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晴れた休日は自転車に乗って! (akio)

古希も過ぎた爺の「気楽な自転車散歩」やチョット頑張った「サイクリング」の備忘録(ボケ防止かな?)

今日の 鳥さん(2022/1/2)

2022年01月02日 13時21分33秒 | 日記

今朝からか? スマホタブレットからのgoo blog アプリが作動しません。

おかしいですね。(もしかしたら・・自分だけ?)

 


今朝は曇っていたが、11時頃になるとほゞ快晴となったが相変わらず気温は上がらず寒い日となっています。

従って何処にも行きません!!

そんな時は、家で「鳥さん」の観察です。

ジョウビタキ♀」がやって来た。

メジロ」がやって来たので差し入れをする。

先ずは何時も二羽でやって来る常連さん。(左上と右下)

色々な表情も見せてくれます。

同じ個体の「メジロ」が来ているのかな? と思っていたが、数羽が相次いで来ているらしい。 

 

時々邪魔しにやって来るのは「ヒヨドリ」。

遠く、電線から様子を窺う「オナガ」。

やって来た。

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今日のメジロ

2022年01月01日 19時27分56秒 | 日記

今日もメジロが遊びに・・・

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新年のあいさつ(2022年 寅年)

2022年01月01日 08時16分00秒 | 日記

あけまして おめでとうございます

本年もよろしく お願い申し上げます

映像は、「 アムールトラ」 氷点下40度、厳寒のロシア極東地方 (NHKクリエイティブ・ライブラリーより拝借)

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「ウィスキー」Or「ウイスキー」?

2021年12月28日 18時51分33秒 | 日記

今朝の「メジロ」さん。

午前中は来客あり。

午後はお酒の仕入れだった。

何時ものウイスキー、そして 日本酒・酎ハイも(笑)

余談ですが 「WHISKY」をカタカナ表記する場合には、「スキー」Or「スキー」?

 

この2つの表記は、発音が異なります。後者は「ウイ」とはっきり読みますが、前者は「イ」をはっきり読みません。発音記号で書くと、[ui]と[wi]の違いです。

このことばが日本に入ってきた明治から昭和にかけての日本語では、「ウィ」という発音はあまり使われておらず、「ウイ」という発音が一般的で、多くのことばは「ウイ」という発音・表記で定着しました。「ウイスキー」も「ウイ」の発音・表記で定着したものの1つです。そのため、放送では、「ウイスキー」という発音と表記をとるわけです。

~NHK放送文化研究所より~


Wikipediaによると、酒税法上の表記は「ウイスキー」となっているそうだ。


英語表記でも、「KY」で終わる「WHISKY」と「KEY」で終わる「WHISKEY」がある。
「KEY」は「鍵」を意味するので、「WHISKY」が「鍵なし」、「WHISKEY」が「鍵付き」などとも呼ばれる。

この2種類の表記は、一般的に産地で区別されており、スコッチウイスキーなどスコットランドの流れを汲むものが「WHISKY」。アイリッシュウイスキーなどアイルランドの流れを汲むものが「WHISKEY」となっている。

日本のウイスキーは、スコットランドの流れを汲むものなので「WHISKY」。

バーボンで有名なアメリカンウイスキーの綴りは「WHISKEY」で、アメリカでウイスキーの蒸留所を造った人に、アイルランド出身者が多かったためといわれる。
ただし、アメリカのバーボンウイスキーでも、「アーリータイムズ」の綴りは「WHISKY」となっており、必ずしも綴りで産地が区別できる訳ではない。

このような表記の違いは、スコットランドとアイルランドが、ウイスキーの元祖を主張し合い、区別させるために「WHISKY」と「WHISKEY」に分かれたものといわれる。

~オールガイド情報サービスより~

 

ウイスキーが、お好きでしょ/石川さゆり

 

