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打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで。

打楽器奏者山本毅が、打楽器について、音楽について、その他いろいろ順不同で語ります。

レッスンで

2014年05月16日 09時01分12秒 | 音楽全般
レッスンで

先生が「何て言われたか?」ってことも大切なんだろうけど、「なぜ先生はそう言わはったんやろ?」ってことの方が百倍大切なんすよ。

「そこは右手から弾きなさい。」・・・・「ハイ、先生」・・・・じゃなくって、「なぜ先生は右手から弾いたほうがいいと思ったんだろう?」って考えて、もし謎のままなら質問するわけ。

「本当かな?」って、考えてみることも大切。

真理ってのは、君がたった今とか、三日前くらいに思いついた疑問や反論くらいでぐらつくわけはないので、疑ったり、検証してみることによって、理解度が飛躍的に高まるんだわ。

「そこは右手から弾きなさい」・・・・「本当かな?左手からも弾いてみようか?ああ、やはり右手から弾いたほうがいいなあ・・・・。でも、なぜだろう? オレは右利きだったんだ。そうだったんだぁ(爆)」ってわけよ。

(2014年に書いた記事ですね。もうずいぶん更新していませんでした。今後新しい投稿ができればいいなと思っていますが・・。)


指揮者は演奏家?

2013年03月09日 20時49分10秒 | 音楽全般
よく、カラヤンの演奏とか、バーンスタインの演奏とか言うけど、指揮は演奏と言えるのだろうか? 演奏しているのはオーケストラであって、指揮者は一音も発しない。
指揮者が発しているのは直接には合図であって、さらに言うなら影響力とか霊感とか(時には恐怖感とか威圧感とか〈やだねぇ・・・〉)であって、音ではないよね。
もともと指揮者ってのは、アンサンブルが大きくなってきて、もう誰かが合図してくれないと無理という状況になり、本当は演奏したいのだけどやむを得ず楽器を脇において、みんなのために犠牲になって手を振って合図を出すことに徹する人が出てきたのではないだろうか?
ま、みんなのために犠牲になってくれているのだから、指揮者のギャラが高いのは当然かな?
ぼくも時々必要にせまられて指揮をすることがあるが、太鼓か指揮かと聞かれたら1000%太鼓を選ぶなあ。

指揮者になりたいと思ってくれる人って、貴重な存在かも・・・・。
指揮者になりたい若者たちにエールを送ろう!

なわけで、指揮者に一番必要な資質は奉仕者精神。しもべ意識ではないだろうか?

実は注目している日本人の若者が数人いる。順調に育ってくれたらきっとすばらしい指揮者になるだろう。名前は言わない。けど、すごく期待できる世代。ちょっとわくわくする状況やわん。

カレル・アンチェル

2013年01月01日 20時54分58秒 | 音楽全般

昨日から仕事ばりばりやってる。
今日も朝食後から書類の山と格闘していたが、その甲斐あってだいぶ片付いてきた。
この分だと今週は金曜あたりに休みもとれそうだ。

しかし、いくら何でも仕事ばかりではつまらないので、いつか聴こうと思って入手しておいたカレル・アンチェル指揮のチェコフィルのわが祖国のDVDを見た。
とりあえず今日は二曲目モルダウまで聴いて、明日は3-4 明後日は5-6と思って聴き(見)始めたのだが、あまりのすばらしさに一気に見てしまった。1968年プラハの春での実況録画だ。

もう、本当にすばらしい演奏。
ぼくはチェコフィルの代々の指揮者ではターリッヒさんとアンチェルさんが特に好きだ。
でも、指揮姿がこんなにすばらしいとは知らなかった。初めて映像を見たんだわ。
本当にすばらしい指揮。

で、ここで演奏しているティンパニストがすごく細やかな配慮のある演奏で、
ロールひとつとってもいろいろなロールを使い分けているし(二つ打ちロールも使ってる)、ヘッドのどこをたたくのかとかも、色々変化させている。時にはほとんど真ん中あたりをたたいたりもしている。
楽器はどうも昔のドレスナーみたいに見えるんだけど、ヘッドはプラスチックだった。
古い録音だけど、音質も含めてとてもすばらしい演奏だった。

だれか1968年当時のチェコフィルのティンパニストのこと知らないかな?すごく興味がわいた。

で、面白いのは、打楽器奏者が二人しかいないこと。
モルダウは二人じゃ出来ないはずなのにどうするんだろう?と思ってたらナント!
トライアングルやってる人が大太鼓の出番になるとトライアングルをほったらかして大太鼓をたたきそれが終わるとまたトライアングルに戻るんだ。
なんじゃらほい????? !!!!!
とびっくりした。
なんぼなんでも「プラハの春」で紳士淑女が正装して満員というコンサートでそれはないだろう・・・・・?と思ったが、一人病気にでもなったのかな?

と、謎もあるDVDでありました。

と、ここで気づいたのだけど、
ぼくの本職は音楽家なんだから、書類の山と格闘することよりも、こうしてDVDを見たりして勉強することこそ本来の仕事のはずなんだよな・・・・・。

とすると、今日はほぼ一日仕事に夢中だったわけだ。アハハ。

(^_^;)

しかし、カレル・アンチェル時代のチェコフィルさん、
すばらしいですぞ!

「長唄の美と魅力」

2011年08月05日 12時19分39秒 | 音楽全般
日本人で打楽器をやるなら、絶対邦楽にも関心を向けたほうがいい。と思う。

うん、絶対。

ぼくも若いころ、鼓や締め太鼓のお稽古に通ったし、京都の南座や歌舞練場、舞台横の囃子のスペースで演奏したことがある。

今度、京都芸大のイベントでいいのがあるので紹介しよう。

この企画の売りは、なんといっても三味線の今藤政太郎さん、邦楽打楽器の藤舎呂悦さんという二大巨匠が出演されるということだ。

このお二人の演奏、特に、われわれ打楽器奏者にとっては、藤舎呂悦師匠の演奏ってのは、必見・必聴だ。呂悦師匠は、不世出という言葉がまさにふさわしい天才打楽器奏者だ。
それに、邦楽ってのは年をとればとるほど円熟してくる芸で、今師匠は円熟のきわみにあるといっていい年代。これを聴き逃す手はない。

それが、なんと1000円の入場料で・・・!

