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Withjjj(詩と韓国と真理とじゅんと)

聖書と共に育ち、孤独に沈み、世を憂い、書に親しみ、哲学に耽り、詩を愛し、人を好き、愛を求め、真理を知り自由を得ん

コギト‐エルゴ‐スム

2005年01月12日 | ■哲学と文学
コギト‐エルゴ‐スム
「我思う、ゆえに我あり」
と訳されるデカルトの言葉

簡単に言うと、たとえ全ての世界がまやかしで、
自分自身の知能すら確実に信用できないものだと
しても、今そういうことを考えている
主体は存在するはずだと言うのだ。

このデカルト以降
哲学は神中心から人間中心となった
同時にデカルトは
神の存在証明をもしているのだが
人々はまるで親から解放されたティーンエージャー
のように喜々として人間精神の独立を謳った
そしてデカルトの最初の論は素晴らしいが
後のものは未熟な考えだと取捨したのだ

こうして何とか神からの脱却を図ったは良いが
今哲学はどこへ向かっているのか。
「真理は何か」を探究することを諦め
「人間とは」には上辺でしか答えていない
普遍的なことなど何一つ無く
混迷に混迷を重ね
ただの方法論に成り下がった
難解なことを難しい言葉で解説し
知の樹海を押し広げてはみたものの
自分が何を主張したいのかさえ
自分がどこにいてどこへ行きたいのかさえ
理解していないではないか

暗くなり道に迷いひもじくなっても
ティーンエージャー達は
親元に帰る気はないのだろうか

無知の知

2005年01月09日 | ■哲学と文学
「無知の知」
自分は何も知らないことを知ったという
哲学者ソクラテスの言葉だ。
しかし人は自分の知りうる世界しか認めようとしない
非科学的だ
非常識だと
簡単に否定の言葉を口にする

科学が何を明らかにしたというのか
大海の中の一滴程も解明してはいないのだ
常識は普遍なのか
今日の常識は明日の非常識ではないか
先人の言葉をたたえこそすれ
哲学者の言葉を教えこそすれ
決して実行しようとはせず
決して自分の事としようとはしないではないか

故に人は自分が無知であるという
数千年前に発見されたことをすら自覚できず
「そんな事も知らないのか!」と
得意になって自分の正しさを主張するのか
哲学者の言葉をすら受け入れられない我々が
真理の言葉を受け入れられる日は来るのだろうか

至真

2004年12月28日 | ■哲学と文学
美しく
感覚を研ぎ澄ますと
キラリと光る
言葉の芸術
でも
空っぽな詩は嫌なんだ

深遠な哲学
智慧の結晶
悟るべき理知
でも
無粋な言葉は
誰の心にも響かない

両者は別に
矛盾しない
真の理(ことわり)を語るとき
詩となって結実する

片方だけの
言葉たちは
誰かの心をうつかも知れない
誰かの知能を満たすかも知れない
けれど
永遠という川を渡ることは出来ない

孤独とむなしさ

2004年12月03日 | ■哲学と文学
 孤独とむなしさ
ネバーエンディングストーリーという映画を小さいとき見た。その映画の中で最大の敵は悪魔でも、怪獣でもなくて「虚無」だった。幼い心になにか言いようもない重苦しさを感じた気がする。しかしその強敵は年をとるにつれその力を増して行く。しっかりと武装していない人間は正面から奴と対決してはならない。勝ち目など万に一つもないからだ。だからできるだけそいつを見ないが良い、目線を合わせず無視し続ければいい。いやこんな忠告などしなくても大部分の人たちは知ってか知らずか、いとも簡単にそいつを無視し背を向けている。少数の人たちは果敢にも突撃して行き、帰らぬ人となった。ごくわずかの人達だけがそいつを克己していき、そいつが隠しもっていた多くの宝をぶんどりものとして手に入れた。そしてその事はそれほど難しいことではないとなんとか人々に伝えようとしている。けっしてその宝を独り占めにしようとはしない。といってそれは分け与えることは不可能で克己したものだけがやはり味わえうる宝なのだ。

普遍

2004年12月02日 | ■哲学と文学
普遍とは「いかなる民族、人種、時代、性、環境、地域、宗教、文化、価値観の影響下に深く縛られている人にとっても共通して持ち得る何か」と言うことが出来ると思う。そしてこれこそが大切なのだが、「普遍な幸福」について筆を進めて行きたいと思う。あるいは「普遍に重要なこと」「普遍な価値観」とも言えるかもしれない。
 なぜこの普遍にこだわるかと言えば、それは簡単な事である。だってもし自分が本当に大切だと思って一生をかけて打ち込んでいることが他の時代の人や他の国の人から見れば、ばかばかしいことであったり、つまらないことである可能性があるからだ。いや普遍でないことは多かれ少なかれそうなのである。それどころか、自分が良いと思っていることが他の中では不徳であることも多々あるのである。もしかしたらここで例を挙げるべきなのかもしれない、止めておこう。例をあげればその意味がその事例に偏重してしまうし、自分の魂の濁らないことを願う人なら理解するのはそう難しくはないはずだ。

普遍

2004年12月01日 | ■哲学と文学
さきんず普遍と言う言葉を使ってしまったので、そこからひもをといていきたい。普遍、これほど大切な言葉は少ない。しかし残念ながら他の重要な語と同様それが、本来的な意味で使われることは皆無だ。少なくとも26の私とっては死、愛、誠実、永遠、どれをとっても私にとっては非常に重要な事に思われるのだが、これらに対する真実な対話はほとんどなされない。あるいは軽薄にもちいて、ある人達のセンチメンタルな面を遊ぶように刺激しているに過ぎない。

普遍な真理を求める友へ

2004年11月30日 | ■哲学と文学
さて私は今日も筆を起こしたいと思う。なんのためにか?友を得るため、真の友を得るためだ。そんな事はわざわざ筆を通してする程のことではないとお思いかもしれないが、するだけの価値はあると思うのだ。なぜというにいかに多くの人類がいるとしても一生の内出会える人はそう多くはなく、その中で真に心を通わすことの出来る人となるともう皆無なのだ。そして心を通わすというときそれは必ず普遍的なことにおいての同意でなければならない。なぜというに、それがそれこそが私の関心事であり、全ての人の関心事でなければならぬはずのところのものだからだ。