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打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで。

打楽器奏者山本毅が、打楽器について、音楽について、その他いろいろ順不同で語ります。

兵士の物語

2007年05月19日 20時58分47秒 | 音楽全般
兵士の物語

3月30日(木) 19:00
大阪のいずみホール、いずみシンフォニエッタのコンサートで兵士の物語を演奏する。

このコンサート、ものすごく楽しみにしてるんだ。

この曲、室内楽編成の曲で少人数で演奏できて経費があまりかからないので、コンサートにのる機会が多いはずなのだが、実はそんなに演奏されていない。

というのも、打楽器パートはぼくのパートだからコメントしないが、他のどのパートもものすごく難しい(らしい)。ヴァイオリンはもちろん、全ての楽器に名手を配置しないといけない。

そんなわけで、プロデュースが難しい曲なんだ。

でも、いずみシンフォニエッタの管楽器弦楽器陣はより抜きの名手揃い。この曲はもっともいずみシンフォニエッタに向いた曲の一つといえると思う。

それと同時に、ぼくにとっては重要な要素がある。
それはストラヴィンスキーがこの曲にこめた神学的メッセージだ。

悪魔の狡猾さと人間の弱さに対する警告(と同時に弱い人間に対する同情と共感)がぼくにとってもすごく共鳴するテーマなんだ。

そして、讃美歌からの影響も強い。というか、もろ「コラール」と名付けられた曲も二曲入っている。(ここは残念ながら打楽器はおやすみ・・・・)

このコンサートにむけ、そろそろ本格的に練習を始めようと思っている。
兵士の物語・打楽器パート、今までにも何度か演奏したが、一筋縄ではいかない。譜面づらはそれほど難しくない。しかし、危険に満ちた曲だ。スリル満点、おもしろさ満点。練習してて飽きない曲だ。

皆さん、ぜひ聴きに来てください!
ナレーションは腹話術の「いっこく堂」という人で、ぼくは知らない人だがすごく上手な人だそうでおもしろそうだ。
きっと楽しく、同時に示唆に満ちたコンサートになると思う。

http://www.izumihall.co.jp/sin_shusai/kouen_n.html




思いっきり歌う!

2007年05月19日 20時57分21秒 | 音楽全般
思いっきり歌う!

2006年2月19日

音楽のあり方って、やっぱり多様だ。
ぼくにとっても、実は多様だ。

ぼくの音楽でのフィールドはもちろん打楽器だ。
しかし、他にもある。

今日は日曜日。礼拝で思いっきり讃美歌を歌った。

礼拝?  そうだ。礼拝だ。 ぼくはクリスチャンなんだ。
日曜日は礼拝をする。

礼拝が日曜日だって規則があるわけではないが、ほとんどのキリスト教会では日曜日に礼拝をする。
ぼくの教会もそうだ。

でもって、日曜日には思いっきり讃美歌を歌う。

もちろん、ぼくはプロの歌い手ではないので、はっきり言ってへたくそだ。
自分でも下手だなあと思う。

でも、ぼくにとってはいずみホールで太鼓をたたくのと同じくらい、重要な音楽の場だ。
というか、毎週日曜日に讃美歌を歌うことで、ぼくは音楽家として生き延びていると思う。
もちろん一人の人間としても・・・・だ。

器楽ってのは抽象的な内容の音楽が多い。
しかし、歌は大体においてはっきりした内容がある。
それがわかりやすくて、直接的でいいなと思う。

讃美歌の内容は読んで字のごとく讃美だ。「神様はすばらしい!」これにつきる。

以前、演奏とは世界観の表明だと書いたことがあるよね。

ぼくの世界観。それはまさに「神様はすばらしい!」であり、「神様の創った世界はすばらしい!」だ。

その世界観を直接的に音楽で奏でることのできる礼拝の場、讃美歌を歌う場、時、これは何にも代え難い。

音楽家としてのぼくのアイデンティティーの基盤の一つはここにある。

God is

思いっきり歌う!(2)

ところで、教会で讃美歌を歌うことはぼくの打楽器演奏にとっても、すごく役に立っている。

「歌」ってのは呼吸を伴う音楽だ。いや、呼吸に伴う音楽だという方がより正確だよね。
ところが、打楽器とかピアノとか、ギターってのは呼吸なしでも音が出せる楽器だ。
これが実は大問題で、
音楽ってのは元々は歌から来ている場合が多いので、呼吸がすごく大切なんだ。

でも、打楽器をやってる学生さんで呼吸がちゃんとできる人は少ない。いや、ほとんどいない。
ピアニストの卵もしかりだ。

ぼくも高校生の頃、お師匠さんから呼吸の大切さを学んだ。
フレーズにあわせて息を吸うことの大切さを学んだ。

しかし、のちになって気付いたのだけど、呼吸は「吸」だけではない「吐」もある。
というか、吸うことと吐くことが対になっている。
だから、吐くことを学ばないと呼吸を学んだことにはならない。

なぜかその先生は、吐くコツは教えてくださらなかった。
きっと先生は、自然にできておられたのだと思う。

では、どう吐いたらいいのか?

