アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第1章 ゴイング・ウィズィン ②現実とストレス

2015年04月05日 08時30分21秒 | 第1章 ゴーイング・ウィズィン
②現実とストレス

シャーリーは「ゴーイング・ウィズィン」(以下、同書)の中で、ストレスの原因とそれを生み出している現実にどう対処して行くべきか、興味深い意見を述べている。以下に、筆者なりの副題を付けながら、彼女の論点を要約してみた。因みに【 】内の副題以外は、基本的に同書からの引用である。但し、適宜筆者の見解を( )のなかで述べている。又、筆者が強調すべきと考えた部分は、引用分の中で、Bold体に変更した。

◇◇◇
【現実とは】
 “現実”とは、基本的には私達一人ひとりがそうだと思い込んでいるものにすぎないと、私はわかってきた。つまり、私にとっての現実は友人にとっては必ずしも現実ではなく、ましていわんや、赤の他人にとっては、もっと現実でないかもしれないのだ。私達はそれぞれ異なった現実の世界に生きているというわけである。・・・

【成果主義の功罪】
 私の職業ではストレスや心配が、良い仕事のためにも創造性のためにも必要だとされている。そのうえ、目的達成が一番大切であって、ゴールまでのプロセスは殆ど無視されている。目に見えるもの、やり遂げたことだけが問題なのだ。そして、結果は手段を正当化する。目的さえ達成していれば、「神は天におわし、この世は全て事もなし」なのだ。・・・

【ストレスの回避】
しかし、内面の平和は乱すけれど成功は保障するというような仕事に、今はノーと言う練習をしている。自分のものの見方を変えて、自分の“現実”を変えるということを私は学んでいるのだ。・・・プレッシャーもストレスも、もう私に創造力を与えてくれなくなった。逆に、それぞれのプロが仲良く働いている時の調和的な状態の方が、ひどいプレッシャーやヒステリックないがみ合いよりも、ずっと良いものをつくり出す可能性を持っているということに、私は気付き始めた。友達や家族や娯楽についても、同じ結論に達した。個人的な問題でも、もし、私がもうストレスなんかごめんだと決心すれば、ストレスを感じる必要はないのだと、わかりはじめたのだった。周囲の状況を見る角度を変えれば、台本も変わってしまうのだ。自分が見ているものを角度を変えてみた時、その情景の現実自体が変化したのである。どんなに不愉快な事態に巻き込まれても、ちょっと立ち止まって、「どうして私はこんな状態をつくり出してしまったのだろう? いったいこれから何を学んでいるのだろう?」と自分に問かけると、その事態はもう悲劇ではなく、覚醒への体験となるのだ。・・・自分に起きたことはすべて自分の責任だと思い、それをつくり出してしまった自分の力を認めると諦めがつく。
◇◇◇

筆者もまったく同感である。結局自分の現実をつくり出しているのは、自身の性格であり、それはカルマや欲望などから来る自分の「運命」なのだから、それを受け入れ、そこから学び、霊的に成長することが重要だと気付けば、必要以上に怒ったり悲しんだりする必要もなくなる。因みに、彼女自身がものの見方を変えることで、難局を切り抜けた体験を幾つか事例として挙げているので、興味のある方は同書を読んで頂きたい。
 そして、シャーリーはストレスの原因を以下のように分析する。

◇◇◇
【自由社会の代償】
 たぶん民主主義の自由さそれ自体がストレスを生み出しているのだろう。権威主義的な文化や宗教によって厳しく規制された社会にはない、選択の自由、責任、競争などのややこしさがあるからである。つまり、自由な個人主義的な社会に対して私達が支払わなければならない代償は、複雑さなのである。そして、この複雑さが個人にも文化そのものにも、ストレスを引き起こしているのだ。・・・
(筆者はこれに加えて、ピケティが主唱し今話題になっている資本主義がもたらす不平等の拡大を挙げるべきだと思う。無論細かく論じていけば、他にもいろいとあると思うが・・・)

