打楽器は楽しい!オモロイ!ホンマやで。

打楽器奏者山本毅が、打楽器について、音楽について、その他いろいろ順不同で語ります。

バッハをマリンバで(5) ホールの選択

2010年09月02日 15時19分28秒 | バッハ アンサンブルフィリア
バッハをマリンバで(5) ホールの選択

バッハをマリンバで演奏する際、ホールの選択は非常に重要だ。

なぜかというと、もともとマリンバのために作曲されたバッハの作品は一曲もない。
すべて何か違う楽器のために作曲された作品だ。
そして、もともと想定されていた楽器はほとんど例外なく、マリンバよりも響きの持続時間が長い。
弦楽器や管楽器はもともとこすったり吹奏するわけで、基本的に持続音の楽器であるし、
チェンバロやリュートは弦をはじいて音を出す楽器であって鍵盤を叩いて音を出すマリンバと発音原理は近いとはいえ、残響音はかなり長く残る。

音および残響の持続時間の短さはマリンバの特徴でありよさでもあるが、近代以前の音楽を演奏する際には多くの場合ハンディキャップとなってしまう。

そのハンディを補ってくれるのがホールの響きだ。
だから、ヨーロッパ風の教会堂(*)のように残響が長く美しい会場だと、マリンバで弾くバッハはごきげんなのだが、録音スタジオやライブハウス、野外等、デッドな環境だと弾く人聴く人、ともに苦しい時間を過ごすことになる。

だから、ホールの選択は非常に重要だ。
知らないホールでの演奏を依頼されると、そのホールの響きが非常に気懸かりだ。
たいがいの場合、依頼主さんのお話と写真、そして構造図があればある程度判断はつく。
しかし、結局行ってみたらあまりにもデッドな環境で・・・・・という場合も時にはある。

マリンバでバッハを弾く場合できる限り事前に会場をリサーチする必要がある。

アンサンブル・フィリアのホームグラウンドは特に決めていないが、今までのほとんどの自主公演は京都にある青山音楽記念館・バロックザールというホールで開催した。

このホールはわずか200席しかないし、京都市の中心部からはやや離れており、少しだけ交通も不便だ。
しかし、その響きは極上。バロックザールというネーミングはだてではなく、バロック期の室内楽の演奏にはきわめて適している。

次回のアンサンブルフィリアコンサート、2011年1月22日(土)に決まっている。ぜひご来聴いただきたいところであります。

今度のテーマは「トッカータ」特集。トッカータと名のつく名曲を3曲、そしてカンタータやコラールの名曲をその間にちりばめる予定。きっと楽しいコンサートになると思う。ぜひぜひご来聴を!


(*) 多くの方が誤解していると思うけど、教会堂のすべてが長い残響を持っているわけではない。礼拝などの教会活動が行われる場のことを教会堂と呼ぶのであって、国によって、民族によって、風土によって、教会堂の構造は千差万別だ。暑い地方ではテントの教会堂もあるし、野原に木の葉の屋根だけを設け、壁はないという教会堂もある。モンゴルだったらきっと獣皮で出来た天幕で教会堂を造るに違いない。石造りの高い天井、美しく長い残響の暗く荘厳な教会堂というのはヨーロッパ風の教会堂に限られる。

ついでに言えば、教会というのは建物のことではない。礼拝のために定期的に(多くの場合日曜日)集まる人々のことを言うんだ。その人たちが使う建物のことを教会堂とか礼拝堂、チャペルと呼ぶ。中には建物を持っていない教会もある。日曜日ごとに「次はどこで集まろうか?よし、じゃあ、***川の河原で3時集合!」って相談しながらやってる教会も世界にはたくさんある。
豆知識、覚えておいて損はないですぞ。

バッハをマリンバで(4) マレットの選択

2009年08月04日 23時56分24秒 | バッハ アンサンブルフィリア
バッハをマリンバで マレットの選択

バッハをはじめとするバロック以前の古い音楽の演奏にはどんなマレットが合うのだろうか?
どんな点に留意して選べばいいのだろうか?

当然のことながら、これについても様々な考え方があると思う。世界共通のルールのようなものがあるわけではない。

しかし、ぼくにはぼくなりの選択の基準がある。もし皆さんの参考になれば幸いだ。

バロック以前の音楽を演奏する際、最も留意すべき点は細かいニュアンスの描き分けだ。
音色、フレージングを細かく繊細に、そして明確に表出すべく練り上げていく必要がある。

もちろん、どんな時代の音楽でも、音色やニュアンスは大切だ。
しかし、古楽と呼ばれる音楽ではそれが特に大切だ。

というのは、バロック時代の楽器の特性を考えればわかる。

いわゆる大音量 ど迫力でせまることが可能な楽器はパイプオルガンくらいのもので、この時代の楽器、総じて音量が小さい。クラヴィコードにいたっては、それこそ蚊の鳴くような音量しかでない。

しかも、音が軽い。音離れがよいというか、非常に軽やかに、明るく、繊細に音が出てくる。

そして、ニュアンスが豊かだ。

バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタをモダン楽器で弾いたのとピリオド楽器で弾いたのを聴き較べれば一目瞭然だ。いや、一聴瞭然というべきか・・・?

もし、身近にヴァイオリニストかチェリストがいれば、モダン楽器とピリオド楽器、目の前で弾いてもらうといい。同じ人が同じように弾いても、「これ本当に同じ曲?」と驚くこと請け合いだ。

それにはちゃんと理由がある。

バロックバイオリンとモダンバイオリンの最も大きな違いは弦の張力と弓の構造にある。

モダンバイオリンの弦の張力はバロックバイオリンのそれよりはるかに、はるかに高い。具体的に何倍になるのかは忘れてしまったが、その倍数値を聞けば皆さん驚かれるに違いない。

そして、弓の張力もまた然りだ。

しかも、バロックボウはダウンとアップでずいぶん音色も音量もニュアンスも違っているんだ。
だから、奏者が普通に何気なく弾いても、自然に音色、ニュアンス、音量の変化が細かくついてしまう結果になる。

それを繊細な感性を持つ名奏者たちが弾けば、それは、万華鏡のごとき変幻自在の世界が生まれてくるのは「必定というべき理なり」だ。

チェンバロだってそうだ。現代のピアノに較べれば弦の張力は弱いし、ハンマーで打つ代わりに鳥の羽でできた爪ではじくわけだ。ものすごく繊細な世界だ。(そのかわりダイナミスの変化をつけるのは難しいが)

フォルテピアノの音を実際に聴いてほしい。

リュートの、(音の輝かしさと音量の面では多少寂しくても)なんと繊細で穏やか、心温まる音色。

同じことが、バロックティンパニにも言える。

バロックティンパニ、現代のティンパニに較べてサイズが二回りくらい小さい。
つまり、皮の張力がかなり弱いわけだ。

しかも、軽くて硬い、バロックティンパニマレット・・・・!

少しでも強くひっぱたいてしまえば音が割れてしまう。
しかし、そのニュアンスの豊かさは一度演奏してみれば誰でも「これでなくては!」と思うに違いない。

というわけで、バロック時代の音楽を演奏する際、最も留意すべきは、音色の多彩な変化と、細やかなニュアンスの表出、そして音の軽さと音離れの良さ・・・・等々!ということになるわけだ。

