Withjjj(詩と韓国と真理とじゅんと)

聖書と共に育ち、孤独に沈み、世を憂い、書に親しみ、哲学に耽り、詩を愛し、人を好き、愛を求め、真理を知り自由を得ん

神と科学は共存できるか?を読んで 後半

2008年02月20日 | ■哲学と文学
無神論について
・グールドは神が存在しているかしていないか知り得ないので、自分は不可知論者だとしている。これはある意味においてとても正直な懸命な立場だということが出来る。さて日本人の多くの人々は無神論ということばを若干誤解しているのではないかと思う。「自分は神を信じていないから無神論です。」とか「私は宗教に関心がないから無神論者です。」といったような意見をたまに耳にする。しかし無神論というのは無関心や無宗教とは全く違う者である。それは有神論者が神が存在することを信じ、その理由や根拠をあげるように、神がいないという根拠や説明が出来る者だけが無神論者になることができるのである。よく科学者は神が存在するということは、証明できないと言う。それでは神が存在しないということは証明できるとでもいうのであろうか!!ニュートンの逸話をここで紹介します。
 「ある時ニュートンは、腕ききの機械工に、太陽系の模型を作らせました。その模型は、歯車とベルトの働きで、各惑星が動く仕掛けになっている精巧なもので、ニュートンの部屋の大テーブルの上に置かれました。
 ある日、ニュートンがその部屋で読書をしていた時、ひとりの友人がやって来ました。彼は無神論者でしたが、科学者だったので、テーブルの上のものを見て、すぐそれが太陽系の模型であることを見てとりました。彼は模型に近づくと、模型についているクランク(手動用金具)を、ゆっくり回しました。すると、模型の各惑星が、様々な速度で太陽のまわりを回転するのでした。それを見た彼は、「うーむ。実に見事だ。誰が作ったんだい」と尋ねました。ニュートンは本から目を話さずに、「誰でもないさ」と答えました。「おいおい、君はぼくの質問が分からなかったらしいな。ぼくは、誰がこれを作ったのかと言ったんだよ。」するとニュートンは、本から顔を上げて、まじめくさった調子で、これは誰が作ったものでもない、いろいろな物が集まって、たまたまこんな形になったのだ、と言いました。しかし驚いた無神論者は、やや興奮した口調で、言い返しました。「ニュートン君、人をばかにしないでくれ。誰かが作ったのに決まってるじゃないか。これを作ったのは、なかなかの天才だよ。それは誰かと聞いているんだ。」
 ニュートンは本をかたわらに置き、椅子から立ち、友人の肩に手を置いて言いました。「これは、はるかに壮大な大系の、粗末な模型でしかない。その法則は、君も知っているはずだ。この単なるおもちゃが、設計者も製作者もなく、ひとりでにできたと言っても、君は信じない。ところが君は、この仕掛けのもとになった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったい何故、そんな不統一な結論になるのか説明してくれたまえ。」
 こうしてニュートンは、宇宙の背後に知性を有する偉大な創造者がおられることを、友人に得心させたと言うことです。」
デカルトは完全という概念が人間の中にあるのは完全者が存在するはずだと神の存在証明を哲学的に試みた。聖書はこう主張している。ローマ人への手紙1:20「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」それでは無神論者達はどのように神の不在を証明するのでしょうか?ただ単に、存在するという主張を反駁したり、自然界が進化により成り立っているということを証明することは、神の不在を証明することにはなりません。そもそも科学の領域において神の不在を証明することは不可能だと私は思う。証明できないことを主張するので有ればそれは、1つの信仰であるということも出来よう。つまり個人的な主観的な持論であって、科学的な結論などでは決してないのである。そういう意味でグールド氏は賢明にも不可知論という立場をとったが、ドーキンスは一線を越えてしまった。特に日本においては、無神論を標榜出来る人はどれだけいるだろうか。