( ̄~ ̄;)??

答えは簡単、歌えばいいのだ。

ちゃんと歌えばちゃんと息は出ていく。
そして、息が出ていって肺が空になれば自動的に次の息を吸うことになる。
吸おうと思わなくても、勝手に吸ってしまう。
肺が自動的に空気を吸い込むという感覚だ。

これはぼくが勝手に考えたことではない。
デトモルト音大の声楽の先生が教えてくれたコツだ。

「とにかくちゃんと吐くことです。そうすればちゃんと息が入ってきます。吸うことを意識する必要はありません。最後まで息を吐ききってくださいね。」と、そう教えてくださった。

で、この息を吐くコツってのは、思いっきり歌うことが習慣化されていくときに自然に身に付くわけだ。

だから、讃美歌に限らず、童謡でも民謡でも文部省唱歌でも何だっていいんだけど、思いっきり歌うってことが太鼓の上達にはとっても重要なんだ。

ただね、ポップスや歌謡曲ばかりを歌うっていうのではちょっと足りない。
ポップスは発声の原理がチトばかし違うみたいで、クラシック音楽の打楽器演奏のために役立つ呼吸は身に付かないみたいだ。

その点、讃美歌ってのは実に都合がよくできている。

もともと「誰でも歌えるように」ってのが讃美歌ができてきた理由だから、歌うのに簡単だ。
これがシューベルトのリートとかドビュッシーのメロディーを歌おうとしたらそう簡単にはいかない。下手するとあまりの難しさに脳の回路がショートするかも。

しかし、簡単とはいえ、古い時代のものが多いから、もろクラシック的な呼吸が自然に身に付く。

それに、聴衆はいないといっていいから、人目をいや人耳を気にせず思いっきり歌える。
つまり、思いっきり息を吸って、思いっきり息を吐いて歌えるってわけだ。

たいがいのキリスト教会では、礼拝参加者が多すぎて困ってるようなことはまずないから、
「キリスト教には興味はないが、讃美歌を歌いたいんで」と言って礼拝に参加しても、大歓迎してくれる。
場合によってはお昼ご飯までごちそうしてくれるかもしれない!
現にぼくがドイツで行ってたデュッセルドルフの教会にはご飯(日本食)を目当てに礼拝に行ってた輩がけっこういた。

それと、クラシックの名曲には讃美歌をルーツとしている曲が数知れずたくさんある。
メンデルスゾーンの交響曲第5番などはその代表例だ。
また、バッハのたいがいの曲は讃美歌を知らないなら、その真価を十分に知ることは難しい。

そんなわけで、讃美歌を歌うことは、音楽を学ぶ者にとってはすごく有益だ。というか、本当は必需品といっても大げさではないんだ。


京響と武満作品

2007年05月19日 20時56分51秒 | 音楽全般
京響と武満作品 2006-02-18 23:35:46

今日も京響のコンサートに行った。このところ、せっせと聴きに行ってる。
ようやく子供にも手がかからなくなり、再び「コンサート聴きたい熱」が燃え上がってきた。
上の子が生まれてから20年。その間、次男が生まれ、長女が生まれで、なかなかコンサートにも行きづらい状況が続いたが、ようやくコンサート通いの条件が整いつつある。うれしいことだ。

ところで、以前にも書いたが自分の住む街にオケがあるってのは幸いなことだと思う。

武満作品だけのオーケストラコンサートを聴ける街っては、世界中にそんなにたくさんはないはずだ。
経営の安定しているオケがあってこそだ。経営の苦しいオケにとっては、こんなハイリスクなコンサートはあまりなし得ないことだろう。

それにしてはお客さんはたくさん入っていた。普段の定期演奏会よりも多かったかも知れない。

武満氏も没後10年。今や前衛とは言えない。すでに歴史の中に定着した存在だ。
ということで、この人の作品の真価はこれから測られることになるだろう。

今日演奏されたノベンバーステップスも初演から20年くらいは衝撃の前衛音楽としての地位を保っていたことだろうけど、今や古典的な作品だ。聴いていて、前衛的な印象は全くない。

さて、100年後に武満作品、考古学的な価値ではなく、今まさに生きている音楽としての真価を発揮し続けているだろうか?
歴史の審判にまかせるしかない。

今日はぼくにとっても知的好奇心を刺激されるコンサートだった。
しかし、聴いたあと音楽っていいなあと感動したかといわれると、それはあまり感じない。
「そうかあ、こんな音楽もあるんだなあ・・・・。」という感じだ。
武満作品、今までにもずいぶん演奏してきたんだけどなあ・・・・・・。

音楽のあり方ってやはり多様だ。

魔笛っていいなあ!