音の太さとか重さ、音量の豊かさ、輝かしさ等は多少犠牲にしても、ニュアンスと音色の細やかな変化を大事にしたい。

だから、
そこから導き出される結論は明白だ。

まず、ヘッドは軽め、
シャフトはバーチかメープルなどのウッド、
毛糸は柔らかめのものを少なめに巻く。

というわけだ。

重いマレットの方が音量は出しやすい。太くて重量感のある音が簡単に出せる。
しかし、
ニュアンスは出しにくい。

当然だ。刺身を切るには出刃包丁より軽くて細くて薄い刺身包丁の方が圧倒的に優れている。

ニュアンスや音色の変化を重視するなら、ある程度軽めのマレットの方が絶対に使いやすい。

もちろん、重いマレットでもニュアンスは出せるし、出さなければならない。音色の変化もつけられるし、つけなくてはならない。

しかし、軽めのマレットが比較優位にあることは間違いない。

シャフトもラタンとウッド、どちらがより自分の意志をバーまで忠実に伝えられるかを考えたら、結論は明白だ。

毛糸は柔らかめの方が音色の変化がつけやすいし、そもそも響きが美しい。そして、マレットヘッドに厚着をさせればセンシティブでなくなることは皮膚感覚でわかるよね。

バロック以前の古楽をマリンバで演奏する時、
より強く、より輝かしく、より深く、より重くといった概念はちょっとだけ脇に置いておこう。

そういう要素もある程度大切ではあるけど、それよりも、「細やかな表現」が大切だ。
この時代の音楽が要求するものはそれなんだ。

ぼくたちがアンサンブルフィリアでバッハを演奏する時使うマレットは、こういう価値観で選んでいる。

具体的には、

マレテックのLS
ヴァンサイスの軽い方ラインナップ、
マークフォード
ナンシーゼルツマン

などを使っている。

シャフトは全てウッドだ。

そして、毛糸はほとんどすべて、同僚の伊藤朱美子女史がその時演奏する曲を想定して、もう何年もかけて足を棒にして毛糸屋さんをはしごして集めたものの中から選びに選んでスペシャルに巻いてくれている。

バッハを演奏する際、もちろん他の場合もだけど、マレット選びは、相当に重要な問題ですぞ!

バッハをマリンバで(その3) 「調性、音域」

2009年04月03日 16時29分00秒 | バッハ アンサンブルフィリア
バッハをマリンバで(その3) 「調性、音域」

バッハの曲をマリンバで演奏する際、調性や音域の変更・・・要検討です。

あ、あくまで要検討というだけで、変更しなければならないということではありません。

しかし、検討の価値は大いにあります。

たとえば、無伴奏ヴァイオリン曲を1オクターブ下げて演奏したり、レイ・スティーブンス氏のように7度下げて演奏することは、大いに検討すべきことだと思います。

無伴奏チェロ組曲を1オクターブ上げて演奏することも有力な選択肢の一つです。

なぜなら、バッハの多くの作品で、調性や音域はその曲を演奏する楽器の特性に合わせて決定されていると思われるからです。

無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番ホ長調、この曲がなぜホ長調なのか?
なぜあの音域で書かれているのか?

その理由の第一番目か第二番目に『ヴァイオリンで演奏する曲だから』というのがあると思います。

というのも、バッハはこの曲のプレリュードを別のカンタータに転用しています。
 *カンタータ第29番
   「われら汝に感謝す、神よ、われら感謝す」BWV29

そこでは同じ曲がニ長調に変更されています。
楽器はオーケストラですからホ長調のままで演奏してもなんら問題ないのですが、
わざわざ二度下げてニ長調に変更しているのです。

また、このパルティータはリュートのためのヴァージョンもあります。
それは、ほぼバッハ自身による編曲と思われますが、
もし、他者のアレンジであったとしても間違いなくバッハと非常に近い関係にあった人物によるものです。

そこでは、調性こそ同じホ長調ですが、音域は1オクターブ下げられています。

また、無伴奏ヴァイオリンソナタの第一番ト短調
この曲のフーガをバッハはリュートのためにもパイプオルガンのためにも編曲しています。
リュート版では同じ調性で一オクターブ下げていますし、
パイプオルガン版ではニ短調に変更しています。

バッハの作品を見渡すと同じような例がたくさんあります。

バイオリン協奏曲ホ長調はチェンバロ協奏曲にもなっています。
バイオリンではホ長調、チェンバロではニ長調です。

無伴奏チェロ組曲ハ短調はリュート版ではト短調です。

バイオリン曲をチェンバロに編曲した例は他にもいくつかあるのですが、その際バッハは調性を変更しています。
チェンバロはいうまでもなくどんな調性でも弾ける楽器です。
にもかかわらずバッハ自身が調性を変更して編曲しているのです。

バッハ自身が自分の作品を他の楽器のために編曲する場合、
楽器の特性を考えて調性や音域を変更した例は数多くあるのです。

とすれば、われわれがバッハの作品をマリンバで演奏する際、
マリンバという楽器の特性を考えて音域や調性の変更を検討することは、大いに推奨されるべきことだといえるのではないでしょうか?

また、バッハ作品のアレンジではギター奏者たちはわれわれの一歩も二歩も先を歩んでいます。
彼らはバッハの作品の多くをギターのためにアレンジしてレパートリーに取り入れ、すばらしい成果を挙げています。

しかし、ギター版へのアレンジでは調性変更は極めて当たり前のことです。
なぜなら、ギターという楽器はフラット系の調を演奏するのが困難な楽器だからです。

音域の点でも制約が多く、
10弦ギターとかでない限りあまり低音までは出せないので、いろいろと変更したりの工夫が不可欠です。

しかし、その変更の結果は決して悪いものにはなっていません。

ですから、マリンバでバッハを弾く場合、調性や音域の変更は許容されるべきですし、
それどころか、大いに検討すべき事なのです。

なんせ、バッハの生存中にはマリンバという楽器は存在していなかったからですし、
マリンバにはマリンバの特性というものがあるからです。
その個性は生かすべきであって、無視したり、制限すべきものではありません。

ただし、注意すべき点もあります。

バッハの作品の中には音域はともかく、調性は変更すべきでない作品があります。
宗教的な背景を持った曲にはその調性が選ばれた背景に神学的なメッセージがある場合があります。
その場合は決して調性を変更してはならないのです。

たとえば「ロ短調ミサ」、
これをハ短調や変ロ短調、イ短調で演奏したのでは、曲の意味内容が変わってしまいます。
この曲はどうしてもロ短調(ニ長調)でなければならないのです。

純器楽曲でも、無伴奏チェロ組曲第3番には調性と結びついた神学的なメッセージがあると考えられますから、
この曲はどうしてもハ長調でなければならないと思います。

平均率クラヴィーア曲集も調性を変更してしまうと曲の意味が変わってしまう場合が多々出てくるので、調性変更は不可です。

また、もう一つ注意すべき点はマリンバという楽器の特性を考慮するだけではなく、演奏する人の性格も考えないといけません。

声種にもソプラノとアルト、テナーとバスやバリトンなど、様々ありますね。
シューベルトのリート、例えば「冬の旅」にはテナー版、バリトン版、バス版があるように、
マリンバを演奏する人のキャラクターにもソプラノ的な感性の持ち主、アルト的な人、バス的な人、テノール的な人など種々様々です。

それによっても調性、音域の最適値は変わってきて当然です。

かつて私が教えたマリンビストで同い年の二人の女性がいました。
私は彼らがそれぞれ同じ時期にバッハの無伴奏ヴァイオリン作品を演奏した際、
一人には音域の変更を提案しましたが、もう一人にはしませんでした。

それは、それぞれの音楽的感性を考えると、一人はそのまま弾くほうがあってると思ったし、
もう一人は1オクターブ下げたほうがその人らしさが出ると思ったからです。

結果はどちらも成功だったと思います。
どちらの演奏もとてもよいものでしたし、二人ともその演奏を持って某芸大の難しい入試を見事に突破してくれました。


また、
一度レイ・スティーブンスのセミナーに参加したとき、彼がバッハの無伴奏ソナタ第一番ト短調をなぜイ短調で演奏するかを語ってくれたことがあります。

彼曰く、

「マリンバの魅力は低音にあると思う。
自分は出来れば1オクターブ下げてこの曲を演奏したかった。
しかし、自分がこの曲をマリンバ用に編曲したころのマリンバは最低音がAだった。
だから、この曲の最低音Gを7度下げて、Aに設定したんだ」

ということでした。

この発言には一定の説得力があります。

というわけで、無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータをマリンバで演奏する際、
調性、音域を変更することは、それほど素っ頓狂なことではありません。

私は個人的に、無伴奏ヴァイオリンソナタト短調、
5度下げてハ短調で演奏するか、1オクターブ下げて演奏するのがよいのではないかと考えています。

しかし、シャープ系の調に変更することはあまり賛成できません。
スティーブンスさんのようにA-mollで演奏することもどちらかといえば反対です。

なぜなら、フラット系の調性には独特のやわらかさと色があると思うからです。
それは平均率で調律された楽器、ピアノやマリンバでもはっきりと聴き取れることです。

ですから、
この曲だったら、ぼくは、記譜どおり、5度下げてハ短調、1オクターブ下げたト短調の中から、演奏者の感性に合致するものを選んだらよいのではと考えています。

また、バッハ自身がフーガでニ短調を採用したことを考えて、ニ短調で弾くのも有力な選択肢です。

というわけで、
バッハの作品をマリンバで演奏する際、
調性や音域は変更することも大いに検討に値します。

変更しなければならないわけではありません。
しかし、検討の価値は大いにあるのです。

バッハをマリンバで 楽譜の選択

2009年02月11日 21時54分56秒 | バッハ アンサンブルフィリア
続・バッハをマリンバで弾く 楽譜の選択

バッハの作品をマリンバで弾くにあたり、楽譜の選択は非常に重要です。

例えば無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータですが、楽譜店に行くと様々なヴァージョンが並んでいます。
ヴァイオリンのためにも数多くのバージョンがありますし、マリンバのために編曲されたバージョンでも最近は何種類も出てきました。
レイ・スティーブンスのマリンバ編曲はこの分野でのすばらしい成果の一つでしょう。

その多くのバージョンの中でどれを選ぶべきなのでしょうか?