科学的に証明できない神の偉大さ
・私は今日に至るまで科学がとてつもなく進歩して来たのに、その科学が神を発見することが出来ないのは、それだけ神が偉大である事の証拠であるような気がする。例えば、もしだれかが動物の模型を造ったとしてそれが、本物の動物なのか置物なのか区別が出来ないほどの出来である場合と、一目で置物だとわかる場合ではどちらが、より精巧につくられているだろうか。無論区別がつかないほうであろう。であるならば、科学によって解明され得ない世界を造られた神は偉大だと言うことが出来よう。(無論神が存在すればの話である)地球や生命の全容を知ることは一匹の犬がニュートンの心をさぐろうとするほどかなわぬ事であると本書にあるが、科学を通しては決して神に至れないというのは聖書の主張でもある。コリント人への手紙第一1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」それで自分の知恵によって神をしろうとする者に対しては神は決して御自身を現されないのである。結果神が存在するとしても、「科学が神を発見する」などと言うことには、聖書的に言っても科学的に言ってもあり得ないのではないかと私は思う。そういう事を承知しているのでグールド氏は自分を不可知論者と言っているのであろうし、NOMA(非重複教導権)の重要性を訴えているのだろうと思う。ところでこのコリント人への手紙第一1:21は先ほどのローマ人への手紙1:20と矛盾するではないかと言う人もあるかと思う。しかし決して矛盾はしない。コリントでは人間が高慢にも自分の知恵を過信して理性で、またある種の実験を通して神を探そうとしても神を発見することは出来ないであろうという意味であり、ローマ書では人が心を開きセンスオブワンダーを使い謙遜に大自然に目を向け全身で感じるなら、神の偉大さを理性ではなく心(霊魂)に感じることができるはずであろうという意味である。

進化論と偶発について
 グールド氏の本書の中で最も興味深く結論に近いであろう4章、章題は「対立の心理学的な理由」である。科学者であるのに心理学的な人の心中、道徳心、常識に挑んでいるところが本書、いやグールド氏の卓越したところであろうと思う。その様々な見解に対してもう一方の陣営に属している者として、書きたいことは沢山ある。しかし一々述べるのはおそらくWEB画面で見る皆様を飽かせてしまうであろうから、一部に留めたい。
 進化論自体から話を始めたいと思う。私は最初の言ったように科学者でも何でもないので、最新の進化論の結論を知らない。おそらく進化論も一枚岩ではなく、色々な説があるであろうことは予測できる。すくなくても学生時代に教科書で習ったような内容では、充分に進化論が証明されたと納得する事は出来ない。本書の解説を見ても進化論を擁護する言い方として、様々な科学分野の独自の研究の成果が進化論を支持しているのであり、それは証明されつつあるとしている。証明された事実と言っているのではなく、証明されつつあるというのだ。本書P153に出てくる一流の科学者チャンドラ・ウィックラマシンゲ氏もヤングアース説を一笑に付しつつも、ダーヴィンの進化論をナンセンスと言っている。そして、神の介入無くして生命が進化して来たと主張する人々は神の介入無くして最初の生命が自然発生的に誕生したと主張するであろう。さてそこで皆様1つ考えてみて頂きたい。一番単純な生命はなんだろうか。おそらく単細胞生物であると言えよう。たった1つの細胞で構成される一番シンプルな生命だ。しかしその単細胞生物を顕微鏡で覗いてみるならば、どれだけ複雑に良く出来ているかが分かる。それは、コップほどの構造だろうか?あるいは鉛筆削り程の構造だろうか?あるいは、ラジオ、ビデオ、パソコンほどだろうか?一体人間はその知恵を集約したとしても、分裂して同じ個体2個になれるようなものを造ることが出来るだろうか。とうてい及びもつかないはずである。その複雑な構造をもった生命が、いくら長い時間がゆるされるとしても、ある日突然偶発的に存在するなどとどうして理性的に主張できるのであろうか。最も単純な土器や刀が発掘されれば、それはそこにそれを造った人間がいたことの証拠にならないだろうか。それなのにスーパーコンピューターよりも複雑かつ人知を越える物体=生命は偶発的に誕生しえるのだろうか。そしてその複雑な人知を越える物体が偶発的に偶発的に進化してより複雑なものに変化して人間になったというのであろうか。それは工学的に言うならば、パソコンの材料を大きな段ボールの中に入れて、一生懸命ふっていたらいつの間にか偶発的に部品と部品が組み合わさってソニーのバイオが出来てしまったと言うようなものであり(46億年振っていればいつかはそうなると思える方はいらっしゃるだろうか?)、比喩的に言うならば幼い子どもが自分一人で大きくなったような顔をして親を無視する光景に似ているような気がする。
 ダーウィンも生命の進化に関して無神論者のように書こうとしたことはないと言っているし、細部に関しては「偶然とよばれるのかもしれないことの働きに任されている、と見なしたい気持ちになっています。」と語っている。それをグールド氏は「偶然とよばるのかもしれないことの働き」と区切っている。しかし見なしたい気持ちになっているというのは、実際はそうではないというのが前提であり、少なくとも迷っているのであり、簡単に断定できる問題ではない。そして話は、人が雷に打たれて死ぬのが偶発的なものなら人の誕生も偶発的ではないかと進んでいる。そして人類の誕生も偶発的なものだと断定している。これはあくまで科学の教導権(マジステリウム)ではそれ以上の偶発的でない要素や証拠を発見できないと言うことであり、=「そうなのである」ということではない。それなのにグールドはもうそれが確定された事実であるかのように、このような結論をどう思うだろうかと語っている。(P218)これは、彼自身のNOMA(非重複教導権)違反ではないかと感じるのだが、人は幾ら公平になろうとしても、客観的になろうとしてもそうはなれず、最後には自分の持論を展開してしまうのだなと思う。まあその方が健全な議論になりやすいのであろう。ここに来て最初に言った宗教との対話、具体的には聖書の主張を紐解く必要があるのである。
 ルカの福音書13:4「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない・・・」
まず、雷に打たれた男と似た例が聖書にもでている。塔が倒れて十八人が死んでしまう事件である。これに対し、イエス様は彼らが特別罪深かったから(つまり道徳的な理由で)神に打たれたわけではないとしている。
マタイの福音書10:29「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父(神)のお許しなしには地に落ちることはありません。」
ルカの福音書12:7「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
サイモン&ガーファンクルのファーストアルバムにもスパロウ(雀)というこの聖書箇所から着想した曲がありますが、聖書の主張は科学の結論と異なります。創造主のゆるしなく1つの生命も死ぬことはないというのです。そして人類をたくさんの雀よりもすぐれた者と主張します。科学者達はホモサピエンスが大きな生命の樹の最後に短く誕生したばかりの小さな枝に過ぎないと言います。そしてそれより長い歴史をもつ生命(貝等)が主役であろうと言います。しかし人類の歴史が他の生命より短いことが何だというのだ。分類上のどの位置にいるかということが何の意味を持つというのか。トウモロコシは長々と茎と葉をのばすけれども、先端に最後に生える実を収穫したら後は捨てるではないか。映画や本を作るときには下準備として多くの資料を準備するが作品が完成したら、資料がメインではなくて作品がメインではないか。何億年の時間も神の前にはつかの間なのだから、長ければ主役などという短絡的な主張は私には到底納得出来ないのである。