ぜひ聴きに、そして見に行ってほしいなあ・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「長唄の美と魅力」

京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターでは、平成23年度公開講座第1弾として、第31回公開講座「長唄の美と魅力」を開催します。  長唄は、江戸と上方とを往来しながら江戸歌舞伎とともに発達し、江戸後期から戦前にかけて、日本人にもっとも親しまれた音楽の一つです。その芸と美がどのように受け継がれてきたのか、そして引き継がれていくのか、長唄三味線方の今藤政太郎師をお迎えして考察します。  古典長唄の演奏家としての枠に留まらず、洋楽ホールの音響を生かした企画や、数々の新作の作曲でも知られ、京都・関西とも由縁の深い今藤師によるトークと、日本を代表する演奏家陣による名曲のひとときをお楽しみください。

日時

平成23年9月4日(日)午後3時開演(午後2時30分開場)


会場
京都市立京都堀川音楽高校 ホール
(中京区油小路通御池押油小路町238-1)
地下鉄:地下鉄東西線 二条駅下車 2番出口から御池通沿いの御池側の門よりご入場下さい。
市バス:「堀川御池」バス停下車すぐ


出演・内容
◆ プログラム
1.名曲を聴く1 「越後獅子」
2.トーク 「今藤政太郎師に訊く―伝承力と表現力―」
3.名曲を聴く2 「勧進帳」
【演奏者】
唄 杵屋 東成 (長唄唄方、杵勝会)
今藤 政貴
今藤 政之祐

三味線 今藤 政太郎(長唄三味線方、今藤流)
今藤 美治郎
杵屋 禄山

笛 藤舎 貴生
囃子 藤舎 呂悦(囃子方、藤舎流)
藤舎 悦芳
   ○
望月 隆一郎
望月 太八一郎 



【司 会】
竹内 有一(京都市立芸術大学准教授)
配川 美加(東京芸術大学非常勤講師)

入場料
1,000円



い一日だった・・・。

2010年08月09日 22時14分39秒 | 音楽全般
今日は月曜日、

普段だったらレッスンとか大学業務で忙殺されるはずなんだけど、夏休みでレッスンもないし、大学業務も「今日はない!!!」と自分で自分に言い聞かせてのんびりとした一日を過ごした。

朝からまずはマリンバの基礎練習をたっぷりやり、次のコンサートの曲をさらい、

しかる後に昨日の新聞を読み、少し休んで太鼓の基礎練習をしっかり。

まずは一つ打ちを20分くらい、次に二つ打ち、三つ打ち、四つ、五つ、六つ打ち、

あ、ちなみにぼくの言う三つ打ちってぼく流の勝手なやり方で、世界的に認知されているわけではない。
単純に RRR LLL RRR LLL と片手で三つ打つストロークを交互に続けるだけだ。

四つ打ちは RRRR LLLL RRRR LLLL

五つ打ちは RRRRR LLLLL RRRRR LLLLL

六つは RRRRRR LLLLLL RRRRRR LLLLLL

この練習をたっぷり、そのあとはスティックコントロールを少しやったり、シングルストロークロールをやったり・・・。

十分汗を流したところで日曜大工用品店へ。

実は日曜大工用品店に行くのがぼくは大好き。
いろんな部材を見ながら、これとこれを組み合わせてこう加工して・・・と考えるが趣味。ほとんどの場合、造り方を考えるだけで終わる。実際に制作することはまずない。

頭の中で工作するだけだ。

しかし、仕事で実際に必要になれば、制作に移る。
今まで、様々なスタンドや、器材を制作してきた。
新しい曲を演奏するとき、どんな楽器を使うかも考えるが、どんなスタンドにどう並べるかも考えないと。
そのためには、時には自分でスタンドを制作する必要もある。

「これとこれを組み合わせるとあの楽器をこんな角度でセットできるな」とか、「この材料で造ったスタンドに置けばもう少し倍音が穏やかに出るかな」とか、いろいろ考えながら売り場を歩いていると時間がたつのを忘れてしまう。

そんなかんやで、結局ほとんど何も買わずに帰宅。
しかし、おツムはフル回転。楽しかったぁ。

愛妻の手による夕食を堪能した後はDVDを見た。

かなり以前に購入しておいた、1963年、ウイーンでのコンサート、
オーマンディ指揮、ウイーンフィルの演奏会だ。

買って以来多分1年以上見るひまがなかった・・・・。

が、ついに見た!

すると、ナント音と映像がずれずれ、音よりだいぶ遅れて映像が動く。
おらが国・わが日本のNHKの録画ならこんなことはあり得ないが、ヨーロッパやアメリカの放送局の録画にはこういうことが日常茶飯事だ。
こういうテクノロジーはやはり日本が最高なのかも。

しかし、そんな瑕疵も気にならないくらいにこの演奏はよかった。
ベートーベンの第八交響曲。なんとも言えないいい演奏だ。
このころのウイーンフィルは音程も合わないし縦の線もまあまあ適当なものだし、管楽器のミスもあるし・・・、

でも、これはすばらしい演奏だ。

シンフォニーが終わると、ピアニスト ルドルフ・ゼルキンが登場して、モーツァルトの協奏曲21番が始まった。
なんとも素敵な前奏が終わるといよいよピアノの登場だ。

ここで思わず悶絶してしまった。
これはとんでもなくすごい演奏。

「音楽は心から心へ伝わるもの」だと誰かが言っていた。ぼくも賛成だ。
しかし、それを実感させる演奏はそんなに簡単ではない。

でも、この演奏は、まさに心の最も深いところから、聴き手のたましいの奥底にまで届いていると言えるだろう。

完全にノックアウトされてしまった。

うーん、いい一日だった。

フランツ・モアの

2008年10月20日 23時55分50秒 | 音楽全般
今から10年ほど前、ぼくが40歳くらいの時から、ぼくはテクニックを全面的に見直し変えていったということを以前書いたと思うけど、それから約10年、相当にぼくの出す音、音楽は変わってきたと思う。

その変化は、自分で判断するにプラスの方向だと確信している。

このテクニック改造に際し、参考にしたのは打楽器以外の演奏家たちの演奏だ。
ピアノのリパッティ、ケンプ、ハスキル、ヴァイオリンのグリュミオー、歌のエンマ・カークビー等々の演奏を何度も聴いたものだ。

あのね、テクニックを造りあげたり改造するにあたって、すごく大切なのは耳なんだ。
耳をまず造らねば、変えなければ、テクニックをよくしていくことはできない。

人は自分自身の耳の感覚、さらにいえば音楽観にあわせて半ば無意識にテクニックを構築してしまうものなんだ。

んで、

耳からの参考は彼らの演奏だったが、理念的な面で非常に助けになったのは書物だ。
中でも、下記の本、フランツ・モア氏の著作はものすごく助けになった。

この本は、音楽に関しても、楽器に関しても、演奏論に関しても非常に参考になった。
最近改めて読み直してみて、さらにその思いを強くした。

また、彼は保守派のキリスト教徒であり、キリスト教的音楽観・人間観をもって調律の仕事に当たっていることもあり、その意味でも非常に感銘を受けたし、大きな影響を受けた。

これはいい本だと思う。
示唆に富む、非常にいい本だ。

ぜひご一読を!


