無神論について
・グールドは神が存在しているかしていないか知り得ないので、自分は不可知論者だとしている。これはある意味においてとても正直な懸命な立場だということが出来る。さて日本人の多くの人々は無神論ということばを若干誤解しているのではないかと思う。「自分は神を信じていないから無神論です。」とか「私は宗教に関心がないから無神論者です。」といったような意見をたまに耳にする。しかし無神論というのは無関心や無宗教とは全く違う者である。それは有神論者が神が存在することを信じ、その理由や根拠をあげるように、神がいないという根拠や説明が出来る者だけが無神論者になることができるのである。よく科学者は神が存在するということは、証明できないと言う。それでは神が存在しないということは証明できるとでもいうのであろうか!!ニュートンの逸話をここで紹介します。
「ある時ニュートンは、腕ききの機械工に、太陽系の模型を作らせました。その模型は、歯車とベルトの働きで、各惑星が動く仕掛けになっている精巧なもので、ニュートンの部屋の大テーブルの上に置かれました。
ある日、ニュートンがその部屋で読書をしていた時、ひとりの友人がやって来ました。彼は無神論者でしたが、科学者だったので、テーブルの上のものを見て、すぐそれが太陽系の模型であることを見てとりました。彼は模型に近づくと、模型についているクランク(手動用金具)を、ゆっくり回しました。すると、模型の各惑星が、様々な速度で太陽のまわりを回転するのでした。それを見た彼は、「うーむ。実に見事だ。誰が作ったんだい」と尋ねました。ニュートンは本から目を話さずに、「誰でもないさ」と答えました。「おいおい、君はぼくの質問が分からなかったらしいな。ぼくは、誰がこれを作ったのかと言ったんだよ。」するとニュートンは、本から顔を上げて、まじめくさった調子で、これは誰が作ったものでもない、いろいろな物が集まって、たまたまこんな形になったのだ、と言いました。しかし驚いた無神論者は、やや興奮した口調で、言い返しました。「ニュートン君、人をばかにしないでくれ。誰かが作ったのに決まってるじゃないか。これを作ったのは、なかなかの天才だよ。それは誰かと聞いているんだ。」
ニュートンは本をかたわらに置き、椅子から立ち、友人の肩に手を置いて言いました。「これは、はるかに壮大な大系の、粗末な模型でしかない。その法則は、君も知っているはずだ。この単なるおもちゃが、設計者も製作者もなく、ひとりでにできたと言っても、君は信じない。ところが君は、この仕掛けのもとになった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったい何故、そんな不統一な結論になるのか説明してくれたまえ。」
こうしてニュートンは、宇宙の背後に知性を有する偉大な創造者がおられることを、友人に得心させたと言うことです。」
デカルトは完全という概念が人間の中にあるのは完全者が存在するはずだと神の存在証明を哲学的に試みた。聖書はこう主張している。ローマ人への手紙1:20「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」それでは無神論者達はどのように神の不在を証明するのでしょうか?ただ単に、存在するという主張を反駁したり、自然界が進化により成り立っているということを証明することは、神の不在を証明することにはなりません。そもそも科学の領域において神の不在を証明することは不可能だと私は思う。証明できないことを主張するので有ればそれは、1つの信仰であるということも出来よう。つまり個人的な主観的な持論であって、科学的な結論などでは決してないのである。そういう意味でグールド氏は賢明にも不可知論という立場をとったが、ドーキンスは一線を越えてしまった。特に日本においては、無神論を標榜出来る人はどれだけいるだろうか。
科学的に証明できない神の偉大さ
