Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

27.ホスピタル

2020年03月30日 | 日記
通りは騒然としていた。救急車が数台到着して怪我人をその場で治療したり2,3人まとめて搬送したりしている脇で,まだ勢いよく燃えている車に消火剤を巻いている兵士も見えた。亡くなった市民もトラックを使って一旦病院まで一斉に運ばれるので,僕たちは躯と化した重たい屍をトラックの荷台に載せる仕事を手伝わなければならなかった。燃料や車体が燃える嫌な臭いとカラシニコフの弾薬が残した微かな硫黄の薫りが漂っていて咽る程だった。

大人だろうが子供だろうが,遺体はどれもズッシリと重たく,関節という関節が定まらなかったからグニャリと折れ曲がって運びにくかった。しかも路上には細長いカートリッジが無数に散らかっていて,間違えて踏んづけてしまうと,まるでローラースケートを履いているみたいにズルリと足ごと持ってかれてしまい何度も転びそうになってしまう。夏のせいもあったかもしれないが,遺体のほとんどにまだ温もりがあって汗も乾かず眉間が恐怖に歪んだまま眼を大きく見開いた状態で命を失う瞬間の表情がまるごと残されていた。泣き叫ぶ人々に見送られ走り去るトラックの荷台からは躯となって積み重ねられた人たちの腕や足がブラブラと揺れているのが見えた。路上の遺体が片付けられると,僕たちもゲイリーを積んだトラックの荷台に乗ったまま病院へと向かった。僕は最初の内は周りで起きていることが夢の中の様に錯覚して混乱していたが,少しずつ実感が湧いてくるのと同時に恐怖ではなく不思議と冷静さを取り戻していく自分に気付いて,そのこと自体にある種の驚きを感じて呆然としていた。

「ゲイリー・・・」と僕が無意識に呟くと,こちらを見ようともせずにリアノが遮る様に「躯にもう名前なんか必要ない」と言った。

リアノはゲイリーを見下ろしながら十字を切ってから,あの鼈甲の様にギラギラとした眼差しをこちらに向けて続けた。
「明日はお前かも知れんぜ。」

 それから病院に到着するまでの10分程の間にリアノは分かりやすい英語でこの地域が置かれる状況を詳しく説明してくれた。

この地区を含む2つの県がそれぞれ6月25日に「独立宣言」を行うと「連邦政府軍」が大規模な攻撃に乗り出した。独立を巡るそれまでの住民同士の小競り合いは激化していて,それを鎮圧するための正規軍は戦車なども出動させたという。ただ,正規軍による戦闘は大規模であっても予め情報が伝わって住民が避難する余裕がわずかにあった様だ。問題なのは報復に次ぐ報復がエスカレートしていた武装市民によるゲリラ的な攻撃で,こちらは唐突に,しかも散発するから人々の生活が蹂躙されている。独立したとはいえ,連邦軍から離脱したような小さな武力しか保有していないここでは,国境付近の守備に就いている仮の軍組織と連携して警察機構が治安維持に着手していて,僕たちはそれに一時的な所属を許されてるのだった。

間もなく“ホスピタル”と呼ばれる場所に到着した。想像していたより立派な大きな建物で,車寄せの周囲には怪我人を運んできた5,6台の救急車が駐車されていて慌ただしい搬出作業の真っ最中だった。トラックはその車留めの更に奥にある植え込みを踏みにじりながら別の出入り口付近に停まった。すると医者ではなく軍用の作業着に身を包んだ男たちが手際よく遺体の搬出を手伝いに来てくれた。すぐ奥で運び込まれる怪我人達の方に頭を向けた仰向けの状態で多くの遺体が所狭しと並べられていった。