ピアノの巨匠たちとともに (単行本)
フランツ モア; イーディス シェイファー (著), 中村 菊子 (翻訳)
音楽之友社

ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ギレリス、クライバーン、グールド…世界のピアノ関係者から尊敬され慕われる巨匠技術師、フランツ・モアだからこそ描ける名ピアニストたちの知られざる姿。愛すべき芸術家たちに、ピアノに、神に感謝。奇才グレン・グールドのエピソードを加えた増補版。新たに甦るピアノの巨匠たちの素顔

バロックマスターワークス

2008年09月15日 00時04分33秒 | 音楽全般
音楽家として身につけていた方がよい能力の中には、生まれつきの才能と後天的に本人の努力や置かれた環境で身につくものとがあると思う。
生まれつきの才能はどうしようもない。また、置かれた環境もある程度しかコントロールできない。

しかし、後天的に、本人の努力で身につくものは、やはり身につけた方がいいと思う。

で、ぼくは、「音楽センス」というかちょっとだけかっこよさそうなことばで言うと「様式感」なるものは、かなり勉強で身につくんではないかと考えている。

もちろん、早道はあまりないが、とにかくせっせと音楽を聴き続けるという方法は有効だし、どうしてもしなくてはならないことだと思う。

バッハの音楽を聴いたことがない人にどれほど詳しく説明しても、バッハの音楽を感得してもらうことは、非常にむつかしい。

やはり、聴く時間を意識的にたくさん持つ必要があるだろう。

で、何を聴くかという点で言えば、経験上バロック時代、古典派時代の音楽をしっかり聴き込んだ人はいろいろな時代の音楽様式を感得する能力が研ぎ澄まされている確率が高い様に思う。
 (さりとて、データがあるわけでもなくあくまでぼくの印象だが・・・)


んで、バロック音楽をとりあえず幅広く聴いてみようと思っている人にとってうってつけのCDがある。

バロック・マスターワークス(60CD+CD-ROM)

っていうセットだ。
下記のページで購入できる。

(といっても、このお店から広告料をもらってるわけでは全くないのだが・・・・。)

http://www.hmv.co.jp/product/detail/2754082

限定版で売り切れてしまえばそれでおしまいなんだが、
マルチバイ特価(税込)  ¥5,742!
という破格値だ。

でも、
このCD、ぼくは買わない。
というのは、すでに持っているCDがたくさんありすぎるからだ。

その大半はどれもけっこうなお値段で、清水から飛び降りるような思いで購入したものだ。

つまり、それだけすばらしい内容だってこと。

これはとんでもなくお買い得だと思う。

このセットのよいところは(人によっては欠点と判断するかもしれないが)モダン楽器による伝統的な(古い)スタイルによる演奏のものと、古楽器による最新の研究成果を取り入れたスタイルでの演奏によるものとが混在しているという点だ。

つまり、バロック音楽演奏の様々なアプローチがバランスよく配合されていて、非常に幅広く演奏スタイルを学ぶことができるというわけなんだ。

モダン楽器の演奏にはオーマンディー指揮のフィラデルフィア管弦楽団なんていう、普通ならまず選択肢には上らないであろう演奏もある。

しかし、名匠オーマンディ先生の指揮だから悪かろうはずはない。
今ではまず聴けないスタイルでの名演に違いない。

ぼくはこの演奏を聴くためだけにでもこのCDが欲しいと思うぐらいなんだけど、やっぱ、予算が・・・。

だから、だれかこのCDを買ったらぼくにも聴かせてほしいな・・・・。

ヘッドフォンアンプもよいが・・・

2008年08月15日 23時54分53秒 | 音楽全般
ヘッドフォンアンプもよいが・・・

パソコンで音楽を聴く場合、ヘッドフォンアンプもよいが「オーディオインターフェース」を使う方がより使い道が多くて便利かもしれない。

「かもしれない」というのは、ぼくはまだオーディオインターフェースを使ったことがないからだ。

しかし、使ったことがないぼくでさえ、確信を持って言えることがある。
「オーディオインターフェース」を使うとデジタルノイズからフリーになれるってことだ。

これは大きなメリットだ。デジタルノイズって何?と思う人はどっかで調べてほしい。

けっこう深刻な問題なのだから。

では、yamはなぜ「オーディオインターフェース」ではなくヘッドフォンアンプを使っているのか?というと、

その理由は単純。

ヘッドフォンアンプを買った時、「オーディオインターフェース」なんてものの存在を知らなかった。それに、最初の段階では、パソコンではなく、CDレコーダーにこのヘッドフォンアンプを繋いで使っていたんだ。

だから、今のヘッドフォンアンプが壊れたら、「オーディオインターフェース」の導入を考えようと思ってる。

でも、これからパソコンで音楽データーを扱う気があるなら、「オーディオインターフェース」の導入を検討したらどうだろうかと思う。

シャローム!

よい音楽をたくさん聴きたい!

2008年08月15日 21時49分26秒 | 音楽全般
打楽器奏者・マリンバ奏者に限らず音楽家が成長するには猛練習だけでは不足だ。練習するのと同じくらい勉強もしなくてはならない。

その勉強の内のかなりのパーセンテージは「音楽を聴く」ことが占めていると思う。
できるだけ良質の音楽をできるだけたくさん聴くことが音楽家の成長には不可欠だ。

生の音楽会をたくさん聴き、録音や録画もたくさん聴くことが私たちの音楽的感性を磨いていく。

ところで、録音や録画を、つまりCDとかDVDとかテレビ放送とかを視聴するにあたっては、どんな環境を用意できるかで受け取れるものの質も量もかなり左右されてしまう。

プアな再生装置で視聴するのと、良質の装置で視聴するのとでは勉強できる内容が質も量も大きく違ってしまう。
やはり、良質な装置をそろえて、静かな環境で聴いたり見たりしてほしいものだ。

だけど、ステレオセットの良質なものを入手するとなると相当にお金がかかる。やはり本格的に聴きこめるだけのクオリティを確保するとなると少なくとも30万円、できれば100万円くらいかけたい。さらに映像資料も見たいとなるとさらにお金がかかる。

そうなると若い音楽学生にとっても、ぼくのようなサラリーマンにとってもかなり厳しい。
第一そんなお金があったら楽器が買いたいではないか。音楽会に行きたいではないか・・・。

そこで勧めたいのはヘッドフォンだ。

ヘッドフォンというのはいい音で音楽を聴くには、それも安く聴くには最高の道具だと思う。
CDプレーヤーと良質のヘッドフォンがあれば、ものすごくクオリティの高い音で、相当にシビアに音楽が聴ける。

できればヘッドフォンアンプも用意したい。

CDプレーヤー、DVDプレーヤーがなくてもパソコンがあればたいていCDもDVDも視聴できるんだが、パソコンのヘッドフォン出力はかなり質が悪い。信号としてはまあまあのものが出てきているが、ヘッドフォンをドライブできるだけの力はないのがほとんどだ。

CDプレーヤー、DVDプレーヤーであっても、安いものは大同小異、ヘッドフォン出力はおまけ程度のものしかついていないのがほとんどだ。

しかし、ヘッドフォンアンプを繋げば驚くほどのクオリティ改善になる。

しかも、2万円のオーディオアンプといえば、まず使い物にならないが、ヘッドフォンアンプだったら1万円ちょいくらいの機器でも十分な質が確保されている。

というわけで、CDプレーヤーまたはパソコン、それにヘッドフォンアンプ、ヘッドフォンとこの3つを揃えれば、ものすごく良質の再生環境が整うというわけだ。

音楽を学びたいと思っている人たちにはぜひ勧めたい。

実はぼくも最近はオーディオルームで音楽を聴くことはほとんどない。

というのは、わが家のオーディオルームは練習室を兼ねている。うちはぼくが打楽器奏者、家内はヴィオラ奏者、長男はギタリスト、次男はチェリスト、長女は音楽家ではないがたまに気が向けばピアノを練習しているという状態で、練習室兼オーディオルームは空いていることがほとんどない状態だ。