・私は今日に至るまで科学がとてつもなく進歩して来たのに、その科学が神を発見することが出来ないのは、それだけ神が偉大である事の証拠であるような気がする。例えば、もしだれかが動物の模型を造ったとしてそれが、本物の動物なのか置物なのか区別が出来ないほどの出来である場合と、一目で置物だとわかる場合ではどちらが、より精巧につくられているだろうか。無論区別がつかないほうであろう。であるならば、科学によって解明され得ない世界を造られた神は偉大だと言うことが出来よう。(無論神が存在すればの話である)地球や生命の全容を知ることは一匹の犬がニュートンの心をさぐろうとするほどかなわぬ事であると本書にあるが、科学を通しては決して神に至れないというのは聖書の主張でもある。コリント人への手紙第一1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」それで自分の知恵によって神をしろうとする者に対しては神は決して御自身を現されないのである。結果神が存在するとしても、「科学が神を発見する」などと言うことには、聖書的に言っても科学的に言ってもあり得ないのではないかと私は思う。そういう事を承知しているのでグールド氏は自分を不可知論者と言っているのであろうし、NOMA(非重複教導権)の重要性を訴えているのだろうと思う。ところでこのコリント人への手紙第一1:21は先ほどのローマ人への手紙1:20と矛盾するではないかと言う人もあるかと思う。しかし決して矛盾はしない。コリントでは人間が高慢にも自分の知恵を過信して理性で、またある種の実験を通して神を探そうとしても神を発見することは出来ないであろうという意味であり、ローマ書では人が心を開きセンスオブワンダーを使い謙遜に大自然に目を向け全身で感じるなら、神の偉大さを理性ではなく心(霊魂)に感じることができるはずであろうという意味である。
進化論と偶発について
グールド氏の本書の中で最も興味深く結論に近いであろう4章、章題は「対立の心理学的な理由」である。科学者であるのに心理学的な人の心中、道徳心、常識に挑んでいるところが本書、いやグールド氏の卓越したところであろうと思う。その様々な見解に対してもう一方の陣営に属している者として、書きたいことは沢山ある。しかし一々述べるのはおそらくWEB画面で見る皆様を飽かせてしまうであろうから、一部に留めたい。
進化論自体から話を始めたいと思う。私は最初の言ったように科学者でも何でもないので、最新の進化論の結論を知らない。おそらく進化論も一枚岩ではなく、色々な説があるであろうことは予測できる。すくなくても学生時代に教科書で習ったような内容では、充分に進化論が証明されたと納得する事は出来ない。本書の解説を見ても進化論を擁護する言い方として、様々な科学分野の独自の研究の成果が進化論を支持しているのであり、それは証明されつつあるとしている。証明された事実と言っているのではなく、証明されつつあるというのだ。本書P153に出てくる一流の科学者チャンドラ・ウィックラマシンゲ氏もヤングアース説を一笑に付しつつも、ダーヴィンの進化論をナンセンスと言っている。そして、神の介入無くして生命が進化して来たと主張する人々は神の介入無くして最初の生命が自然発生的に誕生したと主張するであろう。さてそこで皆様1つ考えてみて頂きたい。一番単純な生命はなんだろうか。おそらく単細胞生物であると言えよう。たった1つの細胞で構成される一番シンプルな生命だ。しかしその単細胞生物を顕微鏡で覗いてみるならば、どれだけ複雑に良く出来ているかが分かる。それは、コップほどの構造だろうか?あるいは鉛筆削り程の構造だろうか?あるいは、ラジオ、ビデオ、パソコンほどだろうか?一体人間はその知恵を集約したとしても、分裂して同じ個体2個になれるようなものを造ることが出来るだろうか。とうてい及びもつかないはずである。その複雑な構造をもった生命が、いくら長い時間がゆるされるとしても、ある日突然偶発的に存在するなどとどうして理性的に主張できるのであろうか。最も単純な土器や刀が発掘されれば、それはそこにそれを造った人間がいたことの証拠にならないだろうか。それなのにスーパーコンピューターよりも複雑かつ人知を越える物体=生命は偶発的に誕生しえるのだろうか。そしてその複雑な人知を越える物体が偶発的に偶発的に進化してより複雑なものに変化して人間になったというのであろうか。それは工学的に言うならば、パソコンの材料を大きな段ボールの中に入れて、一生懸命ふっていたらいつの間にか偶発的に部品と部品が組み合わさってソニーのバイオが出来てしまったと言うようなものであり(46億年振っていればいつかはそうなると思える方はいらっしゃるだろうか?)、比喩的に言うならば幼い子どもが自分一人で大きくなったような顔をして親を無視する光景に似ているような気がする。