遺体達は季節がら足が速く,2日間だけ行方不明者を探しに来た家族が来るのを静かに待っていた。前日に運び込まれたものは既に唇が渇いて歯をむき出しにしていたり弛緩した下半身から汚物を漏らしたりしていた。今朝までいた難民キャンプでも,人間本来の生活臭や体臭が立ち込めていたし,自分自身もシャワーさえ浴びられない日々を過ごしていたから,その程度の死臭を受け入れるのは不思議と容易く感じた。見渡す限り多くの遺体が並べてあって,所々で亡き家族の躯を前に嗚咽する人々や,1つ1つの遺体を覗き込みながら確認する親子連れの間を通りすぎる時,今運ばれてきたかとばかりに心配そうな表情を向ける人もいた。

「“それ”はここじゃない」

一旦荷台から降ろされたゲイリーの遺体は化学繊維であしらわれた簡易担架に乗せられて,すぐに裏手にあった別の出口から外へ運び出すことになった。裏口を出て100mも進むと,引き取り手のない遺体を埋める正方形の深い穴が掘られていて周囲に重機が停められていた。辿り着いた真新しい墓穴には既に8人の遺体が両手を胸の前で組んで整然と寝かされていた。その穴の周囲には新しい土が被せられた同じ様なサイズの場所が3つあったからこの数日でどのくらい亡くなったのか大体見当がついた。

穴は3mほどの深さで,15m四方程の大きさだったが,遺体を運べるようになだらかなスロープが設けられていた。リアノの先導でゲイリーの遺体を穴の底に並べて担架を畳んでいるとスロープの上の方で僕たちを見下ろしていたラファエルが「ここに用はない・・・」と言った。

26.神の息吹

2020年03月22日 | 日記
ゲイリーと僕は制止を振りきって銃声の方へ向かった。僕は数歩進む暇もなく,勢い良く流れ込んでくる人の怒濤から弾き出されて転倒した老翁を抱き上げ建物の陰に避難させた。振り返ると,駆け抜ける無数の人影の向こうで幼い男の子と母親を庇っているゲイリーが見えた。

老人が怪我をしていないのを確認してゲイリーの方へ向かおうとしたが,すぐ近くで銃声が断続的に鳴り響いたのに驚いて老人を守る様に抱きかかえながら身を屈めた。20メートルくらい先で何かを叫んでいるゲイリーのすぐ近くで警官の1人がライフルを水平に構えて何かを狙うようにして発砲しているのが確認できた。

その不気味な喧騒は数分間続いた。何かを唱えながら包み泣いている老人と抱き合ったまま,僕は一歩も動けずにいた。夏の日差しは強いはずなのに,日陰に隠れていたせいで汗が冷やされ寒気を感じる程だった。その汗は決して爽やかなものではなく,ねっとりと全身に滲み出ていて,僕は明らかに恐怖に怯えていた。老人の囁きと轟く銃声の中で,自分の呼吸が不規則で荒いのと首筋がヒクヒクと痙攣しているのを感じながら,僅かであるが失禁していることに気付いた。

人の波や銃声が途切れてくると,その警官が銃を構えたまま誰かに向かって怒鳴りだした。そのまま建物の間から除き見ていると,逃げ惑う人々が振り返りながら足を止め始め,銃声は少しずつ止んでいった。

僕の両頬を手で摩りながら「フヴァラ,フヴァラ・・・」と礼を言う老人を落ち着かせてから人々が見つめる方向へ目をやった。炎をあげて時々パンパンとガラスが割れる音を立てている真っ黒に焦げた乗用車のすぐ傍で,警官2人が倒れた別の男性を足で激しく蹴り上げてるのが見える。グニャリとなって人形の様にゴロゴロと転がるだけの男性を警官たちが執拗に何度も何度も蹴りあげている。その周囲には老若男女大勢の人たちが倒れていて,息がある者は苦しみに喘ぐ声を漏らしていた。動かない親のことを揺すりながら大声で泣いている子供も見えた。

庇っていた親子が無事に立ち上がって離れていくのを見届けたゲイリーが脇腹を抑えてその場に座り込んだ。

「怪我をしたのか」
僕がゲイリーに走り寄った途端,彼は何も答えずその場でドサッと尻餅をついて,そのまま仰向けにパタンと倒れてしまった。

「怖いんじゃない,寒いんだ」
倒れたまま呟くとゲイリーは白目を向いてガタガタと震え出した。先程の僕の痙攣とは違って,何かにとりつかれた様に歯をガチガチと鳴らしながら麻痺していく。

