ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

バニシング・ポイントとダーティ・メリー/クレイジー・ラリー

2009年09月23日 | 映画/映像

子どもの寝静まった深夜、70年代B級ロードムービーの傑作2本を続けて鑑賞。缶ビール片手に、家庭内グラインドハウス!


バニシング・ポイント
1971年 リチャード・C・サラフィアン監督





デンバーからサンフランシスコまで、仲間とのちょっとした"賭け"を理由にダッジ・チャレンジャーを駆って爆走する陸送屋の物語。

主人公は終止ニヤリと笑ったような顔のまま、時々シャブをキメたりヒッチハイカーのゲイカップルを拾ったりしながらも、ひたすら走り続ける。彼を追う警察も次第に本気になり、最後はブルドーザーで作られたバリケードに激突炎上!(これがバニシング・ポイント=消失点というわけ)…というだけの、異様にシンプルな話。

彼の内面や思考は一切語られない。元レーサーだとか、警官でもあった過去に同僚の悪徳警官を咎めたとか、波打際で恋人と戯れるとか(話の流れからすると死んだようだがそれと彼の虚無っぷりとの関連なども全く説明されない)時折挿入されるフラッシュバックから過去がなんとなくほのめかされるが、それが人物像や性格描写に結びつくことは全くなく、「何を考えておるのか?こ奴は?」という疑問が最後まで全く解決されないまま、爆死してサドンデス。という、あまりと言えばあんまりな"無意味さ"が、『イージーライダー』(1969)にも共通する時代の空気を感じさせて、グッとくる。無意味と言えば、途中で全裸でバイクに乗る女が登場して主人公を誘惑したりする場面(もちろん彼は全く動じず、誘惑にも乗らない)のあからさまなサービスカットぶりも笑える。

ラジオDJが狂言回しとなって主人公を応援する…という設定は『アメリカン・グラフィティ』(1973)からの拝借だろうが、あの映画のウルフマン・ジャックほどの存在感は感じられず、適当にソウルな選曲を流してるだけ。回想シーンなどで挿入される安っぽいムード音楽と相まって、この映画のB級さを確約してくれる。

とにかく、物語などどうでも良い。理由など知らない主人公の虚無感。だだっ広い西部の砂漠を走るハイウェイの空気感。ザラついたフィルムの質感。これはもう、安映画館の暗闇に身を沈めて、ただただボーッと浸るための映画なのだ。



ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー
1974年 ジョン・ホッフ監督





これまた、無意味にアメ車で走るだけの映画(こちらはダッジ・チャージャー)。走ること自体が目的だった『バニシング・ポイント』と違って、一応は一攫千金狙って銀行強盗やらかし逃げる…という物語上のフレームは設定されているものの、逃亡者のくせにあえて目立つ事ばかりやらかす主人公(ピーター・フォンダ)の行動はどこか愉快犯的であり、自ら死に向かって突っ走るヤケッぱちさに溢れている。この主人公、何かと言うとアハハハハッ!と狂躁的に笑うのも、なにか壊れた人物像を感じさせて印象的だ。

一晩を共にしただけで銀行強盗に相乗りしてしまう女(スーザン・ジョージの好演。この映画のギョロ目っぷりは同じく70年代のゴールディ・ホーンと双璧)という設定は『俺たちに明日はない』(1967)のクライドを思わせる。もとレーサー(またかよ)の主人公。その相棒は酒でレースをクビになったメカニック。この2人と女の三角関係は、ちょっと『冒険者たち』(1967)っぽいが、関係は特に深まらないまま物語は進行する。

虚言癖の女とかレースの夢破れた男たちとか、『バニシング・ポイント』よりは登場人物のキャラクターが描写されているものの、それが逆に薄っぺらというかありきたりな設定というあたり、いかにもB級映画。

そして、首尾よく警察をかわして、これで逃げ切った!アハハハハッ!と笑った瞬間、追っ手と全く関係のない通過列車に突っ込んで爆死!という、なんとも身もふたもない終わり方もイイ。ここまで映画を観てきた俺の時間は心底無駄だった…という脱力感で一杯になれます。



しかし2本続けて「アメ車映画」を観たら、なんだか横幅の馬鹿でかいアメ車に乗りたくなってきたなー…



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