽譜に忠実」な演奏だ。
当時彼らの演奏は「無機的・機械的」なほどに厳格な几帳面すぎるほどの演奏と評されたものらしい。
そんな演奏を、現代の我々が頭の知識だけで想像するならどんな演奏になるだろうか?
我々が思い描く彼らの演奏と、実際の彼らの演奏とは一致するのだろうか?
実際に彼らの演奏は録音でたくさん聴くことができる。
だから、ぜひ実際に聴いてみてほしい。
そうすると、彼らの考えていた「楽譜に忠実」というものと、現代に生きる我々世代の多くが思い描く「楽譜に忠実」という概念は相当に違うということが、実感できると思う。
特に、ヒンデミットという人は作曲家であり、名演奏家だ。
彼が自作自演している録音を聴くなら、彼の演奏スタイルというものがどういうものか、そしてそれが現代の演奏家の「楽譜に忠実」な演奏とどのように違うのかということがすごくよく感じ取れると思う。
ま、これは一例だが、
過去に演奏家たちが演奏という行為にどのように取り組んできたかの歴史を知るということは、現代に生きる演奏家である我々にとって、すごく大切なことだ。
いわゆる作品史、作曲の歴史を知るよりも、さらにさらに大切かもしれない。
作品の真の姿を探り窮め、それを、聴衆に提示するのが演奏家の最も大切な役割だ。
そのためには過去の演奏家たちがその作品にどう取り組んできたのか、その作品をどう観察し、解釈し、音にしてきたかを知るということがすごく大切だ。
そうでないと、その作品の真価をさらに探り窮めるということができないではないか。
過去の演奏家たちの成し遂げて来た成果をふまえて、さらに新しい領域に足を踏み出すのでなければ、その歴史に新しい一ページを書き加えることにならないわけだ。
未来に目を向けるためには、過去を知らなければならない。
歴史を学ぶということは、未来に向かって足を踏み出すという行為の裏づけになることなのだ。
音楽史、演奏史を知る。それも、耳によって、目によって、つまり、体験によって知るということ、これは演奏を生業とするものにとって必須のことではないだろうか?
などとかっこいいことを書いたが、ぼく自身それを十分してきたかと問えば、全然足りないと思う。
でも、全然やってないよりは少しでもやった方がましに決まってる。
だから、せっせと音楽会に通い、CDを集めてるわけだ。
しかし、昔は時間は十分あったが、そのためのお金がなかった。
今は、お金はまあまああるが、時間がなくなった。
CDを買うには買ったが、実際にはまだ聴いていないものが増える一方だ。
人生、なかなか思うようにはいかないなあ・・・・と実感する今日この頃だ。
┐(~ー~;)┌