ダーウィンも生命の進化に関して無神論者のように書こうとしたことはないと言っているし、細部に関しては「偶然とよばれるのかもしれないことの働きに任されている、と見なしたい気持ちになっています。」と語っている。それをグールド氏は「偶然とよばるのかもしれないことの働き」と区切っている。しかし見なしたい気持ちになっているというのは、実際はそうではないというのが前提であり、少なくとも迷っているのであり、簡単に断定できる問題ではない。そして話は、人が雷に打たれて死ぬのが偶発的なものなら人の誕生も偶発的ではないかと進んでいる。そして人類の誕生も偶発的なものだと断定している。これはあくまで科学の教導権(マジステリウム)ではそれ以上の偶発的でない要素や証拠を発見できないと言うことであり、=「そうなのである」ということではない。それなのにグールドはもうそれが確定された事実であるかのように、このような結論をどう思うだろうかと語っている。(P218)これは、彼自身のNOMA(非重複教導権)違反ではないかと感じるのだが、人は幾ら公平になろうとしても、客観的になろうとしてもそうはなれず、最後には自分の持論を展開してしまうのだなと思う。まあその方が健全な議論になりやすいのであろう。ここに来て最初に言った宗教との対話、具体的には聖書の主張を紐解く必要があるのである。
ルカの福音書13:4「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない・・・」
まず、雷に打たれた男と似た例が聖書にもでている。塔が倒れて十八人が死んでしまう事件である。これに対し、イエス様は彼らが特別罪深かったから(つまり道徳的な理由で)神に打たれたわけではないとしている。
マタイの福音書10:29「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父(神)のお許しなしには地に落ちることはありません。」
ルカの福音書12:7「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
サイモン&ガーファンクルのファーストアルバムにもスパロウ(雀)というこの聖書箇所から着想した曲がありますが、聖書の主張は科学の結論と異なります。創造主のゆるしなく1つの生命も死ぬことはないというのです。そして人類をたくさんの雀よりもすぐれた者と主張します。科学者達はホモサピエンスが大きな生命の樹の最後に短く誕生したばかりの小さな枝に過ぎないと言います。そしてそれより長い歴史をもつ生命(貝等)が主役であろうと言います。しかし人類の歴史が他の生命より短いことが何だというのだ。分類上のどの位置にいるかということが何の意味を持つというのか。トウモロコシは長々と茎と葉をのばすけれども、先端に最後に生える実を収穫したら後は捨てるではないか。映画や本を作るときには下準備として多くの資料を準備するが作品が完成したら、資料がメインではなくて作品がメインではないか。何億年の時間も神の前にはつかの間なのだから、長ければ主役などという短絡的な主張は私には到底納得出来ないのである。
神の存在
聖書では神は父なる神として紹介されている。言い換えると神は人類の親だというのだ。進化論にしても創造論にしても、論と言われるものは実はもっとも重要なことではないと私は思う。それよりも人類にいやあなたに真の永遠の親がいるということこそが、大切なことであろう。親がいるかいないかを後回しにして何に手がつけられるというのだろうか。たとえばあなたがまだ自意識が目覚める前に、親と生き別れたとしよう。そうして何十年ぶりにその居場所の手がかりを掴んだとしたら、何を置いても親を探しに行かないだろうか。もしそれよりも親が昔に作った橋の構造に目を奪われ、どのような順序でどのような方法で作ったのだろうかということの探求に生涯をついやすならば、生きている親に会う機会を逸してしまうのだ。
コリント人への手紙第二 5;20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
こんな文章が本書のテーマにそぐわないとしても、人はやはり主観的にしか語れないようであるから、ご容赦頂きたい。
終わりに
他にも書きたいことはたくさん有るのであるが、誰にも頼まれてもいないのに書き続けることに限界を覚えるし、読む人も大変だろうと思うので、中途ではあるがここまでにしたい。最後に一つの聖書箇所と書こうと計画した題名だけを少し列挙させていただきたい。
詩篇139:17「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。」
時代優位説は人間としてという命題・智慧を無視する
サムシンググレート
科学者の無神論的性向
キリスト教の光と影
人・神・動物など
今日のスピリチュアリズムへの警笛