これについては様々な意見があり得るし、これでなければならないと言いきってしまうのはむしろ暴論でしょう。
しかし、あえて私の考えを述べさせていただくなら、まず最初にいわゆる解釈版ではなく原典版を用いるべきだと思います。
なぜなら、どんな学術研究でもまずは原典に当たることが基本中の基本です。
音楽でもこの原則は同じようにあてはまるのです。

さて、一般的に入手しやすい原典版はヘンレ版、ペーター版、ベーレンライター版です。
原典版にはいわゆる旧バッハ全集版、新バッハ全集版と二種類あります。ペーター版は旧、ベーレンライター版は新です。ヘンレ版は確認していませんがどちらなのでしょう?

私は、解釈版を参考にする前に、まずはこれらの原典版を使って取り組むべきだと考えています。

また、自筆譜を参照することも非常に有益です。
実はこの曲集の自筆譜は簡単に入手できます。ガラミアン版には付録で自筆譜の写真が全曲分載っています。

これらの原典譜を下敷きにして自分のヴァージョンを「創って」いく作業がバッハの演奏には欠かせないことなのです。
その際、様々な解釈版を参考にすることはもちろん有益なことですが、基本的にはこれらの原典譜を偏見無しに観察しながら自分の表現を探っていくべきだと思います。

ところで、原典譜の中でもペーター版には少し注意が必要です。

ペーター版(これを持っている人は非常に多いと思いますが・・・)を開いてみると、二段あることがすぐに判ると思います。
上の段は太め・濃いめの印刷で、ぱっと目に入ってきます。
下の段は何となく控えめに印刷してあるように感じると思います。

で、この上下二段、どちらを見るべきかが重要な問題なのです。

これについてはマリンバで演奏する際、必ず下の段を見なければなりません。
なぜかというと、下の段が原典版なのです。

では、上の段は一体何なのかというとこれはカール・フレッシュというヴァイオリニストがヴァイオリンのために編集した解釈版です。

ですから、マリンバで演奏する際は当然下の段を見なくてはなりません。
上の段は参考にすることはできますが、そのまま弾いてしまうには問題があり過ぎます。

どういう問題があるかというと、まずはこれはヴァイオリンのためバージョンだということです。
マリンバで演奏する際はヴァイオリンのように弾くのではなく、マリンバの特色を生かした演奏をする必要があります。
ヴァイオリンのために編纂された楽譜をそのまま弾くのは、マリンバの良さを生かすことにはつながらない可能性が大なのです。

また、このヴァージョンを編纂したカール・フレッシュという人は、とてもすばらしい音楽家だったそうです。
著名な門弟に、イダ・ヘンデル、ジネット・ヌヴー、ヘンリク・シェリング、といったそうそうたる顔触れが並ぶことからもどれほど偉大な人だったかが判ります。

しかし、いかんせん没年が1944年です。
つまり、このヴァージョンが書かれたのは少なくとも60年以上前なのです。
つまり、ここ60年間のバッハ研究の成果はまったく反映されていません。

それに、20世紀前半のバッハ演奏の様式は相当にロマンチックなもので、その頃のバッハ演奏の録音を聴くと現代人であるわれわれにとって相当に違和感があります。
このカール・フレッシュ版も当然その頃の様式感によって書かれているのです。
現代のそれもマリンバ奏者が使用するにはふさわしくないことはきわめて明白です。

考えてみて下さい。世界中の演奏家と音楽学者たちがバッハの音楽を日夜研究しているのです。
われわれがバッハを演奏するということはそのネットワークの中に参加していくことでもあるのです。
その際手にしている基本資料が60年以上前の解釈のものだとしたらこれはちょっと問題です。

なんせ、ここ20年ほどのバッハ研究の進展はめざましいものがあるのです。
その成果を自分の演奏に生かすためには、カール・フレッシュの編曲がどれほどすばらしいものであったとしても、いったん脇に置いて原典譜とから研究を始めなくてはなりません。
特に、初めてバッハに取り組む人はカール・フレッシュによる洗脳を注意深く避けなくてはなりません。

ですから、ペーター版を使用する場合は、上の段をできるだけ見ないように気をつけなくてはならないのです。

しかし、人間というのは、よりはっきりと目に入ってくるものにより強く影響されるものです。
わかってはいてもどうしても上の段に目が行ってしまう。影響されてしまう、
というよりそれで覚え込んでしまうのが自然の成り行きと言っていいでしょう。

ですから、私はペーター版を購入するのは最初の段階では避けるのが良策だと考えています。
まずは、ヘンレ版かベーレンライター版、そして自筆譜のファクシミリを用いてバッハ自身の生の声に心の耳を傾けることが必要です。

ですから、すでにペーター版を買ってしまった人は、とりあえず紙テープか何かで一時的に目隠しをしてしまうとよいでしょう。
そして、下の段を十分に勉強してからそのテープをはずして上の段を参考にするとよいと思います。

もちろん、原典譜を十分研究し、他の解釈版も参考にした上で、「やはりカール・フレッシュ版が自分には一番ぴったりくるなぁ・・・」と感じるなら、この版を使うことは何ら問題はありません。20世紀を代表する優れたバージョンのひとつであることは衆目の一致するところです。

また、無伴奏チェロ組曲の場合は少し事情が違います。

この曲集、今ではバッハの自筆譜というものはありません。
バッハの二番目の妻、アンナさんによる写譜をはじめいくつかの写本から原典が推測編纂されています。

というわけで、旧バッハ全集と新バッハ全集では同じ「原典版」という名がついていても、細部でけっこう違いがあります。
私は一応新バッハ全集を使っていますが、旧全集版も参考にし、あとはアンナさんの筆写譜やいくつかの解釈版も参照にしています。

このようにバッハの演奏にあたっては楽譜の選択はとても重要なことなのです。とりあえず無難なのはベーレンライターかヘンレです。

マリンバでバッハを or バッハをマリンバで

2009年02月09日 22時15分01秒 | バッハ アンサンブルフィリア
マリンバでバッハを or バッハをマリンバで

どっちでもいいじゃないかと思うのだが、よく考えてみたら少し違うかも。

マリンバでバッハを弾くというとマリンバが主体になっているみたいな・・・。
でも、バッハをマリンバで弾くといえば、主役はやはりバッハだ。

ぼくはやっぱぁバッハをマリンバで弾きたい。

これから、バッハをマリンバで弾くことについて何回かに分けて書いてみようかなと思ってる。
例によって三日坊主(三回坊主?)になってしまう危険性を感じつつ、
以下のようなテーマで書いてみようかなと・・・・。

* なぜバッハを?
* 楽譜の選択
* 調性・音域の選択
* マレットの選択
* ホールの選択
* レパートリーの開拓
* 様式感の習得
* キリスト教神学についての知識


というわけで、今回は「なぜバッハを?」


ヴァイオリニストに対して「あなたはなぜバッハを演奏するのですか?」と尋ねる人はまずいないでしょう。ピアニストに対しても同じです。チェリストだってそう聞かれることはまずないでしょう。彼らにとってバッハを演奏することは当たり前のことです。

しかし、マリンバ奏者に対しては多くの人が尋ねます。
「バッハにはマリンバの作品がないにもかかわらず、なぜあなたはバッハを演奏するのですか?」と。
また、こう尋ねる人もいます。「マリンバでバッハを弾く意味はどこにありますか?」
私は今まで何度こんな風に聞かれたことか・・・・。

この質問に対して私たちは何らかの答えを持っておく必要があると思います。
自分のやっていることの意味を自分なりにちゃんと理解しているかどうかは、その道を歩むためのエネルギーを持続させるためにとても大切なことだからです。

私はなぜバッハを演奏するのか?

