この映画・本、よかったす-旅行記も!

最近上映されて良かった映画、以前見て心に残った映画、感銘をうけた本の自分流感想を。たまには旅行・山行記や愚痴も。

『本はどこへ帰るのか?』-京都市に寄贈された桑原武夫さんの蔵書約1万冊がかってに処分された問題を知り、感じるところあり

2017-08-25 21:47:27 | 雑感

   【 2017年8月23日~25日 記 】

 1週間前ほどの前の毎日新聞の紙面で上のタイトルの記事をよみ、桑原武夫さんの貴重な蔵書が京都市の勝手な判断で融解処分されたことを初めて知る。

 この事実は、最初今年の4月頃に報じられたもので、その時の報道には気が付かず、既にだいぶ時間が経ってから自分が知ることになったのだが、【家族に無断で処分】という事実を知り、ショックを受けた。

 我が家にも、桑原さんの蔵書には比べ物にはならないが、5000冊ほどの蔵書がある。

                

 狭い我が家に並べられた本は確かに家を圧迫している。記事の中の話ではないが、床が抜けてもおかしくない状況である。
『もうこれ以上、本は買わないで!』という妻の悲鳴に近い声で、最近でこそ買ってくる本は少し控えているが、それでも図書館で間に合わない本は購入することになる。

 一度購入した本はなかなか捨てられない。それに自分は、読んだ本に《読んだ痕跡》を残しておく癖がある。あとで調べるときの便宜を図るため《やたらと傍線や注釈を入れる》習慣がある。だから、古本屋にも売れないと妻はぼやく。
 
 しかし、一生懸命買い込み、特に読み込んだ本には愛着がある。自分の《過去の思考過程》や《生活の記憶》、《喜怒哀楽》までがそこにため込まれている。自分の専門の哲学関係、心理学、科学論はその時々の最新の情報を追って読まない本まで買い込んだ。美学にも興味を持ってヘーゲルから永井潔の「芸術論ノート」まで追いかけた。子供の成長過程では、《教育》や《人の成長》に関する本をむさぼり読んだ。映画に熱中すれば、「映画論」やシナリオを読んだり、見た映画の「カタログ」を収集した。テレビ放映の録画を中心に集めた映画のビデオ・DVD約2000本と共に捨てがたい。
 一時、マイコンに嵌まりプログラムを組んだりして、BASICから始まりマシン語、C原語の本を買いあさった。数学や自然科学の本も面白い。社会情勢が気になれば、その方面の新刊を買い求め、山に登るには地図や関連書籍だけでなく写真集にも手が伸びる。観るだけででなく好きな時に見れるように手元に置いておきたくなる。

 たまにしか見ない本の山を見て、「こんな物、子供も誰も興味なんか持たないから。ただのゴミになるだけ。処分に困るのは残された方なんだから!」、「だから、元気なうちに処分しておかないと!」と、妻はあっさりしたものである。

 だから先日、《もう今後プログラムを組むこともないだろうし、今時《MS-DOS》でもないし、大体《WindowsXP》以前の解説本や周辺ソフトの解説書は持っていても意味がないだろうと決断し、パソコン関連の書籍を200冊以上処分した。1冊5000円以上したものもあり、惜しい気もしたが。それでも処分できたのは自分の蔵書のごく一部である。

                                                  

 ふと、映画『いつか読書する日』の一場面を思い起こした。何のとりえもない平凡な人生だったのかもしれないが、やはり人それぞれに思い出がある。本によって出来ない体験をして人生に彩りが加えられたかもしれない。

 今の自分が自分であることの手掛かりは【自身の過去の記憶】である。記憶が、過去からつながる自分自身の【存在の意味】を明らかにしてくれる。【人間は生まれ変わる】といっても、前世の記憶がなければ、それはただの言葉の表現に過ぎない。だから、今の自分を生きる。

 人は《多くの人に自分の存在を覚えていてほしい》という潜在意識というか願望があり、日々の努力の一旦はそんなことのために費やされるのかもしれない。万人にとって取るに足らない人生であってもだ。

 しかし、万人の記録を全ての人の記憶に残るようにしておくことなど不可能と悟れば、《今を最大限に生きて一生をまっとうすればそれだけのことだ》という思いに至る。それでも誰かに伝えたい。気持ちは揺れ動く。


 桑原武夫という人ほどの人生だったら、そうではないだろう、と。
 
 「利用者がなかった。活用されていなかった。」「保存スペースがなかった。」-多くの費用と手間のかかることは充分承知している。それでも、しかしである・・・・。

 それをいとも簡単に、何の考慮もなしに、担当者の独断で処分してしまうその人の気が知れない。何かやりきれない気持ちでいっぱいになる。

             
 

 京都市は、最近も彫刻家から寄贈を受けた野外展示物の扱いを巡って《断裁処分する》という問題を起こしている。寄贈されたら《自分のもの》=《勝手に処分しても構わない》という発想なのか。

 異次元の発想を持って処分を裁断した組織体制にどうしようもない怒りを感じる。
 全く別の基準をもってその存在の痕跡を全否定された人の立場に立ってみれば、減給とか降格処分とかの問題ではないだろう、と。全くふざけた話だ。




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