そんなわけで、ぼくも普段はほとんどパソコンとヘッドフォンアンプ、それにヘッドフォンという環境で音楽を聴いているしDVDを見ている。

これ、実に快適だし勉強になることこのうえない。

一応ぼくの使っているヘッドフォンとヘッドフォンアンプを書いておこう。
自分で使ってみて、文句なしのクオリティだと感じている。

ヘッドフォンは

ソニー MDR-F1 (サウンドハウスで17,800円)
ソニー MDR-SA3000(同じく23,650円)

この二機種はすごくいい。ホントに。

特にMDR-F1は装着感最高で音質もかなりいい。
「かなり」というのは本当にかなりだ。特にクラシック音楽、それも室内楽などを聴くにはぴったしだ。ほとんどの人はこれでまったく不満無しだと思う。

MDR-SA3000はもっと音がよいが、装着感は少し劣る。

あと、今は使っていないがAKGとSENNHEISERの製品(サウンドハウス価格で1万円を少し超えたくらいから上の)もたいていすばらしい。

ヘッドフォンアンプはフォステックスのPH-50(製造終了商品。値段は忘れたけど)

このヘッドフォンアンプは同時に5台のヘッドフォンが使用できるもので、普通の個人使用には不要なものだ。
(ぼくの場合は、アンサンブルの録音をメンバー全員でモニターするのに複数台のヘッドフォンを同時使用するのでこれを買った)

個人使用ではオーディオテクニカのAT-HA20(11000円)とか、AT-HA25D(18300円)くらいで十分すぎるほどの質を確保できると思うし、もう少し安い「BEHRINGER」の製品なんかでもおそらくそれほど不足はないと思う。

ここで挙げた機器をネットで調べるといろんな人がいろんな評価をしている。辛口の評価も多い。
中にはこの程度の質では使い物にならんという人もいるみたいだ。

でも、はっきり言って音楽を勉強するのに不足はないと思う。

というか、もし普通のステレオセットでこれだけの質を確保しようとするなら、スピーカーだけでも100万円くらいかけないと無理だと思う。アンプやCDプレーヤーも含めたらいったいいくらかかることやら・・・・。

パソコン(またはCD or DVDプレーヤー)とヘッドフォンアンプ、ヘッドフォンの組み合わせ、音楽と真摯に向き合いたい人たちにはぜひ勧めたい。最小限の投資で最大に近い効果が得られるぞ!

毎日の練習 その二(受験生諸君の参考までに)

2007年09月15日 17時27分31秒 | 音楽全般
毎日の練習 その二(受験生諸君の参考までに)

2007年9月15日

大学全入時代を迎えようとする今、京芸を受験しようと計画してくれている人たちがいてくれること、感謝なことだと思う。
受験生諸君には、ぜひその素質を全開にして実力を100%発揮していただきたいと願うばかりだ。

その素質を花開かせるためには、やはりその人にあった最適な練習方法を知って実行する事が大切だ。方法が間違っていたり、無駄が多かったら、能率はあがらない。結果的には試験に間に合わない。

日本の大学は「入るに難く、出るに易い」とよく言われる。私もそのとおりだと思う。そして、それはよくないことだと思う。しかし、私個人の努力でその現実を改革することはできない。

難しい入試を突破しなくては、京芸で打楽器を勉強することはできない。
入試は必要悪とまでは言えないが、受験生にとって大問題であることは間違いないだろう。

とにかく全力をあげて、突破をめざすしかない。門はたたかないと開かないのだから。

しかし、京芸の打楽器専攻の入試、ちゃんと素質がある人が、きちんと努力したら、その要求するレベルにはちゃんと到達できるものだとは断言できる。決して夢物語ではないはずだ。

ぼくの場合、受験生時代、小太鼓の練習は一日1時間以内というルールを自分に課した。(土日も例外なしに一時間に限定した)それは、他の分野、ソルフェやピアノ、英語などに時間をしっかりとるためだった。
それに、土日は散歩とか読書に時間をとりたかった。灰色の受験生生活はイヤだったんだ。

さすがに今の京芸の入試を突破するには一日一時間の練習では少し足りないと思う。
しかし、入試突破のためだけにだったら、一日二時間もかければ十分なはずだ。
それで、今度の11月発表の課題曲をこなせないなら、残念ながら基礎力が足りなかったか、打楽器に向いてないかだと思う。

ところで、ぼくのケースに戻るけど、ぼくは一日一時間の練習の中で、30分は基礎練習だけに費やした。
そして、エチュードや曲には残りの30分を充てた。

実はこれが高一の11月から太鼓を始めて、けっこう短期間で入試レベルまで実力を引き上げる事ができた最大の要因だと自分では思っている。

回り道に思えるかもしれないが、基礎練習にしっかり時間をかける事が、上達の早道だ。
このことは、いくら強調してもしすぎることはないと確信する。

さて、
打楽器専攻の入試にはA,Bの二種の課題がある。どちらを選ぶかは任意だ。

昨年度まで、AもBも一日目は小太鼓のエチュードを演奏してもらってきた。次の入試でどうなるかはもちろん未定だ。発表は11月1日ごろだったと思うのでその日を楽しみにしておいてほしい。

さて、小太鼓のエチュード、どんな風にさらっているだろうか?

エチュードをさらうにあたって、浮き足立ってしまうのが一番よくないことだ。
入試ではけっこうな数の課題が出ている。これを一度に全部さらおうとすると、気持ちばかりが焦ってしまって、いい結果は出ない。

一曲にかける時間の上限をまず決めよう。

ぼく的に言えば、エチュード一曲にかける練習時間は15分以内がいいと思う。
昨年までの課題で言えば、どの曲も長くて二分くらいの曲だ。
単純計算でも15分で7回も通奏できる。

もちろん、7回連続で通すのはよい練習方法とは言えない。

まずは最初に曲の最初から終わりまで目を通そう。これで二分。

次にテンポをグッと落として、できれば二分の一くらいに落としてざっと通してみよう。
これで4分だ。合計6分。

で、難しいところ、ややこしいところを、そこだけ取り出して反復練習。

必要な箇所が5箇所あって、1分ずつかければ5分。
これで計11分。

もう一度今度はインテンポで一回通す。
これで13分だ。
残りの二分間、またディフィカルトパッセージをさらう。

というわけで15分で練習完了。
これを三日間続ける。

で、四日目にはもう次の曲に移行する。一つの曲にかける日数は三日までに押さえる。

もし、取り組む曲が10曲あるとすると、
一日目は1番、
二日目は一番と二番、
三日目は一番、二番と三番、
四日目は二番、三番と四番っていうぐあいにローテーションする。

