アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第1章 ゴーイング・ウィズィン ⑥ 素粒子と世界

2015年05月01日 10時58分14秒 | 第1章 ゴーイング・ウィズィン
以前の筆者のブログ、第9章⑨クォンタム・セルフ(量子的自己)の書き出しで、バーバラ・アン・ブレナンの『光の手』から本稿に関連する個所を次のように引用している。そのまえがきと共に再度引用しておきたい。

◇◇◇
クォンタム・セルフとは何かを説明する前に、バーバラ・ブレナンの『光の手(上)』(以下、同書)に出てくる説明が、我々の世代がこれまで学校の授業で学んで来た、ニュートンの物理学に凝り固まった「物質」的な考え方と、心霊現象の橋渡しをしてくれているように思えるので、先ずその一部を引用したい。

「現代科学は人間という生物体が分子でできた物質的なものではなく、他のすべてのものと同じようにエネルギーフィールドで構成されているという。私たちは静止した個体の世界から、活動するエネルギーの世界に移ろうとしているのだ。私たちもまた海のように満ち引きを繰り返している。そして絶えず変化している。人間としてこれをどう捉えれば良いのか。それに自分を適応させる必要がある。そのような世界があるなら体験してみたいと思うべきである。」(同書P46)

「物質のさらに奥深くに入ってみると、自然はニュートンの物理学で言う独立した“基礎組立てブロック”などを見せてはくれない。物理学者がもはや基本などとは呼べないほど多くの基本粒子を発見した今となっては、物質の基礎ブロックを探すのはやめるべきである。過去数十年の間に行われた実験を通して、物体はまったく可変的なものであり。原子未満レベルに至っては一定の場所に確実に存在するものではなく、存在する“傾向”を示しているだけであることを物理学者たちは発見した。すべての粒子はまったく違った粒子に変化できる。エネルギーから生まれ、別の粒子に形を変えることもできる。またエネルギー自体に還ることもできる。それが、どこで、いつ起こっているのかは正確にはわからないが、絶えず起こっていることだけはわかっている。」(P57)

「物理学者たちは、粒子が同時に波動となるのはそれが、音や水の波動のような現実にある物質的波動ではなく、確率的な波動(物質として固定された状態ではない不安定な暫定的状態のエネルギー)であるからだということを発見した。確率的波動は物質の確率性を示すのではなく、相互関係の確率性を示している。この概念を理解するのは困難だが、要点を言えば、本来“物”というものは存在しないと物理学者たちは言っているのだ。」(P58)

今ここで、バーバラ・ブレナンは主に物質のことを言っているように思えるが、実は最初に書いてある通り、肉体も同様、我々が見たり感じたりしている“物”ではなく、エネルギー・フィールドで構成されていると言っているのだ。
◇◇◇

 更に、バーバラは続けてホログラムの考え方に就いて、次のように説明する(同書P58~59)。

◇◇◇
 個体の古い概念と自然の決定論的法則は、今や、相互関係の波動のようなパターンの世界に溶け込もうとしている。“基本粒子”“有形物質”“独立物体”といった概念はその意味を失ってしまった。宇宙全体は分離できないエネルギーパターンの動くクモの巣(網の目状)のようだ。宇宙は、常に不可欠なものとして観察者を含む活動する非分離統合体と定義される(宇宙はそれを観察する私達を含めたエネルギー総合体である)。
 宇宙がこのようなクモの巣でできているのなら、理論的に部分のようなものは存在しない。したがって私たちは全体から分離された「個体」ではなく、宇宙そのものであるといえる。・・・
 ボーム博士は、宇宙のホログラフィック的見解(四次元的視点)こそが、内在する含有秩序と表出した解析秩序の理解するための出発点であると言う。ホログラムの概念は、すべての部品が全体そのものの現れであり、ホログラムの全体像を組み立てなおすのに使用できると主張している。
 1971年に最初のホログラムを組み立てたことで、デニス・ゲイバーはノーベル賞を受賞。それは、物体から放出される光の波動フィールドがプレートに干渉パターンとして記録される、レンズを使わない写真だった。ホログラムや写真録画を記録したものをレーザーかコヒーレント光線の中に置くと、オリジナルの波動パターンが三次元立体イメージで再生されるのである。すべてのピースがホログラムの全体の描写をとらえ、イメージをそっくりそのまま再構築するのである。
◇◇◇

 内容的にはかなり難解なのだが、端的に表現すると、先ず①物質は我々が見えるような形で独立して存在するのではない、②同様に、私達自身も全体から分離された「個体」ではなく、宇宙そのものである、③ホログラムの概念は、すべての部品(ピース或は部分)は全体そのものの現れである、というものである。少々飛躍するが、すべてのものはその内に神の姿を宿しているということになろう。