どんどん血の気を失っていくゲイリーの腰から太腿にかけて大量の血液が滲み出したから,僕は無意識に傷口を探り当てて貫通している両側の穴の出血を止めようと必死に圧迫した。押さえている両手の指の隙間から波打つようにドロリとした血液が断続的にビュッビュッと吹き出して,それは無情にも全く止める術がなかった。血相を変えて僕たちのことを探しに来たイギリス兵が走り寄ってきたが,ゲイリーの方をチラリと見ただけで諦めた様に軽く横に首を振った。血溜まりがみるみる大きくなって,通りの反対側の歩道の方まで広がって行った。

「ああ,神様・・・」

ゲイリーが力のない声を絞り出すと震えがスッと止まって,彼の声からは想像できないような呻き声が3秒ほど漏れた。押さえていた傷口はまだ生温かかったが,徐々に出血は収まっていった。それは止血が上手くいったからではなく,彼の鼓動が止まったことを示しているのを知って僕は息を飲んだ。そして命はこんなにもあっけなく遮断されることを初めて知った。

「聞こえたか?」
ラファエルがいつのまにか僕の真後ろに立っていた。

「これが神の息吹だ」

僕はゲイリーの方へ向き直って,ゆっくりとその場から離れようとした。彼の血液でヌルヌルとする指先の感触が恐ろしくなって腰から砕ける様にして倒れると,ラファエルがしゃがんで両手の親指でゲイリーの瞼を閉じさせ両腕を胸の上で組ませた後,小さな声で祈り始めた。

僕はすっかり腰が抜けてしまい上手に呼吸ができなくなってしまった。まるでセピア色に見えている目の前の現実を受け入れられないまま,ただ言葉を失ってゲイリーとラファエルを見つめていた。銃声のせいだろうか,酷い耳鳴りがして吐きそうなくらいだった。

「大したもんだったよ」
ゲイリーの足元に見知らぬ3人の兵士が歩み寄った。どもっていたし少々訛りはあったが比較的はっきりとした英語で,そのうちの1人が続けた。
「奴らの1人が何発か食らってくたばったが,相撃ちとはな」

全弾を撃ち尽くしてスライドが下がったままのピストルを拾い上げながら,その男は僕の方を見下ろした。逆光のせいで顔ははっきりと確認できなかったが,鼈甲の様にギラギラと光る眼差しがこちらを睨んでいる。

「お前もやられたのか?」

僕は黙ったまま血まみれの両手をズボンに擦り付けながらゆっくりと立ち上がろうとして足がもつれてしまった。

「カー・ボムと5人だ。全員射殺した」
その男が僕に手を貸しながら説明した。

「お前は撃たなかったのか?」

怪我がないか身体のあちこちを摩って確認しようとした彼の手を止めながら僕は後ずさりした。

「僕は殺さない。誰も殺さない」
僕は全身がガタガタと震えるのを必死で隠しながら叫んだ。

「どうした,落ち着け」
「僕は殺さない」
「じゃあ,何で銃を持ってんだ」

「これは・・・」
彼らがギョっと身を引くのが早いか,僕は一瞬間を置いてから無意識にピストルをホルスターから引き抜いて自分の顎の下に突き付けてからすぐに元に戻した。それから腰のバッグのポケットにしまってあった弾装を見せた。