たとえ三日間で仕上がらなかった曲でもいつまでも引きずってはならない。
そのときうまくできなかった曲でも、ローテーションが一回りしてもう一度取り組むときには、驚くほど楽になっているはずだ。

とりあえず、三日間かけて、まあまあできるようになったら、70-80点がとれたら、一応満足しておくことだ。
ぼくはこれを、「練習の8割原則」と呼んでいる。

一足飛びに100点満点を狙わない。とりあえずまあまあできるようにして、すぐに次の課題に移る。
何日後かにもう一度取り組めば今度はけっこう楽に85点に到達できる。次のサイクルでは90点だって狙えるだろう。

そんな風にして少しずつ前に進めばいいんだ。

ま、こうすれば常時3曲のエチュードをさらう事ができ、それにかける時間は一日45分だ。
15曲課題曲があっても、15日ごとに一サイクル回れるので課題曲発表から入試までの4ヶ月あまりで8サイクルできることになる。

二日目の課題曲はエチュードではなく、れっきとした独奏曲なので、これはもう少し難しいかもしれない。
しかし、二分程度の楽章が4つくらいしかないので、一日30分もかけて同じような方法で取り組んでいけば、4ヶ月で必ずマスターできる。

要はその日どんな練習をして、何をマスターすべきなのか、その目標とプロセスをしっかり把握して練習することだ。
で、あとの残った45分は、基礎練習に費やしてほしい。
二つ打ちとか、パラディドル、スティックコントロールとかを地道に練習することだ。基礎力の充実なしに実力アップは出来ない。基礎練習こそは最も大切な時間だ。

Aの課題曲で受験する人は小太鼓とマリンバの両方を練習しなければならない。
その場合は、小太鼓の練習を一日45分程度までに抑えよう。30分を基礎練習に、15分をエチュードにあてる。一日一曲ずつ、三日間かけてさらい、4日目には二曲目に移る。15日間で一サイクルだ。
そして、残りの75分をマリンバに充てる。長くても10分か20分くらいの課題曲が一曲しかない。
これを75分ずつ4ヶ月かけてさらえば、たいがいの曲はマスターできるはずだ。

もちろん、75分の内、最低30分は音階やアルペジオなどの基礎練習にあてよう。他の基礎的な曲をやってもいい。

入試というのは、定員もあるし、その日の体調とか出来も関係してきて、実力があれば確実に突破できるとは誰にも言えない。勝負には時の運もある。この点は、受験生諸君に心から同情する。もう少し定員枠があればなあ・・・と思う。

しかし、京芸の入試で要求される実力水準に到達することそれ自体はそれほど難しいことではない。
もし、ぼくのアドバイスのとおり実行してみて、それで入試の日に必要な実力がついていなければ、それははっきり言って受験する事が早過ぎたのか、素質不足だと思う。

非常に残酷な事実だけど、音楽の世界、素質がなければそれを職業にするのはやめた方がいい。
素質があっても努力なしには、この世界でメシを食うのはムツカシイ。

素質と地道な努力、どちらも必要だ。

でも、どんな分野でもそうだよね。
その仕事に向いていて、かつ真摯な努力をしなければ、なかなか快適な職業生活を送るのは難しいものだと思う。

でも、困ったことに、素質ってのはある程度努力してみなければ判断できない場合が多い。
チャレンジしてみないことには、結果は出ない。

でも、あなたが今高校1年生か二年生なら、二年くらいがんばってみたら結果はおのずと出ると思う。
18才前後で何らかの結果が出るとしたら、それはどちらにしても貴重な経験ではないだろうか?

ぜひたくさんの人にチャレンジしていただきたいと願っている。

打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで!
音楽は楽しい!オモロイ!ホンマやで!


毎日の練習(受験生諸君の参考になればと)

2007年09月14日 23時38分59秒 | 音楽全般
毎日の練習(受験生諸君の参考までに)

2007年9月14日

毎日の練習、どんな組み立てにするのかって、誰にとっても重要事項だろう。

しかし、全ての人にとっていいスケジュールをたてることは不可能だ。
一人一人その時々で要求される事が違うからだ。

一例として、ぼくが京都芸大受験を目指して勉強していたときの毎日のスケジュールを紹介しよう。
大体こんな風だった。

高校は3時に終わるので、掃除とか雑用とかを済まして帰宅するのが4時ごろ。
(二年生の夏休みが終わったら部活をやめた。バンド仲間も先輩たちもすごくいい人たちだった。
つらかったし、みんなに迷惑もかけた。でも続けていたら絶対に京芸には合格できなかっただろう・・・・)

そこでまず小太鼓の練習を一時間、
休憩の後、ソルフェージュを一時間、
夕食の後、ピアノを一時間。
って感じでやっていくと、大体九時ごろになる。
もちろん練習の順番はしょっちゅう入れ替えた。マンネリは芸術の敵だ。

住宅事情で九時以降は音が出せないので、
それ以降は入浴とか学科の勉強とかをして、その後はむさぼるようにいろんな音楽を聴いた。

で、0時過ぎには就寝という感じの毎日だった。

ぼくの場合、高校一年生の11月に音楽家を志して勉強を始めたのだが、それまでピアノもソルフェージュも楽典もぜんぜん知らなかったから、けっこう苦労した。ピアノなんて、必死だった。
だって、ヘ音記号なんてそれまで読んだことなかったんだから。
右手と左手で違う事をするなんて、想像しただけで気が遠くなる思いだったよ。

小太鼓の勉強より、ピアノ、ソルフェージュ等にかける時間の方が長かったのはそういうわけだ。
(しかし、今から考えると、ピアノとソルフェージュにはそれぞれ毎日30分ずつくらいをかけるだけでも、「入試のため」には十分だったかもしれない。でも、その当時のぼくにとって、ピアノもソルフェージュも目の前に立ちはだかる大岩のようなものだったんだ・・・・)

逆に小太鼓の練習は、とにかく京都芸大に受かりさえすればいいという目標をたてたので、早い話が入試課題曲だけができればいいわけだ。それならそんなにがつがつに練習しなくてもダイジョウブだと信じて、毎日一時間以上は練習しないというルールを定めた。

しかし、それは京芸入学後ツケを払う結果となった。

他の人たちは高校時代いろんな楽器を経験したり、アンサンブルを経験してきているのに、ぼくは小太鼓だけ、それも入試課題曲をこなすためだけの勉強しかしてなかったので、何をするのも初体験の連続で、最初の二年くらいは周囲の人たちに全くついて行けなかった。
京都芸大の歴史に残るほどの劣等生だったのではないだろうか・・・。