 同じテーマについて、シャーリーは、ゴーイング・ウィズィンで次のように説明している。

◇◇◇
 素粒子の理論の中でニューエイジにとって最も基本的なものは、素粒子(宇宙をつくっているもの)の世界では、すべての物がお互いにつながっているという考え方である。宇宙は、影響や情報や光子やエネルギーや電磁波の場などから成る巨大な複雑きわまるクモの巣なのだ。あらゆる物、あらゆることが他のすべてのものとつながっている。そこには分離などあり得ない。
 このことがわかると、どうしてもニューエイジ哲学のなかで最も議論の多い問題に突き当たってしまう。神は我々の内にあり、ゆえに、我々は一人ひとりが神の一部である、という考え方である。お互いを分離するものはいっさいないのだから、私達はみな神と同じものであり、神は私達の内にある。私達は神を体験し、神は私達を通して体験している。私達は文字通り、神のエネルギーでつくられており、それゆえに、私達は自分が望むものは何でも、自分の人生でつくり出すことができる。私達はそれぞれ、神のエネルギー、つまり宇宙をつくっているエネルギーと協力して、創造を続けているからである。
◇◇◇

それでは、私達の肉体も同様に考えればよいのだろうか? 最初に引用したクォンタム・セルフとも関連する部分である。引用を続ける。

◇◇◇
 神秘主義と素粒子論の関係について書いた本の中で、人間の体のそれぞれの器官は調和のとれた固有のエネルギーの形を持っており、今の科学はそれを識別できるようになっているという話を読んで、私はすばらしいことだと思った。体の各器官は、電磁波のエネルギーの場の中にある物体であり、ウィリアム・バールはそれを“生命の青写真”と呼んでいる。そのエネルギーの場での各分子間の距離は、対比してみれば、私達から見た惑星の間の距離よりも、ずっと大きいのである。そうだとすれば、内なる宇宙は外なる宇宙よりも、ずっと広くなってしまう! さらに、物質の固さは、実は幻想に過ぎないと科学は教えている。事実、私達の物質世界が固くてがっしりしているなんていうのは、幻想そのものなのだ。
◇◇◇

 ここまでの話を、かなり難解に感じている方もいるものと思うが、ヴェーダンタ哲学で、この世は幻影(マーヤ)であると言っていることが、今科学的に証明されようとしているのだと捉えて頂きたい。そして、これは、本ブログでこれから(恐らく1カ月以内に)取り上げて行く心霊手術の伏線にもなっている個所である。
 続いて、シャーリーは肉体の病気について触れている。

◇◇◇
 体の病気は、霊的なエネルギーを体にため込んでしまうために起こるということは、私も自分の経験で知っている。私にとって、肉体の問題は、すべて自分の意識から始まっている。瞑想をするために立ち止まり、自分の内へと入り、大いなる自己にどうして体がおかしくなったのか質問すると、恐れ、拒否、無価値観などを指摘されることが多い。そこで、私は神と一体化し、調和を取り戻そうと努力する。成功すれば、すぐ元気になる。このニューエイジの自己治癒力の考え方は、非常に高度な段階のもので、私はまだまだ完全に事故に目覚めるまで長くかかりそうである。
◇◇◇

その後シャーリーは、再び意識の問題に触れるが、この冒頭部分は『光の手』においても、全く同様に表現されていたものと記憶している(正確な頁までは覚えていないが・・・)。

◇◇◇
 ・・・科学者の中には、科学研究の中に意識をひとつの要素として取り入れるべきだと主張している人達もいる。観察されている物の行動は、観察している者の意識によって直接的に変化する。両者は分離したものではないのだ。・・・もし、私達の体がさまざまな形の波動でできていて、素粒子から成る世界全体の“情報”や“場”に共鳴し、しかも、個々の人間の波動は調和の方向へ動いているとすれば、私達はその調和に触れた時、もっと平和になるのだ。霊的な目覚めが政治にも社会問題にもなぜ本質的に適用できるのか、私はやっと理解できたのだった。自分自身の電磁場についてもどんどん気づいてゆけば、私達は自分の内にも外の世界にも、もっと調和をもたらすことができる。・・・
 私が自分の意識を変えて、自分自身をこの神=創造主の中に加えた時、私の外側の世界もすっかり変わってしまった。そして、私が霊的に調和のとれた意識を持つと、自分にも他人にも寛容になり、すべてのものと調和し、ひとつになる感覚を得られるということも発見した。
◇◇◇

 そして、シャーリーは最後に次のように結んでいる。

◇◇◇
 そして、私達は自分の内に神の光を宿している、という信念にすべては帰着する。他の人に親切にできるかどうかは、自分に親切にできるかどうかの反映である。そして、親切かどうかは、自分を愛しているか否かにかかわっている。もし、神が愛であり、私達一人ひとり、神を自分の内にもっているとすれば、私達が自分の神の部分をもっと外に出す努力をすれば、世界はもっと調和のとれた場所になり、私達はみんな、もっと平和で幸福になると思う。・・・
◇◇◇

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