水割り3杯の雑談

毎日、夕方6時を過ぎる頃、台所のテーブルで書いていたエッセイをブログに。足元にはエサをねだる愛猫が。私は68歳。

あの歌、この歌

2010-05-08 20:59:22 | Weblog
『東京の屋根の下』(唄:灰田勝彦)。「東京の屋根の下に住む 若い僕らは幸せ者~ 何もなくてもよい~」という歌詞に、“江分利満氏”は「何もなくてよいわけはないが、本当に何もなかった」と御自身の新婚時代を書いている。私たちはもう少しマシだった。テレビ、冷蔵庫、ポータブルレコードプレーヤーがあった(6畳1間のアパートだから掃除機は要らない)。洋服箪笥は2人共用だった。家人が、和服や和箪笥などの嫁入り道具を持ってくるのは、その3年後になる。 『学生時代』(唄:ペギー葉山)。青山学院をイメージして、同校OBの平岡精二さんが作り、OGのペギーさんが唄った。サラリーマン時代からの親友Aさんも青学の出身。下請会社の社長で、私の方が3ツ年上だが、彼はとにかく、東京の屋根の下のアレコレの旨いもの屋に詳しく、よく呑み歩いたというより、ずいぶんと御馳走になった。もう1人の青学出身者は我が家の株の担当だったD証券のB君で、ときは将にITバブル。日本オラクルの株を600万円(株式分割前なので、そういう単位でしか買えなかった)で買い付けて、それが1カ月後に900万円になるといった、将にバブル(ギャンブル)の季節だった。 いや、『学生時代』の歌から逸れた話になってしまった 『みかんの花咲く丘』(唄:川田正子)。お嬢ちゃんという言い方があるが、川田正子さんは本当にお嬢ちゃんらしいお嬢ちゃんだったし、50歳を過ぎてからも、その匂いが残っていた。学校唱歌の中では、この唄が一番(二番は『夏は来ぬ』)だと思っている。 安田祥子さん、由紀さおりさんがニッポンの歌を歌い継がれているのに拍手したい。 「いつか来た丘 母さんと一緒に眺めたあの島よ 今日も一人で見ていると 優しい母さん想われる」。

あの歌、この歌

2010-05-08 03:27:31 | Weblog
『新雪』(唄:灰田勝彦)。この歌の価値は、あの殺伐とした戦時中に作られたところにある。「海ゆかば 水潰(みず)く屍~」といった悲壮な歌の多い中に、「むらさき煙る新雪の 峰ふり仰ぐ その心~」は、明るく輝いていたのを(私は小学校の低学年生だったが)はっきりと憶えている。  『こいさんのラブコール』(唄:フランク永井)。昭和34年9月、伊勢湾台風が東海・関東・東北を縦断し、5千余名の死者が出た。東京・世田谷の我が家も床上に浸水した。私はバイト生活(その頃は巧く働けば、正社員より収入がずっと上だった)をしていたが、結婚するためには正社員にならねばと考えていた(それが実現するのは1年半後になる)。  『琵琶湖周航の歌』(唄:加藤登紀子)。3高(現在の京都大学)のボート部歌であるが、メロディも歌詞もいい。昭和42,3年だったかと思うが、ある酒場でこの歌を聴いて、すぐにレコード店に買いに行った。特に「瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの竹生島 仏の御手に抱かれて 眠れ乙女子 安らけく」が好きだ。  『恋の街札幌』(唄:石原裕次郎)。 家人の妹A子は生涯独身、生涯恋愛の人だったが、その相手がいつも妻帯者だった。A子は40歳のとき北海道に一人旅をして、昔のボーイフレンドBと再会し、恋におちるが、そのことはB夫人の知るところとなり・・・しかし、ゴタゴタが深まる前にBが癌で他界してしまい、そして義妹もあとを追うように平成4年に49年の日記のページを閉じてしまう。 「初めて恋を知った私 優しい空を見上げて泣いたの 女になる日 誰かの愛が 見知らぬ夜の扉を開く~」。