もちろん、「それは勉強になるからだ」とか様々な理由が考えられると思いますが、
最も端的な答えは「バッハの音楽がすばらしいから」ということと、
「マリンバでバッハを演奏したり聴いたりすることはとてもすばらいいことだから」につきます。

われわれ演奏家の使命は何なのかというと、「音楽(楽曲)の魅力、楽器の魅力を人々に分かち合うこと」ということができます。
体験を通してバッハの音楽がどんなにすばらしいか、バッハをマリンバで弾いたり聴いたりすることがどんなに魅力的なことなのかを知ってしまったわれわれは、それを人々に分かち合う責任があると言えるでしょう。

ところで、チェンバロやオルガン、ヴァイオリンやチェロのために書かれたバッハの作品を、マリンバのために編曲して演奏することに対して否定的な見方をする人々もいます。
そういう意見に対して答えを持っておくことも時には必要なことかもしれません。
バッハの時代には存在していなかったマリンバという楽器でバッハを弾くことは、はたして許容されることなのでしょうか?
有益であり意味のあることなのでしょうか?

これについては実例を見ていけば、すぐに結論が出ることでしょう。

まず、バッハの音楽のなかには演奏する楽器が限定されていないものもあります。
例えば「フーガの技法」です。バッハの遺作となったこの作品、演奏する楽器が指定されていません。

また、バッハ自身が自分の作品をいくつかの別の楽器のために編曲しています。
たとえば、無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番ト短調のフーガはリュート版がありますしオルガンのヴァージョンもあります。
無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番ホ長調にもリュート版がありますし、プレリュードだけならオーケストラ版もあります。
ヴァイオリン協奏曲がチェンバロ協奏曲にも編曲されています。

バッハ自身が自分の作品を別の楽器のために編曲しているのです。

また、歴史を見ると多くの人々がバッハの作品を他の楽器のために編曲して来ました。

無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌはシューマンやブラームス、ブゾーニをはじめとした作曲家たちや演奏家たちによってピアノのために、弦楽合奏のために、リュートのために、ギターのためにと様々に編曲されて来ましたし、オルガン曲の多くはストコフスキーやオーマンディーといった名指揮者によってオーケストラのためにに編曲されてきました。
「トッカータとフーガニ短調」をオルガンではなくオーケストラによって聴き、それをきっかけにバッハが好きになったという人はたくさんおられることでしょう。

これらの編曲に対して疑問の声や非難の声を上げる人々はほとんどいません。
また、平均率などのチェンバロ曲は現在ピアノで演奏される方がはるかに頻度が高いのではないでしょうか?
でも、バッハの時代にはまだピアノは存在していなかったのです。

このように考えてみると、バッハ時代には存在していなかったマリンバという楽器であっても、
そのために彼の作品を編曲して演奏することは何の問題もないということが確認できると思います。

もし、それが音楽的によい結果を出すことができるのなら、
マリンバでバッハを演奏することは何ら問題がないどころか、非常に意味があることであり、
バッハの音楽の魅力を多くの人に分かち合うために有益なことだと言えるのではないでしょうか?

実際、マリンバと同じ音色、ニュアンスを出せる楽器は他にはありません。(当然のことですが)
つまり、マリンバには他の楽器にはない魅力がありますから、
マリンバでバッハを弾くとき、他の楽器では絶対に出せない魅力を出すことができると思います。

これは優劣ではありません。個性の問題です。
ヴァイオリン等オリジナルの楽器でで弾くバッハとマリンバで弾くバッハには決定的ともいえる個性の違いがあると同時に、
どちらもバッハの音楽の本質を追求しうるという共通の土台があると思います。

まあ、小難しい話ではなく、バッハをマリンバで弾くなら、マリンバで弾く時にだけ表現しうる良さがあるし、
マリンバという20世紀生まれの楽器を使ってもバッハの音楽の本質は変わらないというわけです。

それに、なんといってもバッハを演奏するとなると私が今使えるのはマリンバとヴァイブラフォン、シロフォンくらいしかないのです。
今からチェンバロやヴァイオリンを習得するのはちょっと苦労が多すぎると思うのです・・・。

というわけで、バッハをマリンバで演奏することは楽しいしオモシロイのです。
この楽しみを多くの方に分かち合いたい。
だから、ぼくはバッハをマリンバで演奏し続けています。

仲間が増えるといいな・・・・。もっと。

トッカータ、アダージョとフーガハ長調 山本流私的解釈 その3

2007年05月19日 21時17分28秒 | バッハ アンサンブルフィリア
トッカータ、アダージョとフーガハ長調 山本流私的解釈 その3

順番が逆になってしまったが、私にとって最初のトッカータがどういう風に見えているか・・・・いや、聞こえているかを書きましょう。

アダージョが十字架(イエスの死と埋葬)と復活(空の墓)とすれば、その前に置かれたトッカータは当然「イエスの生涯」、中でも最も重要な最後の三年間、いわゆる「公生涯」というわけだ。

このトッカータ、イエスの公生涯を描いたものと考えると、不思議に、妙に、納得がいく。

始めに置かれたソプラノパートのソロはバプテスマのヨハネが語ったメッセージ。

そして、次に出てくる低音部のソロはイエスがその公生涯の最初で語ったメッセージだと考えることができる。

で、このバプテスマのヨハネのメッセージとイエスの最初のメッセージには共通点がある。
それは罪の悔い改めへの迫りと罪の赦しの福音だ。
バプテスマのヨハネも、イエスも語った、
「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい!」と。

だから、この二つのソロはずいぶん性格は違うが、同じモチーフで構成されている。

また、バプテスマのヨハネという人物はイエスの先駆けとしてイエスを世に紹介することがその役割だったので、主役ではない。

そのためか、最初のソプラノパートソロには、無くてもよさそうなところにわざわざとってつけたように、バスパート最低音ののCが三回鳴り響く。

Cはキリストの頭文字だし、三回というのは完璧とか完全という意味があるので、聴き手に「今ソロをやってるのはソプラノ(バプテスマのヨハネ)だけど、真の、完全な意味での主役はバスパートのC、つまりキリスト・イエスですよ」と告げ知らせるような印象がある。

で、ソプラノソロのあとに真の主役、バスパート(イエス)が登場してソロを・・・ということだ。

こうしてイエスが公に世に出現して三年間、イスラエルは上へ下への大騒ぎとなる。
病人は癒され、悪霊は追い出され、神の国は宣べ伝えられて・・・・、
政治や宗教の指導者たちは不安におびえ、敵対心をむき出しにし・・・・・、
政治的にも、経済的にも、宗教的にも押さえつけられ、束縛と搾取にさらされてきた民衆は歓呼の声でイエスを迎えた。

しかし、そのクライマックスといえる過ぎ越しの祭りに事態は急転直下、
・・・・イエスは捕えられて、十字架刑に処せられるのだ。

このトッカータ、なんせものすごく躍動的で、スケールが大きく、スピード感もあるし、
人類史上最もエキサイティングな三年間であったイエスの公生涯三年間を彷彿とさせる。

まさにぴったりって感じだ。

それが一転して、アダージョの悲歌に突入するわけだ。

悲歌が終わってソプラノパート下降音階(イエスの埋葬)
神秘のハーモニー展開(墓の中での神秘の三日間)
最後のC和音の終止(空の墓所を見いだしたマグダラのマリアと復活したイエスとの出会い)