オケにしてもアンサンブルにしてもパート譜というものが全くといってよいほど読めない。
数小節の休みでもあろうものなら・・・もうお手上げだった。

それに、小太鼓以外の楽器はほとんど初心者だ。ティンパニなんてさわった事すらなかった。

だけど、高校生のぼくは、とにかく京芸に受からなければならなかったのだから、他の事に時間を使うことはできなかったのだ。

これは、一例であり、受験生だったころのぼくの、あくまでその時の特殊事情での事例だ。

こんな風に、今どんな練習をどんな風に、どれくらい時間をかけるのかってことは、一人一人、その抱えている諸事情によって変わってくる。

だから、今、自分が何をしなければならないのか。目標はどこに置くのかとか、その目標達成のための期間はどれくらいかとかをしっかり定めて、計画をたてないといけないと思う。

全てを得ることは出来ない。
何かを取って何かを捨てないといけない。

今、やらなければならないことに視点を定めて、そこに気力と体力を集中していく事が必要だと思う。


コンサートに行きたいが・・・・。

2007年07月27日 14時14分33秒 | 音楽全般
コンサートに行きたいが・・・・。

2007年7月27日

先日、あるコンサートの帰り、出口のところでチラシを渡された。
ミュンヘンフィルハーモニーとティーレマン氏のコンサートだった。

わが同僚であるⅠ女史がかつて学んだのがミュンヘンであり、そこのフィルハーモニーには彼女のお師匠さんがいるわけだから、これは聴かないという手はないぞ!と思って、よくよくチラシを見たら、あっと仰天。入場料が1万円を越えているではないかぁ。・・・・・・!

すっかり気持ちが萎えてしまった。

ぼくは音楽を演奏するのも、聴くのも、また音楽について語り合うのも大好きだけど、二時間のコンサートに1万円以上をポンと払う勇気はない。

だって、ぼくの家族は5人家族だけど、一万円というのはこの5人の何日分かの食費に相当する・・・・。

これでは、コンサートが大衆的なものにならないはずだ。

愛する妻と二人でちょっと出かけて、しゃれた店で食事をし、お茶を飲んで帰ってもまあ、5-6000円あれば十分に楽しめるのに、一人で二時間のコンサートを聴いて1万円以上使うなんて、とてもできない相談だ。

いわゆる、公務員という名のサラリーマンの一人であるぼくにとって、一晩のコンサートで気軽に出せるお金はまあ、2000円から3000円だ。それでも一家五人で聴きに行けば1万円から1万5千円になってしまうんだ。

ぼくが音楽会行くなら、家族たちだって行きたいコンサートがあるはずよね。
家族5人が月に二回一万円のコンサートに行けば、10万円が飛んでいく。

でも、月に二回くらいコンサートに行くって、そんなに贅沢な話ではないはずなんだ。
健康で文化的な生活を送る権利が基本的人権だとしたら、週に一回くらいはコンサートに行ったってそんなに悪くない話だと思う。

どうして日本のコンサートはこんなに高いのだろうか?

もう古い話になってしまうけど、

ぼくが留学していた当時、
ケルン放送交響楽団のケルンにおける定期公演は5マルクだった。学生料金は1マルク。
つまり、一般席でも500円、学生券は100円だ。

ケルン市立管弦楽団(ギュルツニヒ管弦楽団)はもう少し高くて確か10マルクぐらい払わないといけなかった。
でも、安い。

しかも、ケルンには「ナッハデアパウゼ」という慣習があって、
コンサートホールの受付もぎり嬢たちはコンサートが始まると別の仕事に担当が変わる。
彼女たちはコンサート開始後は客席案内係になるわけだ。

すると、何が起こるかというと、受付のもぎり嬢がいなくなるわけだ。

コンサート開始の序曲の間だけ場外で我慢して待っていれば、二曲目からはただで聴けるわけ。
さっきまでもぎりをしていた案内嬢たちも、明らかに切符なしで入ってくる若者たちを決してとがめたりしない。
全く見て見ぬフリをしてくれている。

数百円の学生券も買う余裕のない貧乏音大生たちは、この慣習の恩恵に浴して、すごいコンサートを二曲目からたくさん聴いて育っていく。   ぼくは、「ああ、大人の社会だなあ」と感心していたよ。

ウイーン国立歌劇場の立見席は確か300円くらいで聴けたはずだ。
ぼくもトリスタンを延々四時間にわたり立って聴いた。しんどかったが・・・・。

夜行列車でベルリンまでベルリンフィルを聴きに行ったけど、このときの入場料もすごく安かった。いくらだったっけ?
カラヤンのときだけ安い席が売り切れていて、けっこう奮発して3000円くらいのチケットを買ったと思う。
でも、他のコンサートは大体10マルク以内だったと思う。

こんな風にヨーロッパ(それも当時のヨーロッパは経済的に非常に落ち込んでいた時期だったが)では庶民や音楽学生が安く音楽を聴ける仕組みがちゃんとできていたんだ。

では、そんなに安い入場料で運営されている欧州のコンサートで、演奏家たちがすずめの涙ほどのギャラで我慢しているのかというとそうではない。ヨーロッパの音楽家、それも地元の音楽家たちは、社会的地位も名誉もあり、経済的にも大切に処遇されている。

だからこそ、いい音楽家たちが生まれたり、世界中から集まってきてすばらしい音楽市場が形成されているんだろう。
聴衆と音楽家たちの双方がいい思いをしているわけだから。

日本ではコンサートは値段も高く、敷居も高いが、大半の音楽家たちは、貧困から抜け出せていない。
みんな音楽が大好きだからこそ、安いギャラにも耐え、劣悪な環境にも耐えてがんばっているわけだ。

日本の経済が今は多少落ち込んでいるが、それでも世界に冠たる経済大国の一つであることにかわりはない。
こんなに経済が豊かな国で、こんなに音楽家をはじめ芸術家たちが貧しさの中にいて、かつ入場料が高い国は他にはあまり聴かない。

どうして日本という国、日本という社会はこんなに芸術に冷たいのだろうか?

でも、こんな日本でも庶民が生の音楽を楽しむ術は、けっこうある。

その一例をここに紹介しよう。

それは、音楽大学の学生たちが演奏するコンサートや、音大が主催して提供するコンサートだ。
時にはその音大で教鞭をとっている現役演奏家が出演していたりするが、たいがいは無料か、ごくごく安い入場料で聴くことができる。

前にも書いたが、ぼくが教えている京都市立芸術大学の学生たち、身びいきも入ってるかもしれないが、かなりの腕前だ。
大学院の学生ともなると、大学では学生の顔をしているが、一歩大学の外に出ると立派な職業音楽家の一人として活動している連中もいる。

彼らの演奏が、安く聴けるのだから、大学関連のコンサートは、存外掘り出し物だ。

ぼく自身、有名演奏家のCD焼き直しのようなビジネス的な演奏より、彼らの熱意あふれるフレッシュな演奏の方が楽しく聴けるなあと思うときが多い。

今後このブログでも学生たちのコンサートを案内させていただこうと思ってるので、ぜひご来聴いただけたらと願う次第。

演奏者にとっても、聴き手にとっても、ハッピーな機会となることを願う次第だ。

驚くほどの名演が聴けるときもあれば、思わず慰めのことばをかけてあげたいときもある。
ステージ袖で悲嘆の涙にくれる演奏者が数日後の次の機会には満場を唸らせる名演を聴かせてくれたりと、
音楽学生たちのコンサートは非常にスリリングだ。

また、まだブランドが確立していない若い演奏家たちのコンサートは、聴き手の感性を試し訓練する格好の場でもある。
評論家もマスコミも何の予断を与えてくれないから、白紙の状態で聴くことができるわけだから。

ぼくの住む街、京都で、身近でしかも質が高く安いコンサートがいっぱい開かれるようになってほしいなあと願う次第だ。

それに、音楽大学が貢献できる選択肢はけっこうあるかも。
学生諸君よ、奮起せよ!

p(*゜▽゜*)q  ファイトぉーっ!