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一日だけのお父さん

2021年12月27日 07時28分00秒 | 日記

~思わず涙する感動秘話から~
一日だけのお父さん
これは15年前の話なのですが、私が28歳の時の事、
仕事の昼休みに公園で弁当を食べていたら小さい男の子が近寄って来て、
お父さんっ!明日運動会見に来てよ」と言った。
私は、その男の子の言っている意味が分からなかった。
すると、「すいません!」と言いながら男の子の母親がやって来た。
私は顔を上げるとその母親もビックリするような顔で私を見ていました。
母親に話を聞くと「主人は半年前に他界した」と言いました。
その死んだ御主人に私が似ているらしく、子供が間違えたらしい。
男の子は5歳でまだ父親の死を知らなかった。
というより、人が死ぬという事に理解ができていなかった。
だから、私を父親と間違えたのだろう。
私は、その男の子の「絶対!運動会来てよ」の言葉に泣きそうになった。
その頃、趣味もない恋人すらいない私にとって休日は苦痛だった。
私は母親に「息子さんの運動会に行ってもいいですか?」と聞いた。
母親は「いいのですか?お願いします」と嬉しそうに言った。
そして、次の日の運動会に私は気合いを入れて上下ジャージ姿で幼稚園に行きました。
プログラムなどを見ると父と子の障害物リレーなど、様々な所に親子対抗の競争があった。
私は男の子の手を握りしめ必死に走り回った。すごく楽しい1日でした。
運動会も無事終わり男の子との別れ際に「お父さんはオウチに帰らないの?
の言葉に私は自分が嫌になった。
たった1日とは言え男の子を父親だと騙して運動会へ行った事を後悔した。
それから何日かが経ち、私は男の子の母親に「息子さんのお父さんにならせて下さい」と言った。
母親は「はいっ!」と答えた。
あれから15年が経ち、今日息子は20歳になります。
15年前のあの日、息子が公園で私の事を父親と間違えた事に感謝します。
たとえ血が繋がっていなくても、運動会の日から私と息子は親子なんです。
~息子へ~
20歳の誕生日おめでとう。 父より
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価値観

2021年12月26日 13時19分00秒 | 日記

感動したので、掲載した。

(思わず涙する感動秘話より)