2007年05月19日 20時56分35秒 | 音楽全般
魔笛っていいなあ!

2006年2月16日

モーツァルトの魔笛ってオペラ知ってるかい?
今度京都芸大大学院のオペラ公演でやる演目だ。

http://www.kcua.ac.jp/news/read.cgi?id=47

いつもは学生たちで行われるオペラ公演、今年は何かの記念公演だそうで教員も出演するということだ。
山本も出演しなさいということになって、一日目の序曲だけティンパニを演奏することになった。

なぜ、一日目の序曲だけかというと、
大学院の学生にとって、オケの本番はこのオペラ公演しかない。
一年に一度しかないオケの出番をぼくが奪い取るのはいくらなんでも横暴ではないかと思うゆえだ。

だから、他の部分は大学院2回生のY嬢が演奏する。
フレーッ、フレーッ、Y!

ところが、本番直前のリハーサル、彼女がゆえあって欠席せざるを得ないことになり、ぼくが代役を務めないといけないはめになった。教師に代役を務めさせるなんてなんて学生だ・・・・!

(°ヘ°)Ω

というわけで、魔笛のティンパニパートを全曲勉強しておく必要が出てきた。

魔笛の序曲は以前にも演奏したことがあるが、全曲は経験ないので、図書館でスコアを借りて来、CDも入手した。

でもって、最初から聴き始めたのだが、あまりのすばらしさに絶句してしまった。
曲もすばらしいのはもちろんだが、演奏が想像を絶する超名演。

クレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団の演奏だ。

この演奏を聴いていると、古楽器演奏がどうのこうのとかそんなことはどうでもいいことではないかとさえ思ってしまう。
書いてある音をそのまま、一音一音ひたすらていねいに演奏していくことの積み重ねのすばらしさというか、偉大さを感じる。

(あ、誤解してほしくないんだけど、ぼくは古楽器演奏のスタイルは絶対勉強しておく必要があると思ってる。ピリオド楽器に対する知識は2006年現在特殊なものではない。ある程度知ってて当然のことだ。
「古楽とは何か―言語としての音楽」ニコラウス アーノンクール (著)くらいは少なくとも読んでおくべきだし、古楽器演奏のCDはたくさん聴かないといけないと思う。)

いやあ、今日はすごくいい体験をした。
大げさかもしれないがこんな演奏が聴けるなんて、生きていてよかった・・・・・・。


打楽器の試験

2007年05月19日 20時56分05秒 | 音楽全般
打楽器の試験

2006-02-13 22:54:41

先週の土曜日と今日の月曜日、私の教えている大学で、打楽器実技試験があった。
土曜日が卒業試験、今日が1-3回生の後期試験だ。

管楽器と打楽器の試験が全部まとめて行われるので、大変なマラソン試験となり、聴く我々教師陣にとっては本当に一大事だ。

しかし、私の生徒たち、全員がそれぞれすごく成長していることが実感できて、教師としてはすごくうれしい気分だ。実際、彼らの成長ぶりを確認できる時というのは、教師をしていて一番うれしい時の一つだろう。

実技試験は半年に一度、つまり年に二度行われる。
やはり、半年も一生懸命努力したのだから、明らかな成長ぶりだ。

私たちにとって、昨日よりどれだけ前に進んだか、半年前からどれだけ進んだかが一番重要なことだ。たとえ少しずつでも前に進んでいればそれでいい。そういう意味でライバルは結局自分だ。隣の誰かと自分を比べる必要はないのだと思う。

第一、本当の意味では演奏に優劣はつけられないものだ。

演奏、本来それは真実であるかどうかだけが問われるべきものだ。
一体誰が人の演奏の優劣を論じる資格を持っているのだろうか?演奏という行為に絶対的な価値判断をすることはできない。
あくまで相対的なものだ。聴き手の価値観に合致してさえいれば、どんな演奏でも限りなく聴き手にとって貴いものだ。
ぼくにとっては、どんな名手の演奏よりも、自分の子供たちの演奏とか、自分の妻の演奏の方が貴いものだ。
生徒たちの演奏もそうだ。彼らの演奏を聴くことはぼくにとって、最高の喜びの一つであり、同時に最もしんどいことの一つでもある。それだけの意味が、重みがぼくにとってはある。

ところで、演奏とはいったい何だろうか?