と来て、いよいよフーガに入る。

このフーガはひそやかにソプラノパートが奏し始める。
イエス復活のニュースが一人の女性によってひそやかに伝えられ始めたことを暗示するかのように・・・・。

そのテーマはモチーフ一回ごとに分断される。
あたかも、最初そのニュースを信じて受け取り、取り次いでくれる人が誰もいなかったかのように・・・。

しかし、ついにはそのテーマ、アルトパートに受け継がれる。

そして、アルトパートに引き継がれてのちは、もはやとぎれることがない。
休止符のあるところには必ず他のパートが合いの手を入れてつなげてくれるのだ。

イエス復活のニュースがそれ以来2000年にわたってとぎれることなく世界中に伝播していき、拡がり続けたように。

そして最後は爆発するかのような歓喜の大円団となり、実に三オクターブにわたる長大な下降音型が出現する。

回転するかのように揺れながら降りてくるこの大下降音型はイエスの再臨を思わせる。

で、この下降音型が最低音まで降りてきて、力強いCの和音で曲が終わる。
神の国、新天新地の出現だ。

というわけでこのフーガ、
一人のかよわい女性マグダラのマリアから弟子たちに、弟子たちからエルサレムに、エルサレムからユダヤ全土に、そして全世界へとイエス復活のニュースが伝播していく様(もちろんその間には迫害とか争い、教会の堕落とかの悲しい出来事も多々あったことだろう)を思い浮かべながら演奏すると、何もかもが、「うんうん、そうだよな! そうだそうだ! アーメン、ハレルヤ!」の世界になっていくんだ。

まあ、とにかく、
演奏者冥利に尽きる名曲だ。
演奏しながら興奮の連続、感極まって楽譜を見るのを忘れてしまうほどだ。

メッチャいい曲だ。すごい曲だ。皆さんにこのものすごさを知ってほしい。
ああ~ぜひぜひ、九月八日、午後七時、京都府民ホールアルティにご来聴下さい。

よろしくお願いいたします!

トッカータ、アダージョとフーガハ長調 山本流私的解釈 その2

2007年05月19日 21時17分07秒 | バッハ アンサンブルフィリア
トッカータ、アダージョとフーガハ長調 山本流私的解釈 その2

で、この神秘のハーモニー展開をイエス埋葬後の三日間と解釈すると、その直前の朱美子嬢がソロで弾く下降音型は当然、十字架からイエスがとり降ろされ、埋葬される情景になる。

つまり、アダージョ前半はイエスの十字架の苦しみと死に対する悲歌なんだ。
深く静かな悲しみの歌だ。

ところどころにつけられた波線の装飾音が心の震えを象徴している。
これをまた朱美子嬢が絶妙に震わせて演奏するものだから、はらはらと涙がこぼれるような心象風景が眼前に現われる。愛する子イエスの苦しみを見つめる母マリアの痛切な悲しみか?

アダージョを順を追って解析するなら、
「イエスの十字架の苦しみと死(悲歌) 埋葬(下降音型) 神秘の三日間(ハーモニー展開)マグダラのマリアが見い出した空の墓所(最後のC-dur和音)」
ということになる。

トッカータ、アダージョとフーガハ長調(続きの続き)

2007年05月19日 21時16分46秒 | バッハ アンサンブルフィリア
トッカータ、アダージョとフーガハ長調(続きの続き)

昨日、「明日はがんばって書くぞ!」と、書いちゃったけど、今日になって気づいた。今日はあまり時間がない。

でも、書き始めることだけはしよう。

以下はこの曲について持つに至った個人的なイメージだ。
いわば私的解釈といっていい。

聖書に関しては私的解釈をしてはならないと厳に戒められているが、バッハの音楽は私的解釈をしても法を犯すわけではない。
でも、あくまで私的解釈なので、「そんなの興味がないよ!」って人は今日の記事はとばして下さい。

題して
「トッカータ、アダージョとフーガハ長調 山本流私的解釈」

この曲のアダージョ部分23小節目の3拍目から、何とも言えない不思議なというか、神秘的な和音の連続が始まる。最後のCの和音まで八小節半におよぶ長い長いハーモニー展開だ。

ここを演奏しながら、「なんかどっかで聴いた曲の雰囲気と似てるなあ・・・・」と不思議に思っていた。

で、この部分が終わるとフーガにはいるのだけど、
そのフーガにマレットを持ち替えながら間髪を入れずソプラノパートが入るためには、どうしても最後の和音だけを休まないといけないということになった。

で、最後のCの和音、ソプラノパートのCの音を本来は朱美子嬢が弾くのだけど、この和音だけは朱美子嬢をのぞく三人が分担して奏することになった。

その間に朱美子嬢がフーガのためにマレットを持ち替えるわけだ。

彼女はその前の音でHの音を弾いている。HはCの導音だから、本来次に必ずCを弾かなければならない。(Cってキリストの頭文字だということ前書いたよね)
ところが次の和音では彼女はCを弾かず、というより、演奏をやめてしまってマレットを持ち替えるわけだ。

これが、何とも言えない絶妙な効果を持っていて、一緒に演奏していても、「あれ、Cはどこに行った?」ときょろきょろと見回してCの音を探したくなる。

で、すぐにあすか嬢のパートにCが出現しているのを発見して、ホッとした気分になる。

イエスの埋葬後三日目に墓に行ったマグダラのマリアが、イエスの死体が無いのに驚き恐れ惑うが、よみがえったイエスに出会って喜びと平安を取り戻したみたいな・・・・

その事に気づいたとき、頭に電流が流れるようにひらめいた。
この不思議な転調部分に似た音楽が何だったかを思い出したんだ。

それはロ短調ミサ曲 クレドの第5曲「Crucifixus」(しかして十字架につけられ)の49節目から52小節目だ。

ここの音楽も何とも言えない不思議な転調のハーモニー展開なんだけど、それは何をあらわしているかというと、イエスの埋葬からの三日間に墓の中で起こった神秘の出来事だ。

十字架で死んだイエスは葬られ、その墓にはローマ行政府の権威をもって封印が施される。
ところが三日目にマグダラのマリアが墓に行くと、その封印は破られ、イエスの死体はなくなっていた。つまり、イエスは復活したのだ。

その間に何が起こったのか?誰も知らない。その三日間は神秘の三日間だ。

その神秘を描いたロ短調ミサのハーモニー展開と、このアダージョのハーモニー展開がぼくのアタマの中で強烈に結びついたのだ。

で、この部分を神秘の三日間と解釈すると、この曲全体が突然すごい具体性を持って見え始めた。
どんな風に見えたかはまた次に。

もう時間がなくなってしまった。

トッカータ、アダージョとフーガ(続き)

2007年05月19日 21時16分30秒 | バッハ アンサンブルフィリア
トッカータ、アダージョとフーガ(続き)

この曲は前半に演奏するコラール前奏曲とは違い、具体的な内容を持たない。
パルティータのように踊りの様式にのっとっているわけでもない。
つまり、いわば抽象芸術だ。

絵画の世界だと抽象画は現代作品、前衛作品ということになるのかもだけど、音楽の世界だと具体的なストーリーとかのない抽象的なものが昔からある。

ちょっと考えると具体的な内容を持つものより抽象的な音楽の方が理解しにくいように思えるのだが、そういうわけでもない。

音楽ってやっぱ音そのものを、また音の組み合わせそのものを、音の流れそのものを楽しむことのできる芸術だから、なんら具体的な内容を持たない抽象芸術、つまり純音楽的作品でも全く問題なく楽しめる。

それが音楽のよさだと思う。

音楽って心から心へ伝わるものだ。ことばを使わないコミュニケーション手段。
それはとりもなおさず、ことばで表現できないものまで、ことばで表現できない深い思いとかまで直截的に伝えることのできるコミュニケーションツールだと思う。

だから、むしろ抽象的な音楽こそ、ストレートに心を通わせることのできるものとなる可能性をもっていると思う。

その意味でこの「トッカータ、アダージョとフーガ」は理屈ぬきで理解できる曲、楽しめる曲だと思う。

ぜひ楽しんでいただきたい。

しかし、しかしだ。

具体的な内容はないにせよ、ある程度のメッセージはある。

前に書いたと思うけど、バッハの音楽には大原則がある。
それは、
「その音楽を演奏したり聴いたりすることを通して、キリストのことばを受け取る」ということだ。

その音楽を理解することによって、聖書をより理解し、聖書を理解することによってその音楽をより理解するという幸いなスパイラルは、バッハのほとんどの作品で有効な原則だ。

だから、この作品もそうだ。
この作品を演奏したり、聴くことを通して、聖書に対する理解が深まり、聖書をより深く理解することによってこの作品をよりよく理解し、より楽しむことができるという法則があるんだ。

でも、それはコラール前奏曲のようにはっきりしたものではなく、ことばで表現できない何かイメージのような理解だと思う。

この曲を練習したり研究する過程で、ぼくもそういう経験をした。

実は、いつだったかの練習中、突然聖書の内容がものすごいリアリティーをもって迫ってくるという経験をした。

これはあくまでぼくの個人的な経験なので、普遍性のあるものではないと思うのだけど、この曲と聖書の内容がすごく具体的にリンクしたのだ。

どんな風にリンクしているのかを次のページで書こうと思う。

もちろん、これは個人的なものなので、もし興味のない方には読んでいただかなくても全然かまわない。
もし、ぼくのこの曲に対するイメージに興味を持ってくださる方がいらっしゃるなら、ぜひ読んで見てください。

明日はがんばって書くぞっ!

トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調

2007年05月19日 21時16分06秒 | バッハ アンサンブルフィリア
トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調

この曲、ずっと前からやりたかった曲だ。
マリー・クレール・アランのオルガンやホロヴィッツのピアノによるCDを聴きながら、「いい曲だなあ。こんな曲がフィリアで出来たらいいな。そんな日が来るんだろうか?やっぱりマリンバではムツカシイカモ……。」等と色々思い巡らすこと数年が過ぎ去った。

でも、考え込んでいるうだけではらちがあかないし、思い切ってというか思いつめてって感じで今年のコンサートに提案したところ、他のメンツも賛成してくれて、ついに取り組むことになった。

で、それには石倉明日香の帰国も重要なファクターだ。譜面を見れば見るほど、やはり三人で演奏するにはムリがある。メンバーが4人になって初めて可能になった曲だと言えるだろう。

ま、とにかく、ものすごくいい曲だ。聴くたびに感動していたのだが、実際に練習に取り組み始めると、さらにさらに感動しまくり。
演奏しながら、ジーンと来たり、ビビビビッと来たり、ウーッてなったり…悶絶の毎日。

でもって困った問題も出てきた。
練習ってやっぱある程度冷静に取り組まないいけない。演奏しながら自分たちの出している音をしっかり観察し分析して、問題点をあぶり出し、そこをどう改善していくかを検討し、一つ一つの課題に取り組んでいく必要がある。

ところが、あまりに曲がすばらしくて感動してしまって、とてもじゃないが冷静に自分たちの音を観察分析している心の余裕がなくなってしまうんだ。

弾き終わったら「いい曲だなあ……!」ってことでその日は終わり。
なんてことがひんぱんに起こってしまうわけだ。

そんなすごいいい曲だから、コンサートで聴衆の皆さんとともにこの喜びを分かち合いたい気持ちでいっぱいだ。

こんなにいい曲なんですよぉー!ぜひぜひ、聴いてくださぁーい!って思い。

皆さん、ぜひぜひご来聴ください。

9月8日金曜日 京都府民ホール「アルティ」にて
午後7時からです。
入場料はたったの2000円!

安いでしょ!

入場料を安く抑えるってのもぼくたちのポリシーなんだ。
音楽が本当に身近なものになるためには、どうしても安く楽しめるようにする必要があると思う。

ヨーロッパに行くと、本当にその辺の身近なおっちゃんとかおばちゃんがクラシック音楽にめっちゃ詳しかったりする。
本当に音楽が街の人に根付いているって感じがするんだ。

それはやっぱり政府なり、お金持ちなり、教会なんかがスポンサーになって安い料金で音楽が気楽に聴けるものとして提供されているからだと思う。

実は、僕の個人的な感覚では2000円でもまだ高いと思う。
だって、夫婦とか恋人同士で聴きにいったら4000円でしょ。帰りにちょっとだけ美味しいものとかを食べてお茶飲んで帰ったらあっという間に一万円札が飛んでいく。

それでは、コンサート通いが身近なものにはなりにくいよね。

ぼくがドイツに留学してたのは20年以上前の話だけど、コンサートは本当に安かった。
ケルン放送交響楽団のコンサートには毎回必ず通ったけど、入場料はたったの一マルク。つまりほぼ百円だった。

夜行に乗ってベルリンまでカラヤン指揮のベルリンフィルを聴きに行ったときも、一番安い席は数マルクだった。残念ながらその席は売り切れてて、ちょっとだけ高い席で聴いた。 それでも十数マルクだった。

アムステルダムコンセルトヘボウとかウイーンフィルとかドレスデン国立歌劇場管弦楽団とかナタン・ミルシティン、ヘンリク・シェリングとかそんな一流どころのコンサートもほとんど1000円以下で聴くことが出来た。

だからこそ、週に二回も三回もコンサートに行くことができた。

日本でもそんな環境ができてほしいと願ってる。

でも、アンサンブルフィリアはスポンサーがついてないので、2000円でも採算とれるかとれないかのぎりぎりだ。

演奏家が自腹を切らなくても、聴衆が安い入場料で気楽にコンサートが楽しめるような日本になってほしいと思うなあ。

あ、皆さん、ホントにぜひご来聴ください。
一緒にバッハの音楽を楽しみましょう!

パルティータ第1番変ホ長調BWV825

2007年05月19日 21時15分48秒 | バッハ アンサンブルフィリア
パルティータ第1番変ホ長調BWV825

プログラム後半は二曲しかない。
これは別に後半になると疲れるから少なくしてるわけではない。
後半の二曲はいずれもボリュームたっぷりなんだ。二曲で十分おなかいっぱいになるはずだ。

さて、パルティータの第1番、この曲は伊藤両姉妹の二重奏だ。

彼らは双子姉妹で受胎したときからずっと一緒に育ってきている。別れ別れになったのは姉の朱美子がドイツに研修に行ってた数ヶ月間だけだ。

というわけで、息の合っていることこのうえない。
これ以上息のあったアンサンブルは実現することが難しいだろう。ぼくや石倉明日香がはたで見ていてあっけにとられるほど、自然に一つになって演奏している。すごいデュオだと思う。

で、彼らにとって、多分この曲は相当な思い入れがあるものだと思う。
きっと彼らが今までで一番演奏したかった曲であり、同時に最も演奏するのにためらいをもっていた曲でもあると思う。

おそらくは、彼らが音楽家として自立しようとして苦闘模索していた時期に、バッハの音楽の魅力に目覚めるきっかけになった曲だと推測している。

あっ、ところで、パルティータって曲名の意味とかはここでは書かないよ。
ウィキペディア(Wikipedia)にも載ってるし、グーグルとかヤフーで「パルティータ」のキーワードで検索したら読み切れないほどの情報がすぐに手にはいる。
「BWV825」ってキーワードで検索すれば、この曲の解説もたくさん見つけることが出来る。

で、「パルティータ第1番変ホ長調BWV825」だけど、

そんなわけで、彼らにとってはめちゃくっちゃに大切な曲であるはずだ。だからこそ、今まで一度も取り上げることなく、暖め続けてきたんだと思う。

アンサンブルフィリア結成7年目となった今年、ついに彼らが「今年は、この曲やってみようかな・・・・」と言ったとき、ぼくは「とうとうやるか・・・!」と思ったものだ。

彼らも、内心相当に期するところがあると思う。
気合入ってると思うので、これは絶対に聴き逃せないですぞ!



いや、実際ものすごくいい曲。
ぼくも大好きな曲で、最初の数秒を聴いただけで、心の緊張がスーッと溶けていき、心なしか身体までリラックスしていき、何か暖かいものが内側からあふれ出てくるような気分になる。

音楽を聴く幸福というものを最大限に味わうことが出来る曲だ。

この曲を聴くたびに思う。
「いやー、バッハってなんてすばらしいんだ!」と。

いや、聴かなくても、この曲の響きを心の中で想像しただけで、幸せな気分になる。
ホントに名曲。いい曲ですよん!