この話は実話です。

価値観』や『解釈』は人によって違う。

その子は、生まれながら知的障害者でした。

幼稚園は近所の子供たちと一緒に通っていましたが、小学校に上がるとちょくちょく学校を休むようになりました。

一年生が終わる頃には、全く学校へ行かなくなってしまったそうです。

二年生になっても、三年生になってもその子は、学校に行こうとはしませんでした。

そして四年生に上がる頃、父親と母親が話し合って、養護学校に預ける事にしました。

養護学校には寮のようなものがあり、家に帰る事は出来ませんでした。

四年生で入ったその子は、一年生の学習から始めなければなりませんでした。

専門の先生が、主要教科を一対一で丁寧に教えて行きました。

その日に習った新しい事を、毎日毎日、その子は母親に電話で報告していました。

ほんの少しずつではありましたが、一年間でその子は沢山の事を学び、覚えて行きました。

ある日の事です。

その子をずっと教えていた先生が、算数を教えようとしてお金の問題を出しました。

「ここに、五百円玉、百円玉、十円玉、三つのお金があります。

どのお金が、一番大きなお金ですか?」

と、その子に質問しました。するとその子は、

「十円玉」

と答えるのです。先生は、

「五百円なのよ」

と教えましたが、同じ問題を繰り返しても、どうしてもその子は

「十円玉」

と答えてしまうのです。

何度繰り返しても、やはり答えは十円玉だったので、先生は、

「五百円玉と百円玉と十円玉では、五百円玉が一番沢山の物が買えるのよ。

だから、一番大きいのは五百円玉でしょ?」

と言うのですが、その子はどうしても違う、十円玉だと言うので、先生は

「それじゃ、十円玉の方が大きいと思う訳を言ってごらん」

と言ったそうです。

するとその子は、

「十円玉は、電話が出来るお金。

電話をするとお母さんの声が聞けるの!」

と話したそうです。

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「月の街 山の街」より

2021年12月23日 16時12分04秒 | 日記

感動したので、下記に書き留めてみた。


一年が暮れようとしていた。
夕方頃、飲食店の入り口が開いたと思ったら、ひとりの女の子が妹と弟を連れて入ってきた。
みすぼらしい身なりの子供たちは、しばらくモジモジしていたが、厨房から一番近いテーブルに座った。
ヨンチョルが注文を取るために子供たちのほうに行った時、上の子が妹と弟に聞いた。
「何を頼む?」
「ジャージャー麺」
「私も・・・」
「おじさん、ジャージャー麺をふたつください。」
ヨンチョルは、厨房にいる妻のヨンソンにメニューを伝えると、ストーブの隣に立っていた。その時、子供たちの話し声が彼の耳元に聞こえてきた。
「ねぇ、お姉ちゃんはなんで食べないの?」
「うん、お昼ご飯がもたれたみたい。何も食べられないのよ。」
7歳くらいに見える男の子が、箸を口にくわえて言った。
「お姉ちゃん、でも食べなよ。すごくおいしいんだから」
「お姉ちゃんは今、お腹が痛くて食べられないの。今日はあなたの誕生日だから、おいしく食べて」
上の子はそう言いながら、弟の手をぎゅっと握ってあげた。
「お姉ちゃん・・・、私たちにもママとパパがいたら、どんなにいいかな。あんなふうに一緒に晩ご飯を食べたりして」
妹は、向かい側のテーブルで両親と夕飯を食べている同い年くらいの子供たちをうらやましそうな目でながめていた。ちょうどその時、ヨンソンが厨房から急いで出てきた。
彼女は首をかしげながら、しばらくの間、子供たちの顔をまじまじと見た。
「どうした?知っている子供たちか?」
「そうねえ。あの家の子供たちだと思うんだけど・・・」
しばらく考え込んでいたヨンソンは、子供たちに近づいていった。
「あなた、もしかしてイネじゃないの?イネでしょ?」
「はい、そうですけど。おばさんは誰ですか?」
ヨンソンの突然の問い掛けに、子供はきょとんとしていた。
「お母さんの友達よ。私を覚えてないの?ヨンソンおばさんだよ・・・」
「・・・」
血色の良くない顔をながめ合うだけで、子供たちは黙っていた。
「同じ町に住んでいたんだけど、あなたが小さい時だったから、思い出せないみたいだね。それはそうと、お母さんとお父さんがいなくて、どうやって暮らしているの?」
彼女はうれしそうに、子供たちの顔をひとつひとつ、なでていた。
「インジョンも、もうこんなに大きくなったんだね。昔はよちよち歩きも、よくできなかったのに・・・」
ようやく思いあたったように、かたくなっていた子供たちの顔に明るい笑みがこぼれた。
「少し待ってて。おばさんがおいしいものを作ってあげるから」
ヨンソンは急いで厨房に入っていった。そして、しばらくすると、ジャージャー麺3つと酢豚1皿を出してきた。子供たちが料理を食べている間、彼女はずっと満足そうな顔でながめていた。
「さようなら」
「うん。元気でね。車に気をつけて・・・。ジャージャー麺が食べたければ、いつでもおいで。わかった?」
「はい・・・」
ヨンソンはドアの前に立ち、子供たちが遠くに歩いていくまで手を振ってあげた。
子供たちが帰った後、ヨンチョルはヨンソンに聞いた。
「どこの家の子供たちだっけ?俺はいくら考えても思い出せないけど・・・」
「実は私も知らない子供たちなのよ。お母さんとお父さんがいないからって料理をただであげたら、子供たちが傷つくかもしれないじゃない。お母さんの友達だと言えば、また来ることもできるし・・・」
「そうだったのか。だけど、子供たちの名前はどうやって知ったんだ?」
「子供たちが話すのを聞いていたの。厨房のすぐ前だから、中まで全部、聞こえてたのよ」
「名前まで知っているから、本当の知り合いの子供たちかと思ったよ」
「今日は弟の誕生日だったみたい。自分は食べたくても我慢して、弟と妹だけに頼んであげる様子が、どれほどかわいそうに見えたことか・・・」
ヨンソンの目ににじんでいる涙は、すぐにでもこぼれ落ちそうだった。
貧しさにくじけている子供たちを傷つけないようにしていた妻を見て、ヨンチョルはたくさんのことを考えた。
傷つけずに愛するというのは、どれほど難しいことだろう。黙って痛みを包み込むのは、どれほど美しいことだろう。
 
 
「月の街 山の街」より(韓国の「月の街 山の街」と呼ばれる貧しい街で、実際にあった話をまとめた物語集)」
イ・チョルファン 著
草 彅  剛   翻訳
ワニブックスより


今日も少し走ります。

10時となり出発、何の目的も無いので何時もの「伊佐沼コース」とする。

単純に往復するだけ(笑)

北風が強い中、暫し走って、11時に到着。

今日は島が出来ている。

「メタセコイア」の葉も落ち、冬枯れの「伊佐沼公園」。

では、帰ります!!(滞在時間は、たったの20分


走っていて「モズ」発見!!

ららぽーと近くの気になる「うどん屋」をチェックするだけ。

此処の「カレーうどん」が評判らしい。

そのうち来ます!!

走ります。

早くも「白梅」もほころび始めています。

暫し走って、何時もの公園に寄る。

「モズ」は何処にでも居る。(見つけやすいから・・)

「シジュウカラ」

風も収まったようだ。

ただただ走っただけ、途中で昼飯買って、12時45分帰宅、50.01㎞。 


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人生って、笑いの方が多い?

