「そんなこと頼めないわ!」
「僕が直接頼んでみる」
「だめ!反対よ!」
「頼んでみなきゃわかんないじゃないか」
「嫌だわ!!」
そこまで怒りを露わにして怒鳴ったカリンを後にも先にも僕は見たことがない。一緒に暮らし始める前から僕たちは穏やかに過ごしてきたし,新しいフラットでも仲良くやってきた。しかし,この日ばかりはカリンが真っ赤になった顔を激しく強ばらせて大粒の涙を零しながら全身を震わせていた。発端は教会のボランティアに再度参加したいという僕の呟きだった。
その頃になると,アジャの国の荒廃ぶりに同情した多くの若者達が義勇兵として戦地に赴くのが全英の社会問題になっていた。大抵の場合1ヶ月もしない内に骸となって帰って来て,ブライトンでも数件の葬儀を見かけた。それ程までにその国が歴史的な混沌の中を必死で藻掻いている様子は,もはや新聞でもテレビでもヘッドラインとなるくらいに英国のみならず世界中の話題の中心となっていたのだ。そこには常に「虐殺」とか「殺戮」とか言う文字が犇めいていて,もはや何の為の戦いなのかすら理由がはっきりとしないまま戦闘だけが激化しているのだった。とはいえ,もしかするとそれはマスコミが事態をセンセーショナルに伝えてスクープを狙おうとした副産物であって,客観的な見方を忘れなければ事実として伝わってくることはほんの僅かなのかもしれない。
意地でも僕を外出させないつもりなのか,フラットの入り口とバスルームの間に陣取って腕を堅く組んだままカリンが仁王立ちに構えている。どうしたらいいのか分からなくなって,僕は彼女の華奢な身体を突然思いきり抱き締めた。すると,カリンは組んでいた腕を解いて僕の腰に回してから幼子の様に大きな声で泣き始めた。夏だからという理由で片付けられないくらい尋常でないほどの汗をびっしょりとかいて,有り丈の力を放出する様な勢いで泣き叫ぶ彼女の頭を撫でながら落ち着くのを待つことにした。
暫くは過呼吸でも起こすんじゃないかとハラハラしたが,10分くらいすると少しずついつもの大人しいカリンに戻っていった。どうしたことか,カリンは頭の先からつま先まで,まるで海に飛び込んできたみたいに汗と涙でグショグショになっていた。
僕が行こうが行くまいが,あるいは万一幸運にも円山さんに会えたとしても,それで何かが変わるという保証はない。ならば何もしないで神の思し召しを待つのも正しい選択のひとつだろう。しかし果たしてそれで僕自身が納得することができるだろうか。詰まるところアジャとイーゴの死にすら決着をつけていないのは自分の不甲斐なさのせいなのだし,だからこそ自分自身の時間を止め去っている現状をどうにかして打開しなければならないということも僕は悟っていた。僕は彼女を宥める様に出来うる表現を全て用いてゆっくりと伝えようとした。呼吸はまだ整わなかったが, カリンは黙って僕の説明を聞いていた。
「僕はまだアジャに別れを告げてないんだ」
僕は常にポケットに入れて持ち歩いていた紫色のお守りを取り出して静かに彼女の顔の前に差し出した。染みになった黒い血の跡が,それに込められたアジャの苦しみであり,それは同時に不条理に殺戮されていく人々の叫び声なのだ。円山さんが如何にして戦いの渦の中に身を投じてしまったのか計り知れないし,僕が自らの命や人生を思いのまま生きるが如く,それは彼固有の問題だということは重々承知しているのだが,だからと言って何もせずに看過するわけにはいかない。
カリンは僕が差し出したお守りを両手で愛おしそうに包み込んで胸に抱くと,暫く静かに目を閉じて祈るような仕草を見せた。そして汗を額から滝の様に流しながら少しの間そのままじっとしていたが,何かを思い立った様に腫らした目をしっかりと開いて「私に任せて」と一言告げると,そのお守りをいつものナップサックに入れてスタスタとフラットを後にしてしまった。
僕はカリンが出て行った後,もう1度新聞の円山さんの写真を見つめながら,自分の考えを整理しようと努めた。だから僕がナイトさんの家に到着したのは,いつもより2時間も過ぎてからだった。
マシューは遅刻の理由も聞かずに軽く僕に声をかけながら作業を続けていた。僕も何事もなかった様に取り繕うこともせずミニのボディシェルの中に潜り込んで,いつもの様に黙々とマシューを手伝った。夕方カリンが到着するまで,普段通り緩やかに時間を過ごしていたが,カリンと僕の物憂げな表情に皆多少の違和感を覚えたらしく, やがて邦子やベンと直美が到着して食事の席に着いた時も,どことなく重苦しい雰囲気が漂っていた。
「カリン,お祈りをお願いできるかい」
ナイトさんが優しく語りかけると,彼女は静かに頷いて小さな声で祈り始めた。
「生けとし生けるもの全てに永遠の安寧が訪れます様に」
異変を察したベンが気を遣っていろいろと話題を振ったが,その日ばかりは思うように食卓は盛り上がることを拒絶した様だった。ナイト夫人が腕に縒りを掛けたミートローフの味も良く分からないまま時間だけが静かに流れて行った。ブランズウィックへの誘いも固持して,僕たちはナイト夫妻に丁寧にお礼を述べてから,帰りのバスを拾いにホーヴ駅の方へと向かった。バスは相変わらず10分ほど遅れて到着した。僕はカリンの後に続いて2階の最前列に座って,バスがキングズウェイを東に向けて走り始めると,車窓から臨めるいつもの町並みとキラキラと光る海面をじっと見つめていた。僕は何から話せばいいのか分からず,カリンから目を逸らす様に景色を眺めていたが, 突然いつもより2つ手前のバス停で降りようとカリンが僕の手を引いた。
僕達は海岸通りの歩道を,遠くに見えるパレスピアを目印にゆっくりと歩いた。カリンは僕の手を握ったまま,海の方を眺めて黙っていたが,その横顔は今朝別れた時とは違って柔らかく,それだけでも僕の心配を取り除くに十分な力をもっていた。
「はい,これ」
カリンはもう片方の手で僕にアジャのお守りを渡した。
ハロウィンの週末に新しいミッションがあって,ニコラス牧師はそのW.W.として僕を派遣することを考えてくれると約束してくれた。打ち合わせはサマータイムが終わる10月27日の夕方に決められていた。
「カリン,君は強いよ」
「そうかしら」
カリンにいつもの優しい表情が戻った。彼女は繋いでいた手を僕の右腕に回してギュウっとしがみ付いて僕が大好きな“All I Have to Do Is Dream”を歌ってくれた。