「砂あらし 地(つち)を削りですさぶ野に 爆死せし子を抱きて立つ母」(岡野弘彦)
こうした体験を、つい半世紀前に、強烈に味わったばかりと言うのに、(我が同胞の)何と物忘れの早いことか。
他人の体験を、自分の体験のように思い込んでいただけで、本当は似非体験であったのではなかろうか。
本当に体験した者には、忘れようにも忘れられぬ、「骨がらみ」の記憶なのだ。
かく言う自分の体験も、ほんの数時間の空襲体験だけである。しかし、それが、決して忘れることの出来ぬ、「原体験」なのである。
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「砂あらし 地(つち)を削りですさぶ野に 爆死せし子を抱きて立つ母」(岡野弘彦)
こうした体験を、つい半世紀前に、強烈に味わったばかりと言うのに、(我が同胞の)何と物忘れの早いことか。
他人の体験を、自分の体験のように思い込んでいただけで、本当は似非体験であったのではなかろうか。
本当に体験した者には、忘れようにも忘れられぬ、「骨がらみ」の記憶なのだ。
かく言う自分の体験も、ほんの数時間の空襲体験だけである。しかし、それが、決して忘れることの出来ぬ、「原体験」なのである。
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