2021年12月20日 07時07分00秒 | 日記

思わす涙する感動秘話から
良く耳にするが、「なるほど」と感心した。
~恩師に言われた衝撃的な言葉~
人って「シクシク」って泣きますよね。
「ハハハハ」って笑いますよね?
4×9=36、
8×8=64で
答えを足すと100になります。
人生を100とすると
悲しいことは36、
嬉しいことは64、
倍近くある!
どんなに号泣
(5×9=45)しても半分以下。
人生泣き笑いで100。
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誕生日は自分自身が決める

2021年12月19日 12時39分50秒 | 日記

今朝もあるSNSを覗いていたら、こんな記事があった。

これも有名な話のようだ。

ある助産師さんの話らしい。

事実なのか定かでは無いが、感動したので下記に記載してみた。


赤ちゃんを産むとき陣痛というものがある。

陣痛は、初産で約24時間、2人目以降で約12時間続くものらしい。

妊婦さんの中には、この陣痛がとても苦しいので、「産む側は大変、赤ちゃんは生まれてくる側でいいなぁと言う方もいるらしい。

しかし、助産師さんは、これは大きな勘違いだと言う。

赤ちゃんの方が、妊婦さんの何倍も苦しいのだと

実は、子宮は筋肉であり、これが収縮したり緩んだりするのが、陣痛の正体らしい。

陣痛が始まり、子宮が収縮すると、赤ちゃんは首のところを思い切り締め付けられ、へその尾からの酸素が途絶え、息ができなくなるそうだ

子宮の収縮は約1分間。

その間思い切り首を締められ、息ができない。

1分たてばまた子宮はゆるむが、また陣痛が来れば1分、息ができなくなる。

しかも陣痛の間隔はだんだん狭くなる。

この陣痛に耐えられなければ、赤ちゃんは死ぬ。

まさに命懸けだ。

だからこそ、赤ちゃんは慎重なのだという。

実は、陣痛がおこるためには陣痛をおこすホルモンが必要らしいのだが、このホルモンを出しているのはお母さんではなく、なんと赤ちゃん自身

赤ちゃんはとても賢く、自分自身で自分が今陣痛に耐えられる体かを判断する。

そして、一番いいタイミングで自分の生まれてくる日を選ぶ

(そう考えると、自分の誕生日も、自分が選んだ日なんだと思えた)

また、急に激しい陣痛を起こせば命が危いので、最初は陣痛を起こすホルモンを少ししか出さず、様子を見てホルモンの量を調整するらしい。

赤ちゃんの中には、予定日を過ぎてもなかなか生まれてこない赤ちゃんもいる。

途中で陣痛を止める赤ちゃんもいる。

そういう赤ちゃんを「うちの子はノンビリしてる」なんていうお母さんもいるけど、そのとき赤ちゃんは必死なんだという。

生まれて来ないのは、赤ちゃんが「今の体では 陣痛に耐えられず死んでしまう」と判断しているからだそうだ。

赤ちゃんはみんな、自分で判断して、自分の意志で生まれてくる

生まれたくて生まれたんじゃないなんて人はいない

出典:「年間100万人の赤ちゃんを救おう!」日本の命を守る会

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モンキーズのマイク・ネスミスさん死去

2021年12月18日 11時09分22秒 | 日記

モンキーズのマイク・ネスミスさんが、去る12/10死去(享年78歳)、モンキーズはデイヴィー・ジョーンズさん(ボーカル)が2012年に、ピーター・トークさん(ベース)が19年に死去しており、生存しているメンバーはミッキー・ドレンツ(76=ドラムス)のみとなった。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


1960年代に「デイドリーム」、「恋の終列車」など多くのヒット曲を放ち、テレビの冠番組と併せて世界的な人気を博した米バンド「ザ・モンキーズ」のマイク・ネスミスさんが10日朝(現地時間)、心不全のため米カリフォルニア州カーメル・バレーの自宅で死去した。78歳。
テキサス州ヒューストン出身。複数の米メディアが伝えた。家族に見守られ、安らかに亡くなったという。
 
モンキーズはデイヴィー・ジョーンズさん(ボーカル)が2012年に、ピーター・トークさん(ベース)が19年に死去しており、生存しているメンバーはミッキー・ドレンツ(76=ドラムス)のみとなった。ネスミスさんとドレンツは今年、ツアーを開催しており、先月、米ロサンゼルスで公演を行ったのが最後となった。
 
ドレンツは「胸が張り裂けそうです。親友であり相棒を亡くしました。ここ数カ月を共に過ごし、歌ったり、笑ったり、しゃべったり、大好きなことをできたことに感謝します。とても寂しい。ネズ、安らかに。私の愛の全てを」と、抱き合う2人の写真を添えて、ツイッターで追悼のコメントを発表した。
 