神の存在
 聖書では神は父なる神として紹介されている。言い換えると神は人類の親だというのだ。進化論にしても創造論にしても、論と言われるものは実はもっとも重要なことではないと私は思う。それよりも人類にいやあなたに真の永遠の親がいるということこそが、大切なことであろう。親がいるかいないかを後回しにして何に手がつけられるというのだろうか。たとえばあなたがまだ自意識が目覚める前に、親と生き別れたとしよう。そうして何十年ぶりにその居場所の手がかりを掴んだとしたら、何を置いても親を探しに行かないだろうか。もしそれよりも親が昔に作った橋の構造に目を奪われ、どのような順序でどのような方法で作ったのだろうかということの探求に生涯をついやすならば、生きている親に会う機会を逸してしまうのだ。
コリント人への手紙第二 5;20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
 こんな文章が本書のテーマにそぐわないとしても、人はやはり主観的にしか語れないようであるから、ご容赦頂きたい。

終わりに
 他にも書きたいことはたくさん有るのであるが、誰にも頼まれてもいないのに書き続けることに限界を覚えるし、読む人も大変だろうと思うので、中途ではあるがここまでにしたい。最後に一つの聖書箇所と書こうと計画した題名だけを少し列挙させていただきたい。

詩篇139:17「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。」

時代優位説は人間としてという命題・智慧を無視する
サムシンググレート
科学者の無神論的性向
キリスト教の光と影
人・神・動物など
今日のスピリチュアリズムへの警笛
 


神と科学は共存できるか?を読んで 前半

2008年02月20日 | ■哲学と文学
神と科学は共存できるか?(ROCKS OF AGES)スティーヴン・ジャエ・グールド(STEPHEN JAY GOULD)を読んで