パストラーレ BWV590

2007年05月19日 21時15分32秒 | バッハ アンサンブルフィリア
パストラーレ(訳せば牧歌か?) BWV590

プログラム前半のトリはパストラーレ、伊藤両姉妹と石倉明日香のトリオ(三重奏)だ。

この組み合わせは新鮮で素敵な顔合わせとなると期待している。というより信じている。

石倉明日香はミッドバス音域の演奏にすごく長けた人だ。

誤解しないでほしいのだが、別にミッドバス音域しか弾けないわけではない。
彼女はすごく優れたマルチジャンルプレーヤーで、どんな楽器でもどんな音域でも楽々こなす柔軟性を持っている。
ただ、ミッドバス音域がちゃんと弾ける奏者は(特にマリンバ奏者には)それほど多くはないと思うので、貴重な人材だ。

この曲の低音パートはまさにミッドバスというのがぴったりの音域であり、また音楽の動きもバスというには少し細かいところが多い。

どちらかといえば、バス向きの感性を持つぼくより、石倉明日香の方がはるかにこのパートにふさわしいと言えよう。まさに、彼女の加入ゆえに我々のレパートリーに加わってきたという感じの曲だ。

三声部それぞれが、独立しながら支え合って、絡み合いながら進行する様は、こりゃなかなかの聴きものになること間違いなしだ。
何度かリハーサルを聴かせてもらったが、なかなかグーなできばえに仕上がりつつある。

曲はゆったり、早く、遅く、早くの四楽章構成になっていて、全部で15分くらい。
曲名の通り、牧歌的なほのぼのとした曲想だ。

昔々ローマ近郊にいた羊飼いたちが、クリスマスにローマの教会に参詣した故事によっている曲だそうだ。

この美しく快適な牧歌を聴きながら、いにしえの羊飼いの気分を味わっていただくのも、なかなかのおつなものではないだろうか?

一足、いや二足くらい早い「メリークリスマス!」だ。

参考までに、ローマの羊飼いたちもその心に味わっていたであろう世界最初のクリスマスの夜、
ベツレヘム近郊の羊飼いたちの様子を描写した新約聖書の記述をここに引用しておこう。
ルカによる福音書2:8-20だ。

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これが、あなたがたのためのしるしです。」
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


われら皆ただ一人の神、父と御子と聖霊を信ず BWV740

2007年05月19日 21時15分14秒 | バッハ アンサンブルフィリア
われら皆ただ一人の神、父と御子と聖霊を信ず BWV740

コラール前奏曲の最後は
「われら皆ただ一人の神、父と御子と聖霊を信ず」BWV740

この曲は、まあ、信じられないほど美しい。
ひたすら美しい。
演奏していて、あまりの美しさに陶然となる。
で、練習中にボーッとなってしまい、どこをやってるのか自分でもわからなくなってしまうことが何度もあった。



冗談でなく、それほど美しい。
ハーモニーが美しく、声部の動きが美しく・・・・。
んもー、何もかも美しい!・・・・のだ。

この美しさを味わいながら、同時に「ああ、ぼくは神を信じることが出来てよかったなあ、幸せだなあ・・・」としみじみわが身の幸いを感じる。このあたりはキリスト信者でない人には理解しがたいと思うが、この幸福感がバッハを演奏したり聴いたりするときのぼくの喜びの大きな部分を占めている。
説明するのは難しいのだけど・・・・。

ま、それは一応横に置いておいて・・・・・。

キリスト教になじみのない方にとっては、この題名ってなんか変に感じられるのではないだろうか?
「ただ一人の神、父と御子と聖霊」を信ず・・・・・?

ただ一人の神、父と御子と聖霊・・・・・?

\((;◎_◎)/!

「これってどういうこと?」と思われた方は理性的な人だ。

父と御子と聖霊だったら3人ではないか。なんでそれがただ一人の神なんだ?
そう思われるのが当然だと私も思う。

しかし、これが聖書が示す神なのだ。
これを神学用語で「三位一体」と呼ぶ。
神は一人であって同時に三人であるということだ。

「ンな、あほな・・・・まったく理屈にあってないやん!」と思うのが普通。
そんな概念、どう考えたってあり得ないのだ。

しかし、歴代のキリスト教信者たちは例外なくこの概念を受け入れ、信じてきた。
その中にはぼくのようなテキトーな人ばかりでなく、
超論理的な人、例えばニュートンとかパスカル、アインシュタインのような科学者もいる。
リンカーンやシュバイツァーのような人格者もいれば、
バッハやペルト、ブルックナーやメシアンのような音楽家もいる。

聖書の、キリスト教の神概念って・・・・不可思議でしょう?

この美しいコラールを聴きながら、三位一体の神秘に思いを馳せていただくのも一興かなと思いまするがいかがでしょうか・・・・・?

コラール前奏曲集3曲目から5曲目

2007年05月19日 21時14分34秒 | バッハ アンサンブルフィリア
コラール前奏曲集3曲目から5曲目までは連続して演奏する予定だ。

というのも
一曲大体1分前後しかかからなくて三曲まとめてちょうどよい長さだし、三曲ともオルガン小曲集と名付けられた同じ曲集に属している。
しかも、音楽的内容と神学的内容のいずれも、まるでこの三曲がセットになっているかのごとくうまく調和しているからだ。

最初の曲は
「人はみな死すべき定め」BWV643

コラールの意味するところは、ざっとまとめるなら「人は必ず一度死に、肉体は朽ち果てる。しかし、神を信じる者は必ず永遠のいのちと新しい身体を得て栄光に入る。」といった感じだ。

で、この曲は伴奏に注目!

八分音符と十六分音符とががっちりと組み合わさって、びくともしない鉄の枠組みのような構造になっている。
ヘルマン・ケラーによるとこの伴奏音型は「信心深い人々に用意された偉大な栄光」をあらわすということだが、ぼくはなんか違うような気がする。

やはりこの強固なわく構造はコラールの語る二つの定めが絶対に確実で、ゆらぐことも壊れることも決してあり得ないことを主張しているように思う。

このコラールとそこにつけられた伴奏からは次の聖書のことばが想起される。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」ヘブル人への手紙9:27

ここで聖書の語る「さばき」とはなんぞや?
死後の永遠の世界を神なしに過ごすのか、それとも神とともに過ごすのかが決定される時のことだ。

人間は死ぬ。確実に。
しかし、それは肉体の死にすぎない。
それは永遠の世界、霊の世界への入り口なのだ。
そして、キリストを信じる者は確実に永遠のいのち、すなわち、神とともに生きる永遠の、栄光の生活にはいることができる。それは、絶対に確実な事で、誰もそれを変更したり破棄したりすることはできない。

それがこの曲のメッセージだ。

で、次は「平安と喜びを持ってわれは行く」BWV616

平安と喜びを持ってどこへ行くのか?
言わずと知れた死後の世界だ。

前の曲で歌われたように、死は次の世界、霊の世界、永遠のいのちへの入り口だ。
それなら、恐れたり悲しんだりする必要は全くないではないか!
平安と喜びをもって、私は前進する。肉体の死に向かって。
人生は死への前奏曲なのだ。

このことをあらわすために、伴奏部は確信と喜びのリズムで構成されている。
アルトとテナー声部にあるタンタタタンタタのリズムとバスに現われる16分音符の連続だ。

「タンタタタンタタ」とは「16分音符32分音符32分音符16分音符32分音符32分音符」だ。
ウーン、ことばでリズムを表わすのってムツカシイなあ・・・・。

バスの16分音分は死に向かう人間の歩みという意味もあるだろう。
非常に静かで平安な曲の運びだ。そこには厳粛ささえ感じられる。
これも本当にいい曲だ。

三曲目は「主イエス・キリストよ、われら汝に感謝す」BWV623

キリストに対して何を感謝するんだろうか?
コラールは告げる。
「キリストが私たちのために十字架で血潮を流し、死んでくださり、その死によって「義」すなわち天国への入国資格を与えてくださった」ことを感謝すると。