緋音さんの質問に

2007年07月07日 00時38分30秒 | 音楽全般
2007年7月6日

高2の緋音さんが投稿して下さった質問に答えてみたい。

こんな質問だ。
「私も打楽器をしていて、音大に入ること(できれば京芸)も視野に入れているんですが、
先生から、「音大に入ってもプロになれる確率なんてないに等しい」と言われました.
でも私はただ、音楽以外に興味のあることがなくて、音大に行きたいと思っているんです.プロになりたいとか、なれるとかは思っていません.

だからお聞きしたいんですが、プロになるつもりでいないと、音大に入っても意味がないのでしょうか?
あと、プロになるということは、ただ趣味でしているということと何が違うのでしょうか?」

まずは、この質問に直接的に答えてみたい。

二つの質問に分けてみよう。
最初の質問は「プロになるつもりでないと、音大に入っても意味がないのか?」というものだ。

これについてはまず、プロとは何かということを定義しなければならないと思う。
プロの打楽器奏者、または、プロの音楽家というのはなんだろう?

この両者には違いがあるのだろうか?
読者の皆さんはどう思いますか?

プロの打楽器奏者とは、打楽器の演奏でお金を稼いでいる人というふうに一応は定義できると思う。
しかし、年に数回、演奏してギャラをもらっている人と、一年に100回以上演奏してその収入で家計を支えている人と、ずいぶんその実態に差がある。
また、一回のコンサートで平均数千円のギャラをもらっている人と、一回のコンサートで数百万円を稼ぐ人とを同じ範疇で扱うことは難しいだろう。

ぼくのことを言えば、
最近の演奏回数は年に数回だ。10回を超えるか超えないかという程度。しかも、その中でかなりのパーセンテージのコンサートがノーギャラだ。

だからといって、ぼくのことをアマチュアの打楽器奏者だと呼ぶ人はそんなにたくさんはいないと思う。

うーん、だから、プロの打楽器奏者と一口にいっても、なかなか定義が難しいなあ。

また、「プロの音楽家」という定義だとこれはなおいっそう難しいことになる。
すごく広い。
音楽というものに関わって収入を得ている人はすべてプロの音楽家だといえないこともないし、そうなると、まあ、ものすごく範囲が広くなる。

しかし、「プロの」ということばを取っ払ってしまうなら、話はずっと簡単になる。
打楽器を演奏する人は全員打楽器奏者だし、音楽に真剣に関わっている人はすべからく音楽家だといえる。

で、京都芸大の設立目的は非常に単純だ。
それは、「芸術家を育てること」につきる。
それゆえ、音楽学部の目的は「音楽家を育てること」だ。

だから、当然、京都芸大打楽器専攻の目的は「打楽器奏者を育てること」かというと、そうではない。
そうではなくて、「打楽器を研究することを通して音楽を広く深く研究し、音楽家を育てること」にある。

つまりは、音大、それも京都芸大打楽器専攻に入学するなら、「打楽器を通して音楽を研究し、音楽家になることを目指さないと意味がない」わけだ。

打楽器専攻は打楽器という入り口から音楽の広大な、そして深遠な世界に踏み入って、音楽を研究し窮める専攻だ。
だから、当然、結果としてプロの打楽器奏者になる人もたまに出てくるし、プロの音楽家になる人はもっとひんぱんに出てくる。京都芸大を卒業して音楽とは無縁な世界に行く人は、珍しいかもしれない。ほとんどの人は何らかのかたちで音楽と関わり、そこから収入を得て自分の生活を支えている。(もちろん100%支えている人もいるし、部分的に支えている人もいる)

だから、打楽器を通して音楽を研究したい、窮めたいと真剣に願っている人なら、音大に、少なくとも京都芸大の打楽器専攻を目指してくれることは大いに意味のあることだと思う。

プロになるとかならないとかいうのはあくまで結果であって、それ自体を目的化してしまうと自分を縛るばかりで、しんどいことになると思う。

二番目の質問、「プロになるのと趣味でやるのと何が違うのか?」だけど、

これも難しい質問だ。

でも、ちょっと考えてみよう。
プロと趣味の人と質的な違いがあるのだろうか?

これはあるとも言えるし、ないとも言える。
プロだからといってみんな凄腕の演奏者とは限らないし、アマチュアだから演奏者としての能力が低いとは限らない。

日本のマリンバ界の先駆者として、その名を知らぬ人はいないであろう朝吹英一さんは、本業は財閥の総裁で、マリンバは事業の合間に演奏しておられた。しかし、氏は当時の日本マリンバ界を代表するすばらしいプレーヤーであり、氏の演奏するマリンバの音はラジオを通して日本中に響いていた。また、氏の門下から出てきたプレーヤーの顔ぶれの豪華さは現代のマリンバ界で眩いほどの光を放っている。

ボストン交響楽団を世界的水準にまで高めた功績者、セルゲイ・クーセヴィツキーももともとはアマチュア音楽家だそうだ。

リムスキー・コルサコフは軍人だったし、ボロディンは医者?だったはず。

宗教改革を牽引した偉大な神学者・信仰の勇士マルチン・ルターは作曲もしたし、作詞もした。
今でもその曲は歌い継がれている。

だから、プロであることとアマチュアであることでその人の音楽に違いが出てくるわけではないといえる。
違いは、ただその人がそれでお金を稼いでいるかどうかということでしかない。

と、ぼくは考えた。
普段はこんなこと考えないんだけど、緋音さんのおかげで、なかなかディープ、かつ大切な問題を考えてみることができた。ありがとう!

というわけで、京都芸大に限らず、大学の使命は、ちょっとかっこよく言うと「真理の探究」にあるんだ。
音大という場は、音楽を通じて真理を探究する場だ。
だから、とにかく音楽が好きで好きで、音楽の研究をしていればとりあえずうれしいという人は、京都芸大に来ればなかなか楽しい大学生活を送れるだろう。

全国から、いや全世界から、そんな探究心旺盛な人々に来てほしいとぼくは願っている。

ただし、入試はけっこう難しいみたいだ。課題曲も難しい曲だし、曲数も多い。挑戦するだけでも実力とやる気を大いに必要としている。・・・・・ぞ!

でも、現実には毎年確実に一人か二人は入試を突破してくるのだし、何年か前には4人も合格したこともある。
だから、素質もあり、努力する資質もある人なら、十分な可能性がある広い門だともいえる。

ところで、「音大に入ったからといって、プロになれる確率はゼロに近い」のだろうか?