 つい最近私は書店で一冊の本を購入し一気に読ませて頂いた。それが、神と科学は共存できるか?(ROCKS OF AGES)スティーヴン・ジャエ・グールド(STEPHEN JAY GOULD)である。私は親の代からのクリスチャンであるが、とても興味深く刺激を受けながら読むことが出来たので、色々と思うところを書かせて頂きたいと思う。その中で色々ともう一方の立場(宗教のマジステリウム)から書かせて頂くが、決して批判や敵対心を持って書くのではなく相互理解のためのもう一方の立場からの一言と思って頂ければ幸いである。
 
 巻末の古谷圭一先生の解説によると、グールドは宗教と科学に対する色々な立場のうちの(2)の「互いに別々の領域として捉える立場」としているが、どちらかと言うと(3)の「互いの対話によって内容をより深める立場」に近い気がする。本人はそうではないかも知れないが、それを是としていると思う。(本書p317参照)というのは、グールドの最終章の結びの言葉がそれを証明している。すなわち、「はじめに言葉があった。」である。その言葉の著者の本書における意味合いは、最後の一ページ(P234)に述べられている。最後の一言あるいは、結論の一文、一段落は著者の主張の最も重要なことだと見て差し支えないだろう。その結論として何が重要かと言うと、「相互の敬意と、もっとも人間的な場である話合い・・・」すなわち対話である。健全な議論と言っても良いかもしれない。それに反し「(互いを)見ザル、聞かザル、言わザル」による無関心・無干渉つまり鼻から相手にしない態度や、事なかれ主義(政治的な正しさポリティカルコレクト)を批判し、「この最大の武器を切り札にしないのは、間抜けというのものだろう。」と言い放った。もう一度言うと、この比類なきもの(すなわち言葉とか対話と言われているもの)こそが、対立を解決するための鍵、NOMA(非重複教導権力)の背後にある積極的な力と定義した。とするならば、この二つのちとせの岩(ROCKS OF AGES)の一方の陣営(戦うわけではないのでそぐわない語だが)の代弁者というか代表選手はこの日本にもそれなりに大勢居るのだが、(すなわちいわゆる科学者や教授陣、科学雑誌などであろうか)もう一方の陣営の代弁者は非常に少ないし、解説者達によると、誤りも多いと言うことである。基本的にすでに結論をもっている牧師や神学者たちが、自分たちの理論や先入観を持って、専門外の事に取り組もうとすれば、当然そのような結果になるのかもしれない。まあそれすらも誤りかどうかを判断するのは、非常に難しいと結語しているのではあるが。そこで、信仰を持っている科学者(ニュートンに代表されていた)としてではなく、ただ信仰と聖書に関してはある程度の専門知識(神学校を卒業し日々、聖書を学んでいる。)を持っていて、科学に関しては興味があるだけで素人の私が(本書では原理主義としてやや批判されている立場)一方の陣営を代表する力があるわけでは決してないが、自分の立場から本書について一言書き、多くの対話の中のワンフレーズとして皆様の参考に読んで頂ければ幸いである。というのは、おそらく日本の科学者の多くは私が先端科学をしらないように聖書を知らないであろうから、ある意味で言って対等な話し合いができると思うからである。

 以下ランダムに思うところを書かせて頂きたいと思う。
一神教に対する理解
・本署の解説で、科学と宗教というよりは「科学とキリスト教」と言った方が実状にそぐっているのではないかという文があったがおそらくそうなのであろう。日本では宗教特に三大一神教に対する理解がとても少ない。戦後の食糧不足の中で物質主義的な成長を遂げてきたわけであるが、宗教に関しては驚くほど、無知であり(失言を許して下さい。)それどころか、まさに見ザル、聞かザル、言わザル的な態度もしくは宗教アレルギーすら持っているようである。それは、戦時中の天皇=神として強制もしくは扇動させられた国民的傷と言うことも出来るだろうし、その後宗教的免疫の無いところへ多く発生した新興宗教、カルト宗教(オウム真理教に代表される)の被害に反発や戸惑いを覚える心からかも知れない。しかし、多くの時代・国々に共通して受け継がれ、受け入れられてきた宗教に対する理解はあらゆる意味において有益であろう。それは、キリスト教に限らず、イスラムやユダヤ教や仏教やヒンズー教にも向けられるべきであろう。なぜならば各信仰者達は、それを人生に置いて最も基本的なもの、大切なこと、重要な事として受け取っており、それが世界人口の半数以上に及ぶので有れば、同時代を生きる地球市民にとって彼らに対する理解はスタートラインであると言える。特に日米の関係はとても密接なものであるから、(同じように隣国韓国においても非常に多くのキリスト教徒がいる)まずは少しは馴染みのあるであろうキリスト教に対する理解(負の面も含めて)を推奨したいのである。