最初の二曲で歌われた永遠のいのちの希望、死への恐れからの解放、それはどこから来るのか?
イエス・キリストによる十字架での贖罪のゆえだ。

聖書のキモ、キリスト教のキモはこれだ。

「神のひとり子イエスは、十字架上で苦しみ、血を流し、死んだ。それは、私たちが罪の赦しと永遠のいのちを得るための贖罪であった。」

三曲目にこのコラールが響くことによって、前二曲の土台、すなわち聖書の、キリスト教のキモが明らかになるという仕組みだ。

この曲のバス声部は一貫して信頼の動機を奏し続ける。
「ンタタタンタンタンタン」すなわち、八分休符、16分音符二つ、八分音符4つの組み合わせだ。

この連続した三曲が語るメッセージは

人間には一度死ぬことと、死後のさばきが定められている。
しかし、私は恐れない。平安と喜びをもって死を通過しよう。
そのさばきは私に永遠のいのちと永遠の幸いを、永遠の栄光を認定する時だからだ。
なぜなら、私のために主イエスは十字架で死んでくださったからだ。
私はイエスに感謝する。

ということになる。

ウーン、すごいメッセージだなあ。
こんなすごいメッセージを音楽で語るバッハはなんてすごいんだ・・・。
また、バッハの音楽が伝えるメッセージはなんてすごいんだ・・・。

演奏するたびに、聞くたびに、ちらっとでも楽譜を見るたびに「すげぇー!」って感動するよ。

いやー、バッハってすごい。聖書ってすごい。
こんなすごい「聖書」や「バッハの音楽」を生み出された神はすばらしい!

ただ神にのみ栄光があるように! S.D.G

キリスト、我らの主、ヨルダンに来たり BWV684

2007年05月19日 21時13分37秒 | バッハ アンサンブルフィリア
コラール前奏曲二曲目は「キリスト、我らの主、ヨルダンに来たり」BWV684

この曲は「ヨルダンに現われた救い主イエス」を歌ったコラールからできている。

「ヨルダンに現われた救い主イエス」のことを新約聖書はこう記録している。

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
(新約聖書・マタイによる福音書4章)

大工ヨセフの子としてナザレ村で成人し、大工として目立たぬ生活を送っていたイエスは、およそ三十才の頃、ヨルダン川の流域、ガリラヤ地方に公的にに出現した。

その際、イエスのことを全イスラエルに知らしめたのはバプテスマのヨハネという人物だ。
このヨハネという人物、当時のイスラエルで知らぬ人はいないといわれるほど高名になっていた人物で、ヨルダン川のほとりで人々に神の教えを語り、洗礼を施していた。

当時、イスラエル中から老いも若きも、貴族や祭司から庶民に至るまで、大勢の人が彼の教えを聴き、洗礼を受けるためにヨルダン川のほとりに集まってきていたらしい。

その彼が、大工イエスを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊!」つまり、「この人こそ救世主(キリスト)だ!」と宣言したのだ。

当時のイスラエルの敬虔な人々は救世主を待望していた。
「いつか必ず救世主が現われ、この世の悪を滅ぼし、神の御国を建てられる」
そう信じて救世主の出現を待ちわびていたのだ。

その期待には根拠があった。

実に当時から1000年以上前から救世主の出現は預言されてきたことだ。その預言は旧約聖書に詳細に記録されている。特に詳しく記述され始めるのはイエス誕生の700年ほど前からだ。生まれる場所、家系、その生涯の目的、生き様、死に様、そして復活に至るまで詳細に預言されている。

で、当時、救世主出現への期待は高まりに高まり絶頂を迎えつつあり、また、旧約聖書に預言される救世主出現のための諸条件も次々に整いつつあった。

そんな時にイスラエルで最も尊敬される宗教指導者ヨハネが、「このイエスという人物こそ救世主(メシヤ)だ!」と公に宣言したのだ。

それはもうイスラエル中が騒然となったはずだ。
かくして、イスラエル中から、またその周辺の地域から大勢の群衆がイエスのところへと馳せ参じるということになった。

「ヨルダンのあたり、ガリラヤ地方にキリスト(救世主・音訳するとメシヤ)が現われたそうだ。イエスという人だそうだ。」「本当にメシヤなのか」「そんなバカな、きっと偽メシヤだ」「いや、バプテスマのヨハネがこの人こそメシヤだと宣言したそうだ」「行ってこの目で見て確かめよう!」というわけで、大勢の人たちが先を争ってイエスの元へと馳せ参じたにちがいない。

この曲はその様な人々の様子を描写したものだと言えるだろう。

曲の最初から、延々と十六分音符が流れ、「ヨルダンの彼方ガリラヤへガリラヤへ!」とのとぎれることない人の流れを想起させる。

その人々を導くのはメシヤ出現の衝撃的なニュースだ。
おそらくは8分休符に続く三つの8分音符のモチーフがそのニュースを示しているのだろう。まさに前述した「光が上った」様なキラッと輝くモチーフだ。

また、その群衆たちの間ではこのニュースに対する賛否両論の議論が沸騰したであろう事が、付点音符やタイによる上二声のからみあいによって示される。

例によってコラールの旋律はバス声部に目立たぬようにさりげなく流れる。それも開始後数小節を経たあとからだ。このメロディーによって、聴き手は人の流れとそこにある混乱がヨルダンのほとり、ガリラヤに出現したメシヤなるイエスという人物によって引き起こされたことを想起することができる。

「これはいったい何ごとか?この人たちはどこに行くのか?何をそんなに議論しているのか?」との聴き手の疑問に「ヨルダンのあたり、ガリラヤにイエスという人物が現われ、その人がメシヤだということだ。そのニュースによってこの事態になったんだ」とコラール旋律が答えるわけだ。

さて、この人の流れと混乱と議論がとぎれることなく続き、いよいよイエスのいるガリラヤにまで達すると、全群衆の目と耳とはイエスなる人物に集中する。

このメシヤ、救世主と呼ばれるイエスは何を語るのだろうか?何をするのだろうか?
固唾を飲んで見守る群衆の姿がハ短調の属和音であるGの和音で示されて曲は終わる。

前にも書いたとおり、ハ短調やハ長調におけるGの和音は次ぎに来るべきCの音を指し示し、Cへの期待感を強烈に高めるわけだ。

このGの和音のあとではどうしてもCが来なくてはならない。
演奏者と聴き手のすべての神経が次ぎに来るべきCを期待し、切望する中で曲は満たされることなく終わりを告げる。聴き手はどうしても次ぎにCの音を聴かねばならない思いになるわけだ。

次ぎに来るべきCの音は当然キリストを示しているのだが、ここではキリストのことばを示している。

そうやって集まってきた群衆に、今からイエスが語ろうとすることばに全神経を集中する人々に、イエスは何を語るのだろうか?

新約聖書マタイによる福音書第5章にそれが示されている。
有名な「山上の垂訓」だ。

イエスがその時語ったメッセージは衝撃的だ。
「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです!」
と、彼は語った。人々の通念を根底から覆すような挑戦的な宣言だ。

ぼくはこの曲を演奏する度にヨルダンの彼方、ガリラヤへと向かう群衆の様子、それも議論と興奮と混乱に満ちた群衆の行列を想像して楽しくなってしまう。

そして、最後のGの和音に到達したとき、次ぎに来るべきキリストのことば、「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです!」が頭の中に強烈に響いてたまらない気持ちになる。

ウー、なんてすごい情景なんだろうかぁ!その当時そこにいた人たちはどんな気分だったんだろう?って考えるともうワクワク・ドキドキ・ハラハラ・・・・・。

いや~、バッハってなんてすごいんだぁ・・・・・!

ところでこの曲には別の解釈もできる。

流れる十六分音符はヨルダン川の流れ、三つの八分音符のモチーフはバプテスマのヨハネが授ける洗礼の完全性、付点音符やタイによる上二声のからみあいはヨルダン川の流れの中でのヨハネとイエスの親密な様子をあらわすと考えることもできる。

ぼく自身はこの解釈には不賛成だが、バッハのオルガン曲に関する最も権威ある解説書の一つだといわれるヘルマン・ケラーの著書ではこの解釈が紹介されている。

どっちが本当だろうか?
そんなことを思いめぐらしながら聴くのもまた楽しい。

いやあ、バッハの音楽を聴いたり演奏したりってのは、実に楽しい。
時間がたつのを忘れてしまう。メシを食うのは忘れないが・・・・・。