・グールドは神が存在しているかしていないか知り得ないので、自分は不可知論者だとしている。これはある意味においてとても正直な懸命な立場だということが出来る。さて日本人の多くの人々は無神論ということばを若干誤解しているのではないかと思う。「自分は神を信じていないから無神論です。」とか「私は宗教に関心がないから無神論者です。」といったような意見をたまに耳にする。しかし無神論というのは無関心や無宗教とは全く違う者である。それは有神論者が神が存在することを信じ、その理由や根拠をあげるように、神がいないという根拠や説明が出来る者だけが無神論者になることができるのである。よく科学者は神が存在するということは、証明できないと言う。それでは神が存在しないということは証明できるとでもいうのであろうか!!ニュートンの逸話をここで紹介します。
「ある時ニュートンは、腕ききの機械工に、太陽系の模型を作らせました。その模型は、歯車とベルトの働きで、各惑星が動く仕掛けになっている精巧なもので、ニュートンの部屋の大テーブルの上に置かれました。
ある日、ニュートンがその部屋で読書をしていた時、ひとりの友人がやって来ました。彼は無神論者でしたが、科学者だったので、テーブルの上のものを見て、すぐそれが太陽系の模型であることを見てとりました。彼は模型に近づくと、模型についているクランク(手動用金具)を、ゆっくり回しました。すると、模型の各惑星が、様々な速度で太陽のまわりを回転するのでした。それを見た彼は、「うーむ。実に見事だ。誰が作ったんだい」と尋ねました。ニュートンは本から目を話さずに、「誰でもないさ」と答えました。「おいおい、君はぼくの質問が分からなかったらしいな。ぼくは、誰がこれを作ったのかと言ったんだよ。」するとニュートンは、本から顔を上げて、まじめくさった調子で、これは誰が作ったものでもない、いろいろな物が集まって、たまたまこんな形になったのだ、と言いました。しかし驚いた無神論者は、やや興奮した口調で、言い返しました。「ニュートン君、人をばかにしないでくれ。誰かが作ったのに決まってるじゃないか。これを作ったのは、なかなかの天才だよ。それは誰かと聞いているんだ。」
ニュートンは本をかたわらに置き、椅子から立ち、友人の肩に手を置いて言いました。「これは、はるかに壮大な大系の、粗末な模型でしかない。その法則は、君も知っているはずだ。この単なるおもちゃが、設計者も製作者もなく、ひとりでにできたと言っても、君は信じない。ところが君は、この仕掛けのもとになった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったい何故、そんな不統一な結論になるのか説明してくれたまえ。」
こうしてニュートンは、宇宙の背後に知性を有する偉大な創造者がおられることを、友人に得心させたと言うことです。」
デカルトは完全という概念が人間の中にあるのは完全者が存在するはずだと神の存在証明を哲学的に試みた。聖書はこう主張している。ローマ人への手紙1:20「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」それでは無神論者達はどのように神の不在を証明するのでしょうか?ただ単に、存在するという主張を反駁したり、自然界が進化により成り立っているということを証明することは、神の不在を証明することにはなりません。そもそも科学の領域において神の不在を証明することは不可能だと私は思う。証明できないことを主張するので有ればそれは、1つの信仰であるということも出来よう。つまり個人的な主観的な持論であって、科学的な結論などでは決してないのである。そういう意味でグールド氏は賢明にも不可知論という立場をとったが、ドーキンスは一線を越えてしまった。特に日本においては、無神論を標榜出来る人はどれだけいるだろうか。
科学的に証明できない神の偉大さ