「弾は1発だけなんだ」

ほんの数秒間,驚きと安堵を繰り返した男は大きく深呼吸をしてから馬鹿にしたような口ぶりで話しかけてきた。
「殺せないんだろう,ウィンプが・・・」

男は仲間の方へ戻りながら,どもった調子のまま言い放った。
「俺たちがお前らの護衛だ,ウィンプ。俺が隊長のリアノだ」

様々な出で立ちをした男たちが倒れたゲイリーを見下ろしていた。若い警官が自分の妻の為に買った花束を躯の上にそっと置いた。

自分と同じ格好をしたゲイリーが,まるで自分の姿の様に錯覚して,僕は怖くてしばらく近寄ることができなかった。

25.逃避

2020年03月13日 | 日記
1時間ほどすると,ごった返した人の河は途切れ始め,車列は再度舗装路へと戻って若干ではあるが快適さを取り戻した。それでも時折すれ違う車や一団を避ける様にして道を外れるもんだから,その激しい揺れの度に舌を噛みそうになりながら更に1時間ほど我慢していると,コンクリートだけで仕立てられた無機質な3階建ての建物の脇で車が停車した。

僕たちが荷台から降りようとしていると,木材で拵えたライフルのオモチャを抱えた小さな男の子たちが3人,トラックの後ろ側に回り込んで何かを叫んだ。

ゲイリーがとっさに両手を掲げて降参したので,僕もそれに習って子供たちに微笑みかけると,彼らが嬉しそうに「ダダダダ・・・」と口で銃声を真似ながら走り去った。道を行き交う車や人は疎らだったけど,辺りは有事とは思えないくらい静かで小鳥が囀りながら飛び交ってるのさえ確認できた。通りの向こう側でも人々が談笑していて町は平和そのものだった。

僕は少しホッとしてゲイリーと軽く微笑み合いながら赤いベレー帽の兵士達に続いて建物の中へ進んだ。

部屋には業務用の机がいくつか並べられていて完全武装をした制服姿の男が数人談笑していたが,僕たちが入室した途端黙り込んで一斉にこちらを睨んだ。その迫力に戸惑う僕たちに気づいたラフな白シャツを着た小太りの男性が入り口近くのカウンターで手招きしながら英語で話しかけてきた。

「ようこそ警察署へ」

僕たちは愛想の良いその男性の指示に従ってバインダーに綴じられた一覧表にサインをして,滞在についての説明を英語で5分ほど受けた。

「でかけてみますか」

男性が振り替えって自国語で呼び掛けると,奥の方で休憩していた警官というより兵士といった装備の4人が勢い良く立ち上がって壁の棚に立て掛けてあるカラシニコフを1丁ずつ手に取って弾装を1度引き抜いて確認してから一斉に装着した。その時の軽いカシャンという金属音が気持ち良く揃ったので感心していると,偶々目が合った若い兵士がニヤリとして首を捻って「ついてこい」といった具合に僕たちを先導した。彼らに促されるようにして表に出ると,小振りなラーダニーヴァ2台に僕たちが乗り込んで,その後からどっしりとしたランドローバーが続く流れになっていた。僕はゲイリーと1台目に乗り込んだ。フロントシート全体を前に倒して乗り込むと,思っていたより広い車内とトラックの荷台とは比べ物にならないフカフカのリアシートに感激したのも束の間,まだ「ガードマン」たちとは落ち合っていなかったことを思い出して,同行している武装警官が僕たちの安全を保証するものではないことに何となく不安を感じていた。

出発して30分ほど市中を巡ると,ちょっとした商店街の様な通りで,僕たちの車の助手席の「警官」が運転士と軽く会話を交わした後,停車した場所より50mくらい後ろの花屋にかけて行った。すると,運転士が後部座席の僕たちに向かって,たどたどしい英語で「奥方の誕生日プレゼント」を買いに行ってるんだと説明してくれた。

庁舎での最初の印象とは異なる警官達のおおらかな態度にある種の安心感を覚えて軽く胸を撫で下ろしていると,今度は舗道を歩いていた2人組の少女が車に近付いてきて,よれよれの紙箱の中に5つほど並べてあるクッキーを見せてきた。僕は手動式の窓を開けて彼女たちの話を聞こうとしたが,土地の言葉だったから全くわからない。ポカンとしてるのを見かねた運転士が単語単位で英語に訳してくれたのだが,詰まるところ彼女達が持っているクッキーを買って欲しいということらしい。