ネスミスさんは42年12月30日生まれ。歌手、作曲家として活動後、65年、NBCのテレビ番組向けに結成されたモンキーズに参加し、ボーカルとギター、ソングライティングを担当した。
66年にデビューしたモンキーズは「モンキーズのテーマ」や7週連続全米1位を獲得した「アイム・ア・ビリーバー」などヒット曲を連発し、67年のセカンドアルバム「モア・オブ・ザ・モンキーズ」は全米アルバムチャートで18週1位を獲得した。
 
テレビ番組「ザ・モンキーズ・ショー」も66~68年に放送され大ヒット。68年には来日公演を行った。
バンドはトークさん、ネスミスさんが脱退後の70年に解散。
ネスミスさんはカントリー・ロックの「ファースト・ナショナル・バンド」やソロ、映画「レポマン」のプロデュース、グラミー賞を受けた監督業、執筆など幅広く活躍した。モンキーズも断続的に再結成して活動した。
 
日本では故忌野清志郎さんらが結成した覆面バンド「ザ・タイマーズ」が「デイドリーム」を日本語でカバーした「デイ・ドリーム・ビリーバー」(89年)がヒット。セブン-イレブンのCMソングとして長く使用され、スタンダード・ナンバーとなった。  訃報を受けてブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)、スティーヴィー・ヴァン・ザント(E・ストリート・バンド)、ポール・スタンレー(キッス)、スラッシュ(ガンズ&ローゼズ)、ギャリー・ニューマン、ミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)らがSNSで追悼コメントを発表している。
(YAHOOニュースより)


以下、過去のblogより再掲
 
懐かしき学生時代に、耳目に触れた思い出
 
それは・・・
 

ザ・モンキーズThe Monkees)、アメリカのポップ・ロック・バンド


ビートルズ主演の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』をヒントに同様のテレビ番組を制作するため、1965年オーディションによりグループが結成された。言わば、「アメリカ版ビートルズ」として誕生したようだ。テレビ番組ザ・モンキーズ・ショー』とレコード販売連動するという当時としては珍しいメディアミックス戦略をとった。そのため、活動中は「作られたグループ」というレッテルがついて回ることとなる。モンキーズは基本的には、アメリカのアイドル的なグループと言えるとのこと。

(後列左から)ピーター・トーク、ミッキ-・ドレンツ(前列左から)デイビー・ジョーンズ、マイク・ネスミス


ザ・モンキーズ・ショーは、1966年9月から1968年3月までアメリカNBC系列で放送されたザ・モンキーズが出演の海外コメディー・ドラマ

日本ではTBS系列で1967年(昭和42年)10月から1969年(昭和44年)1月にかけて放送された30分番組。

カリフォルニア州ロサンゼルス市郊外のビーチウッドに住む売れないミュージシャン4人が繰り広げるドタバタコメディドラマ。成功を目指す4人の周りで起こる出来事を一話完結型で描く。

当時は、このコメディードラマ毎週楽しみにしていた。

因みに日本語吹き替え者と人物設定

デイビー・ジョーンズ:高橋元太郎
ヴォーカル、パーカッション担当。グループ内で一番女の子にモテる。グループ内唯一のイギリス人。
ミッキー・ドレンツ:鈴木ヤスシ
ヴォーカル、ドラムス担当。明るく物真似がうまい。典型的なエンターティナー。
マイク・ネスミス:長沢純
ヴォーカル、ギター担当。グループのリーダー役。いつも被っているウールハットがトレードマーク。
ピーター・トーク:太田博之
バックボーカル、ベース担当。天然ボケ役。


下(は、26回目の「Captain Crocodile(ユカイでショウ!)」1968/3/29放送(短いのでコレを紹介、短いと言っても長いか(笑))

ドラマのあらすじ・・・番組出演の話がモンキーズのもとに飛び込んできた。だが厄介な事にこの番組の人気者キャプテンはモンキーズが大嫌い!何とか出演させまいと追い出し作戦を企てるキャプテンだが・・・

 



モンキーズのテーマ

 

デビュー曲「恋の終列車 (Last Train to Clarksville)」
 
 

大ヒット曲「デイドリーム・ビリーヴァー(Daydream Believer)」
 

1968年にピーター・トークがグループを脱退、その後、マイク・ネスミスも脱退、1970年解散となる。
後にニューモンキーズの結成となるが、その後は知らない(笑)
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