・私は今日に至るまで科学がとてつもなく進歩して来たのに、その科学が神を発見することが出来ないのは、それだけ神が偉大である事の証拠であるような気がする。例えば、もしだれかが動物の模型を造ったとしてそれが、本物の動物なのか置物なのか区別が出来ないほどの出来である場合と、一目で置物だとわかる場合ではどちらが、より精巧につくられているだろうか。無論区別がつかないほうであろう。であるならば、科学によって解明され得ない世界を造られた神は偉大だと言うことが出来よう。(無論神が存在すればの話である)地球や生命の全容を知ることは一匹の犬がニュートンの心をさぐろうとするほどかなわぬ事であると本書にあるが、科学を通しては決して神に至れないというのは聖書の主張でもある。コリント人への手紙第一1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」それで自分の知恵によって神をしろうとする者に対しては神は決して御自身を現されないのである。結果神が存在するとしても、「科学が神を発見する」などと言うことには、聖書的に言っても科学的に言ってもあり得ないのではないかと私は思う。そういう事を承知しているのでグールド氏は自分を不可知論者と言っているのであろうし、NOMA(非重複教導権)の重要性を訴えているのだろうと思う。ところでこのコリント人への手紙第一1:21は先ほどのローマ人への手紙1:20と矛盾するではないかと言う人もあるかと思う。しかし決して矛盾はしない。コリントでは人間が高慢にも自分の知恵を過信して理性で、またある種の実験を通して神を探そうとしても神を発見することは出来ないであろうという意味であり、ローマ書では人が心を開きセンスオブワンダーを使い謙遜に大自然に目を向け全身で感じるなら、神の偉大さを理性ではなく心(霊魂)に感じることができるはずであろうという意味である。
進化論と偶発について
グールド氏の本書の中で最も興味深く結論に近いであろう4章、章題は「対立の心理学的な理由」である。科学者であるのに心理学的な人の心中、道徳心、常識に挑んでいるところが本書、いやグールド氏の卓越したところであろうと思う。その様々な見解に対してもう一方の陣営に属している者として、書きたいことは沢山ある。しかし一々述べるのはおそらくWEB画面で見る皆様を飽かせてしまうであろうから、一部に留めたい。
進化論自体から話を始めたいと思う。私は最初の言ったように科学者でも何でもないので、最新の進化論の結論を知らない。おそらく進化論も一枚岩ではなく、色々な説があるであろうことは予測できる。すくなくても学生時代に教科書で習ったような内容では、充分に進化論が証明されたと納得する事は出来ない。本書の解説を見ても進化論を擁護する言い方として、様々な科学分野の独自の研究の成果が進化論を支持しているのであり、それは証明されつつあるとしている。証明された事実と言っているのではなく、証明されつつあるというのだ。本書P153に出てくる一流の科学者チャンドラ・ウィックラマシンゲ氏もヤングアース説を一笑に付しつつも、ダーヴィンの進化論をナンセンスと言っている。そして、神の介入無くして生命が進化して来たと主張する人々は神の介入無くして最初の生命が自然発生的に誕生したと主張するであろう。さてそこで皆様1つ考えてみて頂きたい。一番単純な生命はなんだろうか。おそらく単細胞生物であると言えよう。たった1つの細胞で構成される一番シンプルな生命だ。しかしその単細胞生物を顕微鏡で覗いてみるならば、どれだけ複雑に良く出来ているかが分かる。それは、コップほどの構造だろうか?あるいは鉛筆削り程の構造だろうか?あるいは、ラジオ、ビデオ、パソコンほどだろうか?一体人間はその知恵を集約したとしても、分裂して同じ個体2個になれるようなものを造ることが出来るだろうか。とうてい及びもつかないはずである。その複雑な構造をもった生命が、いくら長い時間がゆるされるとしても、ある日突然偶発的に存在するなどとどうして理性的に主張できるのであろうか。最も単純な土器や刀が発掘されれば、それはそこにそれを造った人間がいたことの証拠にならないだろうか。それなのにスーパーコンピューターよりも複雑かつ人知を越える物体=生命は偶発的に誕生しえるのだろうか。そしてその複雑な人知を越える物体が偶発的に偶発的に進化してより複雑なものに変化して人間になったというのであろうか。それは工学的に言うならば、パソコンの材料を大きな段ボールの中に入れて、一生懸命ふっていたらいつの間にか偶発的に部品と部品が組み合わさってソニーのバイオが出来てしまったと言うようなものであり(46億年振っていればいつかはそうなると思える方はいらっしゃるだろうか?)、比喩的に言うならば幼い子どもが自分一人で大きくなったような顔をして親を無視する光景に似ているような気がする。