【霊的喪失感】
 そうこうしているうちに、私は自分の人間的な成長のスピードと、私のまわりの社会の成長のスピードを比較し始めた。その結果、もし本気で社会の変革を望むのならば、まず自分自身の変革から始めなければならないときがついたのだった。他のどんなことでも同じように、まず努力は自分から始めなければならないのだ。
 何かこれと定義することのできない喪失感に、自分も社会も苦しんでいるように私は感じていた。それは肉体的なものとも精神的なものとも違っていた。もっと微妙なものだった。微妙なくせに、もっと奥深いものでもあった。この喪失感は、一人ひとりのたましいに語り掛け、さらに国や政府のたましいに語りかけていた。どこかのレベルで本能的に私達は自分たちが霊的に貧しくなっているのを知っていたのだ。
 ほとんどの場合、どの宗教も私達の霊的な要求を満たしていなかった。そのうえ、一部の宗教の指導者は腐敗していた。一応、キリスト教的博愛を実践しようと努めてはいるが、私はとうの昔に教会に忠実に従うのはやめてしまった。ビジネスの世界では、株式市場でさえも不正の巣になってしまったように見える。そして破産しかけ、矛盾だらけの政府は、混乱のあまり憲法を無視して、不法な戦争をあちこちで仕掛けている。・・・・

【霊的成長と学び】
 私達には、自分自身よりほか、何も残されていないのだ。私達は自分自身の品位と誠実さ、そして価値観に期待するしかないのだ。つまり、私達は内なる自己を見つけ出さなければならないのだ。(筆者も昨年末まで会社勤めをしていたが、退職した途端に会社員としての資格も肩書きもなくなり、自分自身より他、何もないということを実感している。ヨーガの修業を続けていて本当に良かったと思う。)
 きっと、こうしたすべての混乱は、良きことのために起こっているのだろう。(筆者も本ブログの「はじめに」で述べた通り、これらの混乱は人類のカルマを浄化する過程で生じたものと観ている。)
 たぶん、今、私達が体験している世界の状況は、自分自身の中に持っている価値観やビジョンによって、私達がつくり出しているのだ。・・・政府も、その他の組織も、私達の反映にすぎないのだ。結局は、私達はそうした制度そのものなのである。私達は、自分の既成概念で受け入れられるものを、受け入れるのである。
 社会や世界の変革に参加する前に、自分自身の変革がまず必要だということが、私はわかり始めた。そのために、私は真剣に自己変革に取り組み始めた。・・・
 こうした勉強が世界中で急速に広がりつつあるのを私は感じている。同時に、世界中でさまざまな問題がますます痛ましく深刻になっている。私の人生、私の人間関係、私のカルマは、すべて学びの為にあるのだと思う。(筆者も全くその通りだと思う。)

【世界を変える力】
 以前は、世界を変えるために自分は何もすることができないという無力感を、私は感じていた。今では、私の内部に、そして私達みんなの内部に、世界を変えることができるすばらしい力が存在する、と私は思っている。ただ、その力の存在に私達一人ひとりが気づきさえすればよいのだ。今、私達はその存在に気が付かなければならない。そして次の成長の段階は、その力を実現するということなのだ。こうした変化のもたらし方に気が付いているのは私一人ではない。
 大覚醒が今、起ころうとしている。世界中でたくさんの人々が、自分の内にある力に気づき、自分は何者かを理解して、自分の人生と周囲をもっと幸せで実り多いものに変えていっている。自分達が学んだことやその方法を、お互いに教えあうということは、お互いの助け合いのごく一部に過ぎない。
 すでに述べたように、この本はどのようにして私が自分の内なる霊性を見つけだしたか描いてみようというものである。私にとって、霊的な修業は非常に魅力のあるものであり、またストレス減少と個人的社会的な対立の解決のために、なくてはならぬものとなっている。・・・
◇◇◇

最後に筆者より一言、確かに霊的な修業は魅力的ではあるが、危険も伴うので、それなりの師について学ぶことをお薦めしたい。

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