並木たより

写真付き日記

三人の父

2006-03-30 02:09:02 | 日記・エッセイ・コラム

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天の父は別として、地上に「父」が3人居た。

先ず、実父。おぼろげな記憶の底に、数枚の画面が残っている。防空壕の場面、風呂場の場面、湯上りの縁側の場面、散歩の場面、電車の中の場面・・・・・。「豪傑」とか「大人(たいじん)」とか評する人も居るが、「臆病」「弱虫」との評もある。 同期とおぼしき粟谷仙吉とか、増田甲子七などと対等に付き合っていたのだろうか?

次に、養父。三一会といえば、キリスト教の三位一体と誤解されそうだが、全く正反対の陸士31期。変わったクラスであったと、戦後誰かが書いていた。出世をしない、家庭を持たない、人種差別・身分差別をしない、盟約を他言しない、名誉の戦死をする、俸給を七割返上する、など同期で申し合わせをしたらしい。31期の中隊長は戦闘中も「伏せ」ないと言われていた由。そういえば、手足に貫通銃創、首と腹に切り傷など満身創痍(まんしんそうい:体中傷だらけ)であった。「金鵄勲章」を2度もらったとか。

そして、岳父。三一の神を教えてくれた。「教える」というより、「伝え」てくれた。理屈でなく体験として、苦学生の「実験済み」の福音信仰を、「知識」でなく「知恵」として伝えてくれた。自分には、この人からでなくては伝わらなかったであろうと思う。得がたい出会いであった。出会いの仲介人は中村太郎兄と小田茂司兄。この二人が居なければ、老先生との出会いを「敬遠」したに違いない。

「子たる者よ、汝ら主にありて両親に従え、これ正しき事なり。・・・父たる者よ、汝らの子どもを怒らすな、ただ主の薫陶と訓戒とをもて育てよ」(エペソ書6:1-2)

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歴史と伝承

2006-03-29 23:16:53 | 日記・エッセイ・コラム

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磯子

渋谷

千鳥渕.

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歴史と伝承という。英語では、ヒストリー(History)とリジェンド(Legend)である。「歴史」は教室で教師から学ぶもの、「伝承」は炉辺(ろばた)で年寄りから聞くものである。

「伝承」(あるいは「物語」)は、客観性やデータの正確性にとらわれず、(主観的に)体験者の喜びと悲しみ、誇りや悔しさを伝え、幼い者に感動を伝え、若者の勇気を鼓舞し、人生の指針たるライフスタイルを学ばせる。

福音書はイエス・キリストの事跡である。歴史でなく伝承である。客観データを度外視して出会いの感動を伝えようとした弟子(使徒)たちの証詞(あかし)である。

ケリュグマ(伝承)のイエス像から史的イエス像を抽出しようとする試みが繰り返し試みられてきた。しかし、たとえば幼子にとって、母親の「客観データー」など何程の意味もない。

「イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも変わることがない」(ヘブル書13:8)

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赦をこのみたまふ

2006-03-28 09:17:14 | 日記・エッセイ・コラム

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未来において神の審判はある、きっとある。しかし愛の神はご自身、人を裁(さば)きたまわずして、審判はすべてこれを子にゆだねたもう。しかして恵み深くして赦(ゆる)しをこのみたもうキリストに裁かれて、われらはもっとも恩恵的に裁かるるのである。

しかしてご自身憐憫(あわれみ)をこのみて祭祀(まつり)をこのみたまわざるキリストは、人を裁きたもうにあたりて、重きをその人の憐憫におきたもうのである。憐憫はキリストが人を裁きたもう時の標準である。

いわゆる正義ととなえて清浄潔白なる事ではない。あるいは信仰ととなえて、教義と儀式と伝道のことにおいて欠くるところなきことではない。

憐憫である、憐びんである、赦す心である、恵む質(たち)である、愛の行為である。人の永遠の運命はこれによりて決せらるるのである。最後の裁判(さばき)は愛の勝利である。愛せしか愛せざりしか、これによりて限りなき刑罰か、限りなき生命かの別がきまるのである。                                                  ( 内村鑑三 )

「主よ、あなたは恵みふかく寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを施されます」(詩篇86:3~5)

「主よなんぢは恵ふかくまた赦をこのみたまふ 汝によばふ凡てのものを豊かにあはれみたまふ」( 同 文語訳)

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内村鑑三記念講演会

2006-03-27 00:20:02 | 日記・エッセイ・コラム

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3月26日()午後、青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂において内村鑑三記念講演会が開催された。テーマは「無教会の使命」。司会は日永康氏、講師は坂内宗男氏と田村光三氏。

坂内氏は(天皇制的)氏族共同体の中での個の確立の重要さを指摘され、田村氏は地球が人間の欲望を扶養しきれなくなった「宇宙的深層構造の変化」を指摘しつつ、「にもかかわらず」、希望をもって「リンゴの樹を植え続ける」覚悟を語られた。

無教会人のアイデンティティとライフスタイルとを鮮明にした、時宜に適した記念講演会であった。

環境問題、エネルギー問題、人口問題、生命倫理問題等々、時代の課題は内村鑑三や藤井武の想像をはるかに超えた局面に展開している。先達を尊びつつ、しかし、先達に頼らず、21世紀の課題には21世紀人の固有の責任において取り組んでゆかねばならない。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ロマ書12:15)

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青年市長

2006-03-26 01:04:14 | 日記・エッセイ・コラム

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3月26日は横浜市長選挙である。現職の中田宏市長の再選が有力視されている。4年前、初当選の折は、360万市民のトップとして、いかにも頼りなく見えた。

しかし、若さは良い、会うたびに成長しているのが目に見える。前任のT市長が、会うたびに衰えていくのが目に見えたことを思い合わせて感慨深いものがある。

ことに「ゴミゼロ」運動は評価できる。各家庭にビデオを回覧し、市長自らゴミの分別方法を説明し、減量を訴え、その結果、年間160万トン出ていた横浜市のゴミを45万トンも減らしてしまったのだ。

27日夕刻、横浜駅前で握手した折、「ゴミゼロは良かった」と耳元で告げたら、こちらを見返して、強く握り返してきた。20年前、当時の細郷市長が鈴木都知事と張り合うのを応援したことがあるが、今日、若い横浜市長は某東京都知事をはるかに凌いでいる。

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「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない」(テモテ前書4:12)

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