ダーウィンも生命の進化に関して無神論者のように書こうとしたことはないと言っているし、細部に関しては「偶然とよばれるのかもしれないことの働きに任されている、と見なしたい気持ちになっています。」と語っている。それをグールド氏は「偶然とよばるのかもしれないことの働き」と区切っている。しかし見なしたい気持ちになっているというのは、実際はそうではないというのが前提であり、少なくとも迷っているのであり、簡単に断定できる問題ではない。そして話は、人が雷に打たれて死ぬのが偶発的なものなら人の誕生も偶発的ではないかと進んでいる。そして人類の誕生も偶発的なものだと断定している。これはあくまで科学の教導権(マジステリウム)ではそれ以上の偶発的でない要素や証拠を発見できないと言うことであり、=「そうなのである」ということではない。それなのにグールドはもうそれが確定された事実であるかのように、このような結論をどう思うだろうかと語っている。(P218)これは、彼自身のNOMA(非重複教導権)違反ではないかと感じるのだが、人は幾ら公平になろうとしても、客観的になろうとしてもそうはなれず、最後には自分の持論を展開してしまうのだなと思う。まあその方が健全な議論になりやすいのであろう。ここに来て最初に言った宗教との対話、具体的には聖書の主張を紐解く必要があるのである。
ルカの福音書13:4「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない・・・」
まず、雷に打たれた男と似た例が聖書にもでている。塔が倒れて十八人が死んでしまう事件である。これに対し、イエス様は彼らが特別罪深かったから(つまり道徳的な理由で)神に打たれたわけではないとしている。
マタイの福音書10:29「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父(神)のお許しなしには地に落ちることはありません。」
ルカの福音書12:7「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
サイモン&ガーファンクルのファーストアルバムにもスパロウ(雀)というこの聖書箇所から着想した曲がありますが、聖書の主張は科学の結論と異なります。創造主のゆるしなく1つの生命も死ぬことはないというのです。そして人類をたくさんの雀よりもすぐれた者と主張します。科学者達はホモサピエンスが大きな生命の樹の最後に短く誕生したばかりの小さな枝に過ぎないと言います。そしてそれより長い歴史をもつ生命(貝等)が主役であろうと言います。しかし人類の歴史が他の生命より短いことが何だというのだ。分類上のどの位置にいるかということが何の意味を持つというのか。トウモロコシは長々と茎と葉をのばすけれども、先端に最後に生える実を収穫したら後は捨てるではないか。映画や本を作るときには下準備として多くの資料を準備するが作品が完成したら、資料がメインではなくて作品がメインではないか。何億年の時間も神の前にはつかの間なのだから、長ければ主役などという短絡的な主張は私には到底納得出来ないのである。
神の存在
聖書では神は父なる神として紹介されている。言い換えると神は人類の親だというのだ。進化論にしても創造論にしても、論と言われるものは実はもっとも重要なことではないと私は思う。それよりも人類にいやあなたに真の永遠の親がいるということこそが、大切なことであろう。親がいるかいないかを後回しにして何に手がつけられるというのだろうか。たとえばあなたがまだ自意識が目覚める前に、親と生き別れたとしよう。そうして何十年ぶりにその居場所の手がかりを掴んだとしたら、何を置いても親を探しに行かないだろうか。もしそれよりも親が昔に作った橋の構造に目を奪われ、どのような順序でどのような方法で作ったのだろうかということの探求に生涯をついやすならば、生きている親に会う機会を逸してしまうのだ。
コリント人への手紙第二 5;20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
こんな文章が本書のテーマにそぐわないとしても、人はやはり主観的にしか語れないようであるから、ご容赦頂きたい。
終わりに
他にも書きたいことはたくさん有るのであるが、誰にも頼まれてもいないのに書き続けることに限界を覚えるし、読む人も大変だろうと思うので、中途ではあるがここまでにしたい。最後に一つの聖書箇所と書こうと計画した題名だけを少し列挙させていただきたい。
詩篇139:17「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。」
時代優位説は人間としてという命題・智慧を無視する
サムシンググレート
科学者の無神論的性向
キリスト教の光と影
人・神・動物など
今日のスピリチュアリズムへの警笛