いろんな言い方ができると思うが、一つの言い方として、演奏者の世界観の表明ということができると思う。世界観という言い方が大げさだとすれば、作品観と言い換えてもいい。

その人が見た作品の真実を、世界の真実を、できるだけ阻害することなく音として表現していくということだと思う。

一つとして同じ世界観はなく、同じ作品観はない。だから演奏も一つとして同じものはあり得ない。

今回、S嬢とH嬢は同じ曲を演奏した。北爪道夫作曲サイド・バイ・サイドだ。
これがすごくおもしろかった。

まず楽器の選択が違う。
Sは中音域と低音域の太鼓にシングルヘッドトムを選んだ。同じメーカーの同じタイプのトムを4台だ。Hはそこにコンガ二つとダブルヘッドトムを二つ選んだ。しかも、コンガは全く違う音質のヘッドを張った二台を使っていた。

Sの演奏は音質のそろった四台のトムトムを用いた事もあって、非常にメロディックなモノトーンの魅力の演奏となった。
それに比してHの演奏は自然に音色と音量にデコボコが生じる色彩感のあるエスニックな感じの演奏になった。

まるで、ちがう作品のようだった。
この二つの演奏のどちらがいい演奏であるのか、どちらが正しい演奏であるのかということは、言うだけ野暮なことだ。全く好みの問題でしかない。ぼくはどちらも楽しめた。

二人ともそれぞれの音楽観、作品観、もっと大層な言い方をすれば世界観に基づいて楽器を選択しているのだ。
その選択に意見は言えても、善悪を論じることは出来ないだろう。

二人とも、自分の心の目に映った世界でたった一つのサイド・バイ・サイド像を、その持てる力をフルに駆使して表現したのだ。


藤原真理&ヤンネ・ラットゥア デュオリサイタル

2007年05月19日 20時54分40秒 | 音楽全般
2006-02-03 22:58:30

今日はチョロとアコーディオンのデュオリサイタルを聴きに行った。

チェロはご存じ世界の藤原真理さん。アコーディオンはラットゥアさんという若い人だ。
会場には開演15分前に到着した。席があるかなあ?と心配しながら足早に客席に入ると、なんとガラガラ・・・・。

(;^_^ A

藤原真理さんほどのチェリストの演奏で、オールバッハプログラムという極上の曲目、入場料も前売り3000円、学生1500円という日本にしては格安だというのに・・・・。
ちょっとさみしい思いをしてしまった。

( ̄□ ̄;)

しかし、演奏は最初から終わりまですばらしかった!

とかくオリジナル楽器ブームとかで「チェンバロ曲をピアノで弾くのはけしからん、ましてやマリンバでバッハを弾くなんて」とお堅いことをおっしゃる方がいる中で、ヴィオラ・ダ・ガンバパートをチェロで、チェンバロパートをアコーディオンで弾いたガンバソナタ3曲を核にしたプログラム、実は秘かに拍手喝采していたのだ。(他楽器に編曲してのバッハ、いいじゃないか、どんどんやろうよ、やってくれぇ!)

アコーディオンで弾くバッハ、いいですねえ。特にラットゥアさんがソロで弾いたゴールドベルクバリエーションの抜粋は時間がたつのも忘れるほどで(ウーン、どうして抜粋なんだ、全曲聴きたかった・・・・!)、バッハはどんな楽器で弾いてもいいなあと感激した。
ぼくもマリンバアンサンブルでバッハを弾くことをライフワークにしたいと思ってるので、すごく励まされた。

藤原真理さんのチェロは古楽器奏法をよーく研究された事が如実に理解できるニュアンスフォルな演奏で、迫力とか、音量とは無縁の世界、聴き手が積極的に耳を傾けていかねばならないものだった。
もしこのコンサートが大コンサートホールで行われていたなら、その良さは半分も伝わらなかっただろう。
会場のアルティは客席数400人ほどの小規模ホールで、室内楽を聴くなら、やはりこの規模のホールがいいなあ。経済性とは無縁だと思うが、本当に心から心へと伝わるコンサートにしたいなら、このくらいがいいと思う。

それに、迫力や音量を求めるなら、電気楽器とかドラムを使ったロックコンサートにはとうていかなわない。

クラシックの演奏会、もっともっと音の美しさ、響き、特に余韻の美しさ、細やかなニュアンスといったものを重視していかなければ先は明るくないのではないだろうか?