僕はブリュッセルで貰った3枚の紙幣のことを思い出して,どうせ使い道も分からなかったから,その1枚をポケットから出して渡すと,彼女たちは驚いた様な表情をして箱を2つ共乱暴に僕に預けて紙幣をもぎ取ったかと思うと甲高い歓声を上げて去って行った。彼女らの幸せな様子が嬉しくなって,僕が片方の箱の中に敷かれていた紙にクッキーを全て包んで腰ベルトにぶら下がっていたバッグにしまっていると「ずいぶん高いクッキーだな」と鼻で笑いながら呆れた様に運転士が言った。ゲイリーも首を振りながらクスクスと笑った。

その時だった。

突然後ろの方からズシーンという爆音が轟いて車体が前方に一瞬フワッと浮かんだ。シートバックに頭を押し付けられる様な衝撃を感じて,僕は思わず両手でヘルメットを押さえて伏せた。数秒の間,車のボディに砂の様な物が降り注いでいる音がしていた。

すぐに人々の悲鳴が響いてきて,それに混じってタタタタという先程の子供達の声真似とは違った機械的で冷たい本物の銃声が遠くで鳴り始めた。気が動転して祈る様な気持ちだったのか,なぜか警察署の前でふざけていた子供達を思い出しながら後ろを振り替えると,数十メートル奥の方で大きな火柱が上がっていて,そこから大勢こちらへ向かって走ってくるのが目に入った。

運転士が慌てて車から降りて折り畳んでいたライフルの銃床を伸ばしながら民衆とは逆の方へ走って行ってしまった。ゲイリーも彼を追おうとしたがシートの倒し方が分からなかったらしく,僕が倒した助手席側から2人共ヘルメットを車の天井にガツンガツンとぶつけながら順番に飛び出した。

僕たちが警官達と同じ方向に走ろうとしていると,最後尾にいたイギリス兵たちが車の窓から腕を出して「だめだ」と叫んでいた。僕が理由を問いただすと「これは関わるな。彼らに任せろ」と怒鳴っていた。

そうこうしている間にも表情をなくした民衆が青白い顔で大慌てで逃げて来る。遠くから聞こえる銃声がどんどんと増える一方で,悲鳴は止んで人々がただ黙って走って逃げていく足音だけがパタパタと聞こえて不気味だった。

24.八百万の神々

2020年03月06日 | 日記
僕たちの護衛を担当することになっている義勇兵達は数日経っても到着しなかった。中々越境することができず,僕はアジャのことを考えながら少しずつ焦りの気持ちが強くなっていくのを感じていた。,避難している人たちとの交流は順調でやり甲斐は感じていたけど,日々絶えず運ばれてくる支援物資を整理したり配布したりで昼夜休む暇もなく働きづくめだったし,繰り返す単調な作業にマンネリ化も否めなかった。だから1週間程経った頃,数日以内に出発するかもしれないという知らせが入った時には皆一様に元気を取り戻した様な感じがして,不謹慎にも色めき立ったのを覚えている。

僕たちは隣国の東端にある都市を目標にしていた。そこではかつての隣県との間で互いに国境を広げようとする散発的な銃撃戦が生じて安全が確保できなかった。既に現地に入っている他のグループの安否確認も予定よりもかなり遅れていた。

アジャの住所は不幸にも正にその場所にあった。耳に入ってくる情報は色々と交錯していて僕の焦りの気持ちを意地悪に煽った。

アジャが別れ際に空港でくれた小さなポラロイド写真は右胸のポケットに大切にしまってあった。時々防弾ベストの隙間から手を差し込んで取り出しては眺めるのが日課になっていて,それは不安や疲労を癒してくれる一服の薬草の様な役割を果たしてくれていた。少し色褪せた写真には,河の向こう側に架かる大きな橋を背にしながら肩を組んでふざけているイーゴとアジャが写っていた。裏にはアジャの思いの丈が数行綴られていて最後に住所と電話番号が記されていた。手紙は本当に毎日投函していたし,電話番号へも週に数回はかけていたが一度も応答はなかった。