話を単純にしてみよう。
日本中にプロのオケは20くらいある。
大体平均したら一つのオケに4人くらいの打楽器奏者がいる。
そのほとんどは定年などで40年以内に入れ替わる。

ということは一年に平均二つのポストが空くわけだ。
その年にポストを求めている若い世代の打楽器奏者の中で一位か二位に入れば、職を得ることができる計算だ。
プロ野球選手や、ミスユニバースなんかに較べたらかなり広い門ではないだろうか?

それに、オケ以外の分野で活動する人たちも多い。
打楽器で稼いで生計をたてるってことは、意外に難しくないかもしれないよ。
もちろん、それで大資産家になろうとするなら、それはかなりムツカシイ・・・・が。

だから、音楽でプロになるのは、難しいともいえるしそうでないとも言えるんだ。
ただ、一つだけ言えることは、チャレンジしなければチャンスもないということだ。

結果はマルであれペケであれ、チャレンジした人だけが見ることができる。

あとは緋音さん、あなたの決断ですよ!
シャローム!

演奏史(続き)

2007年05月19日 21時25分39秒 | 音楽全般
演奏史のお勉強(続き)

2007年4月6日

要するに、いろんな演奏を聴きまくるってことなんだけど、
ぼくたち演奏家にとってはそれが単なる趣味的なものに終わったのでは意味がない。

自分の演奏に役立てなけりゃ・・・。

そんなわけで、生の演奏であれ、録音・録画であれ、誰かの演奏を聴いて、その演奏の特徴を感じ取ったなら、すぐにそれを自分で再現してみる必要がある。

実体験してみるわけだ。

ぼく自身、自分の音を創りあげる過程でそれをやってきたのだけど、

たとえば、ケンプの弾くシューマンを聴いたとき、
その右手のタッチ、メロディーラインを弾く時のなんともいえない音色に魅了され、それをトライアングルとかグロッケンンシュピールで再現できないものかと試行錯誤した。

「ぼくのトライアングルの音は世界一だぁ!」なんて言う気はさらさらないが、けっこう個性的な音色を持っていることは確かだ。あまり回りに同じような音を出す人はいない。
自分でも思うし、それに気づいてくれた聴衆も少ないながらいる。

それは、ケンプの弾くシューマンから学んだものだ。

また、ブレンデルの弾くモーツァルトを聴いて、その硬質でクリアーなタッチをマリンバの鍵盤上で再現する事も試みた。

それが実現できたかどうかはさておき、その時試行錯誤したプロセスが、いま自分がバッハをマリンバで弾くとき、確実に武器になっていると思う。

要するに、「学んだことは、実践しないと!」ってことだ。

演奏史のお勉強なんて、もっともらしいことばを使ったとしても、それが自分の演奏に生かされていなければ意味がない。

だから、誰かの演奏を聴いて、自分にはない何かを感じ取ったら、それを自分の楽器で再現してみるという作業を怠ってはならない。

絶対に音にしてみるべきだ。
それは楽器が変わってもいい。ブライニンのボウイングを小太鼓のタッチで再現してみるってチャレンジも十分可能だし有益だ。

それを根気よく続けることによって、あなたの音楽的引き出しが確実に充実する。

ぼくたちのお師匠さんは、世界中にたくさんいる。

あらゆるジャンルの音楽家たちが師となりうる。
この人たちに師事しないって手はないぞ!




演奏史のお勉強

2007年05月19日 21時25分25秒 | 音楽全般
演奏史のお勉強

2007年4月6日

演奏史のお勉強って、難しく聞こえるけど、実は単純なことだ。

誰が、いつ、どこで、どんな演奏をしたかっていう情報を集めるだけの話だ。

つまり、どんな音楽家が(どんな音楽的感性や、バックグラウンドを持った人が)
どんな時に、(時代背景)
どこで、(音楽的環境、すなわち聴衆の好みとか、地域的状況)
どんな風に演奏したかって事を、できるだけたくさん知るって事だ。

で、ここでこんな風に思う人、いるかも。

「私はオケマン志望だし、今要求されているスタイルで演奏できればいいだけで、過去の演奏様式とかあんまし関係ないのでは?」

一見もっともな疑問だけど、演奏史を知るって事はむしろオケマンにこそ必要なことだ。

なぜかっていうと、オケマンってのは自分の音楽を持つ必要も大いにあるけど、指揮者や同僚の音楽的要求に応えていかねばならないという職人的必要も大いにある。

で、指揮者が変わり、同僚が変わり、場所が変わり、状況が変わり、時代が変わると、要求される演奏様式も、それにつれて変わってくる。
いつも、自分のやりたい通りにばかり演奏するわけにはいかない。

で、指揮者とか同僚が色々と音楽的な注文を投げかけてくるとき、たいがいは言葉で要求を投げかけてくる。
もしくはジェスチャーとか、ウインクとか、笑顔とかで注文が来たりする。

そんな注文が具体的であり、詳細であって、すぐに理解できるものだって事は実はあまりない。

もっと大きめにとか、ちょっと鋭くとか、時には、冷たくとか、明るく、暗くとか色々な言葉で、しかもあいまいな言葉で要求が投げかけられる。

それを理解したうえで、解釈し、実際に音にするという職人技がオケマンには必要だ。

この高度な職人技の土台になるのが演奏史の勉強なわけだ。

つまり、色々な時代の、色々な国の、色々な演奏家が、色々な状況の中でどんな音を出してきたかを知ることで、ぼくたちの音楽的引き出しの数が増えていくわけだ。
その引き出しを、様々な状況に応じて適切に開いて、適切なアイテムを取り出すことができないといけない。

指揮者や同僚たちの投げかけるあいまいかつ舌足らずな要求に適切に音で応えていくには、彼らの音楽的バックグラウンドを知ることも必要だ。

それはつまり、彼らの個人的な演奏史をある程度知ることが有益だってことでもある。

ま、そんなわけで、オケで生き延びていくには、演奏史を知れば知るほど有利になるわけだ。

オケマンって結構高度なスキルが必要だ。

芸術性と職人技の、時には相反する要素を高度にバランスさせなければならない。

それには、音楽史とか演奏史とか、音楽理論、人間理解等など、けっこう身につけるべき知恵と知識が多いものだ。

ちょっと脱線かもしれないけど、
これからの時代のオケマンは、楽器が上手いだけの人はもう必要ないと思う。
上手いだけの演奏なら録音や録画でいくらでも聴ける。

生の演奏会に行く以上、ぼくは生きた人間のメッセージ、その場でしか聴くことのできない生きたメッセージを聞きたいと思う。

そんなメッセージのこもった演奏をするには、やっぱ、演奏する人の人間性がすごく重要だとおもう。

だから、オケマンになりたい人には、ぜひ教養とか、倫理性とか、パッションとか、
要するに、知性、感情、意思、宗教性とか、そんな面に目を向けてほしいと思うんだなあ・・・。