ヤングアース論批判に対して
・本書の中でグールドは中立的な立場としつつも、自らの説に若干違反して、キリスト教原理主義(またまた日本では良いイメージがない原理主義という言葉であるが、自らの宗教を徹底して純粋に信じている者達という意味において決して悪い意味ではないと私は思う。)に対して、批判的な言葉を向けている。その中心がヤングアース説を主張する南部アメリカの信仰者達に対してである。どんなに少なく見積もっても地球の歴史が1万年というのはありえないという批判である。それに対し2つの可能性を述べさせてもらいたいと思う。1つは哲学的回答であり、もう1つは神学的回答だ。1つめの可能性とは人間が知るということの限界について哲学的に焦点をあてて見たい。近代哲学のあけぼのを築いたのは哲学者デカルトである。彼のもっとも有名な言葉はコギトエルゴスム(我思うゆえに我有り)である。つまり全ての認識は誤ってしまう可能性があるが、思考する自分自身はとにかく存在しているということだけは断言できるというのである。今目の前にイスがあり、机があり、自分の家族がいるとする。しかし実際にそれらが存在しているとどうして言い切れるのかというのである。それは目の前に見えるし感じられるから存在しているのは当然ではないかと言うかもしれない。しかし彼はこう反論する。私たちが見たり感じたりしていることは何か悪いデーモンのような存在がいて、そのように感じ見えるように脳に信号を送るなりなんなりして騙しているかもしれないでは無いかというのである。最近で言うならば、映画マトリックスのような状態かもしれない。もちろん私たちは客観的に考えてそんな可能性は極めて低いとなんとなくは分かっている。しかし0であるとどうして言い切れるのか?!しかし思っている主体である自分はどのような形であるにせよ存在はしていると結論づけた。そのような意味において認識する知るということがいかに絶対とは言い切れないものであるかということを一人の偉大な哲学者として結論した。また、哲学者フィロソヒィストの祖ソクラテスは「無知の知」という表現をした。すなわち私は何も知り得ないということを知ったというのである。それに比較して当時のソヒィスト(知者)達は、大抵のことは知っていていると自負していた。そしてソクラテスはプラトンの著書の中で彼らに質問の形式を取って、いかに知っていると思っていることが、また正しいと思っていることが独断的なものであるかということを明らかにしていく。またパスカルという人はパンセの中で、世界に知が海のように満ちているとしたら、人類はまだその一滴も知ってはいないと結論する。最後に聖書は何と言っているかというと「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第一コリント8:2)これに加えてイスラムや仏教や中国哲学の言葉を加えるならばいくらでも加えられるかもしれない。何が言いたいかというと、人の認識や知るということには限界があるということである。このような根元的な言葉は科学の教導権(マジステリウム)にはそぐわなく眉をひそめられるであろうことは承知している。しかし宗教の教導権(マジステリウム)においては、とても大切なスタートラインなのだ。グールドはヤングアース説を批判した。現代科学のあらゆる独立した専門分野から言って、そんなことはあり得ないというのである。もしかしたらそうなのかも知れないと私は思う。しかしあくまでそれは可能性の高い、もしくは科学的な回答であって。人間は幾らでも誤り得るという前提を認めるならば全てのことに絶対はないのであって、多くの人が他の全く違う、根拠から(つまり聖書)違う見解に達したと言って、それが絶対にあやまりだなどとは誰にも言えないのである。こう言ってしまうと科学や理性を無視するかの如く聞こえるかも知れないが、自分の研究成果は絶対ではなく、誤りもあり得るとする科学者(人)の方が、絶対こうであると言い切る科学者(人)よりも好感を覚えむしろ信頼できるとさえ感じるのは私だけだろうか。
 さてそれではもう1つの神学的回答を提示したいと思う。それは以前からあったものであるが、グールドがあえて話を複雑にしない為に、触れなかった説である。それはオールドアース(古い地球説)である。聖書がもし手元にあったなら旧約聖書の一番はじめの創世記を読んで頂きたい。この記述をそのまま読むと確かに神は6日間をかけて世界を造り、7日目に休まれたとある。そうして最初の人アダムからの歴史が綴られており、この6日とアダムからの歴史を足すとどう多く見積もっても1万年を越えないというのである。それはそれで聖書をそのまま信頼するという意味において、神様の微笑まれる解釈ではなかろうか。(たとえそれが間違いだとしても!)しかしグールド氏が指摘しているように、4日目に神が太陽と月を創造される前は、現代でいうところの24時間の昼と夜のある一日というのはなかったということができるかもしれない。神学には解釈の自由がある。もちろん、勝手に解釈していいというわけではないが、はっきりとしてない部分においては、解釈の余地があるのである。聖書は聖書で解けというのも神学の基礎である。他の聖書箇所にこのような言葉がある。ペテロの手紙第二 3:8「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」また、聖書の記述の1つの形としてヨハネの黙示録に代表されるような黙示文学というものがある。それをそのまま文字通り読むと何がなんだか分からないのですが、神からの啓示として幻の中で人の知り得ない様々な光景を見、それを記述したものです。その中では時代や地域や天や地の事が織り混ざりながら記述されていきます。それを神に祈りつつ傾聴する時に、その時々の人に対して必要なメッセージとなるのです。そもそも創世記の記述は人類誕生以前から始まっていますから誰一人それを直接見た者はいないのです。それを神が啓示と幻によりモーセ(伝統的な理解)に示されたのが創世記ですから、創世記の一日一日を24時間と考えなくても良いわけです。
 ヘブル4:3-5には「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。とあります。
 これは少し色々な説明が必要となるので、省略しますが、創世記の7日目と信じた者が最後に入るとされている安息いわゆる天国とは同じものだという解釈もこの箇所からは可能だと思います。つまり一日が文字通りの一日ではなく比喩的な表現になっているということです。
 この他にもオールドアースの説の中には再創造説などもあり、聖書に信頼を置いている陣営と言っても、様々な解釈や立場があります。それなのに、グールドはあえて「創造論に立つ陣営=ヤングアース論」の図式を展開し、地球の歴史が一万年というのはあり得ないと言い切ることで、読者に創造論の非妥当性を印象づけているようなきらいがある。グールド程の人物であるならオールドアース論があることは百も承知なはずなのに、ヤングアース論だけしかないように語るのは少し公平でないのではなかろうか。