その週の前半には激しい戦闘が数回あって仲間の中からも数人の死傷者を出していた。しかし,週末を迎える頃には情勢が落ち着いてきて,21日の日曜市場も予定される程までになったという。

金曜の朝,いつもの時間に集合すると,急遽赤いベレー帽の兵士2名と共に国境へと向かうことが決まって,僕たちはキャンプの人々が見送ってくれる中慌ただしく出発することになった。「ズボゴム」と手を振りながら別れの言葉を呼び掛けてくれる親子の中には,どこからか拾ってきた重たい鉄製ヘルメットを深く被ってグラグラと倒れそうになりながら敬礼をしてくれる男の子達もいて微笑ましく思った。

「国境」とは言っても,ついこの前までただの県境に過ぎず,せいぜい有刺鉄線とドラム缶などでバリゲードみたいなものが設置されているくらいで,警備している兵士もいるわけじゃないから,いつでも自由に越境できる様な印象だった。出入国の何の確証もなく,僕たちを乗せたトラックは苦しそうなエンジン音を轟かせながら土埃を巻き上げて警護のランドローバーの後をついていった。

「ここからが本番だ」

tやhの音が落ちてしまうフランス語訛りの英語で聞き取りづらかったが,ラファエルがポツリと呟いた。このグループでは唯一彼だけがこのミッションの古参で事情を心得ているから,ガチガチに緊張している他のメンバーとは異なり唯一涼しい顔で夏空を見上げていた。

しばらく森の中を走っていたが,大荷物を屋根に無理矢理載せてロープで縛りつけた乗用車とすれ違うくらいで,特段警戒するような様子は見受けられなかった。森を抜けて静かな田園地帯を2時間ほど進むと道端には僕たちの進行方向とは逆向きに進む車や人々の数が激増した。最初は余り気にも留めなかったが,それは住む場所を追われ逃げ惑う人たちだと気づいて,慌ててトラックの荷台から身を乗り出してアジャの姿を探し始めると,まるでハイキングかイベント会場にでも出掛ける様な普段着のまま,力のない疲れた表情で擦れ違う人達が時折恨めしそうに睨み付けてくる。それでも僕は必死にその中にアジャがいないか確認し続けた。

あれよあれよと車や人々の数が増えてとうとう道を進めなくなり,僕たちの車列は脇道を進むことになった。車体が壊れそうなくらいきしみながら縦横に激しく揺られるトラックの荷台では立っていられるはずもなく,僕は仕方なくアジャを探すのを止めて腰を下ろしてから幌用のバーにしがみ付いた。

「避難してれば帰りにキャンプで会えるはずだ」

僕は自分にそう言い聞かせて,もう1度丘の上の道を後方へ進む人々へ目をやった。それは逆光のこちら側で真っ黒なシルエットになっていて,まるで嵐の後の濁った河の流れの様に不気味に絶え間なく流れて行った。アジャがくれた写真に写っていた河の様子がそれに重なって心臓が不気味に高鳴るのを感じた。息苦しさの中で,僕はラファエルが言った「本番」という言葉の意味を考えていた。

ラファエルは詳しくは説明しなかったし,ガタガタと弾む荷台の上では誰一人として言葉を発する者もいなかった。

ゲイリーが上着の上から胸にかけた十字架をギュウっと握りしめて祈り始めた。
「天にまします我らが父よ・・・」

子供の頃,食事の前に必ず母親が目を瞑って祈っていた姿をふと思い出した。

クリスチャンの母は神主の息子だった父と結婚したが,僕のことはキリスト教の教えを説いて育てた。年末年始に先祖代々守ってきた神社で働く叔父の手伝いに行くことがあって,父に母親との結婚の謎を問いかけると「神様が1人くらい増えても構わないんだよ,日本はね」と笑いながら答えてくれた。