特に、マリンバは余韻と響き、そして音の美しさが生命線だ。ホール選びには楽器選びと同じように、慎重を期したいと思う。
京都だったらやっぱりアルティかバロックザールかなあ。どこか響きのいいホールをご存じなら教えていただきたい。

ところで、9月8日金曜日、京都府民ホールアルティでアンサンブルフィリアのコンサートを予定している。今回もオールバッハプログラムだ。ドイツ留学していた石倉明日香が帰国して、ようやくメンバー全員そろってのコンサートとなる。

皆さん、ぜひご来聴下さい!


京響を聴いた

2007年05月19日 20時53分54秒 | 音楽全般
2006-01-21 08:55:21

昨日は京都市交響楽団の定期公演を聴いた。

自分の住む町にオケがあって、そのオケを聴けるってのは本当に幸せなことだと思う。

ぼくは最近、ウイーンフィルとか、ベルリンフィルとかの来日公演、とんと久しく行ってない。
行っても昔ほどおもしろくないからだ。それに、めちゃくちゃ高い。

ヽ(・_・;)ノ   ドッヒャー・・!

一晩のコンサートに一万円とか払うなんて、清水の舞台から飛び降りるみたいな事だ。

でも、京響の定期は高くても4000円、一番安い席は1500円だ。
これなら、2時間の楽しみにかけるお金として、ふさわしい額の範囲内だ。

それに、演奏だって、いわゆる海外のメジャーオケの来日公演よりずっとずっとおもしろい。
曲目だって、エキサイティンクだ。

昨日はショスタコーヴィッチの交響曲11番がメインプロだった。こんな曲、海外オケのお仕事公演ではまず聴けない。

ぼくは15才の時から京響を聴き続けている。その時から今日まで、つまらなかった演奏会は一つもなかった。(もちろん、演奏にアクシデントがあったりしたことはあったよ。当然のことだけど)

それはなぜかって言うと、同じ町に住んで、同じ空気を吸い、同じ水を飲んでる人たちが演奏してるからだと思う。時には街角で、団員さんにばったりあったりすることもある。向こうはぼくを知らなくても、ぼくは「あ、京響のバイオリンのAさんだ!」って事で、すぐにわかる。そんな時は何か一日中幸せな気分になる。

そんな人たちが演奏してるんだ。楽しいし、おもしろいに決まってる!
たとえ、調子の悪いときとか、アンサンブルが多少乱れるときがあるとしても、それもまた楽しいではないか!そこにはすごく身近な、しかも迫真のドラマがあるんだ。

それに、強調しておきたいのは、
京響は質も十分に高いオケだ。
管楽器には日本を代表する水準のソリストが何人もいる。

たとえば、
2番トランペットの菊本氏は、メジャーな3つのコンクールの第一位を総なめにしてしまった日本の若手を代表する名手だ。

そんな彼が2番を吹いてるなんて、ぜいたくなオケだ。
それはとりもなおさず、そんなうまい若手を横に従えて、堂々と一番を務めるベテランのスゲエ人がいるって事だ。

でも、打楽器をやるぼくたちににとっては、もっと注目すべきすごいことがある。
このオケの首席打楽器奏者、奥村さんの存在だ。

ぼくが15歳で、京響を聴き始めた頃、すでに在籍しておられたと思う。
そのころから今に至るまで、聴く度にぼくの耳は奥村さんの音に釘付けだ。

どんなにすばらしい奏者であっても、たまには「今日はどうしたんだろう、調子悪いのかなあ?」
「えっ、この人でもこんなミスすることってあるんだ・・・」ってことはあるもんだ。
(ベルリンフィルでもウイーンフィルでもそんなことは多々あった。本当だよ!)

でも、30年以上、京響を聴いてきて、奥村さんにはそれが全くない。少なくとも、ぼくが聴いてた範囲内では一度もない。

それは、はっきり言って、すごいことだと思う。

いつ聴いても、隅々まで気配りされた、円満な、暖かい、しかもシャープで冴えた演奏をされる。
昨日もすばらしかった!

その奥村さんもあと数年で定年のはずだ。
どんな奏者にも定年は来る。

皆さん、今のうちですぞ!
あと数年。とにかく今のうちに聴けるだけ聴いておくべきだ。
今、奥村さんは円熟の極みに達しつつあると思う。

ぼくが16才で打楽器奏者を志した時から、今に至るまで、ずっとあこがれの存在であり続けてくださった希有の存在だ。(高校生の頃、髪型までまねしたこともある・・・・・)

絶対京響を聴くべし! だ。