体験により知ると言うこと
・聖書の原語によると知るというのはギノーコスであり、体験により知るという意味を持つ。それはつまり、結婚における夫婦生活などを指す。机の上の勉強や理論的な結論としての認識はギノーコスとは言えない。神を知るというのも言い換えれば神を体験するということが出来る。そのような宗教体験をしたものにとって、それはもう事実であり周りのものが何を言おうとも、その者は神を知ったのである。例えば臨死体験を考えてみよう。その体験は当事者のものであり、我々はそれを二次的に聞いてあれこれ推測することしかできない。それで、ある科学者は脳の中にそのような映像を見せる装置があるのではというような事を言い出す。しかし当事者は死後の世界があるということをこれ以上ないほどに痛烈に理解させられるのである。宗教的体験にしても一人か二人の話であったなら、夢か幻でも見たのだろうと一笑に付すこともできるかもしれないが、多くの時代にわたり、地球上のあらゆる国、民族の人達がそれを体験したとなると、それはおろそかには出来ないのである。新妻氏の解説によると現代進化生物学の巨頭ウィルソン氏もぬぐいきれない宗教体験をしたとされている。そしてそのような体験をした者だけが、まだ神を知らない人々に実存する神を紹介することが出来る。それが伝道であろう。しかしそのような個人的な体験は科学的には実験検証の対象になりえないでは無いかと科学者たちは言う。その通りである。すなわち科学の教導権(マジステリウム)を越えているのである。だからと言って、それが騙しごとだとか、勘違いであるなどとどうして言い切れるだろうか。科学では解明できない。それだけのことである。西洋医学で手に負えない病に対し東洋医学が効果的な威力を発揮する事もある。まったく異なる人体に対するアプローチにより効果をあげるのである。科学的に知るというのはあくまで、実験・検証・その他の方法で誰にでも理解できる方法により知るという手段であり、それが多くの事を解明して来たのは事実であるとしても、万能ではないということは肝に銘じるべきであろう。